2020/03/26
東京都で一日の感染者数が過去最高となり、週末の外出自粛要請が出ました。教会に行くこと自体が難しい状況になりつつあります。こうした状況の中で、牧師たちが一番心配しているのは、礼拝への意欲や礼拝に行かなくていいという肌感覚の蔓延とのこと…。礼拝や祈祷会を忠実に献げていた人でも、何かのきっかけで長く休むとそれが普通になってしまい、足が遠のいてしまうことがあります。時短の礼拝や祈祷会が、もはや教会に行く時間よりも短いなら、家で録音を聞けばいいかも…という囁きも聞こえてくるのかもしれません。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」こんな時こそ原点回帰で、礼拝とは何か、神は何を喜ばれるのかを考えたいものです。神はその心をご覧になる方です。
2020/03/25
新型コロナウィルスの感染拡大によって、世界の感染者は30万人を超え、IOCもオリンピック延期を決めました。こうした中で、多くの教会が礼拝時間を短縮し、交わりを自粛するなどの対応をとっています。今後、教会はどうなっていくのか…をある先生に尋ねてみると、『私たちの教会はほとんどいつもと変わりません。むしろ、ともに集まる恵みを再確認しているのではないでしょうか』と話してくださいました。確かに私たちの教会も、水曜祈祷会を再開してともに祈り合える幸いを実感するとともに、苦難の真っただ中にいる兄姉のためにとりなしの祈りが必要であることを再確認しています。でも、神は苦しみの中にある人を決して見捨てることはありません。どんな状況の中にも、神のご性質は愛であることに変わりはないからです。苦難の真っただ中でも教会は祈っています。
2020/03/25
ユダ書1:1~。書き出しにこうあります。「父なる神に愛され、イエス・キリストによって守られている、召された方々へ。」ここを読むだけでもクリスチャンとはなんと素晴らしい身分なのかと思います。しかもそれは私たちの行いや功績によって得たものではなく、神からの一方的な恵みによるものです。確かにそういう私たちにも困難はあります。誤った教えに惑わされ、時には神はどこに行ってしまったのだ…と叫びたくなることもあります。でも、ユダは最後にこう記します。「あなたがたを、つまずかせないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方」どんな霊的な戦いの中にも、主は私たちを信仰から離れることのないように常に守ってくださり、主の御前に出る時ついに完全な者として立たせてくださるのです。
2020/03/24
今日は関キ災の第一回懇談会がありました。新型コロナウィルスの影響もあって予定より人数は少なくなりましたが、素晴らしい先生方が出席してくださり、活発な意見交換ができました。東日本大震災以降、災害のサイクルは間隔が狭まってきて、もはやいつどこで何が起きても不思議ではありません。特に南海トラフの巨大地震の発生率は30年以内に80%と言われています。そうした大規模災害に備えて、今から教会間のネットワークを網の目のように作れないかというのが一つの願いです。全国各地の災害支援団体や過去に被災された地域教会の情報なども参考にさせていただいて協力体制を整えていきたいと思っています。ある方が、ヨセフがエジプト王のファラオに七年間の飢饉に備えて、七年間の豊作で備えをするように進言した話しをされていたのが、非常に心に留まりました。
2020/03/22
3月第四主日も礼拝時間を短縮してささげられました。今は力いっぱい賛美を捧げられないのは寂しい限りですが、一人一人がみことばに集中して聞こうとする姿勢があります。メッセージはⅠヨハネ4:7~「この愛に生きる」。私たちが互いに愛し合う理由は、愛は神から出ているからであり、愛は御子によって示されたからであり、愛は私たちの内で完成されるからです。「愛する者たち。私たちが互いに愛し合いましょう。」この愛はアガペーの愛、自分の身を犠牲して他の人を尊重する愛、受けるよりも与えるが幸いの愛です。私たちもこの愛に生きたい…あらためてそう思わされました。礼拝後は子どもたちに大根の収穫を手伝ってもらい、想像していた以上に小さな大根でしたが、子どもたちの楽しそうな笑顔に励まされました。新しい一週間の祝福をお祈りいたします。
2020/03/20
