2022年最後の日のデボーションは詩篇150篇から。「ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。」今年も、地上の教会から天上の神の御座に向かって、一つ心で主をほめたたえることができて感謝でした。特定の場所と特定の時間を神の前に聖別して、『安息日を聖とする』ことは素晴らしい恵みです。それと同時に、様々な事情があって教会に行けない方にはオンライン礼拝が恵みであることを思います。教会によってオンライン礼拝の是非が問われていますが、私自身はオンラインだからこそ参加する方や御言葉を聴く人が起こされているなら、それも素晴らしいことと思います。新型コロナウィルスの感染が続き、ロシアによるウクライナ侵攻、世界経済のインフレ、異常気象、元首相の襲撃事件、防衛費の増額…。世がますます混沌とする中で、私たちには生ける神のことばが必要です。「息のある者はみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」
教会のデボーションは詩篇149篇に入りました。『ハレルヤ詩篇』の四番目です。「主にあって喜べ…楽しめ…踊りをもって…タンバリンと竪琴に合わせて、主をほめたたえよ」とあります。聖なる集いの中で体全体で主への賛美を歌っている様子が目に浮かびます。私たちも、実際に踊なくてもいいと思うのですが、それほどの喜びが心にあるだろうかと思わされます。頭で理解するだけの信仰はいざという時に頼りになりません。クリスマスが過ぎても、神が人となってきてくださったその喜びを忘れないでいたいものです。今年一年を振り返って、進学、就職、結婚、出産、長寿…喜ばしいことは幾つもありました。受洗者はいませんでしたが、信仰決心者は起こされ、新来者や転入会者など礼拝出席者は増やされました。ただ、どうしても気になるのは療養中の方、長くお休みされている方々のことです。一緒に心からの賛美が歌えるように、主の回復と癒しをお祈りしています。
2022年最後の水曜祈祷会。デボーションは詩篇147篇『ハレルヤ詩篇』から御言葉を心に留めました。「ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。」バビロン捕囚からエルサレムに帰還した民が、神殿で主をほめたたえる情景が思い浮かびました。私たちの教会も未だコロナ禍ではありますが、礼拝で賛美する機会が少しずつ戻ってきました。賛美は偉大なる主をほめたたえることであり、私たちの信仰の証しです。感染対策の意味合いもありますが、住宅街にある教会なので音の問題にもできるだけ注意を払わっています。主の憐みと知恵を祈り求めて今後の賛美のあり方を考えたいと思っています。今日は今年一年を振り返っての恵みの分かち合いになりました。祈祷会の恵みの一つは互いに祈り祈られることにあります。コロナ禍になって教会のデジタル化も一歩前進し、オンラインで参加してくださる方も増えたことは感謝です。
12月の旧約聖書を学ぶ会がありました。今日は創世記43章でした。長引く飢饉でいよいよ食物も尽きてきたヤコブは息子たちを再びエジプトに送ろうと考えます。でも、そのためには末のベニヤミンも一緒に行かねばなりません。ユダの真剣に言葉に動かされて、父は仕方なくそれを承諾しますが、最後は全能の神に祈りをもって息子を委ねたのです。こうして一行はエジプトを再訪問し、ヨセフの前に立ちます。ヨセフはそんな兄たちを自宅に招き、丁重にもてなしました。怖くなった兄たちは管理人に正直にこれまでの経緯を話します。「安心しなさい。恐れることはありません。」管理人の優しい言葉に兄たちはホッとしたでしょう。ヨセフは父ヤコブは元気か…兄たちの口から聞きたかったのでしょう。20年ぶりの再会となったベニヤミンを見ると、ヨセフは思わず胸が熱くなって、奥の部屋に行って泣きました。そこでもヨセフは自分の素性を明かさず、神の時を待ったのです。
12月第四主日、クリスマス特別礼拝を献げました。昨日のキャンドルサービスの余韻を感じつつ、ヨハネの福音書4章から「イエスと出会う幸い」をテーマにメッセージを聴きました。先週のニコデモに続いて、今日のサマリヤの女もイエスさまと出会うことによって人生が変えられました。サマリヤの女は、イエスさまに自分の心の渇きを言い当てられて、生ける水を求めるように導かれたのです。「わたしが与える水を飲む」とはイエスさまを信じることを意味していました。そうすればその人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るというのです。こうして彼女はイエスさまを信じる者となり、それだけでなくイエスさまを宣べ伝える人に変えられていきました。人生に偶然はなく、あるのは神の必然です。人生とは、一枚の刺繍の布のごときものであり、裏側から見てるだけではわかりませんが、やがて表側から見るなら、神が見事な絵柄が描いていることを知るのです。
