2024/12/02
12月アドベント第一礼拝、今日も素晴らしい快晴でした。メッセージはルカ1:5ー25から。祭司の家系の老夫婦ザカリヤとエリサベツのもとに、御使いガブリエルが現れ、ヨハネ誕生の知らせを告げました。それは老夫婦にとって、また、イスラエルをはじめ全人類にとっても大いなる喜びをもたらす知らせでした。でも、ザカリヤはその知らせを疑って、ならば「証拠」を見せてくださいと言います。すると、御使いはこう答えました。「…見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じられなかったからです。」神にとって不可能なことはなく、神の約束は時至って必ず実現する…ザカリヤはそれを身をもって体験し、信じない者から信じる者に変えられていきました。神のことばを信じることは小さな子どもでもできることです。むしろ、大人の方が自分の常識が先に立ち、科学的証明や納得する根拠を提示してくれたら、信じるかどうするか考えようと思うのかもしれません。今日は中学校まで来てくれていた女の子が、大学生となって久しぶりに夕礼拝に来てくれました。感謝です。
2024/11/30
教会のデボーションはイザヤ58章から。「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『栄えある日』と呼び、これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとする。…」安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。十戒の中でも最も丁寧に命じられているのが、安息日規定です。ただ、この日を聖なるものとするのは、今も昔も容易なことではなかったようです。「聖」という言葉には、他とは区別するという意味があります。「安息日」(新約時代は日曜日)を他の日とは区別して、神のために特別な日とするためにはどうしたらいいのでしょう。もしすぐに思いつくことがなければ、教会の礼拝に出席してみられませんか。ただ何もしないで、心と体を休ませる日も大切でしょう。でも、この日を「喜びの日」「栄えある日」として、自分のための日から、神への感謝を表す日として過ごしてみるのはいかがでしょう。今年もアドベント(待降節)の時期を迎えました。ぜひ教会で本当のクリスマスを一緒に過ごしましょう。
2024/11/29
「主が、病の床で彼を支えられますように。彼が病むとき 寝床から起き上がらせてください。」次の日曜日、私たちの教会の最高齢の兄弟が久しぶりに礼拝に来られます。足腰が弱くなられ、前のように電車とバスを乗り継いでくることはできませんが、ご家族が車で乗せてきてくださるそうです。いつも教会に行くことを励みにリハビリに取り組んでいるとのこと。祈りに答えてくださる主に感謝です。
2024/11/27
11月第四水曜祈祷会、イザヤ書55章から。「渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。」心に霊的な渇き覚える者はみな、神のところに来なさいという招きのことばです。数年前、ここに教会があってよかった…と言ってくださった方がいました。今はもう天国にいますが、忘れられない言葉です。私自身も教会がなければ、神を知ることはなかったですし、全く違う人生を歩んでいたことでしょう。
2024/11/26
先週は来客を案内して京都の桂離宮に行ってきました。まだ少し早い紅葉でしたが、歴史を感じつつ、静かな庭園でしばしリラックスさせて頂きました。また、日曜日は岡山県のモダンな教会と無牧の教会で奉仕させて頂いて、温かく迎えて頂いて、本当に感謝でした。でも、一つ大変なミスをしてしまい、ある教会では開始時間を間違えて20分も遅れて到着しました。申し訳ありません。自戒の念を込めて記しておきます。こんなことは初めてでしたが、車での移動は気を付けます。恵みと反省の一日でした。
2024/11/24
11月第四主日、今日は秋の歓迎礼拝としてKGK関西地区主事の池淵亮介師をお迎えしてメッセージを取り次いでいただきました。最初にKGK(キリスト者学生会)の紹介をしていただき、その活動は学生の祈りから始まり、もうすぐ80周年を迎えるとのことです。ルカ6:46-49から、揺れ動く時代、みことばというしっかりした土台の上に人生を建て上げていくことの大切さを教えていただきました。私たちの教会でも大学生たちがKGKを通してたくさんの恵みを受けています。主事や関係スタッフの方々のご労に心から感謝いたします(という私も協力会の一人なのでもっと貢献しないといけません…)。午後からの二つの交わり会にも男女ともに多くの方が出席してくださって、よい分かち合いができたそうです。ゲストの池淵主事がいてくださったからかもしれません。池淵師のメッセージをお聴きになりたい方はYouTubeからご視聴ください。さて、私は岡山県の二つの教会でメッセージの奉仕がありました。一つはライブハウスのような教会で、若い青年が大勢来られていました。もう一つは無牧の教会でしたが、信徒の方々の不断の祈りに支えられていることを感じました。
2024/11/23
イザヤ51章から。「まことに、主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。」それは絶望に淵に立つイスラエルにとって、単なる気休めなどではない、現状の変革を促し、憂いを喜びに、絶望を希望に変えるメッセージです。この時代も、国内外ともに波乱に富んだ時代、神を神としてあがめることのない社会です。それでも、イエスさまはあなたを慰めて、救いへと招いておられるのです。
2024/11/22
今日はイギリスの作家C.S.ルイスの召天日。彼の著書『痛みの問題』にはこうあります。「神は楽しみにおいて私たちに囁きかけ、良心において語る。でも、苦痛においては私たちに向かって激しく呼びかけたもうのである。苦痛は耳を塞いだ世界を呼び覚まそうとしたもう神のメガホンである。」私たちは平時よりも苦難の中でこそ神を体験するように思います。「主はご自分の民を慰め、その苦しむ者を憐れまれるからだ。」今日も英会話クラスから楽しい声が聞こえてきました。
2024/11/21
11月第三水曜祈祷会、イザヤ書48章を読みました。「あなたが頑なであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので。」いくら呼びかけても聞く耳を持たない南ユダの民ですが、神は忍耐をもって救いの道を指し示します。どんなに背を向けても「わたしはあなたの神、主である」と宣言されるのです。ご自分の民を憐れむ万軍の主の熱心を覚えました。午後からは友人のヒトリコテンに行ってきました。今回も優しい絵に心が和みました。お勧めします。
2024/11/19
11月の旧約聖書を学ぶ会がありました。出席者は少なめですが、その分ゆっくりな分かち合いもできて感謝です。出エジプト記12章、エジプトに第十の災禍が下されようとしていました。ここまで頑なな姿勢を貫いてきたファラオも、さすがに「…出て行ってくれ」と言わざるを得ない状況が迫っていました。イスラエルの民も神がどんな御業を起こされるのか、皆目見当がつかなかったでしょう。430年間もエジプトで奴隷状態に置かれていた民に自由が与えられる…信じ難いことだったはずです。そうした中で主は、過越の祭りの制度を定められました。「異国人はだれもこれにあずかってはならない。しかし…割礼を施せば、これにあずかることができる。」過越の祭りは、傷のない子羊を屠り、その血を門柱と鴨居に塗って、種なしパンを食べる儀式です。主は、この日は神の民にとって忘れられない記念となり、永遠の掟としてこれを祝わなければならないと言われたのです。今日のクリスチャンはイエスさまが言われた通り『聖餐式』として十字架を心に覚えます。聖書を知らない人から見れば単なるパンとぶどう酒ですが、クリスチャンにとっては極めて厳粛な儀式です。