価値ある人生を生きる…

今年最後の主日礼拝を献げました。礼拝メッセージはマタイ2:1-12から。東の国の博士たちは不思議に輝く星を見つけ、思い切って救い主を礼拝するために旅出ちました。交通網もない時代、星だけを頼りに長旅をするのは様々な試練があったでしょう。それでも彼らは途中で引き返すことなく、神の導きを信じて進みました。ところが、彼らが胸躍らせながらエルサレムに着くと、町は何事もなかったようにいつも通りの様子でした。博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。」と尋ねると、それを耳にしたヘロデ王が動揺し、彼らにその幼子のことを調べてくるように命じました。こうして博士たちはついに幼子を見つけ、この上もなく喜び、自分たちの持っていた黄金、乳香、没薬を献げ、心からの礼拝を献げたのです。人に従うより神に従うこと、クリスマスの中心が何であるか、それが今日の私たちにとってどんな祝福なのかをあらためて教えられました。今日もこうして教会でともに集まり、礼拝を献げることができて感謝でした。拙いブログを読んでくださってありがとうございます。皆さまの上に主の祝福を心よりお祈りしています。

主を愛せよ…

12月第四水曜祈祷会、クリスマスの余韻を覚えつつ、今日はオンラインで祈祷会を行いました。新型コロナは五類に移行してだいぶ落ち着いてきましたが、このところ緩やかな増加傾向にあるとのことです。年末年始に帰省されたり、旅行に出かける方も多いと思いますので、どうぞご自愛くださいますように。デボーションは詩篇31篇から御言葉を心に留めました。著者は厳しい逆境の中で心身ともに弱さを覚えていました。しかし、「私は主に信頼します。あなたこそ私の神です。と自らを奮い立たせるように信仰を告白したのです。人はみな、生きていれば必ず問題はあります。すぐに解決できる問題もあれば、長い時間かかる問題もあります。そうした中で、信仰者にとっての慰めは、主が私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみをご存じであることです。御使いは、飼葉桶に寝ている幼子…それが、あなたがたのためしるしですと告げました。すべてを捨ててこの世にお生まれになられた主は、私たちの悩み、悲しみ、苦しみを知っておられるのです。「主を愛せよ。すべて主にある敬虔な者たち。主は誠実な者を保たれるが、高ぶる者には 厳しく報いをされる。

あなたのための救い主…

12月第四主日、今日は午前中にクリスマス特別礼拝、また夕方からはクリスマスイブ・キャンドルサービスを献げました。礼拝ではルカ2章から『あなたのための救い主』と題してメッセージをさせていただきました。世界で最初の救い主誕生の知らせは、当時の社会で特に虐げられていた羊飼いたちに告げられました。彼らは寒空の中、野宿をしながら羊の群れの夜番をしていなければならないほど、仕事に追われ、生活に追われていました。神はそんな人々から見下げられていた彼らを選んで、御使いを遣わされたのです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」『あなたがた』とは民全体を指す言葉、まさに全世界の人々に向けて語られる神のメッセージでした。羊飼いたちはその知らせを信じて、「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」と出かけて行きました。この素直な応答ゆえに救い主誕生を目の当たりにしたのです。人間にとっては偶然に思えることも、神にとってはすべてが必然です。皆さまの上にもクリスマスの良き知らせがありますように。

本当のクリスマスを…

今年もΧ'mas(Χはギリシャ語。英語のXではありません。)が近づいてきました。クリスマスはキリストのご降誕を喜び祝い、礼拝を献げる日です(大体AD4世紀頃から祝うようになったと言われます)。聖書にはイエスさまの誕生日が12月25日だったという記述はありません。なぜこの日にしたのかというと、ローマ人たちが冬至を境に日が長引くのを『太陽の誕生日』として祝っていたことに関係しているようです。太陽の誕生と言えば、「世の光・義の太陽」。つまりクリスチャンたちはこの異教的な祝祭をキリスト教的に祝ったのです。ちなみに日本で最初にクリスマスを祝ったのは1552年の山口県。その後、信長、秀吉、家康…と時代は移り、キリシタン禁制とともにクリスマスも消滅し、それから時を経て…明治7年(1874年)に再び祝うようになったとのこと。ちなみに…クリスマスイブはクリスマスの前日ではなく、…夕方という意味(ユダヤの暦では日没を境に日が変わります)、つまり12月24日の夕方からクリスマスは始まります。教会ではこの日、朝にはクリスマス特別礼拝があり、夕方からはキャンドルサービスがあります。皆さまのお越しをお待ちしております。

人を恐れると罠にかかる…

12月第三水曜祈祷会、教会のデボーションは箴言29章から。「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」この間の子どもクリスマス会に来ていた男の子が帰り際に『クリスマスってサンタクロースの日じゃないの?』と質問してくれました。後ろでお母さんが『牧師さんに聞いてみたら…』と背中を押してくれたようです。確か私も小学校高学年くらいまでサンタクロースの存在を信じていたので、友だち同士で話しているのを聞いて、戸惑いつつもなんとかごまかしたのを覚えています。子どもながらに、周りのみんなが知っているのに自分だけが知らないのはこんなに恥ずかしいんだ…と思ったものです。でも、大人になってその考えも変わりました。「人を恐れる」とは、人の顔色をうかがうこと、人の思惑を気にすることです。聖書は、その先には罪の罠があるから気をつけなさいと教えています。なぜなら罪とは、神に背を向けること、神を二の次にすることだからです。たとえ周りのみんながどう思おうと、自分はここに立つというものを持っていたいものです。「支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし、人をさばくのは主である。

ヨセフへの受胎告知…

アドベント第三礼拝がありました。この時期になると、町は華やかな雰囲気に包まれると同時に、一人一人は慌ただしい日々に忙殺され、クリスマスを祝うどころではない方も多いでしょう。でも、だからこそ神の前に静まり、御言葉からクリスマスの本当のメッセージに耳を傾けたいものです。今日の礼拝メッセージはマタイ1:18‐25から、ヨセフへの受胎告知がテーマでした。許嫁のマリアが身ごもっている…それはヨセフにとって穏やかな暮らしから一転して奈落の底へ落とされるような知らせでした。受け入れがたい現実を前に、彼には二つに一つの道しかありません。マリアの懐妊を公にして罰を受けさせるか、密かに離縁状を書いて町から去らせるか…前者を選べばヨセフの責任は問われず、後者を選べばヨセフにも疑惑の目が向けられるでしょう。そこで彼が選んだのは後者。マリアを助ける唯一の手段でした。でも、彼がその決断を下す時、神は御使いを遣わして、神に従うもう一つの道があることを告げられたのです。私たちも時に、人間的には八方塞のような状況に立たされる時がありますが、神はもう一つの道、脱出の道、神に従う道を用意しておられるのです。

正しい人は七度倒されても…

昨日の水曜祈祷会では箴言24章を読みました。「正しい人は七度倒されても、また起き上がり…」人生七転び八起のことわざを思い出すような御言葉です。箴言に記される『正しい人』とは、単に道徳的・倫理的に正しい人のことではなく、神を神として認め、神により頼んで歩む人のことです。まず不思議に思うのは、なぜそんな正しく歩んでいる人が何度も倒されるような苦しい目に遭うのかということでしょう。それなら信仰があってもなくても同じじゃないですか…という声が聞こえてきそうです。実際に私たちの人生は七度どころか、もっと多くの苦難にあっている方もいます。それはクリスチャンであってもなくても同じです。でも、聖書は、その心にイエスさまをお迎えしている、イエスさまとともに歩んでいるなら、その人の人生は決して失望に終わらないというのです。クリスマスは、私たちがどんな人生を歩んでも失望することがないように、神が考えられないほど低くなって来てくださったことを喜び祝う日です。今日はハートフル英会話の秋期コース最終日でしたが、made himself nothing…について少しお話しさせていただきました。Have a good Christmas.

マリアの賛歌…

穏やかなお天気のもと、今日も大勢の方がともに集い、アドベント第二礼拝を献げました。メッセージはルカ1:46~56『マリアの賛歌』をテーマにみことばを心に留めました。まだ幼さの残る少女に突然の御使いからの受胎告知がありました。そんなこと常識では考えられない…もしそれが本当なら、婚約中のマリアは姦淫罪、厳罰は免れず、町にもいられません。夫のヨセフや家族にも何と説明すれば…。様々な思いが少女の心の中に渦巻きます。御使いはそんな彼女に「神にとって不可能なことはありません」と告げると、マリアは『どうしてそんなことが信じられますか』ではなく、「あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と答えました。その時、彼女の心から主への賛歌が溢れてきたのです。プロテスタントの教会は、イエスさまの母であるマリアを崇拝するようなことはしません。ただ…神のことばをそのまま受け入れた彼女の信仰者としての姿勢は尊敬に値するものとしてそれに倣いたいと思わされます。午後は約4年ぶりとなる子どもクリスマスがありました。たくさんのご家族が来てくださって、一緒に本当のクリスマスをお祝いできたのは感謝でした。

それゆえ、男は父母を離れ…

子ども会の時から来てくれていた女の子が結婚することになりました。私に司式を頼んでくれたのですが、二人ともまだ洗礼を受けていないので(正直少し悩みましたが)、結婚前カウンセリングを受けることとイエスさまへの信仰を確認してお引き受けました。前日の夜は、品川駅で久しぶりの母と十数年ぶりの兄と会う約束をして…これはこれで感慨深い夕食となりました。結婚式は、新横浜のホテルのチャペルで、リハーサルもしたつもりなのですが、やっぱり教会で行うのと勝手が違って少々戸惑いましたが、何より最初のバージンロードを歩いてくる新婦を見たら感動してしまい、涙腺が言うことをきかなくなって…。「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」最初から涙声の牧師で申し訳なかったですが、誓約、指輪交換、宣言…と守られて、大きな務めを果たし終えて新幹線で帰阪しました。教会に着くと、明日の礼拝メッセージの準備もラストスパート。注文しておいたアクリルケースが届いていて、早速あるご夫妻から献品して頂いた『Nativity』を教会の入り口に飾りました。明日礼拝に来られる方は楽しみにご覧ください。

イエスさまの奇跡…

教会で行っている英会話教室の一つの特徴は、一クラスの定員が六名までというところです。大人のクラスはあと二名ほどで定員となります。少人数なので先生とも気軽に話せて、他の受講生ともすぐ親しくなれます。ぜひ無料体験クラスをご利用ください。また、もう一つの特徴は、隔週でチャペルタイムがあることです。今日は新約聖書の中で最も有名な『五つのパンと二匹の魚』の話しから先生が話してくれました。イエスさまは、天地万物を造られた方なのに、私たちと同じ人間となってこの世に来てくださいました。それは、私たちと同じように苦しみや悲しみ、空腹や疲れることなどを一緒に負うためです。イエスさまは、この奇跡を通して私たちの生活、その必要の一切を満たすことを教えてくださいました。聖書を英語で読むと、また違った世界が見えてきて興味深いと思います。でも、イエスさまの奇跡として何よりも不思議なのは、神が人となられたということではないでしょうか。罪と悲しみと争いに満ちたこの世界に、しかもどうして飼い葉桶の中に生まれたのか…。「これが、あなたがためのしるしです。」ここにクリスマスの大切なメッセージがあります。

人の心と主の計画…

12月第一水曜祈祷会、先週から私が風邪をひいてしまい、今日も鼻声が続いているので…休会とさせて頂きました。楽しみにしてくださっていた方には申し訳ありませんでした。教会のデボーションは箴言19章から。「人の心には多くの思いがある。しかし、主の計画こそが実現する。」私たちはいろいろな計画を立てます。私も今週はあれをしてこれをして…と考えていました。結局、体調を崩して予定のことは殆どできませんでした。でも、代わりに休息する時間がたくさん与えられて、来年の年間聖句や教会形成について、また、体調を崩している方々の回復を祈り求める時間になりました。そのように神さまが導いておられたように思います。どうせなるようにしかならない…というのはクリスチャンの考え方ではありません。『主よ、今日私はこれとこれをしたいと思います。でも、あなたの御心を教えてください。私は何を為すべきでしょうか。』朝ごとにそうした思いを持つことは大切だと思います。今回ちょっと体調を崩しただけでも、普段健康でいられるのがどんなに恵みであるかを感じました。何もかも当たり前でない毎日、主と賢明な妻に心から感謝いたします。

