カテゴリ:2022年下半期



2022/12/31
2022年最後の日のデボーションは詩篇150篇から。「ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。」今年も、地上の教会から天上の神の御座に向かって、一つ心で主をほめたたえることができて感謝でした。特定の場所と特定の時間を神の前に聖別して、『安息日を聖とする』ことは素晴らしい恵みです。それと同時に、様々な事情があって教会に行けない方にはオンライン礼拝が恵みであることを思います。教会によってオンライン礼拝の是非が問われていますが、私自身はオンラインだからこそ参加する方や御言葉を聴く人が起こされているなら、それも素晴らしいことと思います。新型コロナウィルスの感染が続き、ロシアによるウクライナ侵攻、世界経済のインフレ、異常気象、元首相の襲撃事件、防衛費の増額…。世がますます混沌とする中で、私たちには生ける神のことばが必要です。「息のある者はみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」
2022/12/30
教会のデボーションは詩篇149篇に入りました。『ハレルヤ詩篇』の四番目です。「主にあって喜べ…楽しめ…踊りをもって…タンバリンと竪琴に合わせて、主をほめたたえよ」とあります。聖なる集いの中で体全体で主への賛美を歌っている様子が目に浮かびます。私たちも、実際に踊なくてもいいと思うのですが、それほどの喜びが心にあるだろうかと思わされます。頭で理解するだけの信仰はいざという時に頼りになりません。クリスマスが過ぎても、神が人となってきてくださったその喜びを忘れないでいたいものです。今年一年を振り返って、進学、就職、結婚、出産、長寿…喜ばしいことは幾つもありました。受洗者はいませんでしたが、信仰決心者は起こされ、新来者や転入会者など礼拝出席者は増やされました。ただ、どうしても気になるのは療養中の方、長くお休みされている方々のことです。一緒に心からの賛美が歌えるように、主の回復と癒しをお祈りしています。
2022/12/28
2022年最後の水曜祈祷会。デボーションは詩篇147篇『ハレルヤ詩篇』から御言葉を心に留めました。「ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。」バビロン捕囚からエルサレムに帰還した民が、神殿で主をほめたたえる情景が思い浮かびました。私たちの教会も未だコロナ禍ではありますが、礼拝で賛美する機会が少しずつ戻ってきました。賛美は偉大なる主をほめたたえることであり、私たちの信仰の証しです。感染対策の意味合いもありますが、住宅街にある教会なので音の問題にもできるだけ注意を払わっています。主の憐みと知恵を祈り求めて今後の賛美のあり方を考えたいと思っています。今日は今年一年を振り返っての恵みの分かち合いになりました。祈祷会の恵みの一つは互いに祈り祈られることにあります。コロナ禍になって教会のデジタル化も一歩前進し、オンラインで参加してくださる方も増えたことは感謝です。
2022/12/28
12月の旧約聖書を学ぶ会がありました。今日は創世記43章でした。長引く飢饉でいよいよ食物も尽きてきたヤコブは息子たちを再びエジプトに送ろうと考えます。でも、そのためには末のベニヤミンも一緒に行かねばなりません。ユダの真剣に言葉に動かされて、父は仕方なくそれを承諾しますが、最後は全能の神に祈りをもって息子を委ねたのです。こうして一行はエジプトを再訪問し、ヨセフの前に立ちます。ヨセフはそんな兄たちを自宅に招き、丁重にもてなしました。怖くなった兄たちは管理人に正直にこれまでの経緯を話します。「安心しなさい。恐れることはありません。」管理人の優しい言葉に兄たちはホッとしたでしょう。ヨセフは父ヤコブは元気か…兄たちの口から聞きたかったのでしょう。20年ぶりの再会となったベニヤミンを見ると、ヨセフは思わず胸が熱くなって、奥の部屋に行って泣きました。そこでもヨセフは自分の素性を明かさず、神の時を待ったのです。
2022/12/26
12月第四主日、クリスマス特別礼拝を献げました。昨日のキャンドルサービスの余韻を感じつつ、ヨハネの福音書4章から「イエスと出会う幸い」をテーマにメッセージを聴きました。先週のニコデモに続いて、今日のサマリヤの女もイエスさまと出会うことによって人生が変えられました。サマリヤの女は、イエスさまに自分の心の渇きを言い当てられて、生ける水を求めるように導かれたのです。「わたしが与える水を飲む」とはイエスさまを信じることを意味していました。そうすればその人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るというのです。こうして彼女はイエスさまを信じる者となり、それだけでなくイエスさまを宣べ伝える人に変えられていきました。人生に偶然はなく、あるのは神の必然です。人生とは、一枚の刺繍の布のごときものであり、裏側から見てるだけではわかりませんが、やがて表側から見るなら、神が見事な絵柄が描いていることを知るのです。
