2025/03/06
今日から四旬節(レント)に入りました。イースターまでの日曜日を除く40日間はイエスさまの受難を覚えて悔い改めと献身を新たにする時です。今日の祈祷会ではルカ9:51-62を読みました。「イエスは御顔をエルサレムに向け…」いよいよ最後のエルサレムへの旅が始まります。そこでイエスさまは最初に弟子たる道を教えられました。「人の子には枕するところもありません」イエスさまに従っていくとはどういうことかをあらためて考えさせられました。
2025/03/04
「…あなたがたは聖なる者でなければならない。」レビ記19章にはさまざまな規定が書き留められています。神の聖さを証しするイスラエルの民は、神に倣う生活をすべきであり、神が忌み嫌われるカナンの風習に倣ってはならないとあります。彼らにはすでに十戒が与えられていて、ここで改めて異教的な風習から分離された生活を生きるように命じられました。父母を敬うこと、安息日を守ること、盗み、欺き、偽証、虐待、詐取…今日の私たちも心に留めておきたいことです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」その積極的な目的は、聖なる神に倣う民がともに生きることにあり、もちろんクリスチャン同士のことだけでなく、自分以外のあらゆる人に対して覚えるべきことです。大切なのは、まずこれらができていない自分の罪に気づくことであり、またそうした自分に対する神の深い愛に気づくこと、そして、神の聖さに引き上げてくださるように祈り求めることです。明日から四旬節(レント)が始まります。イースターまでの40日。先週に比べると、また少し寒さが戻ってきましたが、日一日と春近しです。花粉症の方は辛い時期ですね。ご自愛ください。
2025/03/03
3月第一主日、外は小雨の降る中でしたが、今日も教会の中は温かな交わりに溢れていました。礼拝メッセージはエレミヤ書36章から。神はエレミヤを通して、主のことばを巻物に書き記しなさいと命じられました。そこで書記バルクが呼ばれ、エレミヤによる口述筆記がなされたのです。主は言われました。「わたしが下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪を赦すことができる。」神の裁き、神の愛は、まるでコインの表と裏のようです。主の預言の目的は、裁くことではなく、赦すことにある。愛するからこそ、厳しい言葉になる。イスラエルの民は結局誤った選民意識の中で、神の愛を軽んじ、神の裁きにあって行きました。今日の教会も、聖書のメッセージをしっかり伝えて行かなければと思います。もちろん神は愛です。神はあなたを愛しておられます。でも、まず罪とは何かを知り、自分がいかに神から離れた者であるかを知らなければ、本当の神の愛も恵みも赦しも悟ることはできないのです。今日は午後から教会総会もありました。恵みを振り返り、展望を語り合いました。
2025/03/01
以前から興味があった防災士の研修講座を受けてきました。事前に教本を読んで課題を終えてから参加するのですが、最初の救急救命講習からはじまり、非常に内容の濃い二日間でした。会場には120名程、高校生から主婦、企業、学校関係者など様々な立場の方が受講されていました。最後の試験はどうなるかわかりませんが…講師の方が良きサマリヤ人の聖書のことばを引用されたり、あらためて防災・減災に対する心構えが変わりました。お勧めします。
2025/02/26
寒さも少し和らいできました。2月の旧約聖書を学ぶ会は出エジプト記15章から。偉大なる救いの御業にあずかったイスラエルの民はモーセとともに神を賛美します。でも、三日後にはマラの水が苦くて飲めないと不平に変わりました。荒野はまさに神への信頼を学ぶ訓練の場でした。モーセが神に叫ぶと一本の木が示され、それが苦い水を甘い水に変え、彼らは無事にエリムに着いたのです。学び会が終わってからの分かち合いにも励まされ、感謝な時でした。
2025/02/24