ザカリヤの賛歌…

今年もアドベント(待降節)のシーズンを迎えました。アドベントとは、クリスマスまでの4週間、イエス・キリストのご降誕を喜び祝い、再臨の主が来られるのを待ち望む期間です。礼拝メッセージではルカ1章67節からザカリヤの賛歌をテーマに御言葉に聴きました。御使いガブリエルの言葉通り、ザカリヤとエリサベツに男の子が誕生しました。幼子を抱いて、喜びに溢れる老夫婦の顔が目に浮かびます。そして聖霊に満たされたザカリヤの賛歌はそのまま神の預言の言葉となったのです。「ほむべきかな。イスラエルに神、主。主はその御民を顧みて、贖いをなし、救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。」神はご自身の約束を必ず成就されるお方です。また、私たちの救いを完成してくださるお方、私たちを遣わされるお方です。私もキリスト教の『キ』の字も知らなかった者ですが、聖書と出会い、教会に通うようになり、クリスマスに洗礼に導かれました。あれから26年が過ぎますが、今もなんとかクリスチャンでいられるのは偏に神の恵み以外の何ものでもありません。皆さまもぜひアドベントの時期、聖書から一緒に神の言葉に耳を傾けませんか。

人は心に計画を持つ…

ハートフル英会話秋期コースも残すところ、あと二回となりました。今日も和やかなご婦人たちの会話と賑やかな子どもたちの笑い声が会堂に響いていました。英会話は体験クラスがありますが、最初は緊張して受講される方も、次第に講師やクラスの方々と打ち解けて、親しくなっていく様子をみるのは楽しみです。新しい出会いが皆さまの人生をより豊かなものにするようにお祈りしています。教会のデボーションは箴言16章から。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。」人は自分の人生の大きなことも小さなこともよく思い巡らします。今、皆さまはどうでしょう。今日はどんな一日になるでしょう。私たちは自信をもって自分の為すべきことをし、有意義な一日を過ごしたいと思うのではないでしょうか。確かな一日を歩むにはどうすればいいのでしょう。自分で考えて、自分の力で、一つ一つのことを為していく。それも、立派なことです。でも、聖書は、私たちの歩みを確かなものするのは、主(神)であると教えているのです。神とともに歩む人生は、神の声を聴く人生です。弱さのうちに働いてくださる主を体験できますように。

ほむべきかな(ベネディクトス)…

昨日でホンダマモル作品展示会ヒトリコテンが終わりました。6日間大勢の方が足を運んでくださったようで感謝です。早いもので11月の第五水曜祈祷会。午前中は箴言15章から、午後はルカ1:5‐25、57‐80を読みました。「主の目はどこにもあり、悪人と善人を見張っている。」「穏やかな舌はいのちの木。舌のねじれは霊の破れ。」主が絶えず私たちを見てくださっていることは、善を行うことへの動機を起こさせ、また、悪を行うことへの防止に役立ちます。穏やかな舌は自分だけでなく他の人を癒し、逆に舌のねじれは自分だけでなく他の人を裏切ることになるなど、心しておきたい言葉がたくさんありました。夜はザカリヤとエリサベツの老夫婦の前にガブリエルが現れて「あなたは男の子を産みます。その名をヨセフとつけなさい。」と告げられるところから。ザカリヤは祭司でありながらそのことが信じられず、赤ちゃんが誕生するまで口がきけなくなりましたが、神のことばが時至って実現するのを目の当たりにすると「ほむべきかな。イスラエルの神、主。」と喜びを爆発させたのです。今日も教会でともに集まって御言葉を学び、互いに祈り合える幸いを覚えました。

I am who I am…

11月の旧約聖書を学ぶ会がありました。出エジプト3章から。モーセは羊の群れを導きながら、神の山ホレブで不思議な光景を目にしました。主の使いが燃える柴の中に現れて「モーセ、モーセ」と呼びかけ、そこで「わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。」という神の召命を受けたのです。モーセは思わず「私は、いったい何者なのでしょう」と自分の無力さを訴えました。それでも神は「わたしがあなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。」と言ってモーセを力づけたのです。私たちも神の語りかけを聴いた時、それが自分の力の及ばないものだと思うとモーセのような言葉をすぐ口にしたくなるのではないでしょうか。でも、神の語りかけにはいつも約束が伴うことを心に留めておきたいものです。神はご自分を「『わたしはある』という者である」と啓示されました。それは神は昔いまし、今いまし、後に来られる方、永遠なる神、あらゆる物質の第一原因である方、他のものに全く依存せずに自立しておられる方であるということです。今日はあらためてこの御言葉が心に残りました。わたしはあるという方が私たちの希望です。

光のあるうちに…

11月第四主日、今日は関西宣教区の講壇交換日でした。大和郡山めぐみ教会の正村献三師をお迎えしてメッセージを取り次いでいただきました。ヨハネ12:35‐36、「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」イエスさまは、すべての人を照らすまことの光としてこの世に来てくださいました。神である立場をお捨てになってまで、私たち人間が光の子どもとなれるように、救いの道を示すために…ご自身をお献げくださったのです。信仰とは、このイエス・キリストを自分の救い主として信じることです。私とは違って、普段から寡黙な正村師がご自身の証しも交えながら、わかりやすく丁寧に語ってくださいました。感謝いたします。私も奈良での奉仕を終えて帰って来ると、教会はアドベントを迎える準備が始まっていました。『アドベント』とは『待降節』のこと、『来る、到来する』という意味があります。イエスさまのご降誕をお祝いし、この方が再び来られる日を待ち望む時です。『クリスマス』とはどんな日なのか…私にとってどんな意味があるのか…今年も一人でも多くの方に聖書を通して神の語りかけを聴いて頂きたいと思っています。

ゴスペルボックス来訪…

昨日あたりから急に秋も深まって、昼間も気温が上がらずに12月並みの寒さとなりました。これだけ寒暖差があると体調を崩す方も増えるのではないでしょうか。皆さま、どうぞご自愛くださいますように。この時期、箕面の山はもみじが鮮やかな秋色に変わり、今日、明日が一番の見頃となるそうです。ちょっと寒いかもしれませんが、夜のライトアップもお薦めです。さて今年も、いのちのことば社のゴスペルボックスが教会に来てくれました。インターネットを使えばいつでも好きな本を手軽に入手できるのですが、アナログ人間の私は…やはり紙媒体の本を手に取って読めるのが嬉しいです。古書コーナーもあって、欲しい本が幾つも見つかりました。デジタルの時代ですが、ぜひゴスペルボックスにはこのままがんばってほしいと思います。今日は教会のお掃除の奉仕者に加えて、クリスマスリースの飾りつけにきてくださった兄姉たちがいたので、いつもより賑やかな土曜日でした。明日の箕面めぐみ聖書教会は、関西宣教区の講壇交換日です。大和郡山めぐみ教会の正村献三師がメッセージを取り次いでくださいます。優しく温かみのある先生のメッセージを、お楽しみに。

人を喜ばす親切なことば…

教会のデボーションは箴言12章から。「心の不安は人を落ち込ませ、親切なことばは人を喜ばせる。」誰もが『忘れられない親切なことば』として覚えているものがあるのではないでしょうか。私は25歳の時に、初めて教会に行きましたが、誰ひとり知り合いもいなかったので、神を知らない自分のような者が来ても良いのだろうかと不安でした。そんな時『ようこそ、教会へ』と親切に声をかけてくれたがある青年いました。私はその彼の一言にとても安心してリラックスできたのを覚えています。その後も彼は私にずっと親切にしてくれて、いつからか『牧師になった方がいい』と言ってくれた最初の友人となりました。彼の言葉を真に受けた訳ではないのですが…今、本当に牧師となっていることを思うと、彼の影響は大きかったと思います。そんな彼が、今年も大阪で個展を開催しているというので行ってきました。『ヒトリコテン』11月23日~28日までやっています。彼の描いた絵を見ると、どこ懐かしいような、心がほっこりするような不思議な感覚になると思います。ご都合のつく方はぜひお立ち寄りください。そして、日曜日はぜひお近くの教会にいらしてください。

心に知恵のある者…

11月第四水曜祈祷会、教会のデボーションは箴言10章から。「憎しみは争いを引き起こし、愛はすべての背きをおおう。」暗いニュースばかりが目立つ中で、あらためて心に響いてくる御言葉でした。人間にとって一番大事なことについて、ある人は『衆知こそ人間の偉大さを発揮させる最大の力』と仰ったそうです。果たして人間は万物の王者と言えるのか…。神のかたちに造られ、万物を治めるように命じられた本来の人間はどれほど豊かな賜物をいただいていたのでしょう。しかし、人間は罪を犯すことで、その立場、使命、賜物を自ら捨て去ってしまったのです。それ以降の歴史は、争いを繰り返し、神に背を向け、自然災害などにも弱い存在になってしまいました。神はそんな人間を憐れんで救い出すために、イエスさまをこの地に遣わしてくださったのです。イエスさまが成してくださったのは、まさに愛と赦しのわざでした。それによって、私たちはすべての罪からおおわれたのです。今日が召天日だった英国の作家C.S.ルイスはこう言ました。『新しい目標を持ったり、新しい夢を見るのに、年取り過ぎたということはない。』あなたも新しい一歩を始められませんか。

富士山を眺めながら…

今週は教団の教職教育部の会議で静岡県の聖心会裾野黙想の家に行っていました。来年度のことなどいろいろと審議事項も多い会議ですが、今回は宿泊先がよかったので充実した二日間となりました。ご準備くださったS牧師に感謝です。一面に広がる茶畑と富士山を眺めながら、朝は歩きながらのディボーションでした。箴言9章から。「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。」箴言の中心テーマがここでも語られています。「知恵」とは、神を知ることを意味しますが、これは本を読んだり学べばわかるというものではありません。何より子どものような素直な心で神さまを心に受け入れなければなりません。もともと人の心は頑なで、自己中心ですから、神を受け入れることに抵抗があるものです。でも、その心を砕いていただいて、神中心に生きることができるなら、それは恵み以外の何ものでもありません。会議が終わり、せっかく三島まで来たので…以前よりあこがれだった先生のお宅を訪問させていただきました。そこで話していただいた一つ一つのことが心に沁みて、珠玉の時間でした。大きなご褒美をいただいて、これから帰阪します。

主に喜び叫ぼう…

11月第三主日、少し肌寒く感じる朝でしたが、眩しい光が差し込む教会で収穫感謝礼拝を献げました。日ごとの糧を与えてくださる主に心から感謝をいたします。礼拝メッセージは詩篇95篇から。「さあ 主に向かって 喜び歌おう。私たちの救いの岩に向かって 喜び叫ぼう。」礼拝とは、主を喜び賛美することであり、主の御前にひれ伏すことであり、主の御声を心で聴くことです。まことに主は大いなる神。すべての神々に勝って、大いなる王です。その方の招きに応えて、感謝をもって、賛美をもって、御前に進み出ましょう。また、私たちを造られた主の御前にひれ伏し、膝をかがめましょう。「今日 もし御声を聞くなら …心を頑なにしてはならない。」神は御言葉をもって語りかけてくださる方です。また、私たちの賛美を喜ばれる方です。順境の時も、逆境の時も絶えず御名をほめたたえる者でありたいものです。今日は礼拝後に5名の兄姉の転入会式がありました。素晴らしいお証しとご家族での特別賛美に心が潤されました。午後からは囲碁将棋クラス、卓球大会、新しい『ぶどうの木ーほっこり、ゆったり、まったりタイム』もあって、盛りだくさんの一日でした。

あなたの信仰があなたを救った…

横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されて46年もの年月が過ぎました。当時、13歳の少女は部活からの帰宅途中で連れ去られてしまいました。どんなに怖かったでしょう…。母親の早紀江さんも必死になって探しましたが、見つからず、親戚からは『先祖を大事にしていなかった罰なのでは…』と言われたそうです。そんなある日、ある宣教師が早紀江さんに一つの聖書の言葉を紹介しました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」この御言葉との出会いが、早紀江さんがクリスチャンになる一つのきっかけになったそうです。早紀江さんも元気なうちに…めぐみさんが生きて帰って来ることを信じて心からお祈りします。今日のハーフル英会話はレッスン後にチャペルタイムがありました。ルカ7:36~。『なんでも鑑定団』という番組で、時々、古くから家にあったものが専門家たちに鑑定してもらうとどんでもない値段だったということがあります。同様に、私たちも『神の赦し』を安く見積もっていることはないですかというお話しでした。それがどんなに値打ちがあるかは、やがて神の御前に立つ時、明らかになるのです。

