昨日の水曜祈祷会で、ある方から『ユダヤの指導者たちは中途半端な信仰だったのでしょうか』と質問がありました。それはとてもいい質問です。使徒パウロも以前そうだったとありますが、祭司長、パリサイ人と呼ばれる人たちは知識も生活も熱心な信仰者だったと思います。それを言えば、私がこれまでお会いしてきたキリスト教の異端と呼ばれる信者の方々も、真面目で熱心な方ばかりでした。神が救いの95%をしてくださるのですから残りの5%を自分が満たさないといけない…。そう言って考えられないくらいの努力をされている方もいました。残念ながら、それは聖書の教えではありません。イエスさまは言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりその人の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」飲めば飲むほど渇きを覚えていくようなものは偽物です。救いは100%神の御業です。
7月第四火曜日『旧約聖書を学ぶ会』がありました。今日からヨセフ物語を見ていきます。ヤコブの11番目の息子ヨセフは、12人の兄弟の中でも特に父の寵愛を受けて育ちました。そんなヨセフを妬んでいた兄たちは、ついにヨセフを捕らえミディアン人の商人に売ってしまったのです。なんとも痛ましい事件が起きてしまいましたが、これが序論。ここから彼がエジプトの宰相まで上り詰める壮大な物語が始まるのです。…学びの後、統一教会のことが話題になりました。今回のことで、宗教は良くないという悪い印象が広がっていくのではないかということです。確かに統一教会も聖書を使いますから、キリスト教とどう違うんだ…と思うかもしれませんが、全く別のものです。それは本物の紙幣とコピー機で印刷した偽札?くらい違います。本物にいつも触れている人なら一目瞭然ですが、中途半端の知識だと…似て非なるものが同じに見えてしまうのは仕方ないのかもしれません。
7月第四主日、今日も朝から30度を超す真夏日の中、主の御名を礼拝を献げました。礼拝メッセージでは創世記2:4‐17から人間の創造について学びました。「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」それは実に奥義深いメッセージです。人間の脾弱性と尊厳性が見事に描かれています。そこから人間の命は全く神に依存していること、神は人間のために最高の場所を用意されたこと、そこで神は人間に自由と責任を与えられたことを心に留めました。神が願ったのは、ロボットのような罪を犯さない人間ではなく、自らの意思で神を愛し、神に従う人間でした。アダムは「いのちの木」と「善悪の知識の木」を見るたびに、そのことを思い出したことでしょう。今日の私たちに置き換えれば、まさに聖書がそれでしょう。神である主の「愛」と「まこと」に感謝して、聖霊により頼みつつ歩んでいきましょう。
教会のデボーションはヨハネ6:34から。「わたしが天から下って来たのは、自分の思いをを行うためではなく、私を遣わされた方のみこころを行うためです。」イエスさまはこの世の幸せを求めてきた人々にあらためてご自身の使命を告げられました。それはご自身を信じる者たちを一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることだというのです。信仰は努力や善行によって獲得するものではなく、神が与えてくださるものです。まして自己破産するほどの献金を強いるなど…ひどい話しです。テレビでは旧統一教会の話題が続き、与野党ともにその関係が取り沙汰されています。教会にも専門機関からの問い合わせがありましたので、ブログではあまりお見せできませんが、古い資料を引っ張り出してきました。イエスさまは終末のしるしとして「『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします」と言われました。問題は教祖や団体であって、信者の方ではありません。
7月第三水曜祈祷会、真夏の暑さが戻ってくるとともに、新型コロナウィルスの新規陽性者が全国各地で過去最多となりました。ただでさえ暗いニュースが続く中で…この第七波は堪えます。そんな中ですが、今日のデボーションから大いに励ましを頂きました。ヨハネ6:1‐15、有名な五つのパンと二匹の魚の記事から。ご自分の後をついてくる群衆をご覧になったイエスさまは、弟子たちに「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と言いました。弟子たちはこんなに大勢の人のパンを調達するなんて不可能ですと最初からあきらめていたのです。でも、ひとりの少年はイエスさまの言葉を信頼して自分が持っていたお昼ご飯を差し出しました。すると、イエスさまはそれを用いて群衆のお腹を十分に満たされたのです。何度も読んでいるところですが、あらためてこの少年のような素直な信仰を忘れないでいたいと思わされました。信じるなら神の栄光を見る、です。
「あなたがたは聖書の中に永遠のいのちがあると思って聖書を調べています。その聖書はわたしについて証ししているものです。」ユダヤ人たちは旧約聖書を通して永遠のいのちについてよく調べながら、その聖書が示すイエスさまのもとには行きませんでした。安倍元首相の襲撃事件から旧統一教会の話題がTV等で連日報道されています。これもまた一過性の報道と思いますが、この時に統一教会の間違いに気づき、立ち止まる方が起こされるように祈るばかりです。私が統一教会について調べ始めたのは、今から16年前にある脱会者の夫婦と知り合ったことがきっかけです。その夫婦はクリスチャンになられましたが、統一教会が口語訳聖書を使っていることや原理講論を熱心に学んでいることを聞いて愕然としたのを覚えています。以来、キリスト教系のカルト相談を何十件と聞いてきました。何か心配なことがあれば、勇気をもって家族や専門家に相談してみることが大事です。
7月第三主日、少し曇り空のおかげで暑さも一休みの一日でした。新型コロナウィルスの感染が再び増え始めています。それぞれのご家庭が守られますようにお祈りしています。礼拝は創世記1:26‐2:3から神の言葉に聴きました。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」さあ、という言葉に神のご意思が表されています。神はあらゆる準備を整えて、満を持して人を創造されました。人は何かの進化の過程や偶然の産物ではありません。神が望みに望まれて、ご自身と交わりを持つ者として、ご自身に似せて人をお造りになれたのです。神は人がいる世界をご覧になってそれは非常に良かったと言われました。神はそんな人間のために安息日を定められ、今も開いておられます。神の創造のわざにこそ、人間の尊厳の原点、安息日の原点があるのです。
4月から始まったハートフル英会話・春期コースが終了しました。コロナ禍にあって、途中オンラインやハイブリッドで行ったりといろいろ試行錯誤が続きました。講師の先生方や受講生の方々にもご理解とご協力をいただいて、本当に楽しいクラスを行うことができて感謝でした。現在、大人と子どもあわせて20名ほどの方がエントリーしてくださっています。ハートフル英会話は英語だけでなく、新しい友だちができたり、趣味や旅行の話題で盛り上がったり、異文化体験ができたりなども魅力です。講師の先生方もクリスチャン、しかも日本語も上手なので初めての方でも安心してクラスに溶け込めるのが特徴です。これから夏休みに入り、また秋期コースは9月1日からスタートします。大人クラスも子どもクラスも、若干名の受講生受付中です。まずは体験クラスをご予約ください。詳しいことは教会の山下までお問合せ頂ければ幸いです。皆さまとの出会いを楽しみにしています。
久しぶりにまとまった雨が降ったおかげで、今朝はいくぶん暑さも和らいで感謝でした。教会のデボーションはヨハネ3:22~。バプテスマのヨハネは自分自身を花婿が語ることに耳を傾けている友人に譬えて、弟子たちの考え違いを正しました。ヨハネの弟子たちはイエスのもとに行く人々が日毎に増えていくことに嫉妬心を抱いたようです。でも、ヨハネは「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」と告げました。昔から知っているからこそ…ヨハネはイエスさまの使命を思うと祈らずにはいられなかったでしょう。私の友人の牧師もこの夏の参議院選挙で見事当選しました。あえて牧師という肩書を外さずに、今後は二足の草鞋で神と人に仕えられます。大変な働きだと思います。ぜひ多くの方に祈って支えて頂けましたら幸いです。今日は私の数少ない親友と呼べる牧師の誕生日でもありました。昨年、若くして天に召されましたが、ご家族の上に慰めを祈っています。
7月第二主日、雨上がりの蒸し暑い一日となりました。礼拝メッセージは創世記1:1から。ロシアによるウクライナ侵攻が長期化する中、国内でも選挙期間中に元首相が襲撃されるという暗いニュースが続きます。神の目にこの社会がどう映っているのか…今日の天地創造からも考えさせられました。「はじめに神が天と地を創造された。」はじめとは、単に物語の始まりではなく、世界の創造のはじめを意味します。宇宙の歴史の始まりの場面に立ち会った人間はなく、万物の創造主である神以外に語り得ることはできません。神はことばをもって万物を創造されました。茫漠とした地に秩序を与え、熟慮の末に一つ一つのものを造り、すべての準備を整えて、私たち人間が創造されたのです。神が「それを良しと見られた」世界はどんなに平和で美しかったでしょう。人間が罪を犯してしまった後も変わらない神の愛を思う時…今も、放蕩息子の帰りを待つ父の姿を思い浮かべました。
7月第一水曜祈祷会、ヨハネの福音書1:29~42。バプテスマのヨハネはイエスさまを見て「世の罪を取り除く神の子羊」と証ししました。そして、それを聞いた二人の弟子がイエスさまの後をついて行ったのです。イエスさまは彼らに言いました。「あなたがたは何を求めているのですか…」今日は、このイエスさまの問いかけが心に留まりました。彼らはヨハネに「あの方について行きなさい」と命じられたからでもなく、イエスさまに「わたしについてきなさい」と言われたからでもなく、自発的にイエスさまについて行ったのです。彼らは何を期待してついていったのでしょうか。どんな求めがあったのでしょうか。「来なさい。そうすればわかります。」それがイエスさまの答えでした。主は、今日の私たちにも同じように問われるように思います。貴方はイエスさまに期待があるでしょうか。求めがあるでしょうか。私たちも祈り心を持って、主に近づこうではありませんか。
教会のデボーションはヨハネの福音書1章に入りました。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」当時のユダヤ社会で、人々から預言者として認められ尊敬されるヨハネのことばは、非常に説得力があったと思います。この方こそ世の罪を取り除く神の子羊…ヨハネの証しによって多くの人が悔い改めに導かれ、洗礼を受けにくる光景が目に浮かびました。私事ですが、今日は嬉しいことがありまして…CGNTVのリビングライフを視聴されたある方からわざわざご連絡をいただいて『これからもがんばってください』と励ましの言葉をかけていただきました。小さな石ころのような者の証しも用いてくださる主に感謝を覚えました。クリスチャンの皆さま、主を証ししましょう。主は今日も生きておられます!主は人を通してもお語りになる方です。…ならば、それはもう人の証しというより、主ご自身の語られる福音なのだと思います。
7月第一主日、今朝は久しぶりの恵みの雨でした。礼拝は詩篇31篇から「主よ 私はあなたに身を避けています。…あなたの義によって私を助け出してください。」ダビデは命の危険を感じるほどの苦難の中でも、主への信頼がありました。神は義なる方ですから、どんな時もご自分の民を見離すことはないという信仰です。私たちの人生も、晴れの日、雨の日、そして嵐の日があります。でも、その分厚い雲のかなたには、常に太陽が燦燦と輝いているように、私たちへの神の限りない愛も変わることがないのです。今日は私たちの教会から献身していった青年が、久しぶりにご夫妻で渡米前の挨拶にてきてくれました。小さな子どもからご年配の方までみんなが大好きな二人です。多くの人の祈りとご支援によって、彼らは旅立っていきます。神学を究める道も楽な道ではないと思います。でも、世界中どこへ行っても変わらない神が彼らを守り導いてくださることを信じています。
