2024/12/21
預言者ミカは嘆かずにはいられませんでした。ずっと手入れをしてきた果樹園が荒らされて、実を見ることができない時のよう…神の前に敬虔な人がいない、心の直ぐな人がいないとは、そうした状態だというのです。その当然の結果として刑罰の日がくる。神は侮られる方ではない。人は種を蒔けばその刈り取りもしなければならない。そんな絶望的状況の中でミカは祈ります。「しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。」目の前の現実だけを見ていたら、希望の光は見えてこないでしょう。でも、主を仰ぎ見るとき、そこで私たちの祈りを待っておられる方がいることに気づかされていきます。裁きの言葉は神がまだこの世を見放していない証しです。「あなたがエジプトの地から出た日のように、わたしは奇しいわざを彼らに見せる。」試練も神の計画の一部。私たちが悔い改める(人生の方向転換をする)とき、神は嫌々赦すのではなく、喜んで赦してくださいます。そこで神と出会い、神に祈り求め、神の赦しと贖いにあずかる道があるのです。飼葉桶の幼子は、クリスマスがその最もよい機会であることを示しているのです。
2024/12/18
昨日は12月の『旧約聖書の学び会』がありました。小さな学び会ですが、いつもお二人の方が必ず出席してくださって一緒に御言葉の恵みを味わっています。牧師としてそれは本当に有難いことだなと感謝しています。「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」イエスさまの臨在を感じながら、同じ祝福にあずかっている幸いを思いました。もちろんオンラインでご視聴くださる方々にも本当に励まされています。どうぞ来年も学び会にご参加いただけましたら幸いです。また、今日は2024年最後の水曜祈祷会がありました。ミカ書5章から『主の大逆転を待つ』というテーマで御言葉を心に留めました。私が一番心に残ったのは「ベツレヘム・エフラテよ」です。メシアの出現は南ユダの首都エルサレムではなく、地図にも載らないよう寒村ベツレヘムだと告げられました。そしてその預言通り、約800年の時を経てキリストがお生まれになったのです。あなたの今がどんなに暗くても、神はあなたを忘れたりしません。神はこの世の弱い者…無に等しい者を選ばれる方です。そこに私たちの思いを越えた神のご計画があるのです。
2024/12/16
12月アドベント第三週、いよいよクリスマスが近づいてきました。今日の礼拝メッセージはマタイ1:18-25「インマヌエルの神」がテーマでした。大工のヨセフと婚約関係にあったマリアののもとに、突然主の使いが現れて「あなたは身ごもって男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」と告げました。マリアは戸惑いつつも信仰をもって受け留めましたが、ヨセフにはまだ何も告げられていませんでした。彼女の胎に赤子が宿ったことが分かると、身に覚えのないヨセフは思い悩んでいきます。穏やかな生活が根底から揺さぶられるような苦悶の日々だったでしょう。神はそんな彼の夢の中に御使いを送り、「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアを妻として迎えなさい。」と告げられました。ヨセフもまたこの常識では考えられない状況を信仰をもって受け入れていったのです。大きな重荷を背負わされた若い夫婦にとってインマヌエルの約束は何よりも心の支えとなったことでしょう。それは私たちの信仰生活も同じです。今日は午後からキッズ&ファミリークリスマスがありました。子どもたちの降誕劇も可愛かったです。賑やかで温かいクリスマス会となりました。
2024/12/14
クリスマス受胎告知と言えばマリアが有名ですが、もう一人の立役者のヨセフを忘れてはいけません。妻マリアの胎に宿ったのが自分の子どもではなく、その子の名さえ自分で決められないという不条理を背負ったヨセフ。思いたくもないマリアに対する疑惑…。誰にも言えない悩みの日々を過ごしたことでしょう。でも、ヨセフはアリアとともに生きる決断をしたのです。このヨセフなくしてマリアもなく、世界で最初のクリスマスの奇跡もなかったのです。
2024/12/12
