7月も最後の日、オオクワも成虫になっていよいよ顔を見せてくれました。さて、曇り空かと思えば急な雷雨(この地域も一時停電に)、その後は青空と。目まぐるしいお天気の中、いつも以上にゆっくりな『梅雨明け』となりました。午後は、KFSMの同志でもある金子牧師が光の子どもクリスチャンスクールの紹介に立ち寄ってくれました。プロテスタント・キリスト教会の付属で、これだけの規模の学校を建てるなんてすごいです。そして、一番感動したのは信仰継承の思い。小・中・高とキリスト教精神によって培われた子どもたちが教会に定着している割合が高いというのも素晴らしい証しです。多くの教会、また、クリスチャンでない方々にも知っていただきたい学校です。最近はコロナの感染者数は連日のように、大阪216人、全国でも1500人を超える過去最高人数が続いています。この数字もすぐに超えていくのでしょう。教会も今まで以上に慎重な対応が必要です。
4月から始まったハートフル英会話春期コースは、新型コロナウィルスの影響もあって時間を変更して開講したり、途中オンラインになったりと、受講生の方々には大変ご迷惑をおかけしました。8月も第二週までの予定でしたが、このところの感染拡大を鑑みて、今日で春期コースを終了しました。最後のクラスは、レイチェル先生のご主人も来てくださって、スペシャルなチャペルタイムとなりました。夕方からのホゼア先生のKidsクラスも、子どもたちの大きな声が二階まで聞こえてきましたが…やはりどこかコロナ禍における心配があるのでしょう。夏休みに出かけられない…宿題が多い…つまらない…といつもの飛び跳ねるような元気がないように感じました。そして今日も全国の感染者数は1300人という過去最多。「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。」経済も本当に大変な中ですが、コロナによる人々の不安やストレスも限界まで来ているような気がします。
今日は新型コロナの感染者が国内初の一日1200人を突破、大阪でも221人という過去最大の人数となり、いよいよ不安と緊張感が高まってきました。また、九州に続いて山形でも記録的な大雨が降り、最上川が氾濫してしまい、甚大な被害がでました。Go to…やアベノマスク再発注もいいですが…コロナ禍における災害支援の対策をもっと具体的に考えた方がいいのでは…と思ってしまいます。そんな中、今日の水曜祈祷会はルカ12:35~再臨がいつ来てもいいように「目を覚ましていなさい」というところでした。あなたは主人の帰りを待つ忠実なしもべですか。そう問われて『自分は常に大丈夫です』と言える人がいるでしょうか。むしろ、自分が主のしもべであることさえ忘れてしまっているとか…。明日、主が再臨されるとしたら…あらためて自分は備えができているだろうかと考えさせられました。「あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのです。」
今日は午前中に旧約聖書の学び会の録画をして(不具合もあって途中までになりました。失礼しました💦)、あわてて神戸のラジオ局へ。先日、森祐理さんから直接お電話をいただき 『関西キリスト災害ネットワークの働きを紹介してください』と依頼がありました。森さん自身、25年前の阪神淡路大震災で弟さんを亡くされて、それ以後ずっとさまざまな被災地支援を続けてこられ方です。ほとんど初めまして…でしたが、こちらの緊張を察して、心を温かくしてくださるようなやわらかい語り口に本当に癒されました。収録もなんとか無事に終わって、その後も時間を取ってくださって災害支援に関する具体的な示唆を分かち合ってくださり、今後も関キ災への協力を惜しみませんと力強い励ましまでいただいて帰ってきました。私たちの放送は8月6日、ラジオ関西558『モリユリのこころのメロディ」毎週木曜日9:30pm~です。緊張しましたが、いい経験をさせていただきました。
7月第四主日、今朝もいつものように教会に集まれることを感謝しつつ、礼拝を捧げました。礼拝メッセージは使徒の働き9章から「サウロの回心」をテーマに学びました。もともとキリスト教の迫害者だったサウロが、どのようにキリスト教史最大の伝道者パウロへと変えられていったのか。神の不思議な導きは、サウロがステパノの殉教の死に立ち会うところから、あるいは、律法学者ガマリエルのもとで熱心にユダヤ教を学ぶ頃から、さらにもっと前から始まっていたことを思いました。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。…神のなさることはすべて時にかなって美しい。」振り返ってみれば一つ一つに神の導きがあります。だれもが人生のターニングポイントを経験するわけですが、そこでどう考え、どう行動し、どう決断するかで、その後の人生が大きく変わるのです。神を知り、神と出会い、神とともに歩む幸いを思わされました。
今日のディボーションはルカ11:27~。イエスが群衆に向かって話していると、ある女が言いました。「あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は幸いです。」つまり、彼女はイエスご自身を、また、イエスを生んだ母マリヤをたたえたのです。しかし、そこでイエスが言われたのは「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」でした。時々、『牧師さんはいいですね。こういうコロナの中でも穏やかでいられるんでしょう』と言われることが…。そんなことは全然ないのですが💦そう見られているとしたら気をつけなくては。自分がクリスチャンであることは、クリスチャンではないの方の目にはどう映っているのか。また、一方で、『クリスチャンなのになぜ…」と言われないように、こういう時こそ言動が問われるもの。体裁だけ整えるのは自己満足、『神のことばを聞いて、守る(従う)こと』それが人間にとって最も価値あることだと教えられました。
今日から四連休ですが、誰もがその数字に驚く一日でした。新型コロナの感染者が今日だけで981人。東京だけで366人も驚きですが、大阪をはじめ各地で最多の人数が確認されました。この数がまだ増えることを思うと、教会に集まることを再び自粛する教会があるのも当然の判断です。神を信じる者にとって、このコロナ禍が収束することを祈らない日はありません。聖書には「求めなさい。そうすれば与えられます。」とあります。神がおられるなら、なぜこうした事態が続くのか…。ついそんな思いが頭をもたげてきそうになりますが、神のなさることに意味のないことはありません。ならば、御心を求める祈りをしていきたいものです。過去の歴史を振り返っても、苦難の中でどれだけ多くの人が救いにあずかってきたことでしょう。孤独な人はさらに孤独になりやすいこのコロナ禍、教会は宣教の旗を上げて、一人でも多くの救われる魂が起こされるように祈り求めています。
今日の水曜祈祷会はルカ11:1~。イエスさまが『祈り』について教えられたところからでした。「父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。」祈りは神を父と呼ぶことから始まります。それは特別な関係性を表す言葉。しかもどこか遠くにおられる方としてではなく、すぐ目の前にいてくださるかのようにはっきりと相手を意識した祈りです。「御名」とは神ご自身を表し、他の何ものとも区別されるべきお名前です。「御国」とは神のご支配を表し、信仰者たちを通してそれがこの世に表されていくようにという祈りです。「私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みあわせないでください。」私たちの肉体的な必要と霊的な必要を求める祈り…それを助けてくださるのは「聖霊」です。主イエスが教えられた祈りに、私たちへの深い愛を感じさせられました。
いつも気になりながら、今日しかないと思い…午後から教会のお墓の草刈りに。教会から車で40分ほどのところにあるのですが、まだ教会員がだれも納められていないこともあって、なかなか足が遠のいています💦今回は雨も多かったので、草も随分伸びていました。クリスチャンはお墓参りというものはしないのですか…と聞かれることがありますが、お掃除や祈るために個人で来られるのは全く構いません。教会では時期を定めて墓前礼拝を行うところも多いのではないでしょうか。クリスチャンにとってお墓は記念碑としての意味だけでなく、終わりの日の『からだのよみがえり』を信じ、そこで神さまを覚え、感謝を捧げる場所でもあります。「この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。」たっぷり汗をかきながら、もっとお墓を大事にしなくては…と自戒を込めて綺麗にさせて頂きました。
7月20日は今から51年前にアポロ11号が人類初の月面着陸をした日です。アームストロング船長は『これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。』と言いました。宣教の主は「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」と言って、弟子たちを遣わされました。今日でも、キリスト教に関心を持つ方はある程度いるでしょう。そこで語る十字架の言葉は、知恵ある者、賢い者、滅びる者には愚かに見えるでしょう。神が人となってこの世に来られ、私たちの身代わりに十字架にかかって死んでくださった、この方は三日目によみがえり、今も生きておられ、この方を信じる者は永遠のいのちにあずかる。宣教はある人にとっては小さな一歩かもしれないが、福音宣教にとっては大きな躍進となることもあるのです。救われる人は多い、問題は働き手が少ないことです。
7月第三主日、礼拝では使徒の働き8:26~エチオピア人の宦官の救いの場面を読みました。信仰と聖霊に満ちたピリポが御霊に導かれ、エルサレム巡礼の帰途にある宦官と出会い、個人伝道が始まりました。ピリポは彼が読んでいたイザヤ書53章から始めて、福音そのものであるイエスについて説き明かしました。人生は出会いで決まる。誰と出会い、何と出会うか…一つの出会いがその後の人生を大きく左右することもあります。また、人生は刺繍のようなもの。刺繍は裏側からだけ見ると、時にどうしてこんなところを通るのか…と思うものですが、表側(神の側)から見ればきれいなデザインが描かれているのです。「神を愛する人たち、すなわち神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益することを、私たちは知っています。」山あり谷ありの人生の中で、一つ一つの出会いが私たちの救いのための神の賜物であることを思わされました。
昨日は大阪も何日かぶりの青空が見えましたが、コロナの感染者も61人と増えて心配になってきました。東京に関しては感染者が293人という過去最高の人数となり、旅行需要喚起策の『Go to トラベル』も急遽東京を除外するなど大変な混乱が生じています。旅行会社も切羽詰まった状況だと思いますが、背に腹は代えられません。経済をとるか、感染予防をとるか。難しい問題です。母も東京で一人暮らしですが、近所に感染された方もいて、コロナの猛威をかなり身近に感じるとのこと…。一方で、今回の九州南部を襲った豪雨は岐阜や長野でも甚大な水害をもたらしました。こんな状態では各地域の県外からのボランティアの受け入れは相当先になりそうです。大阪も早くも30度を超え、梅雨が明けるとさらに暑さが増し、今度は熱中症が心配されています。まさに踏んだり蹴ったりの状況…。教会も共に集まることも大事ですが、感染予防に対してより一層の注意が必要です。