6月第五水曜祈祷会、今年も折り返しの時期を迎えましたが、とにかく梅雨がほとんどないまま夏が始まってしまったような暑さ…。熱中症搬送者数も6月としては過去最多とのことです。今日の水曜祈祷会では、また配信トラブルが起きてしまい、お待ちいただいた方々にはご迷惑をおかけしました。改めて途中からになりますが、動画をアップしましたのでご視聴いただけましたら幸いです。詩篇125篇から「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。揺るぐことなく、とこしえにながらえる。」揺れ動く時代の中で、多くの人の人生も、計画通りに進まず、風に吹き飛ばされる籾殻のようではないでしょうか。でも、聖書は、主に信頼する人々は堅固な山のように安定が保たれると教えます。『主に信頼する』とは、神さまの約束を信じることです。赤ちゃんや子どもにもできる実にシンプルなことですが…実は赤ちゃんや子どものような心を持たなければできないことなのでしょう。
6月の旧約聖書を学ぶ会がありました。創世記34、35章から。兄エサウとの関係を回復したヤコブでしたが、ホッとするのもつかの間。今度は、娘ディナがハモルの子シェケムに捕らえられ辱められてしまいました。ハモルはヤコブのもとに行き、ディナと婚姻関係を結びたいと言いますが、ヤコブと十二人の息子たちは怒り狂い、ハモルとシェケムをはじめ町のすべての男たちを殺し、略奪してしまったのです。そんなヤコブに向かって、神はこう告げました。「立って、べテルに上り、そこに住みなさい。…あなたに現れた神にために祭壇を築きなさい。」それは、ヤコブにとって信仰の原点に立ち返ることを意味していました。「祭壇を築く」とは、神との関係を回復することを意味します。ヤコブは家族にも声をかけて一緒に祭壇を築こうと呼びかけました。この後も長男ルベンが側女ビルハと関係をもち、愛妻の死、父の死…と悲しみは続きました。悲喜こもごもの人生です…。
6月第四主日、今日も30℃を優に超す暑い一日となりました。礼拝は詩篇30篇から「まことに 御怒りは束の間 いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても 朝明けには喜びの叫びがある。」ダビデが重篤な病から癒され、主への感謝を歌った詩篇。人は病気になって初めて健康の有り難さを知ると言いますが、普段どれだけ豊かな恵みにあずかっているかと痛感します。病気を癒すのは、医者でもなく病院でもなく、最終的には主の御心です。私たちは自分の力で生きているのではなく、主にあって生かされていることを思います。平安の日が続くと、ついこの基本的なことを忘れてしまうのかもしれません。コロナ禍にあって、できなくなってしまったことばかりを数えていたように思いますが、あらためてともに礼拝を献げられること、一緒に祈り合うこと、互いに健康であること…これまで以上に感謝するようになりました。今ある幸いを感謝して歩みたいと思います。
今日は朝から真夏日となって大阪も32度まで上がりました。関東地方では40度を超す地域もあったとのこと…。まだ6月だというのに、真夏にはどうなってしまうことか。雅歌6:8「王妃は六十人、側女は八十人、おとめたちは数知れない。汚れのないひと、私の鳩はただ一人。」花婿にとって花嫁はかけがえのないただ一人の女性でした。これほどの純愛で愛される花嫁はどんなに幸いでしょう。私たちも神に愛されるような気品も美しさもありません。でも、神はそんな私たちを無条件に、永遠の愛をもって愛してくださるのです。だからこそ、この大いなる愛を知るクリスチャンは幸いなのです。明日は、第二次世界大戦中にホーリネス系の牧師96人が逮捕された日、所謂ホーリネス弾圧事件です。80年前のクリスチャンの方々はどんな未来を祈っていたのでしょう。今はもう迫害はありませんから、幸いな時代を感謝し、クリスチャンとしてどう生きているかを考えさせられました。
教会のデボーションは雅歌4章。結婚式を迎え、花婿は花嫁に向かって最高の賛辞を贈ります。「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」そして、花婿はレバノンの頂という高く険しい山々から私のところへ来ておくれと花嫁に呼びかけました。日本的な言い方をするなら、清水の舞台から飛び降りる思いで私と結婚してくれという招きです。花婿と花嫁の関係を、神と私たちの関係に置き換えて読むならば、神が私たちをどれほど大きな愛で見てくださっているかと思います。また、結婚式はしばしば洗礼式と似ていると言われますが、大きな決断の前に揺れ動く気持ちも似ているのでしょう。でも、神が両手を広げてこんな私のことを招いてくださっているから…と踏み出すことができるのです。私も洗礼式の三日目にキャンセルした経験がありますが、あれから25年…今日もこうしてクリスチャンでいられるのは、ただ神の恵みでしかありません。
6月第四水曜祈祷会、教会のデボーションは雅歌3章に入りました。「雅歌」は男女の愛の賛歌、神名も用いられない、旧約聖書中類例のない書簡です。男女は相手を愛する思いを様々な表現で歌い合い、告白し、関係を深め、やがて結婚へと導かれていきます。でも、愛をことばで語り尽くすのは難しいものです。結局、愛を具体的な行動、目に見える形で表してほしいと思うものではないでしょうか。イエスさまも、神のあり方を捨てて人間と同じようになり、私たちの救いのためにへりくだり、十字架の死にまでも従うという驚くような行動で愛を示されました。愛は心で思っているだけでは相手に伝わりにくいものです。同じように、神への信仰も心で信じているだけでなく、行動に現すことが大事です。「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思う時までは。」神は私たちを急かすことなく、その信仰の一歩を踏み出すのを待っておられるのです。
6月第三主日は父の日歓迎礼拝。しばらくコロナ禍で自粛していましたが、3年ぶりに教会のお父さんたちにプレゼントができました。今日の日中は32度まで上がる真夏のような一日💦礼拝メッセージは詩篇29篇から。ダビデは雷鳴響く嵐の中で、天の御使いに向かって「栄光と力を主に帰せよ」と繰り返します。そして、主の声がことごとく全世界をご支配しておられることをほめ歌い、最後に主はご自分の民に力と平安を与えてくださることを賛美しました。私たちの人生にも嵐の時や試練の時がしばしば訪れます。そうした中で、私たちも恐れや不安を抱くかもしれません。でも、そこでこそ主の偉大さを、その約束の素晴らしさを思い出したいものです。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。」この方は私たちとどんな時もともにおられます。私たちを強くし、助け、守られる方です。嵐は過ぎ去り、主の平安が私たちを包むのです。
今日も小雨が降る中でしたが、ハートフル英会話がありました。大人のクラスも、キッズクラスも、楽しそうな笑い声が会堂に響きました。チャペルタイムでは有名な出エジプトの記事からメッセージを聴きました。いつ読んでも、モーセを筆頭に、イスラエルの民が紅海を渡るシーンは感動的です。ある方も、『昔、映画で観たことがあります』と仰っておられました。英会話が終わって夕食の後、妻とウォーキングに…。この時期、箕面川のホタルは見頃を迎えています。成虫になるまでおよそ一年をかけて、二週間という短い期間を飛び交うホタル…。時間も良かったせいか、手のひらにのるほど多く見られ、川のせせらぎとゆらゆらと舞うほのかな光に癒やされました。今日は夜も少し肌寒いくらいの気温でしたが、明日はまた30℃近くまで暑くなるとのこと…。体調を崩しやすい時期です。どうぞご自愛くださいますように。「わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」
6月第三水曜祈祷会、関西地方も梅雨入りとなり、今日は雨の一日でした。教会のデボーションはネヘミヤ記11章から。城壁の再建と人々の霊的成長を経て、ついに聖なる都エルサレムの復興が始まります。民の指導者以外はくじ引きで選ばれた者たちが住み、住民が増やされていきます。ただ、この時期エルサレムに住むことは、経済的困窮や周囲の攻撃を受けるなど、大変な困難が伴ったはずです。普通に考えれば、今の生活を変えてまで移り住もうとは思わないでしょう。でも、民の中からは「自分から進んでエルサレムに住もうとする人々」も起こされていったというのです。今日の私たちも、今の生活を全く変えずに都合のいい時だけ神を呼び求めるというのでは、いつまでたっても神の御業を見ることはできないでしょう。どこかで神中心の生活に切り替える決心が必要なのです。もちろん最初から上手くはいかないでしょう。でも、大事なのは「自分から進んで」の思いです。
6月第二主日、今日も朝から陽射しの強い一日になりました。礼拝メッセージは詩篇28篇から。死の危険を感じるような危急の中で、ダビデは主に助けを祈り求めました。でも、「耳を閉ざさないでください」「沈黙しないでください」とあるように、神からの応答がすぐになかったようです。信仰者にとって最も辛いのは神に沈黙されること。私たちも、苦しみの中で主に祈り求めても何も答えてもらえないと思うことがあります。そんな時、神はどこにいるのか…何をしているのか…という思いも湧いてきます。でも、果たして神はどこかへ行ってしまわれたのでしょうか。そんなことはありません。大事なのは、すでに語っておられること、神の約束を思い出すことです。「わがたましいよ 主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ 聖なる御名をほめたたえよ。」雲間から陽射しが差し込むように神の助けは必ずあります。私たちも遅くなっても、それを待ちましょう。
久しぶりの散歩道を通ると、芝村の高札場跡の看板が新しくなっていました。以前のものには『…放火やキリスト教、偽金銀の使用の禁止等のお触れ書きを掲示するため…云々』と書かれていました。【放火】と並ぶほど【キリスト教】が厳しく禁じられていたことを知る大事な資料だったのですが…残念です。幕府や領主からお触書を出さなければならないほど、当時のキリスト教には影響力があったことを思います。時代は変わり、【令和】となった今も、相変わらず日本のクリスチャン人口は総人口の1%に届きませんから、ますます収穫の主に働き手を送ってくださるように祈るばかりです。影響力と言えば、明日は第68、69代内閣総理大臣を歴任した大平正芳さんの召天日です。子どもだったので記憶が曖昧ですが、「あー、うー」とものまねをしたことがあるような…。私の友人にも牧師として政治家を目指す人がいますが、そういう志を持つ方も増えてきたらなぁと思います。
水曜日の夜の祈祷会では『イエスに出会った人々』をシリーズで学んでいます。この間はユダヤ人の議員(サンヘドリン)のニコデモでした。彼は、律法を重んじ、社会的な地位も富も名誉も兼ね備えていた人物だったでしょう。でも、そんな彼にも、夜に人目を忍んでイエスさまのもとを訪れ、聞きたいことがありました。すると、イエスさまは彼がそれを尋ねる前に答えられたのです。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」なんとも禅問答のようなやり取りでした。ニコデモはイエスさまの言葉を理解できたでしょうか。確かなことは、彼はイエスさまが十字架にかけられた後、その亡骸を取り降ろすことをピラトに願い出たことです。「新しく生まれる」とは、人間の努力や熱心さによってなされるものではなく、神によって古いものが過ぎ去り、すべてが新しくされることです。神はへりくだった者には恵みを与えられる、ここにヒントがあるのです。
