2025/05/05
新緑が眩しい季節、教会から歩いて12分程の場所に箕面国定公園があります。今日は連休後半の好日でもあり、大勢の方が来られていました。秋の紅葉もいいですが、この時期の滝道も美しい景観を楽しめます。さて、教会のデボーションは詩篇73篇です。クリスチャンの幸いは同じ信仰に立つ人々と一緒に「神のみそばにいること」です。主こそ「心の岩」、人生の「土台」。一人のデボーションもいいですが、ぜひ水曜祈祷会で御言葉を分かち合いましょう。
2025/05/05
5月第一主日、気持ちのいい薫風を感じながら今日も霊とまことをもって礼拝を献げました。礼拝メッセージはルカ24章の終章から。イエス・キリストは私たち全人類の罪をその身に背負って、十字架にかかり、死んで墓に葬られました。しかし、この方は三日目に死からよみがえり、天に上り、今も生きておられます。世界で最初のイースターの日、弟子たちは集まって、イエスさまの墓が空になっていることを話し合っていました。そこによみがえられたイエスさまが現れて、「平安があなたがたにあるように」と声をかけられたのです。主のよみがえりがいかに人間の理解を超えているか…弟子たちは取り乱して、幽霊だと思ったとあります。イエスさまはご自分の手と足を見せ、さわらせて、復活のからだを示されました。それから40日間、弟子たちとともに過ごし、これからご自分が何をしに、どこに行くか、復活を信じて生きる人生がどんなに素晴らしいかを教えられ、天に上げられたのです。この日を境に弟子たちは、キリストの証人となり、全世界に福音が宣べ伝えられていきました。今ここに教会がある、クリスチャンがいる、イースターの喜びは今も続いているのです。
2025/05/03
菊池寛の作品『明眸禍』の主人公は、大学出の秀才で片足が不自由な人ですが、父親が大事業家で、事業に失敗し破産したことが主人公を牧師に献身させるというテーマ。これは岩下壮一師とイエスとの出会いと、その生涯をモデルとしたもの。今までは破産者を審く正義の神が、「汝のその罪のために血を流した…」と語られる愛の神として立たれた。以来、一生を公用で過ごす生き方に決別し、自分のあがない主キリストの徹底したしもべとなるために神父になった。イエスとの出会いは、人生に真の意味を与え、一度しかない人生に厳しいものを与えます。イエスとの出会いによって御旨が明らかになった時には、それが人間的にはいかに難しく思えても、ひたすら御旨に服従し、主を信じてそれを果たさねばなりません。これが師の出会いと生き方であったと思います…。何となく手にした小説のあとがきを読んで、パラパラと読み始めました。少し古い本なので私には読みづらかったのですが、共感するところがいくつかありました。どん底の人生、絶望の淵で佇むそのところにイエスは近づいて来てくださって声をかけてくださるのです。「わたしはあなたのために祈っている」
2025/05/02
人生には不思議なことがあります。誰と出会うか、何と出会うか。人生は出会いで決まるとも言います。何かの縁で…ということをよく聞きますが、クリスチャンはそれが神のご計画であることを知っています。「神のなさることは時にかなって美しい。」今日も英会話で心躍るような不思議な出会いがありました。それを単なる偶然と思うか、神の計画と思うか、その違いはあまりにも大きい。そして、私たちの人生において最も価値ある出会いは神との出会いです。
2025/04/30
4月第五水曜祈祷会、レビ記25章から。聖書には七の生活リズムがあります。一週間毎の安息日、七カ月目の宥めの日、七年ごとの安息年です。六年間農耕し、七年目には完全に休耕する。さらに50年目のヨベルの年には自由と解放が宣言される。それは実に信仰がなければ従えなかったでしょう。でも、人も地も建物もすべてが主のものということを思えば、私たちもまず神の国と神の義を求めることが賢明です。明日のことは心配せず、今日主の御声に従いましょう。
2025/04/29