今日の水曜祈祷会はⅡ列王記16章から。ユダの王アハズは、アラムの王レツィンとイスラエルの王ペカの連合軍の侵略を恐れて、アッシリヤの王ティグラト・ピレセルのところに助けを求めました。預言者イザヤは神のことばをアハズに伝えました。「気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない。…心弱らせてはならない。」アラムもイスラエルも木切れの燃えさしに過ぎない、あなたがたは信じなければ堅くことはできない。あなたの神、主に、しるしを求めなさいと警告がありました。にも拘らず、アハズは人を恐れて人に助けを求めたのです。それで一時しのぎはできましたが、結局、アッシリヤに苦しめられる結果となりました。助けを与える神が幾度となく手を伸ばしておられるににそれを拒む愚かさ…。より頼むべき相手を間違えてしまった末路でした。順風ではなく、逆境の時こそ信仰の真価が問われるものです。私たちが恐れているのは何でしょうか。
大阪は今週もまた雨とのこと…。梅雨前線の停滞によって、島根県、広島県、岐阜県、長野県でも水害や土砂災害が頻発しています。もちろん九州地方も熊本を中心に甚大な被害を受け、今も非常に厳しい状況が続き、ボランティアの受け入れもなかなか進まないとのことです。人出がないので片付けが進まない…20分でもいいから手伝って…というSOSがあちこちで出ています。物資に関してはだいぶ間に合ってきているそうですが、とにかく『若者の手が足りない』とのこと。今回はコロナ禍における災害ということもあって、行政などではボランティアの受け入れは県内だけに制限され、新型コロナの感染拡大にも注意を払わなくてはなりません。今日も午前中は全国キリスト災害ネット、午後から九州キリスト災害ネット、夜は関西キリスト災害ネット…とzoomでの会議が続きます。今後の復興支援について、神さまからの知恵と一致が与えられるように心からお祈りしています。
7月第二礼拝、降り続いた雨も止んで…今朝は穏やかな天気となりました。使徒の働き7章から、ステパノが殉教の死を遂げる場面を読みました。初代教会において、ステパノは恵みと力に満ち、人々の間で大いなる不思議としるしを行っていましたが、それを快く思わない者たちから偽りの訴えを受け、最高法院に引き出されました。人々の迫害と憎悪に囲まれながらも、ステパノは聖霊に満たされ、天を見つめていましたが、ついに町の外に連れ出され、人々の石打ちによって最期を遂げました。「『主イエスよ、私の霊をお受けください。…主よ、この罪を彼らに負わせないでください。』こう言って、彼は眠りについた。」最後に彼がひざまずいて祈ったのは、自分自身に向けたものと、自分を迫害する者たちのためのとりなしでした。理不尽な世を、最後の最後までキリストの模範に従い、キリストの弟子として生き抜いたステパノのことをいつも忘れないでいたいと思います。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。」今日も、あらためて『神の時』を思う一日となりました。午前中にある方のお母さまのお見舞いに行かせていただきました。10分だけ…という施設の許可をいただいて少しお話しさせていただいた後、ご本人の信仰を確認して病床洗礼を行いました。ご高齢ではありましたが、とてもきれいなお顔をされていたのが印象的でした。短い時間でしたが、病室にはワーシップソングが流れ、主が特別な美しい時間を備えてくださったことを思いました。夜になって…『母は平安のうちに天国へ旅立ちました。…母の人生はたくさんの神さまからの祝福がありました。』と連絡がありました。本当に素晴らしいご家族と、今もその信仰が受け継がれていることが、彼女の何よりの証しですね。そんな特別な神の時に立ち会わせていただけたことを心から感謝しました。牧師として…この日も忘れません。
昨日は午前中に、昔からお世話になった方の葬儀式がありました。キリスト教の信仰はお持ちではありませんでしたが、娘がクリスチャンということでしばしば教会を訪ねてくださいました。初めて教会に来てくださった時から約12年…。家族思いの愛情深いお父さんでしたから、娘が突然『キリスト教の洗礼を受けたい』と言ったときはさぞかし驚かれたことでしょう。それでも彼女の純粋な気持ちを受けとめてくださって、洗礼式にもご両親で来てくださいました。それから結婚式も、お孫さんの誕生の時にも…とても嬉しそうにされていたのを思い出します。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。」昨日からの雨でお天気が心配でしたが、葬儀が終わる三時頃までは青空も見えるほど守られました。今は何よりもご遺族の上に主の慰めと平安をお祈りいたします。帰ってからは子ども礼拝の録画、夜の祈祷会…とこちらもよい時がもてました。
九州地方の豪雨は熊本、大分、福岡にまで被害が拡大し、死者も57名、三県で約29万人に避難指示が出ました。停滞する梅雨前線は今しばらく続き、明日以降も厳重な警戒が呼びかけられています。50年に一度の降水量とのことですが、もはやこうした局地的な水害は毎年のように日本のどこかで発生しています。コロナ禍における災害支援は感染症の心配もあり、県外からのボランティアもすぐにはかけつけられません。現地では今どのような支援が必要されているのか…物資なのか、義援金なのか、人出なのか、その見極めが大切です。新型コロナウィルスの感染も、東京は6日連続で100人以上、大阪も10人以上が続いています。こうした状況に再び日曜日に集まることを自粛する教会も出てきました。今後はさらに別の感染症や、酷暑、台風などの自然災害も考えておかなければなりません。どうしてこんなことが…ではなく、大変な時代になっている意識を持っていたいものです。
梅雨前線の停滞によって鹿児島・熊本県を中心に大雨が続き、球磨川の決壊、各地で浸水被害、土砂崩れの発生など大規模災害となっています。今日まですでに49名が亡くなり、行方不明も多数、60の集落が孤立し、130万人に避難指示が出ました。雨は明日以降も降り続く危険な状態、避難所もコロナの心配があるため、ボランティアの受け入れも難しいとのこと。九州キリスト災害ネットワークも現地にスタッフを派遣し、明日もonlineによる会議を行い、今後の支援について話し合われます。私自身は、昨夜召された方のご葬儀の準備で出れそうにありませんが、なんとか一人でも多くの命が助けられるように祈ります。こんな大変な状況にも拘わらず、教会には今日も異端の宗教団体から電話があり、『…世の終わりが近づいています』とのこと。こんな時に不安を煽るなんて…。一般信者の方でしたので悪気はないのでしょうが、なんともモヤモヤした気持ちになりました。
7月第一主日、礼拝メッセージは使徒の働き5:12~。人生に苦難はつきものです。それは分かっていても、いざ何かが起こると『なぜこんな辛い目に…」と思ってしまうものです。それはクリスチャンも同じ。初代教会の使徒たちも福音を宣べ伝えたゆえに様々な苦難に遭いました。それでも彼らが心折れずに宣教を続けた理由は何だったのでしょう。それは苦難の時こそ、転換期の時こそ、心を一つにして集まっていたからであり、苦難を恐れずに使命に立ったからであり、聖霊とともに真理を語っていたからです。そういう彼らにも度重なる迫害の中で窮することもあったでしょう。「ところが、夜、主の使いが牢の戸を開け、彼らを連れ出し…」神はこの『ところが…』という思いも寄らない脱出の道を、彼らに与えられたのです。「様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。」試練なくして、成長なし。苦難なくして、勝利なし。神の愛の奥深さを思います。
新型コロナウィルスの影響で、礼拝に集まることを自粛中の教会もあれば、信仰があれば何も恐がらなくていいと自信たっぷりの教会もある中、国内感染者は東京が107人、全国で196人と解除後の最多を更新しました。これでも第二波ではないそうですが、じわじわと数字が上がってきているのが気になります。こうした中、中小企業を中心に世代交代がどんどん進んでいるとのこと。急激な社会の変化についていけない先輩経営者たちが、やる気に溢れる若い世代にバトンタッチしているそうです。「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れます。そうすれば両方とも保てます。」教会も…コロナ禍の時代を歩む中で、ある面でパラダイムシフトが必要なのかもしれません。伝統や常識に固執せず、変えてはならないものと変えてもいいものを見極めながら、柔軟な発想が必要なのでしょう。単なる冒険的な信仰ではなく、新しいぶどう酒を入れる新しい皮袋の信仰を祈り求めています。
今日の水曜祈祷会はⅡ列王記6:24~。サマリヤは、大飢饉が起こる中、アラム軍によって完全に包囲され、深刻な食糧難に陥っていました。それは女たちが自分の子どもを煮て食べようとするほど…想像を絶する極限状態でした。ある女の訴えに、王は思わず「主があなたを救わないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができるだろうか。」と、まるでこの状況は神の責任だというような返事をしています。王の口から『主よ、どうか民をお救いください』という言葉はありません。それどころか、この責任を神の人エリシャへと向けて「これは主からのわざわいだ。これ以上、私は何を主に期待しなければならないのか。」と、こんなにひどい仕打ちを受けて、その神に期待などできるかという感じです。詩篇62:8「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。」この国難の中で慌てふためく王とは違い、「自分の家に座って」主を信頼し続けるエリシャの姿が印象的でした。
今日は午後から昨年11月に発足したキリスト全国災害ネットの第一回会合がありました。新型コロナウィルスの影響で、onlineによるzoomでの会議となりましたが、全国から56名の関係者が出席されました。最初に、横田先生がエゼキエル書37章から奨励をしてくださり、今後の大規模災害に備えてこれまでの各被災地での経験を分かち合うためにも全国のキリスト教関係諸団体が繋がることの大切さをあらためて覚えました。今回はアンケート機能を使って次の世話人を決議したり、ブレイクアウトルームに分かれてグループごとに話し合い、全キ災に期待することや次の会合のテーマなど、具体的なアイディアも出されました。あっという間の4時間でしたが…やはり休憩を挟まないと疲れます。とにかく先週の関キ災でも思いましたが、各団体の災害に対する関心の高さを感じました。何も起きないことにこしたことはありませんが、しっかり考えていかねばならないことです。