2月第四主日、小雪がちらつく寒い一日でしたが、教会の中は祝福で一杯の一日でした。礼拝メッセージはエレミヤ書31:31ー34から。国敗れ、多くの民が捕囚となり、絶望の淵に立つイスラエルの民に、エレミヤは神の預言を語りました。「見よ、その時代が来るー主のことばー。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの民と、新しい契約を結ぶ。」エジプトを出たときに与えられた十戒ではなく、神は民と新しい契約を結ぶと言われました。しかもそれは石の板に書き記されたものではなく、あなたがたの心に書き記すというのです。神は義なる正しい方ですから、罪に対して裁きを下さなければなりません。でも、20節にあるように、憐れみ深い愛なる神ははらわたがわななくほど、彼らをあわれまずにはいられないというのです。ここに神が御子を遣わされた理由がはっきりと描かれています。怒りを克服する愛はまさに痛みであるゆえ、これが新約聖書で言えば十字架を指し示すわけです。神の愛が胸に迫ってくる箇所でした。今日は礼拝後は婚約式。さわやかな男女が神の前に誓約をしました。主がお二人の誓約を全うさせてくださり、守り導いてくださいますように。
2025/02/17
第三水曜祈祷会、今日はレビ記11章から。ここはいわゆる「食物規定」と言われるところです。動物の中で食べて良い生き物について記されています。それはすべてひづめが分かれ、反芻するものは食べても良いとあります。一方で食べてはならないのが、反芻はするが、ひづめが分かれていないいらくだや岩だぬきや野うさぎや豚とあります。水中の生き物についても、ヒレと鱗のあるものはすべて食べても良いが、それ以外の貝類や甲殻類やタコ、イカ、ウナギ、蛙などなどは食べてはならないとあります。鳥類に関しては、もはや詳細な説明もなく、リストだけが挙げられています。昆虫類は羽があったり、四本の足で歩き回るすべてのものはあなたがたに忌むべきものだとあります。食べても良いのは、いなごの類、毛のないいなごの類、コオロギの類、バッタの類などが挙げられています。これらの食物規定を新約時代のキリスト者は守らなくていいのかと言えば、「こうしてイエスはすべての食物をきよいとされた」という言葉に答えが表されているように思います。
2025/02/17
2月第三主日礼拝、今日も穏やかな週の始まりでした。礼拝メッセージはエレミヤ書30:1~24から。「見よ、その時代が来る。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる。」ソロモン王の死後、イスラエルは南北に分裂し、混迷の時代を迎える中、まず北イスラエルがアッシリア帝国によって滅ぼされ、続いて南ユダも新バビロニヤによって滅ぼされ、エルサレム神殿は陥落し、多くの民が捕囚となりました。エレミヤはそれを、神の声に聴かず、神に背を向け続けた社会に対する神の審判であると告げたのです。聖都エルサレムとその神殿の不滅を迷信的に信じていた人々にとって、神の審判(さばき)などあり得ないことだったでしょう。でも、神はご自分の民の真の回復のために苦難の時を与えられたのです。エレミヤが語ったのは神の厳しい審判とともに、驚くような神の救いと回復でした。つまり捕囚が主のさばきであるとともに、回復も主の御業であるということです。聖書に記されている神のさばきは、さばきが目的ではありません。それはご自分の民が罪を悔い改めて神に立ち返るためであり、その時、神は民を受け入れ、回復させてくださるのです。
2025/02/15
初めはキリスト教と関係しながら、奇妙な祭りに変わったものの一つにバレンタインデーがあります。三世紀後半に、司教ヴァレンティヌスがローマで殉教した日が、なにゆえ恋人やお世話になった人にチョコレートを贈る日となったのか…。一説には、この日に鳥が愛をかわすからだとか…他にも諸説あるようですが、何はともあれ『愛』を動詞にして表わすのは大事なことですね。「神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた…」
2025/02/12
2月第二水曜祈祷会、小雨の降る一肌寒い日でした。レビ記6章から御言葉を心に留めました。一人で読んでもよくわからない箇所も、何人かで読むと新しい気づきがあるものです。朝ごとに、夕ごとに、祭壇の火を燃え続けさせなさい、消してはならない…。私たちも朝ごとに、夕ごとに、内なる祭壇を築き、自分を献げ、信仰の火を燃やし続けることの大切さを思いました。もちろん、それは自分の努力やがんばりのことではなく、聖霊の働きによるものです。

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