6月第二水曜祈祷会、朝はネヘミヤ記6章から御言葉を心に留めました。ネヘミヤをはじめユダの民は心一つに神殿の城壁再建工事に着手します。でも、外からは敵の妨害が入り、内からは同胞の格差問題に悩まされました。また、完成まであと一歩というところで、身近な者たちの裏切りもありました。それでも、彼の心は折れませんでした。「こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。」「こうして」の一言に、どれほどの思いが詰まっているでしょう。様々な問題を乗り越えて、城壁は52日間という驚異的な早さで完成しました。ネヘミヤはここまでの道のりを振り返って、「この工事が私たちの神によってなされたこと」とすべての栄光を神にお返ししたのです。私たちも神さまのために何かをなそうとして踏み出しても、なかなか思うように事が運ばないことがあります。でも、心折れずに、最後まで主に期待して前進していこうではありませんか。
『教会ってだれでも来ていい所なんですか…』いつも教会の前を通られる方と立ち話になりました。教会に関心をもってくださるのは感謝なことです。『もちろんです』と日曜日の礼拝を紹介しましたが、なかなか大勢の人が集う場所に行くのは勇気がいると思います。インターネットをする方なら、ホームページなどで大体の様子を知って頂けると思うのですが、それでも教会に行ったことがない方にとっては中でどうしたらいいのか…と思われるのでしょう。私の母もクリスチャンではないので、クリスマスの時期は別としても普段はちょっと行きにくい…と言います。そういう母のような方にとってはYouTubeで礼拝の様子を視聴できるのは助かるそうです。それが教会に来るきっかけになってもたえたらと思います。日曜日はちょっと…という方は平日でも教会は空いています。祈り会があったり、留守の時もありますが、気軽に立ち寄れる場所に思って頂けましたら幸いです。
6月第一主日、今日はペンテコステ記念礼拝でした。礼拝では詩篇27篇からメッセージを聴きました。ダビデはイスラエル史上最も偉大な王と言われる人物です。そんな彼は初代サウル王に命を狙われ、バテ・シェバとは姦淫の罪に陥り、息子アブシャロムには謀反を起こされ、まさに栄光と苦難の人生を歩みました。27篇も、そんな彼の人生を象徴するような…主への確信と信頼、そして、現実の危機の中で助けを求める姿が描かれています。「待ち望め 主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め 主を。」「待ち望む」とは「待つこと」だけでなく「望みを持つこと」です。それは消極的なことではなく、むしろ積極的な信仰者の姿です。だれもが神への賛美と神への叫びが交錯するような歩みの中で信仰生活を送っているのではないでしょうか。まさに山あり谷ありの人生です。でも、主は私たち以上に私たちのことを知っておられます。心を強くし、主を待ち望みましょう。
教会のデボーションはネヘミヤ記2章から。祖国再建を願うネヘミヤの祈りはついに形となって現れ出しました。神はペルシャ王の心を動かし、ネヘミヤをエルサレムに派遣する許可を出したのです。「わが神の恵みの御手があったので、王はそれをかなえてくださった。」ネヘミヤの帰還により、暗く沈んでいた人々の心も燃やされ、「さあ、再建に取りかかろう」との声があがっていきました。私たちの目には偶然に見える出来事も、神の目にはすべてが必然であることを思います。神はわざわざ遠回りの不幸のシナリオを書くことはありません。たとえ私たちには理解できなくても、すべてのことを最善の時に、最善の方法で導いてくださるのです。それは今日も同じです。コロナも少し落ち着き、ハートフル英会話にも活気が戻ってきました。感謝なことに、大人も子どもも基礎コースのクラスは定員が満たされました。無料体験クラスは大人も子どももあと数名ずつ受付中です。
6月第一水曜祈祷会はネヘミヤ記1章から。ペルシャ帝国の献酌官をしていたネヘミヤは、ユダから来た者たちから祖国エルサレムの報告を受けました。生き残ったユダヤ人たちは大きな困難と恥辱の中にあり、城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままだと知り…ネヘミヤは座り込んで泣き、断食して天の神の前に祈りました。彼の祈りは、第一にイスラエルの律法違反の罪を自分のこととして告白していました。そして、散らされた民も、悔い改めるなら主は集めてくださると、みことばの約束に基づいた祈りを献げたのです。Ⅱコリント7:10、「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」神のみこころは、自分に悲しむことがあった時に、ただの後悔で終わらないで、御霊によって悔い改めに至ることです。大事なのはそこからどう立ち直るかです。ネヘミヤの真摯な祈りの姿勢から教えられました。
教会のデボーションはエズラ記10章を迎えました。エズラの帰還はイスラエルで掟と定めを教えることでした。長旅を終えてホッとしたのも束の間、エズラに重大な報告がありました。それは神の民が異国の偶像礼拝に関わる習慣と手を切らず、子たちも彼らと結婚して混じり合い、しかも指導者たちが率先して不信の罪に加担していたのです。これを聞いたエズラは神の前に「私たちの罪です」と涙ながらに悔い改めました。その姿を見た民も心を動かされ、激しく悔い改め、律法に従う決心をしたのです。なんとも厳しい終わり方に思いますが、悔い改めとは単に口先だけでなく、行いが伴わなければ意味がないことを教えられる箇所です。ただ、私たちは聖書全体を通して教えられる神の究極的な意志と、その時代と場所において現された神の意志とを正しく読み取らなければなりません。これほどの問題が起きてしまっても、今なお望みがあると言える民の信仰に教えられました。
5月第五主日、今日は朝から夏日となって初めて冷房をつけました。礼拝はⅠコリント4章1節~「人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。」それは、キリストに仕える者、キリストの御旨を行い、キリストのことばに従う者のことです。管理者に要求されるのは、忠実であることです。忠実とは、単に言われたことを実行するだけでなく、主人の思いを知って託された賜物を活かしていくことです。主は私たちにそれぞれ違った賜物を与えてくださいました。『私には何も賜物がなくて…』という方も時々いますが、信仰の目をもって見る時、自分にもたくさんの賜物が与えられていることに気がつくでしょう。パウロはまた「私をさばく方は主です。ですから…何についても先走ってさばいてはいけません。」とも記しました。頭ではわかっていても、いつも心に深く刻まれる言葉です。今週も聖霊の助けを受けて、御言葉を実践していきたいと思います。
昨日のハートフル英会話も子どもたちの元気いっぱいの声が響いていました。中には姉弟で来ている子たちもいて、並んで学んでいる姿はとても微笑ましいです。私自身は3つ上の兄がいますが、まさに兄弟牆に鬩ぐ…の言葉通り、子どもの頃はあまり仲は良くなかったように思います。それでも大人になって、父の葬儀の際にお焼香をしなったことで親戚に責められる私を兄がかばってくれたことがありました。兄はクリスチャンではありませんが…自分の気持ちを代弁してくれる姿に兄弟の有難みを感じました。ところで、教会ではみな、互いのことを兄弟姉妹と呼び合います。神を父とした、霊的な家族という信仰からです。今日は、私たちの教会にとって大切なある兄弟の召天日でした。妹さんが教会に立ち寄ってくださって、一緒に祈る時間が持てて感謝でした。来週の旧約聖書を学ぶ会ではエサウとヤコブの兄弟の話しを学びます。お時間の許される方はぜひご参加ください。
5月第水曜祈祷会、エズラ記7章から御言葉を学びました。神殿工事が完成し、いよいよエズラがバビロンからエルサレムに上って行きます。「エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルで掟と定めを教えようと心を定めていた。」祭司であり、学者でもあったエズラは、まず自分自身が神の御心をよく調べ、生活の中で実行し、その上で人々に教える人物でした。まさに言行一致の彼の教えだからこそ、人々にも説得力のある言葉となったのでしょう。アルタクセルクセス王の手紙にもエズラに対する尊敬の思いがにじみ出ていました。でも、そんなエズラには自分の功績を誇る様子は一切ありませんでした。「私の神、主の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、一緒に上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた。」すべての栄光は神に。イエスさまは今も、ご自身の御手があることを私たちに知らせようとして、私たちを遣わし、用いてくださるのです。
5月第四主日、今日も朝から清々しい青空が広がっていました。礼拝メッセージはⅠコリント3章から、パウロの少し厳しい叱責が記されている箇所からでした。「私はパウロにつく」「私はアポロにつく」教会内にそうした分裂があるのは、教会がまだ成熟していない証拠。パウロもアポロも、主がそれぞれに命じられたことをしただけでした。「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」人にではなく、神に目を向けること。そして、信仰の土台はイエス・キリストであること、それは今日の私たちにとっても大切な教えです。今日は午後から婚約式がありました。それぞれにイエス・キリストとの出会いがあり、家族の祈りがあり、主の不思議な導きの中で出会ったお二人。主の御業を証しし、主の前に結婚に向けての誓約をされる姿に私たちも励まされました。世の価値観に惑わされずに、確かな信仰に立って歩んでいってほしいと思います。
今日はある兄弟の記念会がありました。昨年、急に体調を崩されて天国へと旅立たれ…葬儀は行えたものの、コロナの感染拡大で記念会はずっと延期になっていました。兄弟の生い立ちを辿る中で、18歳の時に洗礼を受けられた記録が残っていました。その後の詳しい信仰生活はわかりませんが、従妹の方が『彼はイエスさまと出会わなければ生きていけなかったでしょう。』と仰っていたのが印象的でした。ちなみに、世界の医学者であり、1000円札の肖像にもなっている野口英世が洗礼を受けたのも18歳です。青年時代に出会ったキリスト教が、その後の彼の人生に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。『過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。なぜなら人生で変えることができるのは、自分と未来だけだからだ。』今日はそんな彼の召天日でした。記念会でも、ご遺族の方々にとって天からの慰めと天国での再会を確信する時となりますように…。
昨日のハートフル英会話・大人クラスではカップケーキを作りながらのチャペルタイムでした。レシピ通りに作らないと美味しいケーキができないように、アダムとエバも神のことばに従わなかったので罪が入ってしまいました。自分から神のもとを去って行く人間の姿を神はどんな思いで見ていたのでしょう。夕方からのキッズクラスもホゼア先生のプロジェクターを使っての授業で、みんな楽しそうに学んでいました。私は次の日の朝からCGNTVの奉仕で、6月分のメッセージを撮影しました。Ⅰコリント14章の異言と預言の賜物ついて。ここは13章の愛の賛歌と15章の復活の賛歌を山とするなら、丁度谷間に当たる少し複雑な箇所です。私自身は異言で祈ることはありませんが、「教会の成長のために」ということからあらためて勉強になりました。今週はやや慌ただしい一週間でしたが…「今すべてが見えなくても」の通り、今日できることを忠実に取り組みたいと思います。
5月第三水曜祈祷会は薄曇りの空でしたが、穏やかな一日を感謝します。エズラ記1:1~バビロン捕囚以後のイスラエルの歴史について。BC536年、ペルシャ王キュロスによって、イスラエルの民に故国帰還命令が出ました。それは、主のことばが成就する時であり、主の民にとっては長年の祈りと願いが実現する時でもあったのです。「主はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた」「神が彼ら全員の霊を奮い立たせた」とあるように、主はご自身の御心を行うために、一人一人に働かれるお方です。そして、主の命令を取り次ぐ者、帰還して神殿再建に従事する者、それを物心ともに支援する者、それぞれに役割があって、互いに仕え合い、助け合って、御心は実現されていくのです。祈祷会も、ただ数人が集まって御言葉を学ぶだけではなく、互いに祈り合い、支え合い、御心を求め合って、感謝を捧げる場所です。神の御心は時至って必ず実現する。何事もこの確信が大事です。