2020年の折り返しは雨の一日。人類が初めて経験する新型コロナウィルスの影響で世界中の様々なものが一変しました。これまでのSARSやMERS、またインフルエンザなどと比べても身体的ダメージは低いそうですが、世界中で死者は50万人、感染者も1000万人を超える中、なおも終息には向かっておらず、第二波にも備えなくてはならない状況です…。今朝はⅡ列王記5章を読みました。主君に重んじられ、尊敬されていたナアマン将軍でしたが、ツァラアトに冒されていました。そんな彼の周りには、名前こそ記されていませんが、「(イスラエルからの)若い娘」、そして「彼(ナアマン)のしもべたち」がいました。その助け手たちの絶妙な序言によって、ナアマン将軍は心砕かれ、主の癒しを経験し、真の神を信じる者に変えられました。一人の人が救われる…そのために用いられるとしたら、これ以上に幸いなことはありません。
6月第四主日、礼拝メッセージは使徒の働き4:1~初代教会における最初の迫害の記事から。ペテロとヨハネが『美しの門』で生まれつき足の不自由な人を癒したことで人々が一斉に集まってきました。そこでペテロは、癒しの奇跡はイエスの御名によること、その方をあなたがたは十字架につけたことを雄弁に語りました。その噂を聞き付けた祭司たちや宮の守衛長たちは、すぐにペテロたちを捕らえて留置し、翌日、最高議会での審問となったのです。しかし、ユダヤの最高権威機関の議員たちを前にしても、ペテロたちは一歩も引かず大胆に福音を語りました。「この方以外にはだれによっても救いはありません。」ほんの数日前まで迫害を恐れて隠れていた同一人物とは、だれも思わなかったでしょう。聖霊に満たされて、信仰に歩む者の力強さを見ました。こうして彼らにとって迫害は良いことではありませんでしたが、それによって多くの人に福音が語られていったのです。
全国の緊急事態宣言が解除され、6月は日曜日ごとに、段階的に教会に集まることを再開しましたが、教会員の方は三回の礼拝に分散して集ってくださっています。少しずつ日常が戻っているとは言え、前とは全く違う光景が当たり前になりました。マスク着用、アルコール消毒、検温、ソーシャルディスタンス、礼拝のライブ配信、昼食の交わりがないこと…。何が正しい形なのか模索しながら、あっという間の6月でした。次の7、8月は、本格的な夏の暑さの中で、いかに三密を避けるかが課題です。教会もできる限りの工夫をして、皆さまのお越しをお待ちしています。もちろん涼しい自宅で、好きな時間に礼拝をささげるのも選択肢の一つでしょう。でも、やはり聖書は、いつの時代も一つのところに集まってささげる礼拝を励行していることも忘れずに心に留めておきたいものです。「ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」
今週は韓国系異端グループの活動が活発になっていると注意勧告がありました。実はこうした団体がまずターゲットにするのは未信者よりもクリスチャンだったりします。無作為に既成のキリスト教会に連絡を取り、牧師や信徒をセミナーなどに誘うという手法。彼らの最大の特徴は、クリスチャンは救われていない、普通の教会では救いを悟れない、救いを悟るためにはこの団体の教えを聞かなくてはならないというものです。新しい気づきを与えるような感覚を与えますが、異端にありがちの勧誘法です。日頃、自分の通う教会や牧師に何らかの不満や不信感を覚える信徒の方は、この手の誘いに便乗し易く、興味半分に近づいた結果、入信してしまったというケースもよく耳にします。総人口の30%をキリスト教徒が占める韓国には『再臨主』を名乗る人が少なくても40数名いるとのこと…。このコロナ禍も…終末をあおる彼らにとっては好機となっているのなら残念でなりません。
Ⅱ列王記1:1~、アハズヤ王は屋上の欄干から落ちて重体に陥ると、使者たちをエクロンの神バアルのもとに遣わしました。人は生死の狭間に立つ時、否が応にも、この病が治るかどうかを考えずにはいられません。そこで、ますます頑な心になる人もあれば、柔らかな心になる人もいます。背信の王アハズヤは前者でした。それでも主は、預言者エリヤを通してご自身のことばを告げました。「…エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てに行くのは、イスラエルに神がいないためか。それゆえ、主はこう言われる。あなたは上ったその寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。」繰り返し告げられる主のことばにも、アハズヤに悔い改めて真の神を求める姿は見られません。主イエスが十字架にかけられた時の二人の犯罪人もそうでした。一人は最後まで主をののしり、一人は最後の最後で主への信仰を告白しました。人生の最期に何を思うか…ここが大きな分かれ目なのです。
今日は月に一度の『旧約聖書を学ぶ会』がありました。教会に来られた方は3名、そのほかにonlineで参加してくださった方もありました。創世記9章、ノアの洪水物語のクライマックスから。神はノアたち家族を祝福し、彼らだけでなく後の子孫との間にも永遠の契約を立てられました。虹はその目に見える証しです。学びに出てくださった方の中には、なぜ神は人類を大洪水によって裁くという厳しい決断をされたのか…なぜノアたち家族は救いにあずかったのか…なぜ神は人類に「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福の言葉を語られたのか…なぜ神は永遠の契約を人間との間に立てられたのか…いろいろな『なぜ』が今回あらためて整理できましたとの感想もありました。聖書はそんな義人ノアにも泥酔という失態、親子間の問題があったことも隠さずに記していました。人生は何が起こるかわかりません。最後まで、へりくだって、神とともに歩む者(ミカ6:8)でありたいものです。
日曜日の午後は、久しぶりに青年たちと卓球大会、夜は再び集合し、ホタル観賞に行きました。前回よりも多くのホタルが見られ、風も冷たくて気持ちよかったです。さて、今日は祈り備えてきた関西キリスト災害ネットワーク・第二回懇談会でした。新型コロナウィルスの影響を鑑み、会場には7名、その他の18名の先生方がZOOMで参加してくださいました。全キ災代表の北野先生から重要な示唆をいただき、まず教会内での災害時における対応の確認、自主防災会や地域行政、社協等とも関わりをもっておくことなど、平時からのつながりや備えの大切さを教わりました。教会も地域の一部として積極的に防災・減災のために関わっていくこと、むしろ、先頭に立って地域の方々に仕えること、イエスさまの愛に倣うことが確認されました。関キ災の今後の方向性もあらためて見えてきたような気がします。ホスト役も大変ですが、それにしてもonlineミーティングは疲れますね…。
6月第三主日、父の日歓迎礼拝。雨も上がり柔らかな日差しが差し込む中、今日も子ども礼拝に始まり、三回の礼拝がささげられました。メッセージは使徒の働き3章から、『美しの門』に座っていた、生まれつき足の不自由な人が、ペテロたちと出会って癒されるところ。ペテロたちは、施しを求める彼の前をそのまま素通りすることもできましたが、「私たちを見なさい」と声をかけました。そして、こう言います。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」足の不自由な彼に本当に必要だったのは、一時的なお情けや、使えばなくなる金銀のようなものではなく、キリストにあって、自分自身の力で生きていくことでした。ペテロたちのことばを信じた彼は、たちまち歩き出し、躍り上がって、神を賛美しながら宮に入っていきました。まさに小さな愛の一歩が、大きな神の奇跡を生み出したのです。
梅雨前線の影響で西日本は昨日から今日にかけてたくさんの雨が降りました。各地で洪水警報も出ていたので心配されましたが、なんとか大きな災害には至らなかったようです。このところ夏のような晴れ間が続いたので教会の草花も少し暑すぎる…といった感じでしたが、雨上りの今日は活き活きとしているように見えました。こんなにも草花に表情があるなんて…今日は特にそれを感じました。雨が降り続けている間は外にも出られず、『この雨、いつまで降るのだろう…』と憂鬱な気持ちにもなりますが、雨が上がると空気も綺麗になった感じがして、乾いた大地を潤す恵みの雨だったことを知るのですね。「主よ、ネゲブの流れのように私たちを元どおりにしてください。涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。」私たちの心も時に、カラカラに乾いた砂漠のようになっていることがあるでしょう。涙で潤され…よく耕された心に、みことばの種が蒔かれますように。
天気予報では梅雨の晴れ間も今日までとのこと…青空が広がり、心地よい風が教会の中を通っていきました。今日は朝・夜とライブ配信の祈祷会があり、午後は久しぶりのKFSMミーティングがありました。祈祷会はルカ8:1~『種まきの譬え』を中心に、よく読む箇所ですが、不思議とそのたびに新しい発見があるところです。「聞く耳のある者は聞きなさい」今日は特に主イエスが「大声で言われた」というのが心に残りました。目の覚めるような、イエスさまの真剣さが伝わってくるような言葉でした。『種』は神のことば、『地』は私たちの心の状態。蒔かれる種は同じでも、受け取る心の状態でこんなにも違いがあることを忘れないでいたいものです。午後は久しぶりのKFSMミーティング。最初の奨励は井上先生の証しでした。中学生の長女を突然死で亡くされた先生は、神の慰めと特別なお取り扱いを受けられました。KFSMも、今秋のKidsフェスタに向けて再始動です。
ディボーションはルカ7:36~、罪深い女の赦しの記事から。不道徳な彼女が、宗教的戒律を重んじるパリサイ人の家に来るには大変な勇気が必要だったはずです。人にどう思われても構わない、イエスさまにお会いしたい…そして、自分も新しい人生を歩み出したいという思いが、彼女を突き動かしたのでしょう。パリサイ人たちは彼女の行動を批判的に見ていましたが、それとは対照的にイエスさまは優しくこう言われました。「あなたの罪は赦されています。…あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」光に照らされるほど、影もはっきり映るように、聖なる神に近づくほど、自らの罪深さ、汚れが見えてくるもの。素直にそうした自分の罪を認め、赦しを乞う者でありたいものです。今日は久しぶりの宣教区運営委員会、先生方とのお証しとお交わりに励まされました。
ディボーションはルカ7:18~、牢獄に捕らえられていたバプテスマのヨハネが主イエスに「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」と質問したところからでした。以前、あるカルト宗教の相談を受けた時にも『バプテスマのヨハネは…最後につまずいた』という話しを聞きました。主イエスが公に現われる前、荒野に立って悔い改めを叫び続けたヨハネ、領主ヘロデの罪を指摘して怒りを買い、牢に投げ入れられたヨハネ、でも最後は結局、主イエスにつまずいてしまったというのです。確かに聖書解釈としても意見の分かれるところですが、私自身は、やはり真剣さゆえに…信じたいがゆえに溢れてきたヨハネの問いに共感します。どう考えても受け入れられない現実の中で、綺麗ごとじゃなく「なぜですか」と訴える人は神の国に近い方だと、神に不平不満を訴え続ける人は、それでも全能なる神に期待し続ける人だと、私は思うのです。