ただ、おことばをください…

11月第三水曜祈祷会、朝から一段と肌寒く感じる一日でした。朝は箴言5章1-23節、夜はルカ7章1‐10節を読みました。箴言5章は『よその女』(誘惑)に対する警告とその報いについて記されていました。「人の道は主の御目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を向けてくださる。」主は絶えず私たちの人生に目を留めてくださって、心配してくださっていることを思いました。誘惑に対する最も賢明な態度はそこから離れることです。ルカ7章は百人隊長の信仰とその謙遜さについて記されていました。「私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。」百人隊長の信仰は何かしるしや証拠を見せてくださいというのものではなく、ただおことばを下さいというものでした。こうして彼らが家に戻ると、しもべは良くなっていたのです。イエスさまは言われました。「わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」百人隊長は異邦人ではありましたが、まことの神への信仰をしっかり持っていたのです。神のことばには力がある、心に留めておきたい言葉です。

関キ災・第9回懇談会…

あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」関西キリスト災害ネットワーク・第9回全体懇談会を行いました。今回も大阪シオン教会を会場に、一般社団法人クラッシュジャパンの永井敏夫代表を講師に招いて、『教会間ネットワークの大切さを』テーマに講演していただきました。教会間ネットワークとは何かを考えてみてください…という問いかけから、支援と防災の違いなど、非常に実際的なお話しをしていただきました。関キ災ならではのゴスペルミニコンサートや防災士によるワンポイントアドバイス、聖書の奨励などもあり、あっという間の二時間の懇談会でした。今後、南海トラフ巨大地震の発生率は70~80%と言われています。災害が起こる前のネットワークなので、なかなか当事者意識をもって集まってくださる教会は少ないのですが、これからも草の根的に活動を呼びかけていこうと思っています。もしかしたら、あの働きは無駄だったね…となるかもしれませんが(それが一番良いことですが)、もしものために、行政や地方自治体も届かないところで助けを求めている教会やだれかがいることを覚えて、今からできるベストを尽くして備えたいと思います。

栄光のしもべ…

11月第二主日、立冬も過ぎ暦の上では冬を迎え、先週とは打って変わって、今日は肌寒く感じる一日でした。メッセージはイザヤ書53章後半から。「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。…しかし、彼を砕いて病を負わせることは、主のみこころであった。」キリストは私たちすべての者の咎を負って、痛めつけられ、黙って苦しみにあわれました。不正な裁判によって、犯罪人の一人として卑しめられ、十字架にかかり死んでいかれました。それは主のみこころであって、キリストは最後まで従順に成し遂げられたのです。でも、神はこの方を死からよみがえらせ、彼を信じる者たちに永遠のいのちをお与えになりました。そして、キリストは今も生きておられ、ご自分の民のためにとりなしをしておられるのです。イザヤの時代にはこの「しもべ」がだれを指しているのか、それが一体何を意味しているのかを悟る人は少なったでしょう。だれもそれが自分の救いのためであることがわからなかったのです。それはこの時代の私たちも同じです。イザヤ書53章を読んで、あらためて自分の罪深さ、贖いの代価の尊さ、救いの確かさを心に刻みました。感謝いたします。

だれとともに人生を歩むか…

このところ11月とは思えないほど温かい日が続いて、教会の花たちも微笑んでいるように見えました。教会のデボーションは箴言1:1-19から。ソロモンによる箴言には価値ある人生を歩む秘訣が散りばめられています。「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」主を恐れるとは、単に恐怖心を抱くことではなく、万物を創造された神の偉大さと自らの罪深さの現実に恐れ慄き、神への畏敬の念を持つことです。神は私たちに対し、「恐れることはない」「わたしのもとに来なさい」と仰ってくださるのです。今、ある大学生の青年と洗礼に向けての学びをしているのですが、今日は彼の素直な信仰に感銘を受けました。『あなたは、自分にどんな罪があると思いますか…』という質問に、彼は少し考えて、『一週間を振り返って、すぐに悔い改めることが思い浮かばなかった自分に罪を感じました…』と答えてくれました。彼は罪の本質がよくわかっているなぁと思いました。同時に、彼が神を恐れ、神とともに歩んでいるのがよくわかりました。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」一人でも多くの青年に、価値ある人生を歩んでほしいと思います。

ましてわたしは…

11月第二水曜祈祷会、ヨナ書4章から御言葉を学びました。北イスラエルの預言者ヨナに、神は敵国のニネべへの宣教を命じられましたが、ヨナは主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとしました。神はそんなヨナの不従順を戒めるために嵐を送り、人々は不本意ながら彼を海の中に投げ入れたのです。逆巻く海の中でもはや万事休すのヨナを救ったのは、神が備えられた大魚でした。大魚の腹の中でヨナは感謝の声をあげて、救いは主のものだと確信し、神への再献身を決意します。神は再び、そんなヨナにニネべ宣教を命じ、今度はヨナも従順に従うと、なんとニネべの人々はみな悔い改めに導かれて、神も裁きを思い直されたのです。ヨナはこのことに怒りを燃やし、神に不服を訴え、こんなことなら「死んだ方がまし」とまで言いました。すると神は、今度は一本の唐胡麻、一匹の虫、焼きつくような東風を備えられ、あなたの怒りは当然なのか…と問われたのです。このヨナ書は、ヨナ自身の『懺悔録』と言えます。幸いもわざわいも、神からくるもの。無駄なものはひとつもない。神が望んでおられるのは、今もすべての人が救われて、真理を知るようになることなのです。

苦難のしもべ…

11月第一主日、11月とは思えないような夏日の一日でした。礼拝メッセージはイザヤ書53章前半から。イザヤ書はここで、まるでカメラのピントが合うようにはっきりと一人の人物を描き出します。この方は、見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない、人々が顔を背けるほど蔑まれ、…尊ばれない方でした。「しかし彼は、私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。」旧約聖書中、これほどはっきりとイエスさまの受難が描き出された箇所は他にないでしょう。読めば読むほど、ここに福音の真髄が示されています。午後からのバイブルクラスでもイザヤ書53章を分かち合いしたが、ある方が、ユダヤ教のある一派の方はこの章を読むことを禁じているそうですと話されました。確かに、イエスさまをメシアと認めない立場の方には、イザヤ書53章を読むのは辛いでしょう。寄る年には勝てず、私も老眼をかけるようになりましたが、文字がよく見えるようになりました。色眼鏡でなく、聖書というメガネをかけるなら、新しい人生が見えてくると思います。

栄光と力を主に…

教会のデボーションは詩篇29篇から。「栄光と力を主に帰せよ。」これはいつも何をするにも心に刻んでおきたい御言葉の一つです。人間には『何か上手く行った時の栄光は自分が取り、失敗した時の責任は他人に押し付ける』という傾向がないでしょうか。今週は幾つかの教会ホームページ編集を手伝って、良くなったのか、悪くなったのか、専門家ではないのでわかりませんが、喜んでもらえてよかったです。ただ、そんなことでも感謝してもらえるといい気になるもの…。コロナ禍になってやむを得ず覚えたことなので、私の力ではなく、神が教えてくださったことでした。どんな場合でも、どんな些細なことでも、素晴らしいこと、喜ばしいことを、すぐに栄光と力を主に帰す者になりたいと思います。私たちの目に映るすべてのことの背後には神の御手があることを思いますが…先月7日から始まったイスラエルとイスラム組織ハマスとの衝突による死者の数は双方あわせてついに1万人を超えてしまいました。この先、地上戦が激化すると言われる中で巻き込まれる住民の数もさらに増えることが予想されます。世界中が心を痛めて、一刻も早い戦争終結を祈っています。

誠実な歩みとは…

11月第一水曜祈祷会、今日は詩篇26篇を読みました。何か重大な危機が国民全体に迫る中で、イスラエルの王であり、真の神を知るダビデは具体的な助けを神に祈り求めました。「主よ 私を弁護してください。私は誠実に歩み よろめくことなく 主に信頼しています。」『弁護してください』とは一般には『さばく』と訳される言葉です。悪者を罰し、正しい者を弁護する、公平な審判を行ってくださいというのです。誠実に歩むとはどうしたらいいのか。それは、主の目には不完全であっても、自分にできる限りの誠実さを尽くして、主に従うということです。人間ですから、判断を誤ったり、自分勝手な行動で神を悲しませてしまうということもあるでしょう。でも、そこで開き直らないで、示される罪(神に背くこと)があるなら、悔い改めて(罪から方向転換して)神の恵みと真理の内を歩み続けることです。自分で自分をどう思うと、主を信頼して歩むことです。主は私たちが思う以上に遥かに憐み深いお方です。「私の足は平らな所に立っています。数々の集いで 私は主をほめたたえます。」願わくは私たちも神との関係における平らな所にいつも立っていたいものです。

全キ災&JEA共催会合…

東京のお茶の水クリスチャンセンターで全キ災&JEA援助協力委員会共催の会合がありました。南海トラフ巨大地震や首都直下地震などの大規模災害に備えての各支援団体による全体会合。今回は東北ヘルプの川上直哉氏が『支援と宗教』というテーマで語ってくださり、ご自身の東日本大震災での経験や大学の非常勤で教える立場から、重い内容を短い講演にまとめてくださいました。冒頭の『防災はイメージすることが大事』、宗教にもできること、宗教でなければできないこと、イエスさまがすでにそこで働いておられるのを邪魔しない活動…など、考えさせられました。グループディスカッションでも、同じテーブルの専門家の貴重な意見も聞くことができてこれも目が開かれる思いでした。終わって足早に電車に乗り込むと、山手線で仮装している人を数人見かけましたが、今年は渋谷駅周辺もいつもより仮装している人は少なかったようで、事故やゲガ人も少なったとのこと。渋谷区長の『来ないで』という呼びかけも届いたのかもしれませんが、オバケの仮装して、お酒を飲んで、町を練り歩くのは、もうそろそろ終わりでもいいかな…と思うのですが、いかがでしょう。

秋の歓迎礼拝2023…

10月第五主日、秋晴れのさわやかな主日。今日は玉井敦子師をお迎えしてメッセージを取り次いで頂ました。新約聖書の中でもイエスさまから「あなたの信仰は立派です」と褒められた数少ない女性信仰者の姿から学びました。彼女は母親で、自分の娘が悪霊につかれて苦しんでいることをイエスさまに訴えました。その時のイエスさまの答えは「子どもたちのパンを取り上げて…」というなんとも冷たく感じるようなものでした。それでも、彼女はたとえ自分の願うような答えがもらえなくても、「主よ、そのとおりです。…」とあきらめずに答えを求め続けました。食卓から落ちるパン屑でもいいです…娘を癒やせるのはあなたしかいません…あなたを信じます。そんな彼女のひたむきな信仰を見て、ついにイエスさまは「…あなたが願うとおりになるように。」と言われました。メッセージを通して、あらためて深い真理があることに気づかれました。今日は3名の兄姉の転入会式があり、素晴らしいお証しを聞かせて頂きました。また、午後からの講演会にも多くの方が参加してくださって、『神に喜ばれるクリスチャンライフ』について分かち合いました。感謝いたします。

ゆきなれた路の…

今日もハートフル英会話から楽しそうな笑い声が聞こえてきました。レイチェルさんはオーストラリアに一時帰国のため、リアンナさんが臨時講師で来てくださいました。Kidsクラスも新しい受講生が加わって、さらに元気いっぱいの子どもたちでした。ホゼアさんは最近二冊目の本を出版されましたのでぜひご一読を。さて、今日10月26日は、29歳という若さでこの世を去った詩人・八木重吉さんの召天日でした。生前には『秋の瞳』と題するたった一冊の詩集を遺したのみでしたが、それが機縁で読売新聞から初めて詩の依頼があり、人生最初の原稿料二円を手にし、それで新約聖書を10冊購入して周りの人に分かち合ったそうです。私は彼の二つの詩をよく思い出します。『ゆきなれた路の なつかしくて耐えられぬように 祈りのみちをつくりたい。』『このあかるさのなかへ 一つの素朴な琴をおけば 秋の美しさに耐えかねて 琴はしづかに鳴りいだすだろう。』神への祈りがゆきなれた路のように…自分のことも、ご家族のことも、周りの人のことも、よく祈る人だったのでしょう。このあかるさ…彼にとってはまさにイエスさまのことだったのではないかと思います。

今すでに神の子どもです…

教会のデボーションはⅠヨハネ3章から。ヨハネは教会の中に誤った情報や考え方が入り込もうとしている中で、正しい信仰に立って歩むように励ましの手紙を書きました。特にこの手紙が書かれた頃は、クリスチャンとしては二世、三世の時代に移っていました。いつの時代もそうですが、大人になって信仰生活を始めたのとは違って、生まれた時から教会に通っていて、自分がいつイエスさまを信じたのかわからないという人たちもいたと思います。『本当に神さまなんて信じているの?』『天国なんてあると思ってるの?』と友だちに冷やかされて戸惑う子たちもいたでしょう。「私たちが神の子どもと呼ばれるために…事実、私たちは神の子どもです。」ヨハネのことばは明確です。やがてとか、いつかでもない、今すでにあなたは神の子どもだというのです。だれが何と言おうと、時代がどう変わろうとこの事実に変りありません。クリスチャン一世でも、隠れクリスチャンのように過ごしている人もいる(私も救われたばかりの頃はそうでした💦)ので、結局はその人と神さまの関係です。今、しばらく教会から離れていたとしても、神さまの愛は変わることはありません。