2022年のクリスマス・イブを迎えました。今年も聖なる夜にキャンドルサービスを献げられることを感謝いたします。クリスマスイブと言えば、『クリスマスの前夜』のことと思われる方もいますが、実は『イブ』とは『evening』のことですから『クリスマスの夜』のことです。ユダヤ暦では日没から一日の変わり目となるので、24日の夕方から始まって25日の日没までがクリスマスとなります。今年は、次の日がクリスマス礼拝ということもあって、土曜日夕方からの開始となり、来会者が心配されましたが、大勢の方が来会してくださいました。バイオリン演奏のある姉妹はこの日の奉仕のために東京から駆けつけてくれました。忙しい時期に本当に感謝でした。実際の生の演奏を聴くのとは違いますが、YouTubeのアーカイブがありますので、ぜひ姉妹の息の合った心地よい演奏をご視聴ください。今日、初めて教会に来ましたという方も何人かおられて主の御名を崇めました。
今年最後のCGNTVの撮影が終わりホッと一息。リビングライフの奉仕もなんとかここまで守られ、残り3回…用いていただいて感謝です。撮影後に韓国のキリスト教会の情勢なども教えていただきました。昔、ソウルの街には赤い十字架の明かりがたくさん見えたのに、今はだいぶ少なくなってきているとのこと。でも、その方の神への信頼は全く変わらないことを感じました。今回はヤコブ書からのメッセージでしたが、「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。」の御言葉がずっと頭を巡っていました。試練の意味…。それは栄光へと続く道。十字架で始まり、冠で終わる。No cross, No crown...私たちがこの信頼を貫こうと思うのは、神を愛するという動機があるからです。そして、彼に信頼する者は失望させられることがありません。今日、ある赤ちゃんの手術が無事に守られました。お祈りを感謝いたします。
アドベント第四週、雨も上がり温かな日差しが差し込む一日でした。礼拝メッセージはヨハネ3章から。パリサイ人で議員でもあったニコデモは、夜人目をはばかるようにイエスさまのもとに来ました。イエスさまはニコデモの心を知って「人は新しくまれなければ神の国を見ることはできません」と彼が一番心配に思っていることを先に答えられたのです。ニコデモは驚いたでしょうが、自分の常識が勝り、そんなことは不可能ですと言います。イエスさまはそんな彼の浅はかな信仰を真の信仰に導かれるように、ご自身が天から下られた意味を教えられたのです。「キリストは富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。キリストの貧しさによってあなたがたが富む者となるためである。」キリストは何を捨てられたのか…どこまで貧しくなれたのか…それは何のためだったのか…。あらためて教えられました。いのちのことば社の文書伝道デーもよい機会となりました。
教会のデボーションはヨハネの黙示録19章に入りました。患難時代において、信仰の戦いを耐え抜いたクリスチャンたちが天に迎えられ、24人の長老たちや4つの生き物、そして御使いとともに勝利の礼拝を献げている光景が描かれます。悪魔ともサタンとも呼ばれる悪の勢力はキリストの再臨によって徹底的な裁きを受けるのです。「血に染まった衣をまとい、その名は『神のことば』呼ばれていた方」はイエス・キリストを表していました。今から約2000年前に人となって来られたお方は、私たちの全ての重荷を背負い、私たちの救いのために十字架への道を歩まれました。それは悲しみを喜びに、涙を笑顔に、嘆きを希望に変えるためです。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」このお方はまたやがてこの世に来られます。その時、この方の到来を待ち望んでいる者は幸いです。明日は待降節第四主日。心からの礼拝をともに献げようではありませんか。
仏教と神道が多数派を占める日本でも、この時期になればクリスマスの雰囲気に包まれます。お寺でクリスマスというのも珍しいことではなく、その寛容さが仏教においてとても重要なのだそうです。そういう意味ではキリスト教もクリスマスの日を12月25日に決めた経緯には、他宗教の冬至の習慣を取り入れたことと関係があります。そもそも初代教会の時代、ローマ帝国にはギリシャ・ローマ神話の神々が多数祀られ、その中で宣教するのは至難の業だったはずです。様々な世界観、価値観をもった人たちと上手く関係を築かなければ、社会から受け入れてもらえなかったでしょう。多くのカルト宗教が一般社会から孤立し、摩擦を起こすのは他者の立場との調和を考えないからです。もちろんキリスト教も異教に対して一線を画さないといけない部分もありますが、思い出すのは『信仰において譲らず、愛において譲る』のルターの言葉です。クリスマスは隣人に愛を示す日です。