6月第二主日、昨日までザーザー降りでしたが、今朝は雨足も弱まって感謝でした。『使徒の働き』の初代教会が誕生する姿から約束を待ち望む者たちの幸いを学んでいます。五旬節の祭りの日、エルサレム神殿は大勢のユダヤ人巡礼者でにぎわっていました。でも、その全員が、言わば自動的に聖霊を受けたわけではなく、イエスさまの言葉を信じて、祈り待ち望んでいた者たちの上に聖霊は注がれたのです。それは神のご計画と私たちの備えについて大切なことを教えています。私たちの教会も、信仰をもって主の御業を待ち望む者の集まりでありたいと思わされました。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。」午後からは小さな子どもたちにはジャガイモの収穫を手伝ってもらい、大人たちは久しぶりに顔をあわせてのリーダー会と役員会を行いました。少しずつ、教会の日常が戻ってきた感じです。
Jesus loves me (主われを愛す)という曲も、どこかで聞いたことがあるけど…歌詞までは知らない曲の一つではないでしょうか。子ども向けの曲ですが、大人でも聴くだけで心がほっこりするようなメロディーです。この曲の歌詞は、1859年、アナ・バーレット・ウォーナーというアメリカの小説家が作られました。リンデンという学校の先生が、病気で死にかけているジョニーという少年のためにそっと口ずさんだ曲が‟Jesus loves me”です。少年はリンデン先生が話す天国の様子を聞きながら、安心して眠るように息を引き取っていきました。それが今日でも世界中の子どもたちに歌われる讃美歌になっているのです。歌詞の続きには、For the Bible tells me so …とあります。 聖書を理解するのは難しくて…と感じる方もいますが、そのメッセージは至ってシンプルです。ご自宅のインターネットやスマホでも聴ける時代ですが、ぜひ教会で一緒に聖書を開きながら耳を傾けませんか。
大粒の雨が降ったりやんだり、ジメジメとした空気…関西地方も梅雨入りとなりました。この時期、なんとなく気持ち的に鬱々としがちです。『先生、ブログ見てみますよ』といつも言ってくださる方が天国へ旅立ってしまったこともあって、物悲しい気持ちからまだ立ち直れずにいます。牧師として、あと何人の大切な人の旅立ちを見送るのか…そんなことを考えていたら、あらためてこの仕事の大変さを思いました。牧師もそんなことを思う日があります。でも、クリスチャンには天国の希望があり、そこで再会できる約束があるのですから、それは素晴らしいことです。だからこそ伝えていかなければならない…朝から祈る中で、「時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」という聖書のことばが響いてきました。さて木曜日はハートフル英会話の日。雨の中ですが、みなさん大人クラス・Kidsクラスに足を運んでくださいました。季節の変わり目、体調が守られますように。
人はみな誰でも苦しみのない、幸いな人生を送りたいと考えます。でも、どうしたらそんな人生を送れるのでしょう。その答えはそう簡単ではありません。多くの人は富や地位や名誉を得ようと努力します。あるいは、学問や才能や容姿が重要だと考えます。ただし、これらのものが人間を真に幸せにしてくれるかどうかは疑問です。幸いとは常にあこがれにしか過ぎないものなのでしょうか。イエスさまは弟子たちに向かってこう言いました。「貧しい人たちは幸いです」「今飢えている人たちは幸いです」「今泣いている人たちは幸いです」それは世の常識では考えられないことでした。今に満ち足りている人は「今」の向こうにある永遠の世界を見ようとはしないでしょう。でも、今に貧しく、今に飢え、今に泣いている人は今よりもっと高い確かなものへと視点を上げていくのです。苦しみを通してそのことに気づく人もいるなら…それは結局のところ、幸いなのかもしれません。
6月5日、横田滋さんが老衰で天に召されました。87歳でした。当初は、『早紀江がキリスト教を信じることは…良かったかもしれないが、自分は信じない。神がいるならなぜ…』と仰っていたそうなので、3年前にご自宅で洗礼を受けられたと聞いた時は本当に嬉しかったのを覚えています。それだけにこの度の召天は何とも言えない気持ちになりました。娘のめぐみさんの帰りを、40年以上も妻の早紀江さんとともに待ち続けておられた滋さん…。どんなにめぐみさんに会いたかったでしょう。葬儀は教会でとり行われ、早紀江さんは『天国で待っていて。私も行くから、忘れないで。』と耳元で話して送り出したそうです。この世の不条理を抱えたまま、旅立って行かれたわけですが、今はイエスさまの御腕の中で、疲れた体に安息が与えられ、すべての疑問に解決を与えられ、心穏やかにされていることでしょう。滋兄の召天も、一粒の麦となって豊かな実を結んでほしいものです。
6月第一主日、今日から会堂に集まっての礼拝が再開します。一部、二部、三部に分かれての分散礼拝なので一同に会することはできませんが、久しぶりに顔と顔を合わせて礼拝をささげられたのは本当に感謝でした。これからの教会の歩みは以前の状態に戻ることではなく、全く新しいものになっていくでしょう。それを主が望まれるなら、私たちは前を向いて進んでいかなくてはなりません。人生は選択の連続です。一つ一つの様々な選択が、私たちの人生を形成し、一つの選択が人生を大きく左右することもあります。間違いのない選択をするにはどうすればいいのでしょう。今日のメッセージは『使徒の働き』の初代教会が誕生するところからでしたが、弟子たちの姿勢から大切なのことを教えられました。何も思い煩わずに…聖書のことばを基準とすること、教会の交わりを重んじること、最後は主の最善を祈り求めること、今週はこれらのことを意識して歩みたいと思います。
今年は梅雨を迎えるのが一段と早く感じます。日中は30度を超す真夏日、夜になっても暑いなぁと思っていると、『箕面川のホタルが見頃ですよ』とある方から連絡をいただきました。久しぶりに滝道を上りましたが、空気がサラッとして、気持ちのいい風が吹いていて、川のせせらぎが心地よかったです。近くにこんな景色のいいところがあるなんて…あらためて箕面の山の美しさを実感しました。瀧安寺のすぐ横がおススメです。ホタル、いっぱい飛んでいました!あまりに気持ちがいいので終点の滝まで登り、ほとんど人通りもなかったのでマスクも外してリラックスできました。なにか懐かしさを感じるホタル…その寿命は1~2週間とのことですので、いい時に行きました。「あなたの指のわざである あなたの天、あなたの整えられた月や星を見るに、人とは何者なのでしょう。あなたが心に留められるとは。」近隣の方で、まだ行かれていない方は、ぜひおススメします。
全国の緊急事態宣言が解除され、大阪も順調に感染者の減少がみられる中、およそ二か月ぶりにハートフル英会話・春夏コースが再開しました。この日を楽しみにしていました。とは言え、コロナ対策は引き続き行っていきます。マスク着用、アルコール消毒、検温などはもちろん、時間も短縮の50分クラス、座席の距離も十分にとりました。インターネットのオンライン授業も致し方ないところですが、やはり顔と顔とを合わせてのクラスにはかないません。久しぶりに教会の中で、皆さんの楽しそうな笑い声が響いてきて嬉しくなりました。午後からのキッズクラスもなんだか新しい座席の感覚に、戸惑ったり、楽しくなったり、いろいろな子たちがいましたが、なんとなくコロナ前よりも…学ぶ意識が高まったように感じました。やる気になってる時が一番ですね。来週も大人クラスは3~4名、キッズクラスは各クラスもう少し受講生を募集中です。宜しくお願いいたします。
今日から水曜祈祷会が時短で再開しました。二か月が過ぎて、座席の配置や飛沫感染防止シールド、人と人との距離感など、変わったところありますが、新たな気持ちで水曜日の交わりを作っていきたいと思わされました。Ⅰ列王記20:22~、アラムの王ベン・ハダドに攻め込まれ、もはや万事休すのイスラエルの王アハブ。今度も圧倒的な軍事力の差ではありましたが、憐れみ深い主はアハブたちを勝利に導き、悔い改めの機会を与えられたのです。それでも悔い改めないアハブのもとに、神の人が遣われ、最終的に「…わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたので、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は、イスラエルも王は不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿へ…」という厳しい主の裁きが宣言されました。アハブはそこでも悔い改めるどころが、不機嫌になり、激しく怒って、自分の宮殿に帰ってしまったのです。…ダビデ王の時が思い出されます。
今日から6月。ディボーションはⅠ列王記19:1~。北イスラエルの悪王アハブの前に、神は預言者エリヤを遣わしました。エリヤは神の訓練を受けた後、ついにバアルの預言者450人と戦いました。この孤立無援の戦いにも、神への信仰はぶれず、見事な勝利を治めたエリヤでした。でも、この後、こうした霊的戦いで力を使い果たし、燃え尽き症候群とも言える状態に陥ってしまいました。「主よ、もう十分です。私の命をとってください」と願うほどに…。そんな彼に神のことばがありました。「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから。」神の特別な取り扱いは、彼にまた歩き出す力を与えました。私も毎日祈っていた兄弟の葬儀を無事に終えて…なにか今朝は心も体も重く、心にポッカリと穴が開いてしまったような感じでした。そんな時はいつもと違うことをしようと…ワックスがけと講壇前の飛沫感染シートを作りましたが、、、これを使うかどうかは要検討です。
5月第五主日、今日はペンテコステ記念礼拝でした。イエスさまは死からよみがえられてから、40日間、使徒たちの前にその姿を現され、神の国のことを語りました。そして彼らにこの後の大きな目的のために「父の約束を待ちなさい」と命じられたのです。現代人の一つの特徴は忙しすぎて待つことが苦手ということです。『待つこと』は『待たされる』など消極的なイメージを持ちやすいものですが、それは私たちの心を神に向けさせ、神の御業を仰ぎ見るための最善の備えなのです。ペンテコステの度に何度も思い返す聖書箇所ですが、今日は来主日からの教会の新しい出発のために、あらためて「待つこと」の意味を考える御言葉となりました。「もし遅くなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。」神が『待て』ということには必ず意味があります。そして、神のことばは時至って必ず実現するのです。新しい週も祈りつつ、神の時を待ち望みたいと思います。
初夏らしい青空の下、今日はある方の葬儀がありました。最初、その方はとても怒って教会に来られました。『なんでやねん…』と言わざるを得ないような、辛い人生をずっと歩んでこられたからです。さらに、その方は重い病気にもなられました。希望の光が一つ一つ消えていくような中で、妹さんが『大丈夫。神さまは必ず癒してくださるから』と言いました。それから…不思議なことが次々と起こりました。見る人によっては別に何でもないことかもしれませんが、最初からその方を見ていた人たちは神の不思議を目の当たりにしました。その方はいつしか笑顔が似合う、また、病の中にある方々のためによく祈る人に変えられていました。そんな兄弟を見て、誰かが言いました。神が癒されたのは、身体の病ではなく、神を呪うことから始まる心の病とも言える部分の癒しだったのでは…と。「しかし、主が人の歩みを確かにされる。」あらためて、アーメンと思わされました。