一番すぐれているのは愛…

10月第四主日、どこからともなく今木犀の甘い香りが漂う、爽やかな季節を迎えました。礼拝メッセージはⅠコリント13章13節から。愛とは何かがはっきりと記されている箇所です。「愛は寛容であり、愛は親切です」戦国時代、キリスト教が伝来されたばかりの頃は『愛』(アガぺー)という言葉を『ご大切』と訳されたというのは有名です。『愛する』と『好意を持つ』とは違います。『愛する』とは相手を大切に扱うことであり、主のご命令です。十字架にかかる前にイエスさまが弟子たちの足を洗われた姿にその模範が示されています。この愛が基になって、愛するからこそ相手を信じ、愛するからこそ相手に希望を持つ。神と人との関係においてもこの愛が結びの帯です。「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」信仰、希望、愛…大事なのはこの三つが織りなす関係です。その最初の愛を、イエスさまが私たちにあの十字架上で示してくださり、聖霊によって私たちに賜物として与えてくださいました。土の器に過ぎない者ですが、愛の源泉であるイエスさまがともにいてくださることを感謝します。

喜びが満ち溢れるため…

教会のデボーションはヨハネの手紙第一に入りました。この手紙は他のパウロなどの手紙と違って、差出人の名前も宛先も記されていません。ヨハネは最初の挨拶なしで、いきなり神について信仰について自分の考えを述べ始めます。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」いのちのことばとはまさにイエスさまのことです。ヨハネはイエスさまと3年間一緒に暮らし、直接弟子として訓練を受けました。当時手紙の受取人たちの教会にはいわゆるグノーシス主義の異端グループが入り込み、イエスが受肉されたキリストであることを否定し、罪を軽く考え、キリストの救いのわざを無意味なものにしていました。ヨハネはそうした状況を聞いて、クリスチャンが誤った教えに惑わされず、健全な信仰理解に基づき、健全なキリスト者生活を生きる愛の共同体として前進してほしいと愛と祈りを込めて記したのです。今日の教会もイエスさまの十字架と復活の事実を語らずにはいられません。そして、この方は今も生きておられ、私たちの祈りを聞き、ともにおられるのです。

伝道懇談会&秋の研修会…

今秋も静岡県つま恋で、伝道懇談会&秋の研修会が行われました。伝道懇談会では佐野泰道牧師が『伝道の働きとその恵み』をテーマに講演し、私も『教会自立に向けて』をテーマに一つの分科会を担当しました。あらためて箕面に遣わされてから17年の恵みを振り返る良い時となりました。続く秋の研修会ではこれまでとは違った形式(グループディスカッション)で行われました。300名を超す牧師が『Think Again-トゥゲザー』をテーマに38のグループに分かれてそれぞれの経験とアイディアを分かち合い、これからの宣教を考えるというもの。いろいろな先生方の現場でのご苦労や具体的な活動、今後のビジョンなどを聞けたのが、非常によかったです。中にはスキットや手紙形式や替え歌?での発表もあって、宣教に燃える同盟教団の明るい未来を感じました。同労の先生方との語らい、豊かな食事、派遣礼拝での吉持牧師のメッセージに励まされ、行きよりも早いペースで帰阪しました。先を見れば…自然災害、2030年問題、混沌とする社会情勢など、なおなお難しい問題はありますが、宣教の主に従ってますます全世界に福音を宣べ伝える教団となっていきたいと思います。

救いの良き知らせ…

10月第三主日、今朝は早天礼拝に始まり4回の礼拝がありました。礼拝メッセージはイザヤ52章から。神は、自国を失い、バビロン捕囚に捕らえられた民に向って、「目覚めよ、目覚めよ」と告げられました。神のさばきは終わり、イスラエルは栄光と尊厳を回復するというのです。ただし、目の前の現状からはそんな希望のかけらも見えなかったでしょう。「それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。それゆえ、その日彼らはわたしが『ここにわたしがいる』と告げる者であることを知るようになる。」神のことばは時至って実現する、苦しみには意味がある、The best is yet to be... 今はまだ辛くても、苦しみを通って神を知るようになるというのです。神はあなたがたがを必ず顧みてくださる。「良い知らせを伝える人の足は…なんと美しいことか。」暗いニュースばかりが目立つ時代ですが、救いの良き知らせを伝える者になりたいと思いました。苦難のしもべの53章の前に…心に響く御言葉がいくつもありました。今日は礼拝後に役員諮問会&墓地視察がありました。教会の未来について一緒に考え、一緒に語り合う幸いを思いました。恵み溢れる一日に感謝します。

偽預言者が大勢現れて…

祈祷会で、ある青年が『神さまの声がはっきり聞こえたらいいのに…』と言っていました。確かにクリスチャンならだれもが一度は思うことかもしれません。でも、そこで聞きたいのは自分の祈りの答えでしょう。もし旧約聖書の預言者のように夢や幻を通してはっきりと聞いてしまったら、その重責にたじろぐのではないでしょうか。「主はこう言われる。イスラエルの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない。」神に背を向け、満ち足りた生活をしている人々に、このままでは神のさばきが下る…と告げる預言者アモスに対する風当たりは厳しかったでしょう。この時代も、聖書を通して神のことばを預かるクリスチャンの責任は重要です。イエスさまは、終わりの時のしるしとして、戦争、飢饉、地震のほかに…偽預言者が大勢現れると預言されました。政府も統一教会の宗教法人格を剝奪する解散命令を請求することを決定しましたが、そうした動きに伴い、キリスト教を名乗る怪しげな団体から『一緒に伝道しませんか』という電話や手紙がよく来るようになりました。世はますます玉石混交の時代になっていきます。ご心配な方は教会までご連絡ください。

主はシオンからほえる…

イスラエルとイスラム組織ハマスの衝突による死者はこれまでに双方あわあせて2200人を超え、攻撃の応酬は激しさを増し、犠牲者の数はさらに増えることが予想されます。一分一秒でも早く事態が収束するように祈るばかりです。今日の朝と夜の祈祷会でも心を合わせて祈りました。デボーションの箇所はアモス書1章から。繁栄と豊かさの中で神に背を向けたイスラエル、非人道的な蛮行を行う周辺諸国に対し、神のさばきの言葉が預言者アモスを通して告げられました。「主はシオンからほえ、エルサレムから声をあげられる。」ライオンの咆哮のような、大地に響き渡る、審判者なる主の宣告でした。その時代、アモスの言葉に耳を貸す者は少なかったでしょう。でも、主から託された言葉を語らなけばならない預言者としての使命を覚えました。今日においてはクリスチャンも神のことばを伝える使命があります。それにはまず自分自身がみことばに生きることを実践することからです。時が良くても悪くても…その生き方を通しても福音を伝えられたらと思います。

あなたを慰める主…

10月第二主日、今日は朝からしとしとと小雨の降る一日でした。礼拝メッセージはイザヤ51章から。「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。」国が滅び、明日を生きる保証もなく、バビロンに捕囚として連れて行かれたイスラエルの民…その中にも信仰を保持する人々は残っていました。ただ、その数はまことに少数だったはずです。神はそうした彼らの消えかかった信仰を励まし、「わたし、わたしこそ、あなたがたを慰める者だ」と告げられました。私たちも「神がいるならなぜ…」と思うことがしばしばあります。今日のメッセージ後の分かち合いでも、イスラエルが戦争状態になったことを受けて、神はこの事態をどう見ておられるのか…と言われる方がいました。人間には答えられない問ですが、神がこの現実を知らないはずがありません。聖書には終わりの日に向かって、疫病も戦争も偽預言者も、起こることが記されています。ますます揺れ動く時代、私たちは変らない神のことばに耳を傾けなければならないように思います。

足りない者を用いて…

礼拝や祈祷会の動画をご視聴くださって、ほぼ毎週、感想を送ってくださる方がいます。そこには動画配信する教会への感謝と説教者である私を励ます言葉が書かれてあります。『旧約聖書のイザヤ書は難しいと思っていましたが、わかりやすく解説してくださって、ありがとうございます。』と温かい言葉をかけていただくと、その方に聖霊の助けがあるようにと祈らずにはいられません。その逆に東京で一人暮らしをする83歳の私の母には…どうも聖書のメッセージは難しいようです。そんな母にもわかるようにとあれこれ工夫しているつもりですが、なかなか願うようにはいきません。コロナも落ち着いてきて、教会によっては礼拝の様子をYouTubeで配信することに賛否両論あるようです。同じ時間に、同じ場所で礼拝を献げることが一番ですが、それがどうしてもかなわない方もいることを思います。憐み深い主が足りない者を用いて、希望の福音を届けてくださいますように。

天にある望み…

10月第一水曜祈祷会、コロサイ書1:1-20から。牢獄にいるパウロはコロサイの教会の中に異端的な教えが入り込んでいることを聞いて手紙を書きました。パウロ自身はコロサイの教会に行ったことがありませんが、いつもあなたがたのことを祈っていますと記します。そして私たちの信仰は天に蓄えられている望みに基づいているというのです。それは天の御国、救いの完成、先に召された神の家族との再会…などが挙げられるでしょう。その時には私たちが神に完全に知られているのと同じように、私たちも神の御心を完全に知ることになるのです。私たちは苦難や挫折を経験すると『主よ、なぜですか…』という言葉が出てきてしまいますが、神はその問いには答えられないでしょう。仮にその答えを知ったとしても、納得できず…もっと苦しむかもしれません。すべての答えは天国に行った時にわかります。それも天にある望みと信じて、主を信頼して歩む者でありたいと思います。

疲れが出やすい時期…

10月に入りました。天高く馬肥ゆる秋、到来です。夏の疲れの一つなのか…私はぎっくり腰のようで、座っているのも立っているのも辛くて困っています。そういう時に限って、畑を耕して豆の種を植えたり、プランターの土を変えて花を植えたり、安静にしていられない性格です。秋になると気分が落ち込むということがあるようです。いわゆる「秋鬱」の時期かもしれません。教会にも体調の悪い方が来られたり、電話がきたり…なんとなく続きますね。関係があるのかないのか、小中学生の不登校が前年比22%増の最多更新とのこと。私自身も秋の父の命日がくるたびに、未だに気分が落ち込みます。教会は精神科や心療内科のような専門的な対応ができませんので、かえっていやな気持ちにさせてしまうかもしれませんが、お祈りだけはさせていただきますので何かの時は連絡してください。誰かに相談してみたら、思いもしなかった良いアイディアが見つかるかもしれません。

神である主は私を助ける…

10月第一主日、秋らしい天気になってきました。礼拝メッセージはイザヤ書50章から。イザヤ書は旧約聖書の中で最も多く新約聖書に引用されている書です。その内容もキリストの誕生からその歩みが描かれていることから第五福音書とも呼ばれます。「打つ者に背中を任せ、侮辱をされても、唾をかけられても、顔を隠さなかった。」しもべの姿はまさにイエスさまの生涯を示していました。今日でもみことばに忠実であろうとすればするほど周囲の反感や攻撃を受けるのかもしれません。「しかし、神である主は私を助けてくださる。」この確信がしもべを強くし、御心に歩む力となるのです。キリストを必要としないこの世で信仰者として生きるのは苦難が伴いますが、私を義とする方が近くにおられることをいつも忘れないで歩みたいものです。今日は午後から囲碁将棋クラス、バイオリン、夕礼拝、プチ送別会…と盛り沢山の一日でした。夕方から来た卓球少年は強かったです。

創立3周年のしおり…

先日、日本伝道会議で三重県に住む友人牧師と再会してこんな話しを聞きました。全部は詳しくお話しできませんが…今夏、彼の教会で一人の高校生が洗礼に導かれたそうです。彼女は中学の時の英語の先生のFBでキリスト教に関心を持ち、それから自分でいろいろと調べて今春から教会に行き始めました。お母さんは彼女の決心に驚いたそうですが、自分も20年以上前に一度だけ大阪の教会に行ったことがあることを思い出し、しばらく触ってなかった聖書を懐かしく開いてみると一枚のしおりが挟んでありました。そこに箕面めぐみ聖書教会創立3周年とあったとのこと。もちろん私はその頃ここにはいませんでしたが、草創期から来られている信徒の方は大喜びでした。神さまの不思議な導きを感じました。昔、教会に行ったことがある…また久しぶりに行ってみようかな…そんな風に思い出して頂けたら感謝です。来年創立30周年を迎える私たちの教会に、ぜひいらしてください。

