2025/04/20
4月第三主日、今日はイースター賛美礼拝を献げました。礼拝メッセージはルカ24章1ー12節から。イエスさまが墓に埋葬されるのを見届けていた女たちは、週の初めの日の明け方早く、墓へと向かい、せめてそのお体に香料を塗らせて頂こうと思いました。でも、そこにイエスさまの亡骸はなく、だれかが持ち去ってしまったのだ…と彼女たちは途方に暮れていたのです。すると突然、二人の御使いが現れて言いました。「ここにはおられません。よみがえられたのです。…主がお話しになったことを思い出しなさい。」喪失感で一杯だった彼女たちは御使いの知らせを聞いて恐ろしくはありましたが大喜びで弟子たちのもとに知らせにいきました。「恐怖」と「喜び」…普通この二つは共存しにくい感情です。でも、復活の知らせを受けた彼女たちはまさに理解し難い感情に覆われたのです。そんな彼女たちの報告を受けたペテロをはじめ使徒たちもそれを戯言のように思いました。イエスさまの教えをずっと聞いてきた彼らでさえそうなのですから、いかに復活が受け入れ難いものであるかを思います。でも、復活こそ真実であり、キリスト教の根幹であり、私たちの希望の源泉なのです。
2025/04/19
イエスさまが十字架にかけられた時、十二時頃から午後三時頃まで全地が暗くなり太陽は光を失っていた…とあります。これは、父なる神がイエスさまとの関係を断ったことを表していました。いつも神との深い交わりを持ち、御旨だけを行われたイエスさまが罪人として見捨てられ、裁かれるほどの苦しみが他にあるでしょうか。イエスさまは二人の犯罪人とともに十字架にかけれました。イエスさまに罪がなかったことは当時の総督ピラトも認めていました。でも、イエスさまは私たちの救いのために、すべてを耐え忍ばれ、最後まで神の御心に従われたのです。安息日が始まろうとしていた日、すなわち土曜日、ユダヤ人の議員であるヨセフがイエスさまの亡骸を引き取り、岩に掘った新しい墓に納めました。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」イエスさまは確かに十字架上で息を引き取られました。でも、この方は三日目に死からよみがえり、天に上り、今も生きておられるのです。明日は世界中で復活祭(イースター)を覚える礼拝が捧げられます。ぜひお近くの教会に足を運んでみてください。
2025/04/18
今日は各地で25℃以上の夏日となり、汗ばむような天気でした。教会のソラ豆やスナップエンドウもすくすくと育ってきました。今日からハートフル英会話・春期コースもスタートです。新しく受講してくださる方も加わって、早速、教会堂から楽しそうな笑い声が聞こえてきました。大人クラス、キッズクラス、中高生クラス、ともに若干名、まだ空きがあります。ご興味のある方は無料体験クラスをお申し込みください。新しい出会いをお待ちしています。
2025/04/17
4月第三水曜祈祷会、ルカ23章から。イエスさまの尋問は最高法院からピラト、ヘロデに移っていきます。ピラトもヘロデもイエスさまを無罪と認めながらも最後は人々の同調圧力に負けて死罪を命じていきました…。4月は大学内でもカルト宗教の新規獲得キャンペーンが始まる時期です。また、解散命令が確定した旧統一教会も韓国で合同結婚式など大きなイベントを開催し、組織安定を図っています。イエスさまの迫害と、彼らの迫害は全く違うものです。
2025/04/15
「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言います」ペテロにとっては不名誉な記述かもしれません。でも、彼は誰かに福音を語る度にこの経験を語ったのではないでしょうか。そして、イエスさまはこんな自分をも見捨てないで、用いてくださったと。伝道とは美談や成功例を数え上げることではありません。私たちの人生にイエスさまがどのように出会ってくださったのかを証言することです。
2025/04/14
4月第二主日、今日は受難週、創立31周年記念礼拝を献げました。礼拝メッセージはルカ22:31ー34。イエスさまは十字架にかかる前夜、弟子たちと最後の食事を取り、ご自分の死の意味について話されました。そんな中で弟子たちは、自分たちの中で誰が一番偉いのだろうかと議論していたのです。そんな事態を全く理解していない弟子たちに、イエスさまはサタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、神に聞き届けたことを告げられました。イエスさまは驚く弟子たちを慈しむように、「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われたのです。ペテロは生涯、この時のイエスさまのことばを忘れることはなかったでしょう。イエスさまは今も生きておられ、私たち一人一人のためにとりなし祈っていてくださいます。この祈りに支えられて、それぞれの新しい年度が始まり、教会も31周年を歩み出していきます。今日も外は小雨の一日でしたが、教会の中は温かな食事の交わりと、新しい方々も来られて、賛美と恵みにあふれる一日となりました。
2025/04/11
「イスカリオテと呼ばれるユダにサタンが入った。」神が自分の器を捜しているように、サタンもまたそれを捜しています。人は善の器になるか、悪魔の器になるか、このいずれかです。確かなことはユダが門戸を開かなければ、サタンとてユダの中に入ることはできなかったこと。人の心の扉には外から開ける把手はついていません。「わたしは戸の外に立って叩いている」私たちの心に神を迎え入れましょう。
2025/04/09
4月第二水曜祈祷会、ルカ21章1ー19節。イエスさまは金持ちたちがあり余る中から献げたことと貧しいやもめが生きる手立てのすべてを献げたことの違いから、神は心を見られることを教えられました。また、終わりの前兆についても、偽キリストの出現、戦争や暴動、国家間の争い、大地震、飢饉、疫病、天変地異、そして厳しい迫害が起こることを教えられました。形式的、表面的な信仰生活より、神を心から信頼して生きることを望んでおられるのです。
2025/04/07
4月第一主日、昨夜の雨も上がり、うららかな春の一日となりました。新年度最初の礼拝メッセージはルカ20章、十字架の死を前にしたイエスさまが最後に語られた譬え話しから。ある人がぶどう園を農夫たちに貸して長旅に出たという話し。ある人とは父なる神を、ぶどう園はイスラエルを、農夫は指導者たち、長旅は終末が遅くなることを暗示しています。収穫の時になり、主人は農夫たちのところにしもべを送りましたが、農夫たちは彼を辱しめて空手で帰らせました。主人はそれでも忍耐深く、二人目、三人目のしもべを遣わしますが、農夫たちはさらに痛めつけて空手で帰らせてしまったのです。困った主人は最後に自分の愛する息子を送り、この子ならきっと敬ってくれるだろうと期待しましたが、農夫たちはその子を殺してしまったというのです。ご自分の死を譬えをもって予告されるイエスさまの思いはどんなだったでしょう。「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。」私たちも、人生における捨石と要石の選択を間違えないようにしたいものです。でも、かつての捨石のように思った経験が、今は人生の要石のように思うこともあるのではないでしょうか。
2025/04/02
4月第一水曜祈祷会、ルカ19章から。イエスさまと取税人のかしらだったザアカイの出会いの記述。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日あなたの家に泊まることにしているから。」イエスさまに自分の名前を呼ばれ、家に来てくださると聞いて、ザアカイはどんなに嬉しかったでしょう。イエスさまの愛にふれて、ザアカイは生まれ変わりました。このザアカイを見つめるイエスさまのまなざしが、私たちにも注がれていることを感謝いたします。