今日はハートフル英会話の特別クラスがありました。午前中の大人クラス、午後からのKidsクラス、どちらもパソコン越しですが、楽しそうな声が聞こえてきました。新型コロナの影響で教会には集まれず、オンラインでのクラスでしたが、一応、今回で一区切りとなり、次週から通常のクラスを始められそうです。大人の方はもちろん、小学生の順応性の高さには驚きました。学校でもzoomなどで授業があるとのことですが、何事も新しい形に変化を遂げていく時代なのでしょう。当然ながら、教会も新しい時代の形式に対応していかなくてはなりません。一般の方には、『教会も人数集めに大変ですね…』と言われることもありますが、『ここに教会があってよかったです』と言ってくださる方がいる限り、神とともに生きる人生の素晴らしさと、天国の希望を伝える使命が、私たち教会にはあります。明日はその兄弟の葬儀。悲しみの顔ではなく、笑顔で見送りたいと思います。
今朝、大切な神の家族が天に凱旋されていきました。多くの方を愛し、多くの方に愛された兄弟でした。私が兄弟から教えられた一つは、人の良い点を見ることです。聖書には「罪を犯さなくなるようになるためです」という言葉があります。『罪』とは『神に背を向けた生き方』を指します。ですから、罪を犯さないように気をつけて生きることは消極的な生き方で、反対に、神に喜ばれる生き方を心がけることは積極的な生き方と言えるでしょう。『神に喜ばれる生き方』とは神の命令を守ること、『神を愛し、隣人を愛する生き方』を指します。人の良い点、あるいは、自分の良い点を見ていくこと…できないことより、できることを探して行動していく方が、自然とその人を変えていくこともあるのでしょう。最初、兄弟は神への怒りに満ちて教会に来られました。でも、今は多くの方に神の愛を証しする人になられました。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい…」
緊急事態宣言も解除となりましたので、教会のお花も新しく植え替えました。楽しみにいらしてください。今日は旧約聖書を学ぶ会をLIVE配信で行いました。しっかり準備したつもりでしたが、途中でカメラのバッテリーが切れて二部に分かれてしまい…申し訳ありませんでした。創世記8章~ノアと家族が箱舟から降りてくるところ。外の様子もわからず、狭い空間の中で動物たちとともに、限られた食料を分け合うノアたち家族…様々な不安とストレスが心に重くのしかかっていたことでしょう。でも、神はそんな彼らを「覚えておられた(思い続けておられた)」とあります。大海を漂う小さな箱舟を、神は片時も忘れずに見守っておられたというのです。ノアたちも地の上から水が引いたのを知っても自分勝手な行動は起こさず、神の言葉を聞いてから箱舟を降りてきました。そして祭壇を築いたのです。「信仰」とは何か…。あらためてノアの行動から多くのことを学びました。
今日緊急事態宣言の全面解除が宣言され、安堵と不安の入り混じった気持ちですが、まずはやれやれという感じです。こうした中にも病と戦っている方々がいることを忘れないでいたいものです。私たち信仰者にとって『忍耐』とはただじっと耐え忍ぶだけの消極的な生き方を意味していません。聖書が教える『忍耐』とは何かを生み出していくとても積極的な生き方を指します。「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることはありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」他の聖書の箇所でも、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐ですと教えられています。『忍耐』は神の時、神の御業に期待すること…。主の癒しを心からお祈りしています。
5月第四週、緊急事態宣言が解除されて最初の主日。第二ペテロを続けて学んできて、今日が最後のところでした。ペテロはローマの獄中から自分の死期が近いことを感じつつ手紙を書きました。彼は偽教師の誤った教えに惑わされてはならない、世の常識や価値観に流されてはならない、あなたがたは最善を尽くして真理に立ち、主の再臨を待ち望みなさいと勧めました。水が低きに流れるように、人も易きに流されやすいのは、いつの時代も同じ。先輩ペテロの勧めは今日こそ重要に感じました。少しずつ日常が戻ってくることに安堵しつつ、この先どうなっていくのかという不安も拭えません。見えないウィルスとの戦いは見えないサタンとの戦いにも似ています。しかし、主イエスは言われました。「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝った。」勇気とは恐れを抱かないことではない、恐れを抱きつつ信仰をもって前に進むこと。今週も信仰をもって歩み出していきましょう。
『教会の活動はどうなりますか…』という問い合わせがありました。基本的には5月31日までは、主日礼拝をはじめすべての集会に集まることの自粛をお願いしています。緊急事態宣言解除となっても、主日礼拝・子ども礼拝・水曜祈祷会・聖書を学ぶ会などのLIVE配信は継続しますが、これまでにもどうしても信仰上の理由で…礼拝に出席したいという方には、マスク着用、アルコール消毒、ソーシャルディスタンス、時間制限をお約束いただいて出席を承諾してきました。今後もこうした条件をご理解していただいた上で、教会としてもできる限りお気持ちを受けとめたいと思っています。また、平日のハートフル英会話についても、6月から大人・Kidsクラスをまずは時間短縮で開講していく予定です。こちらに関しては、5月末までのon-line無料特別クラスがありますのでご活用いただければと思います。十分に注意を払いながら少しずつ段階的に、教会の活動を始めてまいります。
昨日、京都・大阪・兵庫で緊急事態宣言が解除されました。残る5都道県についても、今の状況が続けば、週明けの25日にも解除される可能性があるとのことです。感染者数も全国的に減少してきてはいますが、これですぐに社会経済活動が再開すると、やはり第二派が心配です。とは言え、これ以上経済ストップの状態が続けば、会社経営などされている方々にとっては生活が成り立ちません。ただでさえ、今回のコロナ禍で300万人もの失業者が予想されています。だれもが先行き不透明な未来に向かって歩みださなければなりません。教会も少しずつ自粛を解除していく方向ですが、役員会でもよく話し合って、何より一人一人がよく祈って判断していかなければならないと思います。コロナ前の状態に戻るのではなく、ある意味コロナと共存しながらの新しい形を模索しています。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に…」今朝はこの御言葉が心に留まりました。
Ⅰ列王記13章~、神の人が偶像礼拝を行うヤロブアムのもとに遣わされ、神の裁きを告げました。するとヤロブアムは怒り出し「彼を捕らえよ」と命じると、手がしなび、戻すことができなくなりました。すぐさま神の人に「私のために祈ってください」と懇願すると速やかな癒しを経験したのです。こうした一連の奇跡の中でも、彼の心は真の悔い改めには至りませんでした。この『悔い改める』という言葉…教会ではしばしば耳にするような気もしますが、意外とその本来の意味が忘れられやすい言葉です。それは単に反省する、後悔することではなく、心の向きを変えて神に立ち帰ることです。『放蕩息子の譬え』はまさにそのことを教えています。死の問題を自分で解決できないのと同じように、罪の問題も自分で何とかできることではありません。大事なのは「わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と言われる主イエスのもとに立ち帰ることです。
大きな決断を前にしたときは、だれかに相談することも必要です。でも、自分の立つべき基準を持たないまま次々と相手を変えて聞き続けるだけなら良い結果は得られません。最終的には自分の心の声を聞いて、全ての相談が無駄に帰すこともあるでしょう。Ⅰ列王記12章~、ソロモン王が死んで、レハブアムが後継者となりますが、王として生きる基準もなく、真実な声を聞き分けることもしませんでした。結果として、イスラエル国は国家的危機を回避できず、南北分裂へと進んでいってしまったのです。北の10部族はヤロブアムを筆頭に北イスラエルとして、南ユダとの対立を明確にしていきます。それは宗教的政策にも現われ、勝手に祭りの日を定め、金の子牛を崇め、祭司規定を破るという破滅への傾斜を加速させていったのです。人間の愚かさが問題を深刻化させる一方で、「主がそう仕向けられたからである」という罪に対する厳しさと主の御心の深さを思わされました。
5月第三主日、ペテロの手紙Ⅱ3:8~。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか」という偽教師たちの誤った捉え方に対して、「あなたがたは…見落としてはいけません」という主の再臨に対する正しい考え方を教えました。それは、2000年後の教会の中にもしばしば見られることです。「主の御前では一日は千年のよう…」とは、人間が千年かかって成し遂げることも、神はたった一日で成し遂げてしまわれるということ。神は時間に縛られない、永遠を生きるお方です。万事は神のご計画の中で導かれているとは言え、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるという主の忍耐を忘れてはならないことが、心に留まりました。「終わりの日」を悲しみの日にするのではなく、喜びを分かち合う日とするために、一人でも多くの方とともにこの素晴らしい福音を分かち合いたいと思います。
初夏を思わせるような温かい日が続く中、教会の花を植え替えました。教会に来られる方は少ないのですが、いつ誰が来られてもいいように準備だけしておこうと思っています。昨日、緊急事態宣言が39県で解除され、日常が戻りつつありますが、自粛疲れから、気の緩みになっているのかもしれません。東京・大阪など都市圏でも人出が急激に増えてきているとのことで、あちこちで『解除はまだ早いんじゃないか』という声も出ています。確かにこのまま経済も回らなければ、倒産する会社や、店舗、失業、リストラなどがドミノ倒しのように起こってきてしまいますが、第2波の可能性を考えると、せっかくここまで苦労したことが水の泡に…ということにもなりかねません。すでに世界中で多くの人命が失われました。生きている者はその方々の分まで、もう少しの辛抱を心がけたいです。
新型コロナウィルスの感染拡大防止のため、全国に緊急事態宣言が出てから約一か月が過ぎました。感染者数も減少傾向にあり、もう少しの辛抱です。ハートフル英会話教室は、先週からオンラインクラスを始めました。パソコンを通してですが、クラスから楽しそうな声が聞こえてきて感謝です。さわやかな空を見ながら、現在入院中の兄姉たちを思いました。どうにもできない現実を突きつけられて『神はなぜこんな試練を…』という思いがこみ上げてくるのは当然です。いつまで辛抱すればいいのか…終わりが見えない状況は、生きる力をも失わせるでしょう。それでも、希望を失くさないでほしいと思います。私たちには、その終わりは見えていないかもしれませんが、終わりは必ずあります。そして、それをご存知の方が「神を信じ、またわたしを信じなさい」と命じておられるからです。