2022/12/24
2022年のクリスマス・イブを迎えました。今年も聖なる夜にキャンドルサービスを献げられることを感謝いたします。クリスマスイブと言えば、『クリスマスの前夜』のことと思われる方もいますが、実は『イブ』とは『evening』のことですから『クリスマスの夜』のことです。ユダヤ暦では日没から一日の変わり目となるので、24日の夕方から始まって25日の日没までがクリスマスとなります。今年は、次の日がクリスマス礼拝ということもあって、土曜日夕方からの開始となり、来会者が心配されましたが、大勢の方が来会してくださいました。バイオリン演奏のある姉妹はこの日の奉仕のために東京から駆けつけてくれました。忙しい時期に本当に感謝でした。実際の生の演奏を聴くのとは違いますが、YouTubeのアーカイブがありますので、ぜひ姉妹の息の合った心地よい演奏をご視聴ください。今日、初めて教会に来ましたという方も何人かおられて主の御名を崇めました。
2022/12/22
今年最後のCGNTVの撮影が終わりホッと一息。リビングライフの奉仕もなんとかここまで守られ、残り3回…用いていただいて感謝です。撮影後に韓国のキリスト教会の情勢なども教えていただきました。昔、ソウルの街には赤い十字架の明かりがたくさん見えたのに、今はだいぶ少なくなってきているとのこと。でも、その方の神への信頼は全く変わらないことを感じました。今回はヤコブ書からのメッセージでしたが、「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」の御言葉がずっと頭を巡っていました。試練の意味…。それは栄光へと続く道。十字架で始まり、冠で終わる。No cross, No crown...私たちがこの信頼を貫こうと思うのは、神を愛するという動機があるからです。そして、彼に信頼する者は失望させられることがありません。今日、ある赤ちゃんの手術が無事に守られました。お祈りを感謝いたします。
2022/12/19
アドベント第四週、雨も上がり温かな日差しが差し込む一日でした。礼拝メッセージはヨハネ3章から。パリサイ人で議員でもあったニコデモは、夜人目をはばかるようにイエスさまのもとに来ました。イエスさまはニコデモの心を知って「人は新しくまれなければ神の国を見ることはできません」と彼が一番心配に思っていることを先に答えられたのです。ニコデモは驚いたでしょうが、自分の常識が勝り、そんなことは不可能ですと言います。イエスさまはそんな彼の浅はかな信仰を真の信仰に導かれるように、ご自身が天から下られた意味を教えられたのです。「キリストは富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。キリストの貧しさによってあなたがたが富む者となるためである。」キリストは何を捨てられたのか…どこまで貧しくなれたのか…それは何のためだったのか…。あらためて教えられました。いのちのことば社の文書伝道デーもよい機会となりました。
2022/12/17
教会のデボーションはヨハネの黙示録19章に入りました。患難時代において、信仰の戦いを耐え抜いたクリスチャンたちが天に迎えられ、24人の長老たちや4つの生き物、そして御使いとともに勝利の礼拝を献げている光景が描かれます。悪魔ともサタンとも呼ばれる悪の勢力はキリストの再臨によって徹底的な裁きを受けるのです。「血に染まった衣をまとい、その名は『神のことば』呼ばれていた方」はイエス・キリストを表していました。今から約2000年前に人となって来られたお方は、私たちの全ての重荷を背負い、私たちの救いのために十字架への道を歩まれました。それは悲しみを喜びに、涙を笑顔に、嘆きを希望に変えるためです。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」このお方はまたやがてこの世に来られます。その時、この方の到来を待ち望んでいる者は幸いです。明日は待降節第四主日。心からの礼拝をともに献げようではありませんか。
2022/12/17
仏教と神道が多数派を占める日本でも、この時期になればクリスマスの雰囲気に包まれます。お寺でクリスマスというのも珍しいことではなく、その寛容さが仏教においてとても重要なのだそうです。そういう意味ではキリスト教もクリスマスの日を12月25日に決めた経緯には、他宗教の冬至の習慣を取り入れたことと関係があります。そもそも初代教会の時代、ローマ帝国にはギリシャ・ローマ神話の神々が多数祀られ、その中で宣教するのは至難の業だったはずです。様々な世界観、価値観をもった人たちと上手く関係を築かなければ、社会から受け入れてもらえなかったでしょう。多くのカルト宗教が一般社会から孤立し、摩擦を起こすのは他者の立場との調和を考えないからです。もちろんキリスト教も異教に対して一線を画さないといけない部分もありますが、思い出すのは『信仰において譲らず、愛において譲る』のルターの言葉です。クリスマスは隣人に愛を示す日です。

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