ハートフル英会話秋期コース最後のクラスでした。大人のクラスは、シュトーレンを食べ、シナモンティを飲みながら、みなさんの思い出に残るクリスマスストーリーを話して頂きました。いろいろなエピソードを聞く中で、私はオー・ヘンリーの『賢者の贈り物』を思い出しました。プレゼントは中身も大事ですが、やはり贈る人の気持ちが一番大事なように思います。コロナ禍になって、私たちは日ごろ当たり前に思っていたことが当たり前ではないことを経験しました。クリスマスに家族や友人と一緒に過ごせることは有難いことです。このことをまず神に感謝したいと思います。また、キッズクラスは、みんなでクリスマスカードを工作し、オリジナリティ溢れる作品が完成しました。ダンス講師でもあるホゼア先生のいろいろなアイディアで、みんな楽しく英語を学んでいます。皆さん、お疲れさまでした。冬期コースは2023年1月12日から。今日から受付を開始いたします。
12月第二水曜祈祷会、昨日からの寒波到来で大阪も一段と寒さが増してきました。コロナの感染も心配ですが、心身ともに体調を崩しやすい時期です。どうぞご自愛ください。祈祷会はヨハネの黙示録18章から御言葉を学びました。大バビロンの滅亡はどんな人間的な栄華も神は一瞬にして滅ぼされてしまうことを教えていました。聖書は一貫して不品行と名声を求める生き方、あり方から離れなさいと告げています。私たちも物質主義的な価値観に囚われた生活から離れ、神との信頼関係を第一とし、神の聖さに歩めるように祈っていきたいものです。本来クリスマスと言えば、ご家族で主イエスの誕生の恵みを喜び感謝し合う日ですが、苦難の中を通っているご家族には一層辛くもの悲しい時期です。特に、病の中にある方々を覚えてお祈りしました。まだ生まれたばかりの赤ちゃんから、一人で病と闘っている方、十数年同じ病に苦しんでいる方々に、主の癒しが実現しますように。
教会のデボーションはヨハネの黙示録17章に入りました。いよいよ患難時代の厳しい場面を迎えます。「大バビロン」「大淫婦」など聞きなれない言葉が出てきて、一人で読むには難しいところでしょう。「大バビロン」は当時のローマの象徴的表現、「大淫婦」は享楽の富におごり高ぶった諸都市そのものです。ヨハネの時代はローマが世界の征服者で、その支配下には従属する国々とそれぞれの王たちがいました。でも、その大帝国も滅び、それ以降の歴史も、世界を制覇した支配者たちが出現しては、また消え去るの繰り返しでした。「世と、世の欲は過ぎ去ります」とあるように、富は人の心を惑わし、国を滅ぼしていく…。人の欲求は向上のために大事なものですが、悪しき欲望に変わりやすいもの。人間には罪ゆえに欲望の虜にされて堕ちてしまう弱さがあるからです。この17章も、享楽主義に陥りやすい私たちへの警告として読むなら、とても教えられる大事な箇所です。
アドベント第三礼拝、礼拝メッセージはヨハネ2:1から。イエスさまはカナの婚礼で水をぶどう酒に変えるという奇跡をなされました。大勢の人が若いカップルを祝福する中で、客をもてなすためのぶどう酒が足りなくなったというのです。ユダヤの婚礼にあってぶどう酒は不可欠のもの。いち早くそれに気づいたマリアがイエスさまにそのまま伝えると、すぐに答えがありました。「女の方…わたしの時はまだ来ていません。」「わたしの時」は、イエスさまの十字架と復活を指していました。つまり、神の計画に従って定められた時があり、いかなる人間的なものもこれを変更できないということです。それ以上はだまってすべてを委ねたマリアの信仰、イエスさまに言われた通り水がめを水でいっぱいにした給仕の者たちの信仰が、そこで神の栄光を見る特権にあずかったのです。最初のしるしは、私たちの最悪の状況が、一変して祝福に変えられることの象徴でもあったのです。
この時期になるとエホバの証人の方が『クリスマスは異教に由来し、聖書的根拠がありません』と言って訪問されるのを見かけます。確かにキリスト教は元来イエスの誕生日には関心はなかったようです。マルコの福音書の冒頭を見ても、注目したのは十字架と復活であることがわかります。日付についても聖書の記述はありません。ではなぜ12月25日なのかと言えば、ローマのサトゥルナリア祭に由来していると言われます。この日はローマの冬至にあたるので、人々は常緑樹を飾り、飲み食いし、翌年の豊穣を願ったとされます。また、この日はミトラス教の太陽を祭る日でもありました。メシアは義の太陽と呼ばれ、異邦人を照らす光なので、この太陽の祭りにぴったりでした。一般民衆が盛大に祝う祭りをキリスト教に結びつけることは、人々の意識をキリストの福音に集めるのに絶好の機会であるとして、この日が選ばれたのです。今もクリスマスは真の福音を伝える機会です。