主の御名を呼び求める者は…

9月第四水曜祈祷会はヨエル書2章から御言葉を心に留めました。意識して読まないと読み飛ばしてしまうような小さな書簡ですが、そこに書かれているのは目を覆うばかりの神の裁きの恐ろしさとその民をねたむほどの愛で深く憐れまれる神の愛です。「しかし、今でも―主の言葉ー心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ。」神の御心は罪人に対する裁きではなく、赦しであることを思います。ここに神の矛盾と葛藤があります。裁きの神と赦しの神が一つであるゆえに、罪人への愛は傷みなしにはあり得ないものとなる。十字架のイエスさまが目に浮かんでくるような不思議な箇所でした。朝も夜も、御言葉に真剣に向き合い、一緒に恵みを分かち合える兄姉がいることは感謝なことです。もちろん、ピリピリとした緊張感ではなく、和気あいあいと自由に語り合い、祈り合う時間です。水曜祈祷会もどなたでも参加ができます。お気軽にお越しください。

主に呼び求めよ…

教会のデボーションはヨエル書に入りました。旧約聖書に「ヨエル」という名前は何度か出てくるのですが、「べトエルの子」というのはここだけで謎の多い書簡です。「主の日が近い」が強調され、悔い改めて主を呼び求めよと命じます。主の日は、神に背を向けた者に対するさばきの日であると同時に、神を信じる者にとっては救いの日です。この日をどんな気持ちで迎えるかは、今という日があるうちに決めなければなりません。その時になって「なぜ…」と叫んでも後の祭りです。ヨエル書1章にこれほど主の日の恐ろしさが描写されているのはその切迫感・緊張感を表していると言えるでしょう。神を信じるか、信じないかは、もう少し考えたいという方もいますが、結局信じないとわからないことを信じる前にいくら考えても仕方がないのではないでしょうか。信仰とはまさに決断です。そして人生は決断の連続です。ノアの箱舟の扉が閉まらないうちにぜひ主のふところへ。

わたしはあなたを忘れない…

9月第四主日、残暑も和らぎ、さわやかな秋風が吹く一日でした。礼拝メッセージはイザヤ書49:13-16から。イザヤが預言した通り、イスラエルはバビロン軍によって町が崩壊し、多くの民が捕え移されていきました。絶望の淵に立たされたイスラエルに、神は告げられました。「天よ、喜びの声をあげよ。地よ、小躍りせよ。山々よ、歓喜の声をあげよ。」耳を疑うような神の慰めと救いの宣言でした。でも、人々は目の前の現状に意気消沈し、素直に喜べずにいました。神は自分たちを見捨てられた、忘れられたのだと。そこで神はご自身の愛を示すために二つのことを言われました。一つはたとえ母が自分の乳飲み子を忘れても神は私たちを忘れないこと、もう一つはご自分の手のひらに刻むほどに私たちを愛しているということです。イエスさまの十字架の傷跡はまさしく神の愛の現われです。この方を信頼する者は失望することがない、この信仰に立って歩んでいきたいものです。

第七回日本伝道会議…

7年ごとに開催される日本伝道会議に出席してきました。聖書を『信仰と生活の唯一の規範となる神のことば』と信じる福音的な教会が、主イエス・キリストの宣教命令に、互いに力を合わせて従って行くことを目的とした集会です。今回は長良川国際会議場で、4日間、全国から1200人以上のクリスチャンが参加者し、『おわり』から『はじめる』宣教協力をテーマに、メイン会場をはじめ様々な分科会がありました。私はキリスト全国災害ネットの分科会奉仕者として部分参加だったので、全体を見て回ることはできませんでしたが、活気と熱意を十分に感じてきました。2019年のコロナ感染以降、社会の生活環境や様式は激変し、教会の在り様も宣教の在り様も変わらざるを得ない状況です。聖書の原則に基づいて今までを振り返り、現状を確認し、これからの宣教を考えていきたいと思いました。教会間の宣教協力がより一層強められ、福音が一人でも多くの方に届くように願います。

互いに赦し合う…

9月第三水曜祈祷会、デボーションはⅡコリント10章から。ここからのパウロは、偽使徒たちを意識した厳しい口調で記していきます。「あなたがたの間にいて顔を合わせている時はおとなしいのに、離れているとあなたがたに対して強気になる私パウロ自身が、キリストの柔和さと優しさをもってあなたがたにお願いします。」彼らがパウロのことをどのように言っていたのかがわかります。それは単にパウロの悪口にとどまらず、教会内に分裂を起こし、人々を混乱に陥れるサタンの巧妙な策略でした。教会はおよそ外からの攻撃には一枚岩になってより絆が深くなることがありますが、内からの攻撃には些細なことでも大きな亀裂となってしまう脆さがあります。以前は教会に行っていたけど、人に傷ついてから行かなくなったという方も少なくありません。生きている限り、私たちは工事中の身です。教会は愛を学ぶところ、互いに赦し合うことが何より大切なように思います。

未来の確かな希望…

9月第三主日、今日は玉井邦美師をお迎えして召天者記念礼拝を献げました。礼拝メッセージは『未来の確かな希望』をテーマにⅡコリント5:1-8からお話して頂きました。私たちクリスチャンに与えられている希望は、地上の住まいである幕屋が壊れても、すなわち、死を迎えても、そこが人生の終着駅ではなく、神の下さる建物、永遠の住まいがあることです。先に召天された兄姉たちの写真を眺めながら、懐かしい笑顔を思い出しました。確かにこの地で相見えることはかないませんが、天においてもイエスさまの懐で最高の礼拝が献げられ、やがてかの日には再会の約束があることを覚えました。午後からは久しぶりに講演会の時をもち、『教会とは何か』についてじっくりと学ぶことができました。教会はキリストのからだであり、私たちはその各器官です。天の都に憧れつつ、聖霊によって絶えずキリストに似た者へと造り変えられ、ともに成長できる恵みを心から感謝します。

みこころに添った悲しみ…

教会のデボーションはⅡコリント7章から。「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」パウロは『みこころに添った悲しみ』と『世の悲しみ』とを対比して記しました。人である限り、罪の誘惑は絶えずつきまとい、罪は私たちを神から引き離そうと試みます。イスカリオテのユダは銀貨30枚を得るためにイエスさまを売り渡し、その後悔の念に堪え切れず、最後は自らの命を絶ってしまいました。一方、ペテロも迫害に遭うことを恐れて思わずイエスさまを知らないと三度も言ってしまい、自らの弱さに打ちひしがれていたことでしょう。復活の主はそんなペテロの前に現れて、「あなたはわたしを愛していますか」と三度尋ねられたのです。ユダの悲しみは死をもたらし、ペテロの悲しみは救いに至る悔い改めを生じさせました。明日の主日礼拝、私たちも主が現れてくださる幸いを覚えたいものです。

ハートフル英会話秋期コース開講…

夏休みも終わり、今日からハートフル英会話・秋期コースが開講されました。久しぶりにお会いする方々に新しい受講生も加わって、新体制でのクラスが始まります。今年の暑い夏をどのように過ごしたのか、どこかに旅行に行かれたとか、ご病気をされたとか…様々な夏の思い出を話していただきました。子どもたちも二学期が始まって『気が重い…』という子もいましたが、今日のクラスの中ではみんな元気いっぱい英語を学んでいました。何より楽しみながら英語に親しむことがハートフル英会話のテーマです。大人クラスも、Kidsクラスも、定員まであと数名の余裕がありますので、オブザーバーを希望される方は気軽に教会までご連絡ください。講師のレイチェルさん&ホゼアさんは、日本語も上手に話されますが、何より教え方が上手です。ぜひ実際に無料体験クラスでお試しください。残暑厳しい折、夏の疲れも出てくる頃ですが、皆さまも何卒ご自愛くださいますように。

願うのは、主に喜ばれること…

9月第二水曜祈祷会、今日も週の半ばにともに集い、御言葉に聴き、祈り合える幸いを思いました。朝はⅡコリント5:1-10から、夜は創世記21:1-8から御言葉を学びました。パウロが抱いていた希望は、地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に神が下さる建物、永遠の住まいがあることです。私たちがこの世に生かされていることには、神の御心があり、使命があります。ならば命ある限り、主に喜ばれる者として、御霊の実を一つでも多く結んでいきたいものです。また、アブラハムの信仰から、望みえない時に望みを抱いて信じる者にならせて頂きたいと思いました。確かにそれは、言うは易く行うは難しです。『そもそも望みとは何か…』ある青年の問いから、深い分かち合いになりました。こうした分かち合いができるのも、教会の交わりならではのこと。私たちの望み…それはイエスさまを信じる信仰によって与えられるものです。この希望は失望に終わりません。

わたしの家は祈りの家…

9月第二主日、相変わらず照りつけるような日射しですが、朝晩は微かにフッと秋を感じるようになりました。今日の礼拝では教会の草創期を担われた姉妹が司会をしてくださり、穏やかで心安らぐ進行をしてくださいました。また、20代で信仰に導かれた兄弟が28年間の証しをしてくださり、その恵みの数々を語ってくださいました。メッセージはマルコ11:12-25から。葉だけが茂って実のないいちじくの木は、外面的には立派な礼拝を献げていても、その心が神から離れてしまっている人々の姿を象徴していました。神殿に入られたイエスさまは、異邦人の庭で不正な利益を稼いでいる両替人や商売人たちを片っ端から追い出していかれました。そして、根元から枯れたいちじくの木を通して弟子たちに神を信じることの重要性を説かれたのです。3つの出来事が共通した一つのテーマを語っている大切な箇所でした。メッセージの後の分かち合いでさらに教えられ、幸いな礼拝でした。

補教師研修会を終えて…

今年は浜名湖で補教師研修会が行われました。コロナ禍が続いたので補教師全員が集まるのは3年ぶりです。私は教職教育部員として準備する側でしたが、十数年前に補教師として参加した時のことを思い出しながら、講義と先生方の証しを聞いていました。自分が補教師だった頃は何もかも初めてのことでしたので、悩みや試練、失敗や挫折は数知れず、一方で、恵みと感謝、楽しみも喜びもたくさんあり、戸惑いと祈りの中で、主の憐れみと教会の方々に支えて頂いて今日まで過ごしてきました。昨今、耳にするのは2030年問題。どの世界もそうですが、キリスト教界もいよいよ次の献身者が必要です。あと7年後には多くの教会が閉鎖となり、牧師も信徒も半数以下になると言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。」今日という日がある内に、一人でも多くの人がイエスさまの救いにあずかれるように、牧師として、献身者として、召される方が起こされるように祈っています。

身の落ち着き所…

9月第一水曜祈祷会、今日は牧師不在のためオンラインで行いました。ルツ記3章から、姑ナオミの提案でルツがボアズにプロポーズをするところでした。ナオミはずっと嫁ルツが幸せになるために身の落ち着き所を祈っていました。買い戻しの権利のあるボアズとの出会いを主の導きと信じ、ナオミもルツも信仰を持って大胆な行動に出ました。体を洗って油を塗り、晴れ着をまとって、ボアズの足元に身を寄せたルツ。思わず彼女の胸の鼓動が聞こえてくるような場面です。ボアズはそんなルツの気持ちをしっかり受け止めて、彼もまた主の導きを求めていきました。自分よりももっと近い、買い戻しの権利のある親類に伺いを立て、事の次第を主にゆだねたのです。ルツ記は神さまの言葉が出てきませんが、登場人物たちの信仰に励まされる書簡です。「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」私たちも重荷を下ろせる落ち着き所があるのは感謝です。

子ろばに乗って来られる主…

9月第一主日、残暑厳しい中でしたが、今日も大勢の方が礼拝を献げに来られました。礼拝メッセージはマルコ11:1-11から。イエスさまは旅の目的地であるエルサレムに、まだだれも乗せたことのない子ろばに乗って入城されました。二人の弟子たちはイエスさまに言われた通り、向こうの村へ行き、子ろばをほどいて連れて来ました。飼い主が「なぜそんなことをするのですか」と尋ねると、彼らは「主がお入り用なのです」と答えました。イエスさまはこのやりとりをあらかじめ予見して、すべてを準備しておられたのです。こうして600年前のゼカリヤの預言通り、メシアは子ろばに乗ってエルサレムに来られます。人々はそんな主の姿を見て「ホサナ。いと高き所に。」と叫びました。その歓声は数日後には「十字架につけろ」と変わっていくのです。人の思いは移ろいやすいもの…。でも、そのすべてを受け入れて、イエスさまは平和の王として十字架へと向かわれるのです。