5月第三主日、穏やかな日曜日を感謝いたします。礼拝ではⅠコリント2章からみことばを学びました。パウロはコリントの町を訪問した際のことを振り返って、あの時の自分は十字につけられたキリストをそのまま宣べ伝え、霊肉ともに弱く戦いていたけれども、その宣教は御霊と御力のものだったことを記しました。パウロのほどの偉大な宣教師でも、心身ともに疲れを覚える時があったのでしょう。でも、そうした弱さを覚える時ほど、神の御力を体験したりするものです。「私たちはキリストの心をもっています」キリスト者の共通の基盤は、私たちの心に御霊なる神が住んでくださって、主なる神との交わりの内に入れられていることです。教会の本当に小さな小さな畑で、そら豆、大根、ジャガイモが収穫時期を迎えました。昨日はお試しで少し採ってみましたが、みんな楽しそうでした。また以前のように、教会の子どもたちといろいろ収穫して試食できる日が楽しみです。
「主に雨を求めよ、後の雨の時に。主は稲光を造り、大雨を人々に、野の草をすべての人に下さる。」(ゼカリヤ10:1)このところお天気のいい日が続いたので、久しぶりの雨に、野菜の水やりが助かりました。聖書には「先の前」「後の雨」という表現が出てきます。「先の前」は秋の種蒔きの時の雨のこと、「後の雨」は春先に降る雨のことです。「後の雨」は収穫期の雨で、この時に降らなければ穀物は枯れてしまいます。強調されているのは「主に」「主は」という言葉です。私たちの祝福は、ほかならぬ主から来るという信仰です。五月は新生活のストレス、連休明けの疲れも出てくる頃でしょうか。数日前にもお笑い芸人の方の訃報がありました。コロナの感染もなかなか出口が見えてこず、世界情勢も耳を覆うばかりのニュースが続きます。気持ちも塞ぎがちな時期ですが、そんな時こそ聖書の神にあなたにとっての後の雨を求めませんか。教会で一緒にお祈りしましょう。
5月第二水曜祈祷会、エステル記4章からエステルとモルデカイの信仰を心に留めました。モルデカイは両親に先立たれてしまったエステルを引き取って、養女として育てました。そのエステルがあろうことか王妃として選ばれて、王宮に暮らすようになったことをモルデカイは喜んだことでしょう。でも、宰相ハマンの登場によって事態は一変し、ユダヤ人抹殺命令が国中に公布されることによって、モルデカイもエステルも混沌の渦の中に飲み込まれていきます。もはやどうすることもできない状況の中で、モルデカイはエステルに「あなたがこの王国に来たのは、もしかするとこのような時のためかもしれない。」と伝言を送り、エステルもモルデカイに「…我もし死べくば死べし」と返事を送ったのです。神のご摂理の中で、自分たちの使命に歩もうと決意する父と娘の信仰に胸を打たれました。私たちにもこのような時のためかもしれないという時が必ず訪れるように思います。
教会のデボーションはエステル記3章。神の名が一度も出てこない、聖書の中でも特異な書簡です。でも、この書の主人公であるモルデカイとエステルは保身に走らず、堅く信仰に立って、見事にユダヤ人を救い出しました。この書のクライマックスは何といっても明日の4章でしょう。ぜひお時間のある方は水曜祈祷会をご視聴ください。モルデカイの信仰、エステルの献身、ユダヤ人のとりなしの祈り、一人一人が神の御心を真剣に追い求める姿は圧巻です。この日曜日には、87歳になる教会の兄弟が、お世話になった宣教師ご夫妻の大切な写真を見せてくださいました。ユニークで、優しくて、信仰深くて…とまるで昨日のことのように笑顔で話してくださいました。ずっと昔、兄弟は奥さまの受洗を強く反対しておられたそうですが、先生ご夫妻との交わりを通してキリスト教の真理にふれ、今はご自身も洗礼を受けて熱心に礼拝に出席してくださっています。主の御業に感謝します。
今日は母の日歓迎礼拝がありました。ご婦人の方々に教会からささやかなお花のプレゼントをさせて頂きました。神が与えてくださった母を心から感謝いたします。礼拝ではⅠコリント1:18‐31を学びました。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」パウロはコリントの教会内に分裂が起きていることを聞いて、教会の一致について記していきます。そこであらためて『十字架のことば』すなわち十字架のメッセージに焦点を合わせるように勧めました。ユダヤ人はしるしを、ギリシャ人は知恵を重んじるが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える、ここに一致の鍵があるというのです。「誇る者は主にあって誇れ。」今日もだれかに十字架のメッセージを語るのは勇気が要ることかもしれません。でも、福音の中心にあるのは十字架です。私たちも聖霊の助けを頂いて心一つに十字架の主を証ししようではありませんか。
「私があなたを呼び求めると、あなたは近づき、『恐れるな』と言われました。」(哀歌3:57) 絶望のどん底から主の御名を呼び求める時、主はその声を聞き、答えてくださったとあります。哀歌の中に、ただ一度だけ出てくる主ご自身の言葉です。『恐れるな』これほど私たちの心の奥深くに響く言葉はないのではないでしょうか。人生には避けられない苦難があるものです。ある人はそれを早くに経験し、ある人は晩年になって経験します。
でも、主は私たちを意味もなく、苦しめ悩ませることはない。禍も幸いも、すべては主の御手の中にある。自分たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう…と。今日も有名な俳優さんの縊死のニュースがありました。ご遺族の悲しみを思います。詳細はわかりませんが、いのちの電話のナビダイヤルも案内されていました。イエス・キリストは『悲しむ者は幸いです…』と言われました。その悲しむ者の声を、主は聞いてくださるのです。
教会のデボーションは哀歌3章に入りました。南ユダの滅亡と惨劇を悲しんだ歌。なぜ神はご自身の民を苦難から助けられなかったのか。「私は、主の激しい怒りのむちを受けて苦しみにあった者。主は、私を連れ去り、光のない闇を歩ませ…」私たちの人生にも、目の前が真っ暗になるような絶望の谷に落とされたと感じる時があるのではないでしょうか。私の場合は父の自死の時がそうでした。数日前から少し様子が変だな…と感じていながら『大丈夫?』の一言でも優しい声をかけてあげることができませんでした。自暴自棄に陥った私は祈る気にもなれず、聖書を破り捨て、神のことなどどうでもいいと思いました。そんな塞ぎ込む私の心に主の御声が聞こえてきたのです。…わたしはあなたの信仰がなくならないように祈っている。イエスさまがともにいてくださると感じた瞬間でした。今、神に見捨てられたように思う方…教会で一緒に祈りつつ、気持ちの整理をされませんか。
5月第一主日、朝は小雨が降っていましたが、午後からは晴れて穏やかな一日でした。今日から礼拝ではⅠコリントから学んでいきます(リビングライフの補足も覚えて)。パウロは第二次伝道旅行の際にコリントを訪問し、良き協力者も得て、教会の基礎を据えました。でも、パウロが宣教拠点を変えていなくなると、教会内にさまざまな問題が噴出してきたのです。パウロもそのことを聞いていましたが、その諸問題から書き始めるのではなく、まずコリントの教会が神の教会であること、そこに集う一人一人は聖徒として召された者であることから記していきました。今日の教会にもさまざまな問題はあります。完全な人間がいないように、完全な教会もこの世に存在しません。でも、たとえどんな問題があっても、教会は人間の業によるものではなく、神の御業であり、神がお一人ひとりを召されていることを覚えたいものです。この教会の原点をいつも忘れずにいたいと思います。
教会のデボーションはダニエル書12章~。昨日の水曜祈祷会でも11章を学びましたが、難解な預言の箇所でした。ダニエルからすれば未来のこと、今日の私たちからすれば過去の歴史、さらに終末の出来事を示しているという深淵なるメッセージです。いずれも終わりの時には大きな患難がある、しかし、「いのちの書」に記されている者はみな救われるというのです。苦難、復活、さばき、栄光…について、耳の痛い話しですが…教会はもっとしっかり伝えていかなくてはならないと思わされます。愛、慰め、赦し、希望…これらも聖書の重要なメッセージですので、この終わりの時代、バランスの欠いた福音とならないように気をつけたいと思います。今日もハートフル英会話があって、大勢の方々が教会に集ってくださいました。英語はもちろんですが、神さまのことを少しでも知って頂く機会になれば幸いです。大人クラスは1~2名、キッズクラスは5時クラスに空きがあります。
今日は関西キリスト災害ネットワーク第六回懇談会がありました。今回はハンガーゼロ理事長の清家氏が『大規模災害に備えて教会間のネットワークを考える』をテーマに講演をしてくださいました。会が始まるすぐ前にも震度3の地震があって、いつ起こるかわからない災害への思いを新たにしました。発災時に教会のネットワークに何ができるのか、それぞれの教会でどんな備えが必要なのか、過去の事例などを挙げて説明して頂き、平時からも教会が少しでも行政や社協等とも連携を取っておくことの大切さを学びました。ウクライナの難民支援の報告や社会福祉連携推進法人制度についても情報共有する時間があり、非常に内容の濃い懇談会でした。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」発題の最初に読まれたイエスさまの御言葉が心に残りました。教会が地域の方にどんな貢献ができるのかを考えさせられました。
4月第四主日、アメリカでは古くからハナミズキはイエスさまの十字架を思い出させる花と言われているそうです。礼拝では、復活の主のその後について、マルコの福音書16:9から学びました。ここはマルコ自身のものではなく、後から追加された記述とのことで、初期のクリスチャンたちの信仰が生き生きと描かれています。マグダラのマリヤ、エマオに向かう弟子たちが復活の主と出会われたことを他の弟子たちに伝えますが、最初は信じてもらえませんでした。『復活』がいかに人間にとって信じ難い出来事であるかを思います。イエスさまはそんな心許ない弟子たちに大宣教命令を告げられました。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」こうして主は天に昇り、弟子たちは至る所で福音を宣べ伝えた…「主は彼らとともに働き」この続きが今日の私たちの宣教に繋がっていることを思う時、今週も復活の主とともに歩ませて頂きたいと思いました。
今日は朝から天候も守られて無事納骨式を行う事ができました。箕面国定公園に向かう道を登った先にある墓地は、新緑が眩しく、見渡す限り素晴らしい景色の場所にありました。式の始めは曇り空でしたが、讃美歌を歌い始めると次第に雲間から光が差し込んできて、天からの祝福が注がれているように感じました。「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」地上において会えないのは寂しいですが、クリスチャンには永遠のいのちが与えられ、天の故郷が備えられ、再会の希望があります。今週は特にイースターの週でもありましたので、復活の主の御声を聴いて、福音を携えて、ここから遣わされる弟子たちのような思いになりました。クリスチャンにとっての墓地は、単に人生のゴールではなく、天の故郷を目指して生きた、その信仰の記念碑であって、永遠に神の家族として生きる希望のしるしです。