Ⅰ列王記8:54~。ソロモンは感動の奉献式での祈りを終えた後、民に向かって祝禱しました。主は約束どおり安住の地を与えてくださったこと、主は先祖とともにおられ見捨てられなかったこと…その一つ一つの祝福を振り返りつつ、ソロモンはさらに祈り求めました。「今日のように、私たちの神、主と心を一つにし…」今日の祈祷会では、特にこの御言葉が心に留まりました。果たして、私たちの心に神が合わせるのか、神の心に私たちが合わせるのか…知らず知らずのうちに反対になってしまっていることがないか…。私たちは不誠実でも、神は絶えず誠実に約束を果たされるお方です。私たちの教会も、主の御業によってこの地に建ちました。あの時の感動を忘れてしまっていないか…。一日を終えて、御言葉を振り返りつつ、あらためて主と心を一つにさせて頂きたいと思わされました。
教会のディボーションはⅠ列王記8章~。ソロモンの神殿建設は完了し、建物の中にいろいろな器具が運び込まれました。それを運んだ祭司たちが聖所から出てくると「雲が主の宮に満ちた」とあります。主の栄光の現われでした。感動の瞬間だったでしょう。ソロモンは全会衆を代表して祈りました。「主がほめたたえられますように。…あなたがたご自身が、あなたの御住まいの場所、天において、これを聞いてください。聞いて、お赦しください。」彼の祈りは、一つ一つの出来事、一人一人の祝福が、すべて主の御旨の中にあることを確信していたことを表しています。なかなか今は教会にともに集まって祈り合うことはできませんが、場所は離れていても…ソロモンのような確信を持って祈ること、一人一人を覚えてとりなしの祈りを捧げること、それが祈祷会における最も重要な時間です。
日曜日に教会でみんなで集まれないのは寂しいことですが、一つだけ…礼拝後のグループタイムのコメントは楽しみな時間です。この人も…あの人も…聞いてくださっていたんだ…とわかるのは、場所は違っても心が繋がっているように感じます。その中である青年のコメントが心に残りました。『信仰ってやっぱ難しいです。目に見えないVirusにはビビッて対策したり、今できる最善を尽くすのに…神さまの命令と約束は自分の都合の良いように解釈し、結びつけてしまいます。』牧師として少し不謹慎ですが、なんとも正直なコメントに嬉しくなりました。本当にその通りです。でも、この葛藤があるのは、聖霊が働いておられる証拠でもあります。メッセージでも語りましたが、主が見ておられるのは「やがて」の私たちです。今のこの葛藤も、私たちにとって大切なプロセスなのだと思います。
5月第二主日、母の日歓迎礼拝でした。いつもなら礼拝に来られたご婦人方にお花のプレゼントするのですが、今年は叶いませんでした。アメリカ・バージニア州にある小さな教会から始まった「母の日」の習慣、子ども礼拝ではその始まりについてお話ししました。母への感謝を表わすこと…その純真な心は失くさないでいたいものです。それは信仰生活においても大切なもの。ペテロはこの時、ローマの獄中で自分の死期が近いことも意識しながら、次世代の教会を憂いて手紙を書きました。「偽教師たちに気をつけなさい」「自分たちが聞いてきた御言葉を思い出しなさい」「純真な心を奮い立たせなさい」サタンはこの時代も、神のことばをゆがめ、私たちの油断と慢心をついて誘惑をしかけてきます。私たちのうちにおられる聖霊により頼みながら、子どものようにイエスさまを慕い求め、真理の道をまっすぐに歩んでいきたいものです。
教会横の狭い場所で家庭菜園的なことをしていますが、今年は肥料の混ぜ方が少なかったせいか…野菜の成長がイマイチです。さて、ゴールデンウィークも終わりましたが、緊急事態宣言の中ですから、自宅でおとなしくされている方も多いでしょう。私も連休中に聖書通読をと思いましたが、結局あまり進まず…やっとこさ出エジプト20章です。特に十戒の第四戒が心に留まりました。なぜ『十戒』なんて厳しいものがあるのだろう…と思われる方もいるかもしれませんが、このコロナ禍の中、いかに安息日を過ごすかをあらためて問われているように思います。安息日は、単に礼拝メッセージを聴けばいいというものではなく、大事なのは、この日は神さまとの交わりを持つための日であって、信仰生活の道標であるということです。皆さま、くれぐれも迷子にならないようにいきたいですね。
当初の予定では今日からハートフル英会話春期コースを再開したかったのですが、政府の緊急事態宣言の延長を受けて、急遽オンラインでのクラスとなりました。今回は急な対応となり、ご予定があわなかった方々には大変申し訳なく思っております。新型コロナウィルスの影響は、私たち人間の予想を越えてなかなか収束の出口が見えてきません。そこで教会では、日ごろの感謝を覚えて、思い切ってオンライン特別感謝クラスを設けることにしました。5月末まで無料です。各クラス定員になり次第、締め切らせて頂きます。詳しくは、ハートフル英会話のページをご参照ください。…ということで、今日は短い時間でしたが、久しぶりにクラスの皆さまの顔を見ることできて、また、子どもたちの元気な声も聞けて、なんだか少しだけ日常が戻ってきたように感じました。
今日から水曜祈祷会もライブ配信を始めました。連休の最終日でしたが、朝・夜あわせて12人の方が参加してくださり、ともに賛美をささげ、御言葉を分かち合い、祈りの課題を出し合いました。ワーシップの『試みに耐える力をくださる御恵みを…』の歌詞が、いつも以上に心に響きました。また、ディボーションはⅠ列王記6章からソロモンの神殿建設の始まりを見ました。神殿は神の臨在のしるし。ソロモンはこれを完成させるにあたって、極めて厳粛な気持ちで取り組んだことが記されていました。そこには「神殿が建てられたとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので…」とあります。今日は、この御言葉が特に目に留まりました。私たちもそれぞれに形を整えられ、仕上げられて、主のみからだなる教会に組み合わされていくのでしょう。
教会のディボーションはⅠ列王記4:20~。ダビデに代わり新しい王となったソロモンは、実によいスタートを切りました。その理由は、彼が王として民の正しい訴えを聞き分ける判断力を主に願ったからです。それゆえソロモンは富と誉においても恵まれ、王国も祝福されていきました。人々は安心して子供を産み育て、人口も増加し、近隣諸国との関係も安定したのです。まさに理想的な国家の繁栄でした。「神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた。」ソロモンの繁栄は、神との良き関係があってのこと。リーダーとしての最も大切な特質は、この『広い心』だったのではないでしょうか。この時のソロモンの繁栄は得られずとも、私たちもキリストにある知恵と英知と広い心を持つ者にならせていただきましょう。
5月第一主日。ペテロの手紙第二の2章全体から学びました。その中心は偽教師(異端)の問題でした。まず偽教師の特徴について、キリスト者の中から現れること、誤った教えをひそかに持ち込むこと、神の救いのわざ(聖霊)を否定することなどが挙げられました。その結果、自分たちに滅びを招くのはもちろんのこと、多くの人を惑わし、その人たちをも滅びに向かわせてしまうのです。「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出てきたので、その霊が神からのものか、吟味しなさい。」聖書は、一見霊的そうに見えるとか、みかけだけで信用してはいけないこと、一人一人が正しい真理かどうかを見極めるように教えています。「イエスを主と告白する霊はみな、神からのものです。」私たちもあらためて異端の教えを侮らないで、注意したいものです。
創世記の次章は出エジプト記。ここからはドラマのように読むだけで次々と映像が浮かんできます。神はエジプトで苦役にあっていたイスラエルの民を救い出すために、ファラオのもとに口べたのモーセを遣わします。そして、ついにエジプト脱出が始まりますが、イスラエルの民は窮地に追い込まれ、モーセにつぶやくのです。そんな彼らにモーセはこう言いました。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」主を信頼し、リーダーとして民を導くモーセの成長ぶりも見事です。こうして主は、その日、イスラエルをエジプトの手から救われた…。今日もこうした霊的なリーダーが必要です。神が選ばれるのはどのような人物なのか…。明日の礼拝の準備をしながら、主よ、私には無理…ではなく、ここに私がおります…と祈りました。
明日から五月。ゴールデンウィークも自宅で過ごされる方が多いのではないでしょうか。FBで『読書文化の普及に貢献するためのチャレンジ』というのを観ましたが、この際、やっぱり聖書通読をおススメしたいなぁ…と。クリスチャンの方には今さら言われなくても…という感じかもしれませんが、普段お忙しい方も聖書の世界に没頭するにはいい機会と思います。創世記を読み始めてすぐに出てくる『ヨセフ物語』。苦難の人生を歩んだヨセフ…。でも、彼は最後にこう言いました。「神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。」The night is long that never finds the day...明けない夜はないと言いますが、困難な状況の中にも、聖書を通して心を新しくされ、生ける望みを持たせていただきましょう。
ディボーションはⅠ列王記に。1章は年老いたダビデ王から、ソロモンに王位が継承されていくところです。神はダビデの次期王にソロモンを選んでおられました。ところが、兄のアドニヤが野心を抱いて「私が王になる」と言わば実力行使に打って出ました。それを知ったダビデはソロモンへの王位継承を急ぎ「私に代わって王となる」と宣言したのです。神の御心を確信して行動するダビデとソロモンに対し、アドニヤは自分の野心だけが頼りでしたから、土壇場になって怖気づき、最後はみじめなものでした。私たちも自分の行動が何を土台としているかを点検したいものです。今は新型コロナの影響で、行動を起こしにくい状況かもしれませんが…。「危機」という言葉も、本来は「危険」と「機会」からなる語だそうですから…今のこの機会も十分に生かして用いたいものです。
今年はゴールデンウィークになってもコロナの影響で旅行どころじゃない方も多いと思います。天気も良いので、公園や町中に多くの人の姿が見られ、スーパーなども混雑しているそうです。神はこのコロナ禍によって何を伝えようとされているのか…その真意はわかりません。ただ…今日の『旧約聖書を学ぶ会』で、ノアの箱舟について学びましたが、再三にわたって神の裁きと救いの宣言が告げられる中、ノアだけが「すべて主が命じられたとおりにした」とあります。重機も設備もない時代に、家族だけで1万五千トン級もの巨大な箱舟を作るのは並大抵な作業ではなかったはず。ノアの家族の周囲では、反対する人や馬鹿にする人たちもいたでしょう。それでも見事に成し遂げたノア家族は、救いにあずかったのです。神の願いは滅ぼすことよりも、救い出すことにあったのでは…。