今日はハートフル英会話秋期コースの最後のクラスでした。大人の方はクッキーハウス作りとプレゼント交換、キッズクラスはオリジナルクラフトをしました。どちらもクリスチャンの講師ならではのアイディアで本物のクリスマスを楽しみ味わいました。「キリストは富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたがキリストの貧しさによって富む者となるためです。」冬期コースを受付開始。1月16日から開始します。
2024/12/12
12月第二水曜祈祷会、イザヤ書66章から。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。」いよいよこの預言書の最後の章を迎えました。偉大なる主の前に、私たち人間の二つの姿が描かれています。それは神が目を留められる者と拒まれる者です。その違いはあまりにも大きいと言わざるを得ません。でも、神は悪しき者が滅びゆくのを黙って見過ごすことができないお方でした。それゆえ神としてのすべての栄光をかなぐり捨てて、人となって降られたのです。
2024/12/10
教会のデボーションはイザヤ書65章から。「わたしを尋ねなかった者たちに…わたしは見出された。」イスラエルの民が偶像を拝んで反逆するので、その結果、神の惜しみない愛と救いの御手は、他の民族(異邦人)に向けられることになったとあります。今日、神の民はユダヤ人であれ異邦人であれ、イエスを救い主であり主であると受け入れた人々です。「わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。」世の終わりには新天新地が再創造され、すべてのものは新しくされます。その時、私たちにとって大事なのは、神との関係が回復していることです。聖書には、神を信じた者、その名を受け入れた者に神の子どもとなる特権をお与えになられたとあります。"クリスマス(Christmas)"…それはイエス・キリストのご降誕を喜び祝う祭りです。キリストが人となって来られてからすでに2000年以上も経っているのに、今も世界中で祝われているのは不思議なことではないでしょうか。この時期、教会では様々なクリスマスイベントがあります。お一人でも、ご家族でも、ぜひお近くのキリストの教会で、本物のクリスマスを体験しましょう。
2024/12/09
12月アドベント第二礼拝、冷たい空気が頬に当たる朝ですが、教会はいつものように温かな神の愛に包まれる礼拝を献げました。メッセージはルカ1:26ー55マリアのもとに御使いによる受胎告知がなされたところから。処女降誕は神にとってはごく細やかな奇跡だったでしょう。神が人となられたということ、これこそはるかに大いなる奇跡です。一層驚くべきは、ほかならぬ自分が神の母として選ばれるという御告げを、このごく普通乙女が信じたということです。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」という思いから、「どうぞ、あなたのことば通り、この身になりますように」という信仰に変えられていったマリア。疑い、戸惑いを覚えつつも、みことばに信頼して歩もうとする、その健気な姿は今日の私たちにも大切な信仰者のあり方を教えています。ただ、プロテスタントの教会はそんな彼女を敬愛することはあっても、崇拝することは致しません。カトリックの教会も崇敬であって崇拝ではないと言われますが…聖母、聖人という言葉はいかがなものなのでしょう。神はこの卑しいはしために目を留めてくださったというマリアの信仰に、私は共感するところです。
2024/12/07
教会のデボーションはイザヤ64章から。63章に続いて「主よ、あなたは私たちの父です」とあります。神に背を向ける民に代わって、イザヤのとりなしの祈りが続きます。自分たちは神によって造られた者です。主よ、憐れんでくださいというのです。苦しい時の神頼み…というとなんだかご都合主義のように思われますが、それでも苦しい時の神離れに比べればまだマシです。求めましょう。神は憐れみ深く、求める者に答えてくださるお方なのですから。
2024/12/06
目的地に行くにはそのまま直進するのが一番早いとしても、紅葉の見頃もあと僅か…と思うと、あえて遠回りしたくなるものです。丁度、いま読んでいる本にも似たようなことが書いてありました。『最短距離で行くとか効果的に最速でゴールに到着するといった目標は、霊的旅路において意味をなさない。この旅路では、回り道も、道に迷うといったことも含め、道のりのすべてに価値がある…』人生の回り道にも神が見せたい景色があるのかもしれません。

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