4月第三水曜祈祷会、ダニエル記5:17~。ベルシャツァル王は国家存亡の危機にありながら、千人の貴族のために大宴会を催し、酒の勢いに任せて礼拝用の器で飲食し、偶像の神々を賛美しました。ちょうどそのとき、人間の手の指が現れ、王の宮殿の塗り壁に「メネ・メネ・テケル・ウ・パルシン」と書かれ、その言葉の意味を解き明かすためにダニエルが連れて来られたのです。そして、その意味がまさに王に対する神の裁きの言葉であることを告げたのですが、王は祖父であるネブカドネツァル王の繁栄と裁きと悔い改めの経緯を知っていたはずなのに心を低くしませんでした。こうして王はこの最後の悔い改めの機会を逃し、暗殺されてしまったのです。権力を持った人間がいかに悔い改めるのが難しいかを思わされます。王の判断がその国の未来を変えてしまう…それは昔も今も、そして今日の私たちも同じです。「今日、もし御声を聞くなら…心を頑なにしてはならない。」
春らしい清々しい風を感じながら、2022年のイースター記念礼拝を献げました。マルコ16:1~安息日が終わって、マリアたちがイエスさまのお墓に行ってみると、そこにイエスさまの亡骸はなくなっていました。すると御使いは彼女たちに言いました。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。…」空の墓がイエスさまが死からよみがえられた証しだと告げたのです。キリストの復活は、人間の理性を超えた事柄であり、科学的なアプローチなどではなく、神の前における悔い改めと謙遜さがなければ真の理解には至りません。イースターの意味をただ知っているのと、心で信じているのは違います。復活の主は「ガリラヤ」で弟子たちと再び会われました。私たちも信仰生活の原点であるガリラヤで、主と出会い、力を受け、新しく遣われて行きたいと思います。
今週はイエス・キリストが歩まれた最後の一週間を覚える受難週(Passion Week)です。そして、イエスさまが十字架上で死なれた金曜日を英語ではGood Fridayと言います。今日もハートフル英会話があり、チャペルタイムの時間にレイチェル先生が短く聖書のお話しをしてくださいました。私たちはみな、羊のように彷徨い、神のもとを離れてしまった罪人でしたが、そんな私たちの罪のためにイエスさまは命を投げ出してくださったことを、一本のひもを使って真ん中をハサミで切り、それを再び結び合わせ、その結び目を見事に取り除いて元通りにするというマジックで説明してくださいました。イエス・キリストが私たちのためにしてくださったことはまさにマジックのように驚くような神の御業です。昨今は日本でも『Easter・復活祭』という言葉がだいぶ定着しつつありますが、その前の十字架のメッセージを…一人でも多くの方が心で受け取れるようにお祈りしています。
教会のデボーションはダニエル記3章に入りました。バビロンの王ネブカドネツァルは高さ27メートルにもなる巨大な金の像を作って、ひれ伏して拝まない者はだれでも、即刻、火の燃える炉に投げ込むと命令を下しました。さまざまな楽器が鳴り響く中で国民が一斉に像の前にひれ伏す光景は、王にとってこの上もない歓喜だったでしょう。ところがユダヤ人のシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはこの命令に背き、王に直接尋問されますが、「王よ、このことについて、私たちはお答えする必要がありません」ときっぱり拒否したのです。何と潔い、勇敢な信仰かと思います。自分がこうした場面に立たされたらどうするだろうかと考えさせられました。この続きは明日の祈祷会で学びます。昨日はウクライナの難民支援報告会に出席しましたが、現地で宣教師として仕えるご夫妻の報告に感動しました。そして、この苦難の中からも救われる方が起こされてほしいと願わされました。
今年も受難週を迎えました。イエスさまが歩まれた最後の一週間を覚える週です。礼拝ではマルコ15:33~「十字架の主を見上げて」をテーマにメッセージを聴きました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」イエスさまはご自分の罪のためではなく私たちの罪のために、私たちに代わって神に見捨てられました。それは私たちがこの方の打ち傷のゆえに神の義となるためです。何度聴いても十字架の主の御苦しみと父なる神の愛の大きさに、ただただ感謝と感動を覚えます。来週のイースターに向けて、あらためて十字架の愛を心に留めて歩みたいと思います。今日は教会の子どもたちの進級式がありました。コロナの感染もあるので…例年通りとは行きませんが、細やかなお祝いと祈りの時を持ちました。入園、入学、就職…みんな春からの新しい歩みが始まります。「あなたの若い日に、あなたの創造者を…」神さまの守りと支えをお祈りしています。
今日からハートフル英会話春期コースが始まりました。大人もキッズも久しぶりに顔をあわせてのクラスに、なんだかとても新鮮に感じました。大人クラスのレイチェル先生も、キッズクラスのホゼア先生も、聞き取りやすい英語で話してくださり、文法などの説明もとても分かりやすく教えてくださり、ネイティブならではの自然な表現や言い回しも指導してくださいます。無料体験クラスを受付け中ですので、ぜひ教会までご連絡ください。今日はまた一段と暖かい日で、教会前の花たちも一斉に咲き始めました。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。…ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。」一つ一つの花のつくりに見入っていくと、その色使いや繊細さに、神の創造の御業を覚えます。神の目には、私たち一人一人も神の傑作です。世界に一日も早く平和が訪れるように祈ります。
4月第一水曜祈祷会、詩篇119:105「あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。」詩篇の中でも多くの人が愛唱されるみことばです。暗闇の中で、自分がどこに立っているのか、どこを歩けばよいのか…わからないことほど不安なことはありません。でも、足もとに明かりがポッと灯されたり、行くべき道がわかるとこれほど安心なものはありません。一寸先は闇と言いますが、明日どんな悪いことが起こるか…それはだれにもわかりません。だからこそ私たちはみな、山あり谷ありの人生を歩む上で、足もとを安全に照らす灯が、進べき道の方角を示す光が必要ではないでしょうか。イエス・キリストは言われました。ヨハネ8:12「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」明日からハートフル英会話春期コースが始まります。久しぶりに対面でのクラスです。皆さまにお会いできるのを楽しみにしています。
旧暦では一月を春としたこともあって、『春』という言葉には『物事の始まり』『新しい年の始まり』という意味があるそうです。今日は近くのキリスト教葬儀社の新年度礼拝で御言葉を取り次がせていただきました。ルカ19:31「主がお入り用なのです」教会にとって信頼できる葬儀社があるのは本当に感謝なことです。葬儀を通じてキリストを証しする会社の方針に、とても共感しています。礼拝の後、入社辞令交付式もあって、新入社員の方々の緊張した面持ちから私自身も初心を思い返す時となりました。教会も新年度を迎え、ハートフル英会話の申し込みも始まりました。大人クラスは定員まであと2~3名、キッズクラスはほぼ定員が満たされそうです。お早めにお問合わせ頂ければと思います。CGNTVリビングライフも多くの方がご視聴くださって、反応の多さに少々戸惑い気味ですが、私のような者の奉仕でも、どなたかの心を少しでも励ますことができれば幸いです。
4月第一主日、礼拝メッセージはマルコ14:53~ユダの裏切りによって捕らえられたイエスは大祭司カヤパの官邸で、ローマ総督ピラトのもとで最高法院の裁判を受けられました。祭司長たちは死刑判決を勝ち取るために多くの偽証をもって訴えますが、イエスは何もお答えになりませんでした。ただ、ピラトの「あなたはユダヤ人の王なのか」という尋問に「あなたがそう言っています」とだけ答えられたのです。こうした不当な裁判の間にペテロがイエスを三度否定する出来事があります。このペテロしか知らないことを4つの福音書はいずれも記しました。それはペテロが『これが私のしたことだ。でも、主はそんな私を愛することをやめられなかった』と幾度も語っていたからではないでしょうか。真実に立ち続けたイエスと真実に立ち続けられなかったペテロ…。でも、そんなペテロのためにイエスさまが祈っていたからこそ、彼は立ち直って兄弟たちを励ますことができたのです。
FKKのティーンズバイブルキャンプで奉仕させていただきました。コロナ禍にあって、3年ぶりの開催、新中一から高三のキャンパー、スタッフや先生方、34名の参加がありました。感染対策によく配慮しながら、中高生の笑い声、賛美、卒業生の涙…本当に素晴らしいキャンプでした。今回のテーマは「山を見よ」、詩篇121篇は都エルサレムを目指す巡礼者たちの歌です。彼らの目の前にはそびえたつ赤茶けた岩山が連なりました。でも、巡礼者たちはその山を見上げて、「私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。」と歌い合ったのです。今年の学生たちの証しからは、日常が当たり前ではないという言葉がよくありました。自然災害、世界的パンデミック、ロシアによるウクライナへの侵攻…もはや何が起こるか分からない時代であることを感じているのでしょう。だからこそ、一人一人が目を上げて堅く信仰に立って歩んで行けるように、、心からお祈りしています。
3月第五水曜祈祷会、詩篇115篇から「栄光の主を信頼せよ」というテーマで御言葉を心に留めました。南ユダ王国はバビロニア帝国によって滅ぼされ、神殿が壊され、多くの民が捕囚となり、絶望の淵にありました。諸国の民は「彼らの神は、一体どこにいるのか」と嘲ります。でも、ユダの民は「私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行われる。」と告白したのです。順境の時に神をほめたたえるのはそれほど難しいことではありません。大事なのは逆境の時に主に信頼して歩めるかどうかです。周りの人々が何と言おうと、目の前の状況はますます深刻になっているように思えても、「しかし、私たちは主をほめたたえる。今よりとこしえに至るまで。」という直ぐな信仰を持ちたいものです。教会近くの桜通りも、いよいよ桜満開の時期を迎えました。それは別れと出会いの時期でもあります。新年度を迎える青年たちにが、教会に立ち寄ってくれて感謝でした。
3月第四主日、大阪も例年より少し早く桜の開花宣言がでました。礼拝はマルコ14:32から、ゲッセマネでのイエスさまの祈りの姿から学びました。イエスさまが十字架の死を前に「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とはなんと頼りないことか、そもそも神の子なのだから改めて祈らなくても父の御心くらい分かっていたはずでは…と思われる人もいるようです。でも、イエスさまの悲しみ悶える姿こそ、人間の罪の現実がこれほどまで悲しく激しいものであることを示しているのではないでしょうか。また、罪のない方が、神の裁きを受けられる恐れ、全人類の罪を一身に背負われる重圧、神にも人にも見捨てられる絶望感…それらは誰も味わったことがない、筆舌に尽くしがたい苦難だったに違いありません。「わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」私たちも祈りによって自我を乗り越え、父の御心に従う者にならせて頂きたいものです。
何年かぶりにCGNTV・リビングライフの奉仕を受けることになりました。これから半年間毎月1~5日のデボーションの奨励を担当します。正直少し迷ったのですが…少しでも主のお役に立てればと思い、素晴らしい先生方の間に加えて頂きます。4月はエズラ記からでした。短い10分ほどの奨励ですが、準備する中であらためて教えられました。主はユダの民の長年の祈りに応えて、バビロン捕囚からの解放とエルサレム再建の機会を与えられました。彼らは感謝と喜びをもって定礎式を行いますが、敵対者たちの妨害を受け、途中で中止せざるを得なくなったのです。神の御心はどこにあるのか…人々は当惑したでしょう。でも、人の目には良くない状況に思えても、神のご計画は決して曲げられることはありません。私たちも思い通りにならない現実の中で、すぐに諦めてしまうことがありますが、歴史の主権者である神が今日も最善に導いてくださっていることを覚えたいと思います。