士師記最悪の事件…

8月第五水曜祈祷会は士師記19章から学びました。「イスラエルに王がいなかった時代のこと」とは、イスラエルがそれぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた、言わば無法状態にあったことを示す表現です。神との正しい関係がないところでは、必ずこの地上に不法と不信の行為が蔓延していきます。ベニヤミンに属するギブアで起こった事件はソドムの不品行(19:1-9)にも匹敵する出来事であり、本来ならば、天からの火で焼き滅ぼされても仕方のないことです。どうしてこんな記述が聖書に残されているのか…と読んでいて嫌気がさしてくる箇所ですが、彼らの悪行が今日の世界と決して無縁ではないことを思います。いつの時代も、人間の罪の本質、痛ましい事件、戦争や自然災害はなくなりません。ただ神の忍耐が主の日の到来を遅らせていること、他人の罪にはよく気づいても、自分の罪の深さに気づかなければ、悔い改めて救いの道を見出すことはできないのです。

みことばに聞く…

今日は久しぶりにCGNTVの『みことばに聞く』の撮影がありました。一つの聖書箇所を12~13分でメッセージするのは、私にとっても大切な訓練です。9月に放送されますが、番組を視てくださった方に少しでも福音が伝わればと思います。撮影後にCGNTVのスタッフの方と交わりをしながら、日本宣教の動きについていろいろと伺えることも感謝です。今夏の外部奉仕は今日でひと段落となりました。さて、教会のデボーションは士師記18章に入りました。最後の士師サムソンの記述が終わり、17章、18章とイスラエルはますます混沌としてきます。繰り返されるのは「イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」という言葉です。こういう信仰態度で、どんなに熱心な礼拝を献げても、神がそれを喜ばれることはないでしょう。それは今日の私たちも、肝に銘じておきたいことです。明日の水曜祈祷会ではさらに士師記最悪の事件から学びます。

献堂6周年記念礼拝…

8月第四主日、今日は献堂6周年記念礼拝でした。この会堂に移ってきたのが6年前。前の通い慣れた会堂もテナントのオーナーがクリスチャンだったこともあって後ろ髪を引かれる思いでしたが、みんなで信仰を持って決断したことを懐かしく思い出します。新しい会堂候補も二転三転しましたが、売り主がクリスチャンだったことも決め手の一つとなって購入しました。それから本当にいろいろな方が導かれ、たくさんの主の御業を見せて頂きました。まだコロナの影響もありますが、昨日も70名を超す来会者がありました。今回はhi-b.aの鈴木雅也師をお迎えして『あきらめたらそこで試合終了ですよと言われる神様』と題してメッセージを取り次いでいただきました。また午後からは二人の兄弟の転入会式を行い、素直な証しに励まされました。この先の未来に向かって、ますます主の素晴らしい福音を宣べ伝え、ともに支え合い、ともに助け合う教会になって行けたらと思います。

サムソン誕生前夜…

8月第四水曜祈祷会、デボーションは士師記13章から。イスラエルの民は主の目に悪であることを行い、主のさばきとして40年間ペリシテ人の支配下に置かれました。苦難の中で人々は悔い改め、主の憐みを求め続けました。そして、主はそんな彼らのために一つ一つ救いの計画を進めておられたのです。主はある夫婦に目を留められて、「あなたは不妊の女で、子を産んだことがない。しかし、あなたは身ごもって男の子を産む。」と告げられました。しかも、生まれてくる子は神に献げられたナジル人で、イスラエルをペリシテ人の手から救い始めるというのです。この信じがたい受胎告知を、この夫婦は信仰を持って受けとめました。思わず、新約聖書のヨセフとマリアの受胎告知を思い出しました。夜は創世記15章から『神の約束』をテーマに学びましたが、共通する一つの御言葉が心に響いてきました。「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。

エフタの軽率な誓い…

教会のデボーションは士師記12章に入りました。士師記はイスラエルの歴史において最も暗い時代と言われます。それは、背信と堕落→主のさばき→憐みを求める→士師が起こされるという図式が繰り返されるからです。しかもイスラエルは、士師が生きている間は神に忠実に仕えますが、士師が亡くなると再び背信と堕落の道を辿っていきます。喉元過ぎれば熱さ忘れるの典型的なパターンです。12章では8番目の士師エフタのことが記されています。エフタはアンモン人との戦いに勝利しますが、軽率な誓願をしてしまったことで一人娘を失うことになってしまいました。「誓ってはならない」と言われたイエスさまの言葉を思い出します。結局エフタは文句を言ってきたエフライムも打ち破り、6年間イスラエルを治め、彼の後にはイブツァン、エロン、ヒレルと士師が起こされていきました。なんとも重苦しい内容が続きますが、13章からはいよいよ最後の士師サムソンの登場です。

あなたを呼んでおられる主…

8月第三主日、今日も猛暑の中でしたが、神の家族がともに集い三回の礼拝を献げました。メッセージは盲人バルティマイの癒しの記事から。イエスさまの癒しの記事で実名があるのは珍しいのですが、きっと当時からよく知られた人物だったのでしょう。彼はエリコの町で物乞いをしていましたが、その町にイエスさまが来られたと聞いて思わず「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください」と大声をあげました。彼にもイエスさまの噂は届いていたのでしょう。もし、それが本当ならこの目も直してもらえるかもしれない…。彼はこの千載一遇の機会に思い切って行動しました。イエスさまは彼の切なる思いを知った上で、あえてわたしに何をしてほしいのかと尋ねられました。イエスさまは今も、私たちに同じように問われます。それは私たちが祈り求めるのを待っておられ、私たちが願う以上に答えてくださるからです。私たちも信仰を持って、恵みの御座に近づきましょう。

セミファイナル…

今週は台風7号が関西を通過し、多くの地域で停電や浸水被害がありました。箕面の教会は心配していた雨漏りも守られ、鉢植えが倒れたくらいで済みましたが、被害の大きかった地域を覚えてお祈りします。道端にセミが死んでいると思い、車にひかれないように動かそうと思ったら、ジジっと大きな声をあげて飛んでいきました。そんな死期が迫っているようなセミのことを『セミ爆弾』とか『セミファイナル』と言うそうです。せっかく長い期間をかけて成虫になったのですから、一日でも長く地上での生活を送ってほしいと思います。この時期になるといつも思い出すのは『セミは春秋を知らず…』の言葉。夏に生まれて夏に死ぬセミは春秋を知らないし、自分がいる季節が夏であることも知らない。仏教用語ではありますが、キリスト教の永遠のいのちを話す時にも思うことです。余計なことだと言われる方もいますが、ぜひ機会がありましたら教会の日曜礼拝に出てみませんか。

わたしに従って来なさい…

8月第二主日、今日も猛暑の中でしたが、神の家族とともに三回の礼拝を献げました。メッセージはマルコ10章17~31節。裕福な青年がイエスさまに駆け寄って、永遠のいのちにあずかるためには何をしたらいいかを尋ねたところからでした。イエスさまは彼の質問に対してなぜわたしを『良い』というのかと質問で答え、少年の頃から律法を守ってきたという彼を見つめながら、あなたに欠けていることが一つありますと言われました。そして彼が依存している財産をすべて売り払い、貧しい人たちに与え、天に宝を持ち、その上でわたしに従って来なさいと命じられました。それを聞いて、悲しみながら立ち去っていく青年…。その後ろ姿はエデンを去って行ったアダムの姿と重なったのではないでしょうか。主の前に正直な自分を認めることの難しさ、神に全き信頼をおいて歩むことの難しさを覚えました。でも、主はすべてをご存知の上で、今も私たちを招いておられるのです。

立ち上がるギデオン…

教会のデボーションは士師記6章に入りました。士師記の中でも特に印象深い勇者ギデオンの召命です。ギデオンは決して勇気ある戦士と言える人物ではありませんでした。主は指導者としてはおよそ不適格と思われる者をあえて選び、イスラエルを圧迫していたミデアン人から救う『勇士』として用いられました。ギデオンは思わず、自分の民族は弱小で、しかも自分は家族の中で一番若い…等と言い訳をします。「行け、あなたのその力で。…わたしが遣わすのではないか。…わたしはあなたとともにいる。」ギデオンは何か特別な力が与えられ、勇気が倍増して『勇士』となるのではなく、今ある力、その力で行けばよいと言われました。大事なのは、主がギデオンのすべてを知っておられ、その上で遣わすのだから、後は主の命じられたままを行えば勝利を得られることです。私たちも、万事をご存知である主に信頼し、素直に主の呼びかけに応じる者にならせて頂きたいものです。

栄光のゴール目指して…

8月第一水曜祈祷会、タイ宣教師の河野晃師ご家族をお迎えして宣教報告の時を持ちました。はじめにヨナ書4章からメッセージを取り次いでいただき、後半はスライドを見ながら7年間のタイ宣教の恵みをお証しいただきました。河野先生は首と腰の治療とリハビリのために退任されますが、今後のご家族の歩みとタイ宣教の後継者のために心よりお祈りします。午後からは大急ぎで、茨木聖書教会の青年キャンプのために京都市花背へ向かいました。久しぶりのキャンプで再会した子どもたちは、心も体もすっかり青年になっていて驚きました。声がかれるほどの大声で話していたのを思い出しながら、へブル書12章から『栄光のゴール目指して』をテーマにメッセージをさせていただきました。私たちには、自分に定められた道があり、忍耐が必要であり、イエスさまは栄光のゴールを用意しておられます。一人一人の心に蒔かれた福音の種が豊かな実を結ぶことをお祈りしています。

子どものような信仰で…

8月第一主日、酷暑の中でしたが、祝福に溢れる一日でした。礼拝メッセージはマルコ10章13-16節から『子どものような信仰で』をテーマに御言葉を学びました。イエスさまに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来ましたが、弟子たちは彼らを叱ったという場面です。弟子たちは子どもたが嫌いだったわけではなく、イエスさまを煩わせないようにしたのでしょう。でも、イエスさまはそれ見て、憤って弟子たちに言われました。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。」子どもたちは何の心づもりもなくここに連れて来られ、また、大人たちもイエスさまに触れていただければという思いで来たのでしょう。でも、イエスさまはそんな思いを超えて、両手を広げ、あるがままの子どもたちを抱き、受け入れ、祝福されました。このイエスさまの愛は、今日もすべての人に注がれているのです。

失敗から学ぶ…

教会のデボーションは士師記に入りました。ヨシュアの死からサムエルが生まれるまでのおよそ200年のイスラエル史です。この期間、イスラエルには全部族を統一する指導者も現れず、首都と見られる中心地もなく、各部族は独立した行動をとる傾向にありました。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」民は神の御心よりも自分たちの都合を優先して歩んでいたので、神は彼らを周辺諸国の手に渡すことによって裁かれます。民が悩みの中で悔い改めて主に叫び求めると、主は『さばきつかさ』を起こしてイスラエルを救われる…この繰り返しが士師記です。このことから、この時代はイスラエル史における暗黒時代とも言われます。でも、だからこそ、私たちもこの書から神を信じる民としてあるべき姿をあらためて考えたいものです。

苦難の日の助け…

松原湖での充実した四日間を過ごして帰阪しました。キャンプの祝福をお祈り頂きました皆さまに感謝いたします。大きな事故やケガもなく終えられたこと、子どもたちが信仰の招きに応答してくれたこと、スタッフの方々の安堵した表情…すべてが守られました。今朝のデボーションは詩篇20篇から。「苦難の日に主があなたにお答えになりますように。ヤコブの神の御名があなたを高く上げますように。」昨夜のキャンプファイヤーは事前予報では雨だったようですが、天候も守られ、雲の切れ間から無数の星が見えました。私たちの人生も時に、雨雲がたちこめるような日もありますが、その向こうで必ず星が瞬いているように、どんな苦難の日にも神さまは必ず見守っていてくださることを話しました。後でひとりの子が『あの話し、わかったよ…』と声をかけてくれて嬉しかったです。四日ぶりの教会では向日葵が満開に咲いていました。ぜひ日曜日、見にいらしてください。