昨日は『神はなぜコロナ禍を放っておかれるのでしょう』ということについて書きましたが、後で読み返して自分の言葉の配慮のなさを反省しました。自戒を込めて、書き直すことはいたしませんが…今も病の中いる方々の苦しみ、そのご家族の心の痛み…そして、医療や看護などの最前線で働いてくださっている方々を思うと、もっと慎重な言葉を使うべきでした。また、経済がこれほどストップしているわけですから、失業者や解雇、倒産などに追い込まれる会社も少なくありません。大切な命が一つ一つ失われていくようで…心が締め付けられる思いになります。全世界を造り、そのすべてを見渡される神は、どんな思いで見ておられるのだろうかと思います。明日は旧約聖書を学ぶ会で、創世記7章から学びます。全世界を覆った大洪水と、今のコロナ禍が重なるように感じました。
春らしい爽やかな天気ですが、この外出自粛の中では皮肉に感じられるかもしれません。最近、何人かの方から『神はなぜこんなコロナ禍を放っておかれるのでしょう』という声を聞きます。まるで神が率先してこの状況を起こし、遠くから人間が困っている様子を見ているかのようですが、果たしてそうでしょうか。むしろ、いつの時代も、人間は放蕩息子のように、神から離れて自分の思う通りに生きることが自由であると錯覚していたのでは…。良い事は当前で、悪い事は神のせいというなら、あまりにも都合がよいのではないでしょうか。ご自分の大切なひとり子を十字架にかけてまで、人間を救おうと思われた方が、今もどんな思いでこの世を見ておられるのかを考えたいものです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
今日は教会創立26周年記念礼拝でした。本来なら、教会の兄弟姉妹で、顔と顔とを合わせて喜びを分かち合いたいところですが、今年はそれが叶いませんでした。でも、それぞれ置かれた場所は違っても、時を同じくして、同じ神さまを礼拝することで、教会の交わりを感じられるのは本当に感謝です。礼拝のLIVE配信もやっと環境が整ってきました。まだ音声に雑音が入ったり、映像が粗かったり…と改善の余地があり、ご迷惑をおかけしている方には大変申し訳なく思いますが、もう少しお待ちいただければと思います。午後は、LINEでのグループタイム、人生の大先輩からも「メッセージ、聞いています」と写真を送っていただいたり、青年ができたての名刺を教会に持ってきてくれて、短くメッセージの分かち合いもできたり…と大いに励まされました。教会の主に感謝いたします。
ルカ4:16‐30、今日も水曜祈祷会はLINEグループで御言葉を分かち合いをしました。イエスさまのガリラヤ宣教は瞬く間にその評判が広がり、多くの人々の称賛を得た一方で、故郷ナザレでは「この人はヨセフの子ではないか」という人々の排斥を受けられました。そうした人々の反応とは関係なく、イエスさまはいつものとおり安息日に会堂に入り、預言書を朗読をされたという記述です。今日はこの「いつものとおり安息日に会堂に入り…」という言葉が心に残りました。今、私たちは日曜日に教会に集まって礼拝を献げることもできなければ、水曜日に祈祷会を持つこともできません。でも、だからこそ、礼拝とは何か…祈祷会とは何か…をあらためて見つめ直し、たとえ家で献げるとしても、この気持ちを忘れないで、生きたささげ物としての礼拝を献げていきたいと思わされます。
午前中はディサービスの送迎、午後はZoomで教団の部会、夕方はCGNTVの撮影…と何かあっという間に一日が過ぎました。この際、プロの方にLIVE配信についてもいろいろアドバイスを聞けたのは感謝でした。やっぱり餅は餅屋です。あっという間にいくつかの問題が解決しました。基本的に礼拝の配信は、このコロナ禍の間だけと思っていたので、まだほとんど機材も揃ってない状態です。高い機材を買えばそれなりに安定した配信もできると思うのですが、もうしばらくご迷惑おかけします。大きな教会のオンライン礼拝も見ますが、立派だなぁ…と内容よりもその設備の素晴らしさに見とれてしまったり…。CGNTVの方ともそうこう話しているうちに、何だか自分が力を入れるべき方向性を正されたような思いになり、明日からは、私も牧師のするべき奉仕に専念したいと思います。
ディボーションはルカ4:1~。聖霊に満ちてヨルダンから帰られたイエスさまが、今度は御霊によって荒野に導かれる場面です。神の御子である方がなぜ悪魔の試みを受けられる必要があったのか…。一つは、この世においてはサタンの誘惑は避けて通れないということです。イエスさまは毅然として誘惑に打ち勝たれましたが、私たちは時に負けてしまうこともあるでしょう。ただ問題は、そこからどう立ち直るかです。「人はパンのみで生きるにあらず。」御言葉に寄り頼む、そこに勝利の秘訣があります。ドイツの諺にもこうあります。『転ぶのは恥ではない。転んだままでいるのが恥なのだ。』なかなか苦手分野である日曜日のLIVE配信の段取り…自分なりにどうしたらうまく行くかを考えていましたが、今日はいろいろな良き助け手が与えられ、次の配信にも希望が見えてきました。
ソメイヨシノが葉桜になり、八重桜が綺麗な時期を迎えました。教会で礼拝のLIVE配信を始めたので、この際ネット環境を改善するために工事をしてもらいました。これでYouTubeへの動画アップもスムーズになると喜んでいたのもつかの間…日曜日の朝、突然の回線ダウン。それからはもうてんやわんやで、なんとか礼拝の録画を完了して配信時間に間に合うようにと思いましたが、回線がなかなか復旧せず…結局、遅れてしまいました。お待たせしてしまった方々には大変申し訳なく思っております。先週の礼拝も、映像に不具合が生じ、今回もまた…ですから、こうした失敗から何を学ぶか…です。本当に思う通りに物事が進まない中で、今回もギリギリで主が助けてくださいました。次回はさらなる改善を目指して、最後は“天命を信じて人事を尽くすこと”を心に覚えたいと思います。
クリスチャンになれば苦難に遭わないというのなら、信仰を持ちたいという方ももっと増えるでしょうが、そんなことはありません。神は平等な方ですから、善人にも悪人にも、太陽を上らせ、雨を降らせられます。では、なぜ信仰を持つのか…と言えば、一つは主に希望を持つ者は失望に終わることがないからです。「苦難は忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っています。」『忍耐』とは、単に勇敢さとか我慢強さではなく、神への確かな信頼という内容を備えた言葉です。神の御力を信じ、神の導きに期待するゆえに与えられる力です。何の根拠もないまま、ただじっと我慢しているというのは求められている忍耐ではありません。言い知れない苦難の中で、ひたすら忍耐している者を、神がご存知ないはずがないのです。
新型コロナウィルスに対する緊急事態宣言は、先日の七都府県から日本全国に対象地域が広がりました。これで家族が他府県に住んでいる方々はしばらく往来も困難になります。全国の経済損失は10兆円を上回るそうですが、世界規模で考えたら…もはや計り知れない損失です。しかし一方で、この経済活動の縮小が大気汚染の改善や二酸化炭素(CO2)の排出量の減少という環境改善の効果をもたらしているそうです。インドやアメリカ北東部をはじめ世界各地で青く澄んだ空が戻りつつある…という声も上がっているとか。確かに今後の温暖化を阻止するためにも、パンデミック収束後も、世界が変わっていかなければならないのかもしれません。『のど元過ぎれば…』とならないように、すでに命を落とされた多くの方々のためにも、生かされた者たちがいかに生きるかだと思います。
LINEグループでの水曜祈祷会、朝夜あわせて15名の方が参加してくださいました。いつも顔を合わせていた兄姉と会えないのは寂しいものですが、声だけでも聞いてつながれるのは本当に感謝です。伝道者10章~「知恵のある者の心は右を向き、愚かな者の心は左を向く。」「右」は名誉ある座、良きものを意味し、「左」はその反対を意味する言葉。知恵ある者の生き方、愚かな者の生き方について考えました。自分はどちらを向いているのか…。目先のことだけに価値を置くのか、目を高く上げて神を仰ぎ見るのか。世界の新型コロナウィルス感染者は200万人を超え、拡大は収束せず、今日も多くの方が命を落としました。命の重さを感じる日々…。でも、今日は一ついいニュースが。教会のある家族に新しい命が誕生しました。神がまだこの世に期待しておられることを感じました。
神は生きておられる…今回もそのことを痛感しました。数年前、礼拝後にある兄弟に殴られたことをこのブログにも書きました。理由は、礼拝後にご高齢の方が机を片付けているのに、青年たちがおしゃべりしているのを、なぜ注意しないのかという申し出でした。奉仕は自主的なものなので…と返答すると、次の瞬間、私の顔に二発の鉄拳でした。若気の至りですぐさま反撃しようと外に促すと、歩いているうちに「左の頰も…」という聖霊の声が…。おかげで警察沙汰にもならずにその場は事なきを得ましたが、その兄弟とは音信不通の状態でした。先日、お母さまから兄弟が重い病を患っておられることを聞き、翌日すぐに病院へ行き、久しぶりに彼と会って謝罪をし、一緒に祈らせて頂きました。医者はもう難しいとのことですが…どうか兄弟の回復ためにお祈り頂ければ幸いです。
私たちの教会はライブ配信の礼拝後、LINEでグループタイムという分かち合いをしていますが、イースターの朝、ある方がアップしてくださったコメントがとても心に残り、教えられました。『コロナ騒動で死に至る病に世界が恐れおののいていますが、我々は生まれ持って死に至る病(罪)を抱えているわけです。それを一身に受けて人を救ったキリストは、例えば今日、誰かの壮絶な犠牲で世界のコロナウイルスが突如撲滅されるようなことなんだなあと、このところ考えています。もしも今日、誰かの犠牲で完成したワクチンでコロナを克服できることが分かったら、大歓喜が世界に巻き起こります。キリストはそれ以上のことをされたのだと、大歓喜なんだと、イースターの日に思いました。』教会のちっさな畑の野菜たちも新芽を出してきました。復活の主の御名をほめたたえます。
伝道者8章「すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいは多い。何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかを、だれも告げることはできない。」占いや迷信についてどう思いますか…ということを時々聞きますが、私はそういう話しを全く信じません。今年のコロナ禍についても、だれか言い当てた方がいるのでしょうか。検索してみると『2020年はいろいろと大変な年になりそう』と言っていた方もいるようですが、その程度のことなら…言わずもながです。聖書ははっきりと明日のことさえわからない人間に、未来のことを言い当てることなどできないことを教えています。ただ分かっているのは、だれもが死とさばきという現実にいつかは向き合わなければならないことです。明日を知っている方は神お一人です。聖書は予言の書ではなく、預言の書です。
2020年のイースター(復活祭)は様々な意味で忘れられない礼拝となりました。会衆は私と妻の二人だけ、教会の皆さんは各ご家庭で礼拝を献げられました。こんなにも寂しいものか…と思いながら準備していると、ふと心に『わたしはここにいる』という主の臨在が迫ってきました。そして、目には見えませんが、いつもの席に、いつものように一人一人の顔が思い浮かんできて、御霊によって一つにつながっていることを感じました。ヨハネの手紙も今日が最終章。「神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。」今は新型コロナウィルスの感染拡大で、世界中が先の見えない不安の中にありますが、永遠のいのちである復活の主がともにおられることを信じて歩んでいきたいと思います。