3月第四水曜祈祷会、デボーションはゼカリヤ9章~。捕囚から帰還したユダヤ人にとってエルサレム神殿を再建することは大変な工事だった上に、隣国の異邦人たちの妨害がさらに困難にさせていました。それでもなんとか神殿を完成させたにも拘らず、現実の生活は人々が思い描いていたような栄光のエルサレムとは程遠かったのです。そんな主の約束と現実の矛盾の中で苦しむ人々のために、主はゼカリヤを通して預言を与えられました。「わたしは、わたしの家のために、行き来する者の見張りとして衛所に立つ。もはや、虐げる者はそこを通らない。今わたしがこの目で見ているからだ。」どんなに目の前の状況が辛く悲しく思われるものであっても、主はご自分の民を絶えず見張り、守ってくださるという約束です。私たちクリスチャンも同じような矛盾の中で苦しむことがありますが、大事なのは神のことばを思い出すことです。その先にある勝利を信じて歩みましょう。
3月第三主日、やや風は冷たく感じましたが、穏やかな一日を感謝いたします。礼拝メッセージはマルコ14:12~イエスさまと弟子たちが過越の食事(最後の晩餐)を取られた場面からでした。弟子たちはイエスさまがすべての食事の準備を整えてくださっていたことに驚いたことでしょう。そして、一緒に食事をしている弟子たちの中に、イエスさまを裏切る者がいると聞いて、楽しい食卓の雰囲気は一気に変わったことでしょう。イエスさまはそこでユダの名前を挙げなかったのは、最後まで彼に悔い改めを迫られたからでしょう。「まさか私ではないでしょう」ユダはもちろんですが、他の弟子たちも次々にそう言い始めたのが印象的でした。イエスさまはこの後、ご自分の贖いの死とその意味を弟子たちに教えられ、それが今日の聖餐の原型になっています。聖餐式はイエスさまの十字架の死を思い返すとともに、神が罪人である私たちをどれほど愛されたのかを思い返す時です。
教会のデボーションはゼカリヤ書4章に入りました。ユダの民は総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアを中心に、長らく放置されていた神殿の再建にとりかかりました。でも、目の前の現実は「大いなる山」のような瓦礫…財力も人手も足りず、周囲には今にも襲いかかってきそうな敵国の存在。そんな問題山積、八方塞がり、もはやお手上げ状態のゼルバベルに向かって、主は預言者ゼガリヤを通して告げられました。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」神殿再建の働きは人間的な知恵や能力によってではなく、ただ神の御霊によって成し遂げられると励まされたのです。私たちも時に自分の力以上の働きや使命を与えられることがありますが、自分の力だけで立ち向かうのではありません。大事なのは「わたしの霊によって」です。ただでさえ季節の変わり目で心身ともに体調を崩しやすい時期。先立って導いてくださる聖霊により頼みつつ、力を戴いて参りましょう。
第73回教団総会がありました。新型コロナの感染状況を鑑みて一日の開催となりましたが、無事に選挙も行われ、新しい理事会の先生方が選出され、教団の新しい年度が始まりました。朝岡理事長から「そこでも福音を伝えよう」というテーマで御言葉が語られ、先に進まれる主イエスとその促しと招きに応えて、私たちの宣教の使命を再確認しました。今回は正教師4名の按手、補教師10名の准允があり、誓約と短い証しにも励まされました。私は新任教師派遣前研修の派遣礼拝でメッセージをさせて頂きましたが、「主がお入り用なのです」をテーマに力いっぱい話したら最後の祝祷の言葉が飛んでしまって…お恥ずかしい限りでした。若い先生方を見ながら、自分も16年前に緊張して研修を受けた頃のことを思い返して、感慨深いものがありました。ウクライナ情勢、新型コロナウィルスの感染、昨夜は宮城県で震度6強の地震…。本当にこの揺れ動く時代に働き人が必要です。
3月第二主日、今日も春の陽射しが差し込む教会で礼拝を献げました。メッセージはマルコ14:1~、非常に高価なナルド油をイエスさまに注いだマリアの姿から学びました。彼女は日々イエスさまの話しに耳を傾けている中で信仰の目が開かれ、この時しかできない感謝を表そうとしました。三百デナリ以上のナルドの香油は彼女にとって全財産とも言えるものだったでしょう。弟子たちは思わず「何のために、こんなに無駄にしたのか」と彼女を責めました。日々イエスさまと一緒に過ごしていた彼らでさえ、イエスさまがこれから何をしようとしているのかわかりませんでした。マリアの献げものはイエスさまがこの世で受ける最後の愛となったのです。私たちの生活にもいつでもできることとこの時しかできないことがあります。今、何をするべきか…心を動かされていながら、それをしないのは人生の悲劇の一つです。一日一日、聖霊の声を聞きながら歩む一週間となりますように。
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まって二週間が経ちました。事態は刻一刻と深刻化し、多くの民間人が犠牲となり、ウクライナからの避難民は200万人を超え、数か月後には400万人にも達するとのことです(難民緊急支援)。原発施設が占拠され、病院や学校までが攻撃を受け、あちこちで火災が発生し、幼い子どもたちを連れて避難する親子に氷点下の寒さが追い打ちをかけます。今さらながら戦争の恐ろしさ、21世紀にもこんな悲惨なことが起こるなんて…と思い知らされています。戦争経験者の方々は昔を思い出して見ていられないとのこと。日本も決して対岸の火事ではすまされません。ロシアにとって日本は非友好国の一つ。ロシアは世界的経済制裁を受ける中で、結果的に中国との関係も深まりました。日本でも核シェアリングの議論をとの声もあります。東日本大震災から11年…今も3万人以上の方が避難生活を送られていることを忘れるわけにはいきません。
3月第二水曜祈祷会、ヤコブ2:8「もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。」聖書は神が私たちに何を望んでいるかを教える書物です。中でも、隣人を自分自身のように愛する…これほど言うは易く行うは難しの教えはないでしょう。教会の中で、えこひいきや差別をしないようにとは当然のことですが、いつの時代も人の集まるところにはこうした問題はなくなりません。私自身もどれだけ人を傷つけていることか…お恥ずかしい限りです。ただ、その根本にあるのは人間の罪の問題があります。教会は聖人君子の集まりではなく、赦された罪人の集まり。誰もが主によって造り変えられている途中段階です。この世にある限り完璧な人間も完璧な教会も存在しません。だからこそ、御言葉によって整えられ、最高の律法を守れるようにならせて頂きたいと思わされます。
3月第一主日礼拝、春はもうすぐそこです。イエスさまの最後の譬え話から。ある主人が自分が作ったぶどう園を農夫たちに預けて長い旅に出たという話し。ある主人は創造主なる神、ぶどう園は神の民イスラエル、農夫たちは祭司長や律法学者たちを指しています。収穫の時になって、主人が農夫たちのもとにしもべを遣わして収穫の一部を納めさせようとしたところ、農夫たちはしもべを痛めつけて何も持たせずに帰らせてしまいました。二人目、三人目のしもべも辱められ、最後に遣わされた主人の息子は殺してしまったのです。「イエスは彼らを見つめて言われた。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった』と書いてるのは、どういうことなのですか。」神は私たちにも人生というぶどう園を預け、忍耐強く何度も神の言葉を送り、最後にイエスさまを十字架にかけて愛を示してくださったことを感謝します。今日は祐弥兄の留学支援の報告もありました。詳しくは…
教会のデボーションは申命記33章から。神の人モーセが死を前にしてイスラエルの子らを祝福した言葉です。これまでの厳しい言葉とは違って、ここでは一人一人の顔を見ながら祝福の言葉を告げるモーセの顔が浮かんできます。民はそれぞれに違った神の祝福があること、自分たちが「幸いなイスラエルよ、だれがあなたのような、主に救われた民であろうか。」という恵みの中にいることを再確認したことでしょう。私たちも、神がその一人一人に目を留められ、このような恵みの中を歩ませてくださっていることを再確認したいものです。どうしてこんなことが起きてしまうのか…神はどのようなお方なのか…それを知るには、神を礼拝し、聖書を読み続けることです。ロシア軍によるウクライナへの侵攻が続く中、北京パラリンピックが開催されました。パラ大会のルーツは戦争による負傷兵たちの社会復帰を目指した取り組みとのこと。選手たちの活躍を心から期待しています。
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まってから一週間が経ちました。ウクライナは民間人も含めた多くの死傷者が出て、町が破壊され、家族が引き裂かれています。一方のロシア軍の死傷者も日に日に増えている状況、中には平和維持部隊として戦地に送られてきた兵士もいるとのこと。フェイクニュースも多くあって、何が真実なのかわかりにくい中ですが、だれも戦争など望んでいないはず。一日も早く事態が収束に向かうように今日の祈祷会でもお祈りしました。申命記32:3「まことに私は主の御名を告げ知らせる。栄光を私たちの神に帰せよ。」創造者なる神は、私たち人間を、この地球を、神の栄光を現すために創造されました。人間同士が殺し合い、壊し合うことなど決してあってはならないことです。『風を見て、波が大きくて沈没するような教会はない。教会はイエスから目を離した時に沈没する。』反戦、平和運動に尽力した二―メラーの言葉を思い出しました。
2月第二主日、春の足音を感じる暖かな陽射しが差し込む教会で礼拝を献げました。ルカ19:41~、人々が歓声を上げる中、イエスさまはエルサレムの都を見て泣いておられました。なぜなら人々の歓声も数日後には「十字架だ、十字架につけろ」と豹変し、また、平和の都エルサレムもAD70年にはローマ軍によって陥落することを主はご存知だったからです。「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたらー」神の訪れの時が来ているのに、それに気づかない人々の愚かさを悲しんでおられるイエスさまの姿を思いました。今のロシア軍によるウクライナへの侵攻も、主はずっと前からご存知であって…だれよりも心を痛めておられたことでしょう。一日も早く事態が収束することを、一人でも多くの命が助かることを、心からお祈りしています。その日が来てからでは遅すぎる。主がこの事を許されたのであれば、人類はこの事からも学ばなければならないと思います。
ロシア軍によるウクライナへの侵攻が始まってしまいました。平和の祭典であるオリンピックが閉幕したばかりのタイミングで…本当に信じ難い、目を覆いたくなるような映像が映し出されています。ロシアのプーチン大統領は平和維持のためと言いながら、家や町が壊され、子どもたちが泣き叫び、人々が逃げ惑う現実をどんな思いで見つめているのか…。中には病人も高齢者もいるでしょうし、亡くなった兵士たちにもみんな家族がいるはずなのに…。どんな理由があろうとあってはならないことが起きてしまっていることに世界中が心を痛め、怒りを燃やし、不安を覚えています。「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。」この戦争が一日も早く終わり、剣を鋤に、槍を鎌に打ち直せるように…。キリストがもたらしてくださる平安、神との平安を、一人でも多くの方が見出すことができるように祈っています。