昨日の雨もすっかり止んで、穏やかな春風が吹く中、今日は千里中央公園に教会ピクニックに行きました。コロナの間はしばらくお休みしていましたが、豊かな緑と青空の下でお弁当を食べ、子どもたちは150mのローラーすべり台やかけっこに、大人たちはコーヒーを飲みながらゆっくりお交わり、それぞれのんびりと過ごしました。聖書クイズも賛美の時もすっかり忘れてしまいましたが、教会らしい楽しい交わりでした。自然を造られた主に感謝です。
2025/04/27
4月第四主日、先週の復活祭の喜びを覚えつつ、今日も世界で最初のイースターの日の出来事を覚えました。メッセージはルカ24:13~35、エマオという村に向かう二人の弟子たちの前に、復活の主が現れ、一緒に歩き、話されたところから。二人の弟子たちはエルサレムでイエスさまの十字架の死を見届け、大きな失望感を抱えて歩いていました。イエスさまはそんな彼らの心を知って、ご自分から近づいて来られ、そっと声をかけられたのです。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」もちろん、イエスさまはそれをご存知でした。ご存知の上で、彼らに問いかけたのです。彼らはイエスさまが死んでしまわれたこと、自分たちの望みが消えてしまったこと、その亡骸さえもなくなってしまったことを話しました。イエスさまは聖書全体に書いてあることを説き明かされ、彼らの心の目を開かれ、心が内で燃える経験を与えられたのです。あの方はイエスさまだった…とわかった時、彼らの喜びはどれほど大きかったことでしょう。今日、聖書を読んで、メッセージを聴いて、私たちの心を燃えさせるのは聖霊のお働きです。復活の主は今日もともに歩いてくださいます。
2025/04/25
春は気候の変化や環境の変化があって、自律神経が不安定になりやすい時期です。そんな時、もしお近くに教会があれば立ち寄ってみてください。いきなり日曜礼拝に出るのはハードルが高いかもしれませんが、平日なら人目を気にすることもありません。事前に電話を入れておけばお茶の準備をしてくださるかもしれません。誰かに話しを聞いてもらうだけで問題解決に向かうこともあります。牧師も喜んでお祈りしてくれるでしょう。もちろん無料です。
2025/04/23
4月第四水曜祈祷会、レビ記20章から。神は他国民の間で当然のごとく行われているモレク礼拝や種々の逸脱した性的行為、霊媒や口寄せに対する厳しい処罰を命じられました。律法の厳しさは神の愛から来るものです。私たちも誰もがやっていることだからということで、神の基準を安易に下げないようにしたいものです。午後はZoom会議もありましたが、雨も止んだので教会ピクニックの下見に行ってきました。子どもも大人ものんびりできそうな公園です。
2025/04/20
4月第三主日、今日はイースター賛美礼拝を献げました。礼拝メッセージはルカ24章1ー12節から。イエスさまが墓に埋葬されるのを見届けていた女たちは、週の初めの日の明け方早く、墓へと向かい、せめてそのお体に香料を塗らせて頂こうと思いました。でも、そこにイエスさまの亡骸はなく、だれかが持ち去ってしまったのだ…と彼女たちは途方に暮れていたのです。すると突然、二人の御使いが現れて言いました。「ここにはおられません。よみがえられたのです。…主がお話しになったことを思い出しなさい。」喪失感で一杯だった彼女たちは御使いの知らせを聞いて恐ろしくはありましたが大喜びで弟子たちのもとに知らせにいきました。「恐怖」と「喜び」…普通この二つは共存しにくい感情です。でも、復活の知らせを受けた彼女たちはまさに理解し難い感情に覆われたのです。そんな彼女たちの報告を受けたペテロをはじめ使徒たちもそれを戯言のように思いました。イエスさまの教えをずっと聞いてきた彼らでさえそうなのですから、いかに復活が受け入れ難いものであるかを思います。でも、復活こそ真実であり、キリスト教の根幹であり、私たちの希望の源泉なのです。