16世紀宗教改革者のジャン・カルヴァンはこう言いました。『私たちは最大の難局に陥るとき、私たちの惨めさのために常に備えられている救済策があることを教えられる。すなわち、神を呼び求めるという策である。』苦難と苦痛に対する唯一の解決策は祈りである、今日はこの言葉が心に響きました。あのアイザック・ニュートンも「私は望遠鏡で何千万キロの遠方をも見ることができる。しかし、静かに跪いて祈ることにより、望遠鏡に勝ってはっきりと天国を見、神に近づくことができる」と日記に綴ったそうです。今日は彼の召天日でした。確かに、祈りの第一の動機は神の恵みと憐れみを個人的に経験すること。このような状況の中でこそ、祈りを通して神の力を経験したいものです。病いもさることながら…特に経済、霊的な面で苦難の中にある方々を覚えてお祈りしています。
2020/03/19
マラキ書1:2~「わたしはあなたがたを愛している。―主は言われる―しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。」神の愛の宣言に対し、イスラエルの民は『どのように』という反問の言葉を繰り返します。当時、凶作と貧困が厳しくなる中で、民の宗教的冷淡と道徳的退廃はそのまま礼拝姿勢にも如実に現れました。「自分の群れのうちに雄がいて、これを献げると誓いながら、損傷のあるものを主に献げるような、ずるい者は呪われる。わたしは大いなる王であり、―万軍の主は言われる―わたしの名は諸国の民の間で恐れられているからだ。」状況は違いますが、昨今のコロナの影響の中で、インターネットでも礼拝を献げられることに多くの利点があるのは確かですが、神を恐れ敬う思いも忘れないように気をつけたいものです。
2020/03/19
穏やかな朝、春の告げるアーモンドの花が咲きました。今日から新型コロナウィルスの感染予防に十分に配慮しながら水曜祈祷会を再開します。時間短縮の中ですから、ディボーションの分かち合いは短くなりましたが…何よりも互いの祈り課題を覚えて心を合わせて祈れる幸いを感謝しました。午後からある宣教師と話している時にスマホが鳴ったので『どうぞ出てください』と言ったところ、『2時間おきに神に感謝を覚えるようにタイマーをセットしているんです』とのことでした。彼女の純真な、信仰者としての姿勢に敬服しました。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」コロナの影響もあって、できないことばかりに心がとらわれて鬱々してしまいがちですが、できることを一つ一つ感謝していくことの大切さを思い出しました。
2020/03/17
教会のディボーションはゼパニヤ書になりました。「わたしは必ず、すべてのものを大地の面から取り除く。」厳しい神の裁きの宣言ですが、それは同時に「主を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。そうすれば、主の怒りの日に、かくまってもらえるかもしれない。」という救いの招きでもあります。今からでも遅くはない、救いの可能性は十分にある…という主の声が聞こえてきそうです。神は苦難のただ中にいる者と『ともに』苦しんでおられる神なのであり、なおかつ不可避的な苦難の中に『幸い』を宣言しておられる神なのであって、決して天の高みから人間を見下ろしておられる神などではありません…。ある本に書いてあった言葉が心に残りました。確かに私たちの主は、私たちがどんな苦しみの中にもインマヌエルの神としてともに苦しんでおられるのです。
2020/03/16
Ⅱペテロ3章~。ペテロはこの手紙の最後に「あなたがたの記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたい」と記しました。主の日は盗人のようにやってくる…いつも心しておきたい言葉です。そうは言っても多くの人は忘れがちでしょう。これだけ様々な災害が起き、国と国とが争い、痛ましい事件が続いても、『それらは神などいない証拠。いてもこの世界に介入しない。』という声も聞こえてきます。そんな人の思いに対してペテロは言います。「平安のうち神に見出していただけるように努力しなさい。…私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。」主が再臨の日を忍耐しているのはすべての人が悔い改めに進み、主に立ち返るのを待っているからです。花は寒い冬の間も自分の咲く時期を知っています。人間にも神に向かって顔をあげる日が来ることを教えているようです。