2月第四水曜祈祷会はⅡテモテ1:1から。この時のパウロはローマの牢獄に捕らえられ、自分の死が近いことを予期していました。自分がそんな状況にも関わらず、エペソの教会で様々な課題を抱えている愛弟子テモテを励ますために手紙を書いたのです。「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」誰でも大きな失敗をして自信をなくしたり、それゆえに行動を起こすことに臆病になってしまうことがあるものです。神を信じているからこそ、疑いが起こってくることもあります。でも、そんな苦しい経験を何度もしてきたパウロだからこそ、思い起こしてほしい、再び燃え立たせてほしい、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてくださいと確信をもって言うことができたのです。自分のために絶えず誰かが祈っていてくれるのはなんと励まされることでしょう。春から新天地で新生活を始める青年たちにもぴったりの箇所でした。
2月の旧約聖書を学ぶ会は創世記30章から。ヤコブはレアとの間に四人の子が与えられ、ラケルは不妊の女でした。やがてその思いは姉への嫉妬心となり、夫ヤコブへの怒りとなって現れます。ついにラケルは女奴隷ビルハをヤコブの妻とし、二人の子を儲けました。それを見てレアも女奴隷ジルパをヤコブの妻とし、二人の子を儲けたのです。この後、レア自身もヤコブとの間に新しく三人の子を儲け、いよいよラケルは追い詰められたような思いだったでしょう。そんな時、主の介入がありました。「神はラケルに心を留められた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。」今から3000年以上も前の書物を現代にそのまま適応はできないのですが、確かなのは、主がラケルをあわれんでヨセフが与えられたことです。「これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる主による…」ゆえなき恵み…ここが聖書の難しさであり、私たちにとっての慰めなのです。
2月第三主日、今朝の礼拝メッセージはルカ19:28から、イエスさまがいよいよエルサレムに入城されるところからでした。人々はこの方こそイスラエルをローマの圧政から解放する新しい王として歓迎しましたが、イエスさまは戦いを象徴する馬ではなく、平和を象徴する子ロバに乗って来られたのです。人々の喜びの歓声とは正反対に、イエスさまはエルサレムをご覧になると涙を流されました。人の見るところと主の御心は大きく違っていることを思いました。エルサレムはイエスさまにとって十字架の死を成し遂げる場所です。イエスさまは私たちに先立って苦難の道を歩まれました。でも、その道こそが神の栄光を受けられる道でもあったのです。まさに十字架なくして王冠なし、苦難なくして栄光なしです。「主がお入り用なのです」は、自分が献身した時の気持ちを思い出す御言葉です。イエスさまをお乗せした子ロバのように、主のご用に喜んで仕えていきたいと思います。
2月第三水曜祈祷会は申命記27章~。モーセは約束の地に入るイスラエルの民に、大きな石を立て…それらの上に、このみおしえのすべての言葉を書き記しなさいと命じました。それは、神のことばをだれの目にも明らかにし、いつまでも聞き従い続けるためでした。今、私たちは印刷された聖書を手にし、いつでもどこでも、母国語で、神のことばを読むことができるのは有り難いことです。まだ聖書を読んだことがない方、長い間聖書をどこかにしまっておいた方は、ぜひ手に取って読んで頂きたいと思います。また、家族や知人にクリスチャンがいる方は、聖書に何が書いてあるのか質問してみてはいかがでしょう。「あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。それは、墨によってではなく、生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。」皆さまの心にも神のことばが書き記されますように…。
教会のデボーションは申命記26章から。イスラエルの民が神の恵みによって約束の地に導き入れられた際の、主の御前に献げるべき礼拝について記されています。「あなたの神、主が与えようとしておられる地から収穫する、大地のすべての実りの初物の一部を取って、かごに入れ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ばれる場所へ行かなければならない。」荒野の40年間、彼らは神から賜るマナによって養われてきましたが、約束の地では周囲の人々と同じように農作物を育てて生活をしていきます。荒野では主なる神に支えられ生かされていることがだれの目にも明らかだったのに、約束の地では自分たちの労働と大地の実りによって生きているという錯覚に陥る誘惑がありました。そんな彼らにとって、礼拝で初物の一部を献げることは自分たちの生活が神の恵みの中で守られ、支えられている事実を告白することだったのです。今日の教会も同じだなと思わされました。
2月第二主日、今日は朝から小雨が降っていましたが、なんとなく冬の寒さも和らいだように感じる一日でした。礼拝メッセージはルカ19:11-27〜、ある身分の高い人が王位を受けるために遠い国に旅立つ際に、十人のしもべを呼んで一ミナずつをあずけていった…というイエスさまのたとえ話しです。「身分の高い人」はイエスさまのお姿を示し、「一ミナ」は私たちへの賜物を表していました。ザアカイの回心後にこの話しが語られたのは、彼のように救われた人に神がどんな願いを持っているかを教えるためです。「よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。」神は私たちが何か大きな成果を上げることよりも、小さなことに忠実であることをほめられます。そして、神は新たに大きな霊的な使命をお任せになるのです。人から尊敬される人はいますが、神に信頼される人はなお幸いな人と言えるでしょう。
ザアカイはお金持ちでしたが、人々からは嫌われ、寂しい生活を送っていました。でも、イエスさまと出会って、その愛にふれ、全く新しい人間に変えられたのです。人々から嫌われるのは誤解もあったかもしれませんが、彼自身の言動にも何か問題があったからでしょう。ザアカイも好きでこんな性格になったんじゃない…など言い分があったかもしれません。私たちもザアカイのような人と交わっていると、自分が傷ついたり、悩まされたりするので、そういう人は避けてできるだけ平均的な人とのつき合いを求めるのかもしれません。でも、イエスさまがそんなザアカイを愛されたのは、彼の中に価値を見出したからではなく、彼もアブラハムの子であると見られたからです。イエスさまはそのままのザアカイを愛され、交わりを持たれました。人を本当に立ち返らせていくのは、こうしたイエスさまの愛です。イエスさまの愛の眼差しを、私たちも祈り求めようではありませんか。
水曜祈祷会は申命記20章から。敵との戦いに臨む際の規定について。「あなたが敵と戦おうと出て行くとき、馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても、彼らを恐れてはならない。」自分より巨大な敵を前にして恐れない人などいるでしょうか。聖書全体の流れの中では、戦いは必ずしも武力によるものだけではありません。神の民である教会も、世にあっては様々な苦難が立ちはだかります。その最たるものは罪と死の問題です。これは私たち人間の力ではどうあがいても勝ち目はありません。でも、聖書はこう告げます。「弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがたの神、主があなたがたとともに行って、あなたがたのために敵と戦い、あなたがたに勝利を得させてくださるからである。」そして今日も、「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」と言われる方がともにおられる幸いを思います。
教会のデボーションは申命記18章から。ここには祭司、偶像礼拝の禁止、預言者について記されています。イスラエルの民が約束の地に入って後、整えられていくために一つ一つ重要な事柄です。祭司は「主の御名によって奉仕に立つ」と言われています。その中心の働きは祈りと御言葉の説き明かしです。それは、今日の牧師の働きにも通じるものだと思うと身の引き締まる思いがしました。9節からは「異邦の民の忌み嫌うべき習わしにまねてはならない」とあります。神のことばを求めず、卜者や占い師のことば、また、神以外のものを頼りにする…こうした問題は現代の私たちも気をつけなければなりません。今日は宣教区の牧師会がオンラインであり、長時間の会議でしたが、同労の先生方との交わりとお証しに励まされました。コロナ禍にあって各教会とも厳しい現実の中を通らされていますが、神の目には『神の国』は確実に完成に向かって近づいていることを思いました。
頬に当たる風は冷たいですが、暖かな春を予感させる陽射しが差し込む教会で、2月の第一主日礼拝を献げました。メッセージはルカ19:1~取税人のかしら『ザアカイ』の救いから。取税人はユダヤ人からは罪人の代表のように言われていました。恐らくザアカイは町で最も嫌われていた人物だったのでは。そんなザアカイのもとにイエスさまはまっすぐにきてくださった…しかも、神にも人にも見離されたような自分の家に客となって泊まってくださると言われたのです。「今日、われ汝の家に宿るべし」それは、神の計画の中で、わたしはあなたを捜して救うために来たのだということです。ザアカイはイエスさまとの交わりの中で人生の方向転換をし、新しいやり直しの人生を見出していきました。私たちはみな、たまたま神を信じ、クリスチャンとなったのではありません。このザアカイの救いのように一人ひとりにイエスさまとのドラマがあることを聖書は教えているのです。
2月第一水曜祈祷会、教会のデボーションは申命記13章から。約束の地で神の民が守るべき詳細な掟と定めが続きます。預言者や夢見る者が現れ、「さあ、あなたがたが知らなかったほかの神々に従い、これに仕えよう。」と言っても彼らのことばに聞き従ってはならない、あなたがたの神、主に従って歩み、主を恐れなければならないと教えています。今日でも、そうした者たちのことばは様々な形に姿を変えて、主が歩めと命じた道から、私たちを迷わせようと近づいてきます。何が真実で何が偽りなのか、善悪の判断が見極めにくい時代です。コロナの情報に関しても、政府の見解も曖昧でまだしばらくはこの状態が続くとのこと…専門家の意見もみな違います。「この苦しみの時に、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から導き出された。」この苦しみの時に、主を見失うという誘惑に陥らないように…目を覚まして、いつも主の御声に聴き従っていきたいと思います。
1月第五主日礼拝、今日も暖かな陽射しが差し込む会堂で礼拝を献げました。コロナの感染が拡大する中なので、時間を短縮し、感染予防もしっかり行った上での礼拝でした。今年の年間聖句Ⅰテサロニケ5:16‐18「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」ここから、喜びに溢れる教会、祈りつつ歩む教会、感謝に満ちた教会の3つのことを心に留めました。いつも…絶えず…すべてのことを…なかなかそうは思えないのが私たちですが、多くの苦難に絶えず遭遇してきたパウロの言葉だからこそ現実味があります。そして、それは私たちの努力によるものではなく、キリスト・イエスにあって可能となるのです。今日は長年教会に来ていたご家族が引っ越し前の挨拶をしてくれました。送り出す寂しさもありますが、どこに行っても同じ神の家族であることを感謝します。
オミクロン株の感染拡大が止まりません。今日の全国の新規感染者は78,931人、重症者は537人、前週比は1.92倍でした。この状況から、英会話クラスはオンラインで行うことにしました。今後も感染者の増加は続きそうですが、前のデルタ株の時と比べると重症者や死亡者数が圧倒的に少ないことも、オミクロン株の特徴です。もはや普通の風邪と変わらないという見方もあります。確かに感染者数には連日驚かされますが、果たして今日からのまん延防止措置もどこまで効果があるのか…むしろ、それによる飲食店などへの弊害が心配です。何が正解で不正解なのか分かりにくい時代…そうした中で今日のニュースでは新たな変異株の話しもあり、また今度の日曜礼拝はどうなりそうですか…と切実な思いをメールでくださった方もいました。そうしたお気持ちも受け取って、祈りつつ判断したいと思います。主が私たちに求めておられることは何か…お祈りいただければ幸いです。