バイブルキャンプ2023夏…

今夏は松原湖バイブルキャンプの講師として招いていただきました。小学生の子どもたちを対象に4回のメッセージをします。コロナも五類になったこともあって大勢の子どもたちが参加してくれました。キャンプの雰囲気に慣れるまでは子どもたちも緊張していましたが、互いに打ち解けてくるとダンスも賛美もゲームもどんどん盛り上がっていきました。ここまで3回のメッセージもよく聞いてくれて、一生懸命メモを取っている姿に励まされました。フリータイムでも積極的に質問しにきてくれた子どもたちがいたり、夜のキャンプファイヤーでもみんなの決心を聞くことができたり、聖書の御言葉が子どもたちの心に響いているのが分かりました。スタッフの方々の事前準備と子どもたちに献身する姿にも脱帽です。日中はやはり厳しい暑さですが、朝晩は肌寒くて暑がりの私でもかけ布団が必要です。とにかく子どもたちから元気をいっぱいもらって、本当に感謝なキャンプでした。

わたしは背負う…

7月第五主日、今日も暑さ厳しい一日でしたが、大勢の方とともに礼拝を献げることができて感謝でした。礼拝では大学生の兄弟がお証しをしてくれました。自己紹介のつもりで…とのことでしたが、とても素直なことばで語ってくれて感動しました。メッセージは、私がうっかりマイクの電源をいれ忘れてしまい、最初のところが聞こえにくくなっています。申し訳ありません。「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」有名な御言葉ですが、あらためてその愛の深さ、神への信頼を覚えました。順境の時も逆境の時も、変らずに背負い続けてくださる主に感謝です。午後からは囲碁・将棋クラスがあり、頭の体操をしました。新しい参加者もいて、名勝負も生まれました。今日も主の恵みに溢れる主日を感謝します。…明日から小学生のキャンプです。

明日を守られるイエス…

『明日はどんな日か…私は知らない 晴れか嵐か 曇りになるか 私は明日を心配しない イエスが私を守られるから 明日は私にはわからないけど 明日を守られるイエスがおられる』私がまだクリスチャンになる前でしたが、ある集会で聞いた賛美がとても心に響きました。両親と自営業をしていた時、なかなか仕事が軌道に乗らずに落ち込みがちだった私の心境にあったのでしょう。神を信じたからといって、明日の心配が全くなくなるわけではありませんが、明日を造られる主がともにおられるという信仰はなんとも心強い約束です。そんな私も洗礼を受け、クリスチャンとなって25年が過ぎました。最近はいつの間にか、所謂いい牧師になろうとしている自分に気づかされます。最初の献身でいただいた御言葉は「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」でした。イエスさまについていく…この原点に立ち帰って、明日も心からの礼拝を献げたいと思います。

女の人は教会では…

7月第四水曜祈祷会、デボーションの箇所はⅠコリント14章から。コリントの教会内の様々な問題に、使徒パウロは愛をもって答えます。まず異言と預言について、教会という場所においては預言することを求めるように記しました。それは、教会を成長させる預言よりも、異言という個人的な霊的しるしが重んじらる傾向があったからです。また、次に女の人は教会では黙っていなさいともあります。これも、今日では大問題になる言葉ですが、普遍的な原則というよりはコリントの教会特有の問題だったのでしょう。パウロが繰り返し「教会では…」と強調しているのが印象的です。「神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。」「すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。」聖書は文脈や背景がある書物であって、部分的に切り取って理解することには注意しなければなりません。独りよがりな勝手な解釈に陥らないためにも、教会で一緒に聖書を学べることは感謝です。

神は必ずあなたがたを顧みて…

月に一度の旧約聖書を学ぶ会。創世記篇としては最終50章から学びました。父ヤコブを見送った後、ヨセフは幸いな晩年でしたが、父が召された後兄弟たちはヨセフからの仕返しを恐れていました。ヨセフの方はもう過去のことを赦しているのに、兄弟たちの方で赦されている実感がなかったのです。私たちはあなたの奴隷ですという兄たちに対して、ヨセフは私は神の代わりになることなどできない、あなたがたがした悪を神は良いことのための計らいとされた、あなたがたの子どもたちも私が養いましょうと、どこまで謙遜で、愛と赦しに富んだヨセフでした。そんな彼にもついに召天の時が来ました。「私は間もなく死ぬ。しかし、神は必ずあなたがたを顧みて…この地から約束の地へ上らせてくださいます。」その時、どうか自分の亡骸も携え上ってほしいと頼みました。毎回、最後に学びのタイトルを聞きますが、『望郷の聖家族』『顧みてくださる主』などが挙がりました。

わたしが主である…

7月第四主日、梅雨も明け、本格的な夏到来です。メッセージはイザヤ書45章から。主はご自分の民イスラエルを救い出すために、油注がれた者キュロスをお立てになりました。このキュロスに対する預言は、彼が登場する150年も前に告げられたものでした。神は歴史の支配者であり、万物の創造主である方です。そしてイスラエルだけでなく、異邦人を含めたすべての民の救い主です。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」神がイスラエルを選ばれたのは彼らがどの民よりも数が多かったからとか、その行いが立派で優れていたからでもありません。むしろ、彼らは民の中で最も数が少なく、すぐに不信仰に陥る者たちでした。つまり彼らの側に理由がある訳ではなく、ただ…憐れんでくださる主に尽きるのです。神は今日も同じ理由で、私たちを選び、その大きな愛の中に招き入れてくださることを感謝したいと思います。

ハートフル英会話春期コース終了…

今日はハートフル英会話春期コース・最後のクラスでした。大人クラスは講師の誕生日をお祝いしながらケーキタイム、キッズクラスはお米を使ったクラフトで楽しみました。受講生の皆さま、ありがとうございました。しばらく木曜日に会堂から笑い声が聞こえなくなると思うと寂しいですが、また秋期コースでお会いできるのを楽しみにしています。今日7月20日はアポロ11号が人類史上初めて月面着陸した日です。アームストロング船長はこう言ったそうです。『一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な躍進だ。(That's one small step for a man, one giant leap for mankind.)』また、組員だったオルドリン飛行士は一時プライベートのため通信を切って無言で感謝を捧げ、一人で聖餐式を行ったことも有名です。数えきれないほどの失敗と挫折を繰り返して、人類はついにこの日を迎えました。今夏、何か新しい一歩を踏み出してみるのもいいかもしれません。

すべて神の栄光を現すために…

7月第三水曜祈祷会、今日は暑さもひと段落でした。デボーションはⅠコリント10:14~33から。昨日に続いて、パウロは聖餐式という視点から偶像礼拝の問題を指摘しました。聖餐式では私たちがキリストにあって一つであることを覚えるのですから、偶像に捧げた肉を食べる、または悪霊の食卓にあずかることは悪霊と交わることであることを心していなければならないというのです。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すベて神の栄光を現すためにしなさい。」何もするにも神の素晴らしさを現していく、すべてのことですべての人を喜ばせるように努めていく、それはまさにキリスト・イエスに倣う生き方です。確かにクリスチャンはキリストにあって自由な者ですが、他の人のつまずきとならないように配慮し、自らを制限するのは大事なことです。私たちも聖霊に助けていただいてイエスさまに倣う生き方をしていけたらと思います。

倒れないように気をつける…

教会のデボーションはⅠコリント10:1~13から。パウロは偶像礼拝と飲食について実例を挙げて記していきます。最初にイスラエルの先祖の出エジプトの恵みから、バプテスマと聖餐を連想させることで、イスラエルと教会は同じ恵みと責任が与えられていることを示しました。イスラエルはその受けた恵みにも関わらず、神の御心にかなわず(悪を貪り)大部分が約束の地に入れませんでした。パウロはこれらのことが起こったのは、私たちを戒めるための実例だというのです。今日の信仰者にとって最も気をつけなければならないのは偶像礼拝の問題です。偶像は様々な形に姿を変えて近づいてきます。自分は大丈夫…というのが最も危険です。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」今日は朝から蝉時雨、暑い夏の到来を喜んで蝉たちが一斉に鳴き始めました。クリスチャンにとっても伝道の夏到来です。まことの主を賛美して、みことばを宣べ伝えましょう。

あなたを助ける主…

7月第三主日、梅雨開け間近いよいよ夏到来という一日でした。礼拝メッセージはイザヤ書44章から。「今、聞け。わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルよ。」神は背信のイスラエルに向かって、あなたはわたしの民だ、わたしが選んだ者たちだと呼びかけられます。見捨てられても仕方のない民を、神はどこまでも忍耐強く、わたしはあなたを母の胎内にいる時から形造り、あなたを助ける主であると言われたのです。今日の礼拝の最後、ある姉妹が引っ越しをするのでお別れの挨拶をしてくださいました。姉妹は20年近く教会にこられていましたが、最初に出会った頃は『洗礼を受けるつもりはありません』と仰っていました。でも、主はそんな彼女の心を変えてくださって、今から5年前に受洗に導いてくださいました。『引っ越し先でも教会を見つけて通います』という姉妹の笑顔に何とも励まされました。出会いは別れの始まりですが、別れは新しい関係の始まりです。

もう少し聖くなってから…

今日もハートフル英会話クラスから楽し気な会話が聞こえてきました。チャペルタイムの際には、あるご婦人が『今度のクリスマスに夫婦で洗礼を受けることになりました。』とTestimonyをしてくださいました。ご主人は学生時代から聖書を読んで、神さまのことも信じていたそうですが、『もう少し聖くなってから』『もう少し聖書をよく学んでから』と洗礼を躊躇していたそうです。同じように考えている方も多いのではないでしょうか。On hearing this, Jesus said to them,"It is not healthy who need a doctor,but the sick. I have not come to call the righteous, but sinners."『もう少し病気がよくなってから、病院に行きます』という人はいません。医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。私たちも罪人だからこそ、イエスさまが必要です。イエスさまは正しい人ではなく、罪人を救いに招くために来たという言葉をそのまま信じて頂けたらと思います。

結婚と独身でいること…

7月第二水曜祈祷会、今日はオンラインが上手く繋がらずご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。次回は細心の注意を払って配信したいと思います。Ⅰコリント7章からパウロがコリントの教会からの具体的な質問に答えていくところでした。道徳的倫理的に堕落していたコリントの町という事情を考慮して、パウロは「淫らな行いを避けるため」「自制することができないなら」結婚しなさいと言いました。そんな中にも「夫は自分の妻に対して義務を果たし、同じように妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。」という言葉に、一夫一婦、男女平等という聖書の原則が記されているのが心に留まりました。「結婚」は神が人間を造られて最初に定められた制度です。そしてサタンが最初に壊そうとしたのも「結婚」でした。結婚の乱れは社会の乱れに通じる、ある先生が仰っていたのを思い出します。教会こそ結婚の奥義を語っていかなければならないと思っています。

変わらない神の愛…

7月第二主日、活発な梅雨前線の影響で各地に被害が発生しています。心よりお祈りしています。礼拝ではイザヤ書43章からメッセージを聴きました。神に背を向け、不信仰な生活を続けるイスラエルの民に、神は神の愛の言葉が告げられます。「だが今、主はこう言われる。『恐れるな、わたしがあなたを贖ったからだ。あなたはわたしのもの。」思えばアダムとエバが罪を犯して楽園から去っていく時から、神はずっと罪人の背中を見てこられました。イエスさまが語られた放蕩息子の父親の姿、十字架上で「父よ、彼らをお赦しください」と叫ばれたイエスさまの姿が思い出されました。神の御心は悪しき者の死ではなく、彼がその生き方から立ち返って生きることです。礼拝に久しぶりに来てくれた兄姉の顔が目に入ったら、主の御思いが胸に迫ってきて…ついメッセージに力が入ってしまいました。今週も、主の御言葉がお一人ひとりの生活を支え、力づけてくださいますように。

私に倣う者に…

教会のデボーションはⅠコリント4章から。パウロはここまでコリントの教会に厳しい事を言ってきましたが、「キリストにあって、あなたがたを生んだ…」父親としての愛情から出た諭しでした。パウロは「あなたがたに勧めます。私に倣う者となってください。」と言います。それは、パウロ自身というよりも、キリストに倣って生きる自分を模範とすることで、人々とキリストを結びつけようとしていたのです。いつの時代も、教会には良きリーダー、良き模範が必要です。恥ずかしながら、私はパウロのようには言えません…。でも、私の人生の中で良き模範となる兄姉と出会わせて頂いたのは感謝です。頭に思い浮かぶ兄姉はみな、謙遜で忠実な方々でした。その方々を通して、私もキリストへの信仰を深めていったように思います。クリスチャンになって最初にあこがれた榎本保郎牧師は『私に倣う者になってください』と言っただろうか。いつか天国で聞いてみたいです。