聖金曜日。イエス・キリストは、ゴルゴタの丘で二人の犯罪人に挟まれて十字架につけられました。十字架刑は最も残虐で、最も厳しい、恐るべき刑罰。苦痛を増すために手足を釘付けにし、時間をかけて死ぬように考えられたもの。人々の侮辱を一身に受け、全くの無罪の方が、人にも、神にも見捨てられ、全くの孤独になられたのです。それは、私たちの罪をご自分の罪として背負い、その恐るべき結果をご自身が受け入れるためです。…しかし、父なる神は、そんな御子イエスを見捨てられませんでした。私たちも人生において「どうして」と叫ぶことがあります。そして、神に見捨てられたような経験をすることもあります。そんな私たちのあらゆる「どうして」に、主は身をもって答えを教えてくださいました。どんなことがあっても、神は私たちを見捨てられないということを…。
教会の宣教師夫婦が帰国することになり、数人の方たちとLINEグループ通話で繋がって別れを惜しみました。政府からの帰国要請もあったそうですが、世界から見て日本の新型コロナウィルスの感染状況はどう映っているのでしょう。今日も東京・大阪いずれも過去最高の感染者数、全国でも530人が確認されましたが、実際はもっと深刻な状況なのかもしれません。「死ぬ日は生まれる日にまさる。…忍耐は、うぬぼれにまさる。」伝道者7章は、今の私たちの現状にも全く相応しい、心に迫る御言葉でした。『逆境にまさる教育なし』と言いますが、逆境の中だからこそ気づかされ、訓練され、成長させられることがあるように思います。でも、“その後”は必ず訪れますと、メルケル首相も言われていましたが、苦難の中にもその後の日を信じて、互いに忍耐をもって過ごしたいものです。
受難週の水曜日、マタイとマルコの福音書には、自分が持っている精一杯のものを献げたマグダラのマリヤと主イエスを裏切って金銭を得ようとしたイスカリオテのユダが対象的に描かれています。ご自分の十字架の死が迫る中、主イエスはこの二人をどのように見ておられたのか…。今日の水曜祈祷会は、教会には集まらず、LINEグループ通話を使って行いました。伝道者の書6章~「だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを。」神を知らず、神を求めない人生…それは何と空しい人生でしょう。何が人のために良いことなのか…結論は最終章まで明かされずに進みますが、今、この新型コロナウィルスの苦難のただ中にある私たちもじっくり自己吟味したい御言葉です。マグダラのマリヤはその答えをもっていたのでしょう…。
新型コロナウィルスの感染が拡大する中で、今夕、安倍首相による緊急事態宣言が正式に発令されました。これで5月6日までは東京・神奈川・埼玉・千葉・大阪・兵庫・福岡の七つの都市を中心に、法律に基づいた外出自粛要請が出たことになります。また、社会機能を維持するために必要な職種を除きオフィスでの仕事は原則自宅で行うようにとのこと。本当に見通しの立たない非常事態になってきました。これを受けて、教会も明日から主日礼拝および水曜祈祷会について集まりを自粛することにいたしました。苦渋の決断ですが、各人の安全と健康を最優先に考えると仕方がありません。教会の草花や野菜たちは、しばらく私と妻しか見てあげる人がいませんが、また皆さまに見て喜んでもらうまで…じっと待っていてほしいと思います。「…神が彼の心を喜びで満たされるためだ。」
伝道者3章~。楽しい時は短く感じ、辛い時は長く感じるものですが、人には時を延ばすことも縮めることもできません。ただ起こることに抗わず、成り行きに身を任せるしかないのでしょうか。伝道者は3章で、神が人の営みの全ての時を定めていること、神のなさることは全て時にかなって美しいこと、その中で人はどのように生きるのかを語っています。でも、それは神との関係が回復されてこそ受け入れられる事実でしょう。新型コロナによる世界全体の死者数は7万人(感染者数128万人)を超え、さらに増え続けています。これまで世界的には感染者が少ないと言われていた日本も、ついに明日にも緊急事態宣言が発令されるようです。人間の悲しさ、神の導きの意味はすぐには分かりませんが、いつの時代も変わらずに、聖書は「神に信頼する者は幸いなり」と告げているのです。
今年も桜の満開の時期に受難週を迎えました。この週は、主イエスが受けられた苦難、孤独、悲しみを覚えて、私たちも神への悔い改めと献身と服従を新たにする時です。今朝は4月最初の主日でもありましたが、新型コロナウィルスの影響で礼拝に来られたのは通常の1/3くらいの方々でした。礼拝のライブ配信も始まり、多くの方が自宅で礼拝を献げておられます。Ⅰヨハネ5:1~『イエス・キリストを信じる者とは』というテーマでメッセージを聴きました。私たちはまず神から生まれた者であり、それゆえ兄弟愛という実を結んでいること、信仰の戦いはあっても、世に勝つ勝利者であること、神の御子を信じ、御霊の証しを心に持つ者であることを学びました。この週も世情は何が起こるかわかりませんが…このような苦難の時だからこそ、受難週の意味を黙想したいと思います。
4月は年度替わりで、大人も子どもも周りの環境や関わる人が大きく変わる時期です。また、朝晩の気温の変化も大きいので、体調のコントールも難しい時期。ただでさえ、気づかないうちに疲れやストレスをためやすいのに、今年に限っては新型コロナウィルスの影響で、張りつめた思いで生活をされている方が多いのではないでしょうか。私も朝起きて、まず自分の体調に変化がないかを確認する習慣がついてきました。今日もまた箕面市で新型コロナに感染された方が確認されましたが、もはや自分を含めて、いつどこでだれが感染者でも不思議ではありません。政府の専門家会議もこのままではオーバーシュートの前に医療崩壊が起こるとの見解を示しました。「いと高き方の隠れ場に住む者 その人は 全能者の陰に宿る。」最も安全なシェルター、それは全能者なる神の懐です。
4月最初の水曜祈祷会。今日はLINEのグループ通話を使って、鹿児島に帰省中の姉妹も、しばらく教会を休まれていた兄弟も、多くの方が参加してくださいました。試験的な取り組みでしたが、聖書を輪読し、祈りの課題も分かち合って、良い交わりができました。今日の箇所は詩篇80篇~。詩人は、あの繁栄していた時代を思い出して、主に祈りをささげました。「神よ 私たちを元に戻し、御顔を照り輝かせてください。そうすれば 私たちは救われます。」国が滅ぼされ、絶望のどん底を味わって初めて、過去の過ちを反省するようになったイスラエルの民…。人は、落ちるところまで落ちないと気づかないということがあります。でも、そこまで行けば、あとは上を見上げ、御顔を仰ぎ見るだけです。全てのできごとの背後には神がおられる、そう信じればこその祈りなのです。
希望に向かっていく時、人は変革を余儀なくされる。変化をただ得るわけにはいかず、変化する時に何かを失わなければならない。つまり「今ここにあるもの」を捨てて、「今ここにない未来」を獲得しようとすることである…今日はこの言葉が心に留まりました。教会の中には大病と戦っている方々がいます。そうした方々を少しでも励ましたいと思ってブログも更新していますが、なかなかパソコンを開くのも難しいとのこと…。今は新型コロナの影響もあってご家庭を訪問することも躊躇してしまいます。日本政府は緊急事態宣言を発令するかどうかが焦点になっています。非常時における礼拝・祈祷会も新たに心積もりしておかないといけません。まずは明日から試験的にLINEでの水曜祈祷会を始めます。何より希望を失わずに『今ここにない未来』に向かって進みたいと思います。
詩篇79篇~「主よ、いつまでですか。とこしえに、あなたはお怒りになるのですか。」人生には『いつまでですか…』と神に訴えるような時があります。日常が奪われ、混乱した状態の中で、神の怒りは、際限なく続くように感じられます。新型コロナウィルスによる世界の死者数が3万人を超え、今朝の志村けんさんの訃報にもショックを受けられた方も多いのではないでしょうか。教会も70歳以上の方が来られますので、あらためて感染予防のために最大限の配慮が必要なことを思わされました。主よ、いつまでですか…。それは、すべてをご存知であるお方が聞いていてくださるからこその言葉です。私たちが苦しんでいる時、神はどこか遠くからその様子をながめていることはなく、苦難のただ中で、ともに苦しんでくださっているのです。今こそ、救いの神に助けを求めましょう。
オリンピック中止の発表と同時に、新型コロナの感染者数は急増してきました。箕面市でも4人目の感染者が確認され、身近なところまで迫ってきている感じがします。こうした中で終末を感じているという方も多いのではないでしょうか。イエスさまも弟子たちに「終末のしるし」について質問された時、戦争、暴動、大地震、飢饉、疫病…が起こると答えられました。ただそこで言われたことは、私たちがこれまで経験してきたものとは比べ物にならない、さらに過酷なもの。人間の想定など遥かに超えた天変地異です。今こうした状況下で本当に恐れるべきは、何の霊的平安もなく、かの日に神の御前に立つことです。「私たちはさばきの日に確信を持つことができる」過度な情報に振り回されないで、正しく恐れることを学びたいものです。終わりの日は突然訪れるのですから。
三月の第五主日。大阪府も週末の外出自粛要請が出る中、主の憐れみのうちに礼拝を献げることができました。あらためて週の初めの礼拝は、自分にとってかけがえのない時間であることを再認識している方も多いのではないでしょうか。教会に行きたいけど、他の人のことも考えてあえて自宅で礼拝を献げている方々もいます。『主よ、憐れんでください…』と祈っていると、小さな女の子がそっと手紙を渡してくれました。『がんばれ』そのさり気ない優しさにとても勇気づけられました。「神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。」こうした状況下にあっても、この御言葉が真実であること、そして、自分も今この交わりの中におかれていることの感謝が溢れてきました。今の地上の歩みは、毎日が永遠への備えなのです。
詩篇77篇~。詩人はいつ終わるともわからない苦難の中で主に叫び求めますが、答えはありません。過去の記憶を思い起こして平安を得ようとしてもダメでした。世界各地で外出禁止令が出るなど、新型コロナウィルスと人類との戦いも新たなステージに入ったように感じます。ここからオーバーシュート(爆発的患者急増)になるか、終息に向かうのか…瀬戸際と言っても過言ではないでしょう。予想もしなかった3月でしたが…何とか守られたことを感謝して、希望をもって4月を迎えたいものです。「私が弱り果てたのは、いと高き方の右の手が変わったからだ。…私はあなたのなさったすべてのことを思い巡らし、あなたの御業を静かに考えます。」詩人が冷静さを取り戻したのは生ける神を思い出したからです。苦しみは永遠には続かない。苦難の先には栄光が待っているのです。
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