今年最初の旧約聖書を学ぶ会がありました。創世記29章~ヤコブは旅の途中で、ハランの羊飼いたちと出会い、しかも彼らはリベカの兄ラバンをよく知っている者たちでした。そこへラバンの娘ラケルも現われ、ヤコブは運命的な出会いをします。彼はやがて叔父ラバンの家に連れて行かれ、事の次第をすべて話しました。自分がどうしてここに来たのか、兄エサウを騙したこと、孤独な旅の途中で主の約束にあずかり、その臨在にふれたこと、ラケルと出会ったことなど…。時も場所も、すべてのことが主の摂理の中で導かれていたことを感じたことでしょう。そこからヤコブは叔父ラバンに騙されて、姉レアと結婚させられ、七年仕えることになり、さらに妹ラケルと結婚するためにもう七年仕えることになったのです。箴言26:27「穴を掘る者は、自分がその穴に陥り」ヤコブは身をもって騙される者の思いを理解したでしょう。こうしてヤコブへの主の訓練が始まっていくのです。
1月第四主日、外は冷たい雨が降っていましたが、教会は恵みに溢れる一日でした。今日は茨木聖書教会の笠川路人師をお迎えして、Ⅰペテロ1:3から『喜びの源泉』というテーマでメッセージを取り次いでいただきました。3回のメッセージをいずれも力強く、クリスチャンがあずかっている素晴らしい恵みについて語って頂きました。今日の礼拝メッセージはYouTubeでもご視聴いただけます。箕面めぐみ聖書教会は笠川師のお父さんの牧会時代に開拓が始まり、その頃のお話しなども伺うことができて感謝でした。コロナ禍なので、教会でゆっくり交わりを持つことはできませんが、今日も神の家族がともに集まって、心一つに新たな一週間を歩み出せることを感謝いたします。2022年の年間テーマソングも完成し、今日から礼拝で歌い始めました。『喜び・祈り・感謝』はクリスチャンの幸いな信仰生活の基本です。皆さまも口ずさんでいただいて、賛美して頂けましたら幸いです。
ついに全国の一日の感染者数は五万人を超え、重症者数も四カ月ぶりに400人台まで上りました。この状況について役員会でも話し合い、明日からの主日礼拝ではさらに時間短縮を心がけ、賛美も少なくし、礼拝後も速やかな退出を呼びかけることを決めました。礼拝に来られる皆さまにもこれまで以上に感染予防の徹底にご協力いただきますようお願い致します。今日のデボーションは申命記5章からでした。約束の地を目前にして、モーセはイスラエルの民を呼び集め、こう告げました。「主はこの契約を私たちの先祖と結ばれたのではなく、今日ここに生きている私たち一人ひとりと結ばれたのである。」時代や場所は変わっても、主の約束は変わらない。私たちの主はまさに今も生きておられる方です。様々な情報やニュースがありますが、私たちがまず聴かなくてはならないのは、この主のみことばです。明日の礼拝も主の栄光が現される時となりますようにお祈りしています。
1月第三水曜祈祷会、今日も青空が広がる一日でしたが、新型コロナの一日の感染者数は過去最大の4万人を突破しました。オミクロン株は重症者数も少ないし、症状も軽いということで、かかっても気にしないという方も多いようですが、感染を抑えるための心ある行動が求められます。祈祷会も『自分は濃厚接触者かもしれないので…』とあえて自粛される方もいました。教会はマスク着用はもちろんのこと、隣人との間隔をあける、小まめな換気、空気清浄機や加湿器の稼働、賛美も最小限に…とできる限りの予防を心がけていますが、今後の状況によってはさらなる対策が必要かもしれません。「まことに、私たちの神、主は私たちが呼び求めるとき、いつも近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民がどこにあるだろうか。」神のことばは真実です。世の人たちはそんなことしても…と思うかもしれませんが、このような時こそ静まって祈る、祈祷会の大切さを思いました。
1月第三主日、今日からまた三回に分わけての礼拝が始まりました。ルカ18章35節~、イエスさまが盲人の目を開かれるところから。彼はイエスさまが自分の前をお通りになると聞いて、思わず「ダビデの子のイエス様。私憐れんでください。」と叫びました。その切なる願いはイエスさまに届き、正直な告白をして、イエスさまから「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」と告げられました。こうして彼は神をあがめながら、イエスさまに従う者に変えられたのです。この出来事から、肉体的な目の癒しもさることながら、イエスさまに対する心の目が開かれて、新しい人生を歩み出すことの大切さを思わされました。礼拝後のグループタイムも、いつもより人数は少なめでしたが、分かち合いが持てたことは感謝です。目に見えるところは穏やかな一日ですが…コロナの感染者数が急拡大しています。今週も主の憐れみを祈りつつ、歩ませて頂きたいと思います。
新型コロナウィルスの感染者数が急拡大し、大阪でも2,452人(一週間前は505人)、国内の新規感染者も昨年9月以来の18,000人超えとなりました。来週には東京だけでも9,000人超えが見込まれているので、大阪でも相当な人数が予想されます。重症者数が少ないとは言え、今は幼い子どもたちにも感染が広がり、高齢者や基礎疾患がある方にとっては全く油断できない状態です。そんな中ではありますが、今日から2022年のハートフル英会話・冬期コースが始まりました。一クラス6人を超えることはないので、基本的なマスク着用、自宅での検温、手指消毒に加え、小まめな換気や空気洗浄機など、できるかぎりの予防に努めていますが、今後のことは社会状況に応じて…ということになりそうです。とにかくここまで無事に守られてきたことを心から主に感謝して、これからも気を引き締めて講師の先生、受講生の方々の健康とご家族の平安のためにお祈りしていきたいと思います。
朝から小雪交じりの中、今年最初の水曜祈祷会でした。Ⅰテモテ6:1~、パウロは愛弟子テモテに、教会の諸問題にどう対処したらいいかを教えました。誤りを教える者たちは、高慢で、何一つ悟らない、論争をしたがる病にかかっている、しかも敬虔を利得の手段と考える者たちでした。でも、満ち足りた心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道、神の人よ、あなたは金銭を愛することを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさいと教えたのです。そして「信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。」目に見える物質的なものをいくら追い求めても、最終的に満ち足りた心には至りません。大事なのは、転んでも倒されても、主にあって立ち返り、信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠のいのちを獲得することです。ちょっと車で出かけるとそこは雪景色…。寒いわけでした。
1月第二主日、ここ数日のオミクロン株による感染急拡大を受け、大阪府でも警戒を示す黄色信号が点灯しました。年末年始でようやく沈静化してきたところでしたが…医療機関、社会、経済、受験生…各方面への影響が懸念されます。今後も感染者数は増加し、心騒がされることもあるかもしれませんが、あらためて冷静な行動と基本的な感染対策に徹していきたいものです。危機の時こそ、初心に帰る。それは、私たちの信仰生活も通じるところです。今日の礼拝ではルカ18:15から「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」ここから、子どものように神を信頼して歩むこと、ただキリストのことばに従って歩むこと、人にはできないことも神にはできることを心に留めました。子どものように…いつの時代も、すべてのキリスト者にとって初心とも言える大切なメッセージです。神の一方的な愛の中を歩めることを感謝いたします。
Ⅰテモテ2章から。パウロは直弟子のテモテに「私は何よりもまず勧めます。すべての人のために…願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。」と記しました。エペソでの牧会に行き詰り、やや視野が狭くなっていたテモテは、今一度自分の使命を思い出したのではないでしょうか。私たちも何かの問題にぶつかり、そのことに執着しすぎて周りが見えなくなってしまうことがあるかもしれません。状況が改善されなければ、祈っているのになぜ神は…と不満を抱え、祈りの手を下げてしまうこともあるでしょう。すべての人のために祈る理由は、神はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられるからです。もちろん、福音を聞いても受け入れない方もいるでしょう。でも、この大事な使命をクリスチャンは常に忘れずに、自分も誰かに祈られていることを思い出したいものです。そして他ならぬイエスさまのとりなしがあることを支えにしていきたいものです。
教会のデボーションはⅠテモテ1:1から。この手紙は使徒パウロがエペソで牧会しているテモテに宛てた手紙です。テモテは若くて評判が良く、忠実な献身者でしたが、今は牧会の困難に直面していました。パウロは霊的な父、また同労者として、そんな彼を励ますために手紙を書いたのです。「私たちの救い主である神と、私たちの望みであるキリスト・イエスの命令によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、信仰による、真のわが子テモテへ。」冒頭のあいさつには、私たちの救い主である神、私たちの望みの主という重要な言葉があります。私たちはこの方によって生かされ、用いられていることを確認する言葉です。そして、パウロが「私たち」という言葉を繰り返すことに、テモテとしては離れていても信仰のつながりを心強く感じたでしょう。私も今年17年目の働きとなりますが、まだまだです。ただ、父親の袢纏がだいぶしっくりくる年齢になってきました。
2022年最初の主日礼拝をささげました。ルカ18:1から『神に聞かれる祈り』をテーマにメッセージを聴きました。「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために、イエスは弟子たちにたとえを話された。」イエスさまの旅路はいよいよエルサレム、そのクライマックスである十字架の時が近づいていました。それは弟子たちにとってもかつてない試練の時です。イエスさまはそんな彼らのことを案じて祈りの重要性とともに、誘惑があることを教えられたのです。私たちも祈っても何も状況が変わらず、まるで空を打つように感じることがあります。そんな時、だれもが気落ちし、失望し、勇気を失っていきます。でも、だからこそイエスさまの言葉を心に覚えておきたいものです。主は常に私たちの祈りを聞いておられるばかりか、速やかに答えてくださるからです。年頭の主日に心強いみことばをいただきました。今年一年、この祈りの力を体験していきましょう。
あけましておめでとうございます。一年の最初の日は美しい朝日とともに始まりました。今朝の元旦礼拝には、いつもの神の家族に加えて懐かしい方や久しぶりの方も大勢の方が来会され、喜びと感謝をもってともに主の御名を賛美しました。メッセージは玉井邦美師が動画で詩篇73:25,26からとりついでくださいました。「あなたのほかに、天では、私にだれがいるでしょう。地では、私はだれをも望みません。」新たなる信仰生活を始めるに当たって、まことに大切な心に響くメッセージでした。そこから、天にも地にも望むべき方は神のみであること、人生に完全な満足を与えてくださるのは神のみであることを心に留めました(動画をご視聴された方は音声に乱れがあって、申し訳ありませんでした)。今年も箕面めぐみ聖書教会は、キリストがすべてのすべてであり、この方を私たちの人生の揺るがない心の岩として歩んでいきたいと思います。どうぞ宜しくお願い致します。
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