大切なのは神…

7月第一水曜祈祷会、今日は晴れ間が見えたかと思えば、急に激しい雨になったり、大気の状態が不安定な一日でした。御言葉はⅠコリント3章から、教会内に『私はパウロにつく』『私はアポロに』と分裂・分派が生じていたことを受けて、パウロは「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」と答えました。人はどうしても目に見えるものに影響を受けやすいものです。目に見えない神よりも、目に見える人に心を寄せてしまうのは致し方ないことなのかもしれません。でも、だからこそパウロはそこから一歩成長して、すべてをご支配しておられる神に目を向けようと言うのです。私たちが御霊に属する人になる秘訣は、徹底的に肉の思いを捨て去ることです。古い考えや習慣を引きずったままで、新しくされるというのは難しいでしょう。神の前に握りしめている手を開いて、委ねるなら、神はより多くのものを手の中に掴ませてくださるのです。

主は与え、主は取られる…

私が最初に牧師になろうと決心したのは、友人の葬儀の時でした。友人と言っても、8歳も年下の青年で、向こうが私を友人と思ってくれていたかどうか…。ただ何でも思った事を正直に話してくれるのが、私にとっては有難い存在でした。彼は心の病を抱えていて、家族との関係も難しく、中学の時から家に引きこもっているとのことでした。私には知り得ない大変な重荷を抱えているのがわかりました。でも、ある時、私に言ってくれたことがありました。『わたちゃんの聖書の話しは難しすぎる。もっとわかりやすく話してくれたら信じるのに…』その後、20歳の誕生日を前に彼は海の事故で天に召されました。あれから27年になりますが、私にとって今も大切な言葉として心に響いています。彼とお母さんのことが『語らいと祈り』という本の中で少し紹介されていました。ぜひお勧めします。

あなたを見守る主…

7月第一主日、梅雨の晴れ間の一日となりました。礼拝メッセージはイザヤ書42章から。「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともなく、真実をもってさばきを行う。」イエスさまは、イザヤがした700年以上前の預言通りに到来し、まさに傷つき倒れそうになっている者を、信仰の灯が消えかかっている者を、慰め、励まし、力づけられました。そして主は今も、今日の私たちを召し、その手を握り、見守り、国々の光としてくださるのです。「こうして、見えない目を開き…闇の中に住む者たちを獄屋から連れ出す。」神はすべての人を罪の縄目から解放し、救われてほしいと願っておられます。今日も午後から80歳になる兄弟の洗礼式がありました。『主と家族とともに新しい人生を歩み出します』という素晴らしい証しを聞かせていただきました。何歳になっても、主にあって人は新しくされ、永遠の御国を約束された祝福の人生を歩み出すことができるのです。

天は神の栄光を語り告げ…

ライフワークスの野田社長に、キリスト教葬儀について取材して頂いたものがYouTubeで公開されました。キリスト教葬儀について広く多くの方に知って頂けましたら幸いです。さて、教会のデボーションは詩篇19篇に入りました。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」C.S.ルイスは、この19篇を『詩篇中、最高の詩。世界最高の叙情詩の一つ』と言ったそうです。とかく目の前の現実しか見ていない日常生活から、目を高くあげて、限りなく広い大空に目を向けるなら、小事に一喜一憂する自分が小さなものに思えてくるのではないでしょうか。大空を造られた偉大なる神が「わたしはあなたとともにいる」と仰ってくださっていることをいつも忘れないでいたいものです。今年の梅雨明けはもう少し先になりそうなので、満点の星はおあずけですが、雨はあがりますので楽しみにしましょう。それより今は大雨による被害が最小限に抑えられますように…。

わが力なる主…

6月第四水曜祈祷会、今日も午前・午後と御言葉を開きました。朝は詩篇18篇から、主によって数々の敵、特にサウルの手から救い出された日に、ダビデが歌った詩篇です。「この主を呼び求めると私は敵から救われる」今日は嬉しい知らせがありました。教会のある青年のお母さんが、倒れて一週間以上意識が戻らなかったのですが、今日その意識が戻って、人工呼吸器も取れましたとLINEがありました。御言葉の通り、神は祈りに応えてくださいました。まだ手術があるものの、一先ず安心です。お祈りくださった方々本当に感謝いたします。夜はマタイ26章から、イエスさまのゲッセマネの祈りを学びました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」全人類の全ての罪を背負われ、その裁きを一身に受けられたイエスさまの苦難は計り知れません。「…わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」祈りの真髄はここにあると教えられました。

自分の民に加えられた…

教会では月に一度『旧約聖書を学ぶ会』を行っていて、これまで創世記を一章ずつ学んできましたが、残り二章となりました。創世記の後半はエサウとヤコブの長子の権利争いに始まり、創世記に出てくるどの人物よりも長く記されていて、このことからも神の契約の歴史においてヤコブが占める位置がどんなに重要であるかがわかります。ヤコブはやがてイスラエルと呼ばれるようになり、彼の十二人の息子たちから十二部族が誕生しました。失敗と悔い改めを繰り返し、主の励ましと恵みに生かされて、文字通り、波乱万丈の人生を歩んだ人です。今日の学びはそんなヤコブの最期の場面でした。ヤコブは自分の死期が迫る中で子どもたちを呼び寄せ、遺言のように一人一人に神の預言を伝えました。「息子たちに命じ終えると…息絶えて、自分の民に加えられた。」子どもたちに見守られながら平安の内に目を閉じたのでしょう。そして、次に目を開ける時は、主にまみゆる日です。

わたしがあなたの神だから…

6月第四主日、今日も湿度の高い蒸し暑い一日となりました。礼拝メッセージはイザヤ書41章から。全世界の支配者であり、歴史を創造される方はイスラエルの民を「わたしのしもべ」「わたしの友」と呼ばれました。「しもべ」とは「神の所有とする民」ということであり、「わたしの友」とは直訳は「わたしの愛する者」です。神はご自分の民に「恐れるな」と繰り返し告げられます。それは、神があなたとともにおられて、あなたを強め、助け、守られるからです。「わたしがあなたの神だから。…わたしの義の右の手であなたを守る。」この御言葉を暗唱して、いつも口ずさんでいる方も多いと思います。礼拝後の分かち合いの時間でも、とても良い証しを聞くことができました。互いを覚えて祈り合うことも対面ならではの恵みです。午後からはバイブルクラス、小さい子どもたちはジャガイモほり、青年たちは卓球、バイオリンクラス…と今日も盛りだくさんの一日でした。

天が地よりも高いように…

預言者イザヤは、神の思いは人間の思いよりもはるかに高いものだと告げます。雨や雪は地に降り注いで、再び天に戻る循環の過程の中で作物を育て豊かな実りをもたらします。同様に、みことばも人々に伝えられると必ず実りをもたらし御心が実現していくのです。天からの雨がなければ作物は育たないように、みことばが伝えられなければ他にのような人間的な活動があっても人を御心にかなったいのちに生かすことはできません。また、天からの雨を人が拒むことができないように、主の救いの計画も人の力で押しとどめることはできないのです。地に吸い込まれた雨は、なんの働きもしていないように見えますが、実は見えないところで重要な役割を担っているように、みことばも人の心に染みこんで、それで終わってしまったかのように見えても、実は力強く働いて時を待っているのです。今年も暑い夏を前に、ジャガイモがいっぱい獲れました。主の豊かな恵みに感謝します。

弱さを誇りましょう……

先日、ドイツのある教会で(AI)のチャットGPTで作成したものをアバターの牧師が説教する礼拝が行われ、300人以上が参加したというニュースがありました。海外の教会ではすでにAI の技術を活用して祈りの支援サービスや教会探しなどを行っているとのこと…。今後日本の教会も閉鎖や無牧の教会も増えていくことを思うと、AIの導入は不可避なのかもしれません。今はまだ笑ってしまう説教だとしても、未来ではもっと精度が上がって、AIと人間の判別も難しくなる時代もそう遠くないのでしょう。そうした中で、人間がAIに誇れるものと言えば、私は弱さなのだと思います。「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」私たちは弱いからこそ、神の臨在を感じることができます。「私が弱い時にこそ、私は強い。」という御言葉は常に真実です。

主が告げられた良いことは…

6月第三水曜祈祷会、朝はヨシュア記21章から、夜はヨハネの福音書21章から御言葉を心に留めました。ヨシュア記は「あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。」という言葉で始まりました。但し、その約束は易々と叶えられるものではなく、彼らの行く手には様々な問題が立ち塞がりました。途中、恐れやあせり、不安…を感じることもあったでしょう。でも、彼らは約束を信じて前進し続けたのです。「主が告げられた良いことは…すべて実現した。」信仰とは決断と行動を要することを改めて教えられました。ヨハネの福音書21章は復活の主がペテロに「ヨハネの子シモン、あなたは…わたしを愛していますか。」と三回尋ねられたところから。それはペテロがイエスさまの弟子になる前の名前です。イエスさまは傷心のペテロに近づいて声をかけられ、彼を赦し、立ち直らせました。そんなペテロだからこそ、私たちは共感するのでしょう。

和歌山開拓、開所式…

今日、和歌山開拓・岩出みのりチャペルが開所式を迎えました。和歌山県に同盟教団の初の教会です。近年、様々な事情で閉鎖する教会も増えているそうですが、宣教の主に押し出されての新たな開拓です。派遣される中村忍牧師は真面目でユニークな先生、青年たちの面倒見もよく、何より信仰の人。お近くにお越しの際はお立ち寄り頂ければ幸いです。さて、教会のデボーションはヨシュア記20章まできました。約束の地の割り当て地も決まり、なお残る課題は逃れの町とレビ人の割り当て地を定めることです。『逃れの町』は、誤って人を死に至らしめた者が『血の復讐』をする者から逃れるために逃げこむ所です。まるで裁判を待つ間の刑務所のような場所でしょうか。新約時代の私たちはイエスさまの贖いによってすべての罪が赦されますが、この地上においての責任は免れません。『人は種を蒔けば、刈り取りもすることになる」厳しい言葉ですが、罪の重さを教えています。

慰めよ、わが民を…

6月第三主日、朝から梅雨らしい湿度の高い一日となりました。礼拝メッセージはイザヤ書40章から。イザヤ書の構成は、前半の1~39章と後半の40~66章に大別されます。前半は罪の告発に始まり、新しい時代の待望が綴られ、後半は捕囚からの解放宣言に始まり、新天新地で終わります。この時すでに隣国の北イスラエルはアッシリアによる攻撃を受け、国家的危機に陥っていました。その影響が南ユダにも及びつつあるにも拘らず、民は神に背を向け、神以外のものにより頼もうとしていたのです。そうした中で、主はバビロンによる裁きを宣告した後、全く新しい観点から救いの計画を示されました。「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。」それは神からの一方的な赦しと希望の良い知らせ(福音)でした。そんなイザヤの言葉にも耳を傾ける人は少なったでしょう。それでも神は「力の限り声をあげよ」とイザヤを鼓舞しました。神は同じように私たちにもお命じになられるのです。

head and tail…

今日もハートフル英会話から楽しそうな笑い声と元気いっぱいの子どもたちの声が聞こえてきました。チャペルタイムでレイチェル先生が預言者イザヤの話しをしてくれました。コインを投げて、表(Head)と裏(Tail)を当てる確率は1/2ですが、一年後も自分がクラスにいるかどうかを当てるのは???。未来に何が起こるか…それはだれにもわかりません。でも、預言者イザヤは700年後の未来にメシアが到来することを預言しました。どうしてそんなことができたのか。それはイザヤがいつも神の声に耳を傾けていたからです。ちなみに『預言者』の『預』が、『予』ではないことも話題になりました。それは単に未来のことを言い当てるのではなく、神の言葉を預かって語るのが預言者だということです。そう考えると、私たちクリスチャンも現代の預言者ということが言えるでしょう。聖書を通して神の語りかけを聴く…それは確率の問題ではなく、最も確かな未来の出来事です。

この希望は失望に終わらない…

6月第二水曜祈祷会、朝は高橋央也師&恵師のインドネシア宣教出発報告会がありました。なぜジャカルタの日本語教会に行くことになったのか、どんな召しを聞いたのか、先生方から直接お話しを聞けたのは感謝でした。央也師は神学校を卒業し牧師になりましたが、体調を崩して五年ほど働きから遠ざかっていた時期もあったそうです。それから20年…「測り綱は私の好むところに落ちた」とあるように、神は一番良い時、良い場所に導いてくださったと証ししてくださいました。高橋師ご夫妻の報告会はこちらからご視聴いただけます。また夜はルカ22:31‐34、ペテロが主を否認するところを読みました。ここを読むと、なぜ神はサタンが麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられたのか、なぜ主は試練がなくなるようにではなく、信仰がなくならないように祈られたのか、いろいろな疑問が湧いてきますが、とにかくペテロは生きて主を証した…ここに希望があります。