ハーフル英会話秋期コースも残り二回となりました。クラスの後、今日はチャペルタイムがありませんでしたが、ある方から『Advent』の意味についてご質問を受けました。アドベントは日本語は待降節です。11月30日一番近い日曜日から始まってクリスマス前までの4週間に、一本ずつローソクを立ててその日を待ち望みます。『アドベント』の意味は『待つ』『到来する』という意味です。主イエスは昔おられ、今もおられ、やがて終わりの日に来られる方です。キリストは今も生きておられ、私たちの心の戸をノックしておられます。私たちが心の戸を開けるなら、この方は喜んで入ってくださって心に住んでくださるのです。『アドベント』と同じ語源から生まれた言葉に『アドベンチャー』があります。まさに目に見えない神を心に迎え入れるのは勇気が必要です。同時に、イエスさまがかよわい赤子となって飼い葉おけにお生まれになられのも大変な冒険だったと思います。
12月第一水曜祈祷会、昨日に続いてヨハネの黙示録13章から。11章の「二人の証人」は終末における神の民の証言、保護、苦難、殉教を示していました。二人の証人を殺すのは底知れぬ所から上ってくる獣です。この獣は暗黒の力を象徴しています。また、13章の「二匹の獣」は政治的権力と反キリストを支援する偽預言者を表していました。「海からの獣」は天に住む者たちをののしり、四十二カ月間神を冒涜し、「地からの獣」は地に住む人々を惑わし、偶像を拝ませ、逆らう者はみな殺したのです。獣の民を明確にするために、その右の手か額に666の数字を刻印するともあります。こうした恐ろしい出来事の中にも救われる神の民への勧告がありました。「耳のある者は聞きなさい。…ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。…ここに知恵が必要である。」苦難の中でこそ慌てずに神の声に聴従すること、また、落ち着いて信頼すれば力を得ることを覚えたいものです。
教会のデボーションはヨハネの黙示録12章に入りました。「四十二か月の間」「千二百六十日間」「一時と二時と半時」という数字が出てきます。これは7年間の患難時代の後半(3年半)を指しています。また「二人の証人」(神の民)「一人の女」(真のイスラエル)「大きな竜」(サタン)「男の子」(キリスト)「女の子孫」(キリスト者)などの象徴的な言葉が続くので難解なところです。でも、だからと言って読み飛ばしてしまうのも勿体ないところ。天上での戦いに敗れた竜(サタン)は地に投げ落とされ、激しく憤り、キリスト者を滅ぼそうと追跡します。でも、大事なのはサタンの激しい憤りにも拘らず、真のイスラエルは神に守られていくと確信することです。「しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒野にある自分の場所に飛んで行って、そこで一時と二時と半月の間、蛇の前から逃れて養われるためであった。」続きは、明日の祈祷会でお話しします。
アドベント第二礼拝、礼拝メッセージはヨハネ1:14から。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」ヨハネは永遠であり、万物を創造され、神ご自身である方が私たちと同じ人間となられたと記しました。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず…とあるようにそれがどれほどあり得ないことなのか、人間の小さな頭で、また限られた思考力で、形あるものしか見れない貧弱な視力だけで理解しようとしても無理な話しです。神と人間との間には決してたどりつけない無限の差があるからです。でも、だからこそ、神はご自分の御子を遣わし、人間の目で見える形で、耳で聞こえることばで、ご自身を説き明かしてくださったのです。あらためて私たち人間に対する神の愛の深さを心に覚えました。今日は今週末結婚式を迎えるある姉妹の報告、10月に生まれたばかりの赤ちゃんが初お目見えと、喜ばしいニュース一杯の一日でした。
サッカーのワールドカップ(W杯)カタール大会で、日本代表がスペイン代表に逆転勝利を成し遂げました。朝4時からの試合でしたので大変でしたが、多くの日本人が観ていたでしょう。前半にスペインに1点を先制されてどうなるかと思いましたが、後半に途中出場した堂安選手、三苫選手の活躍で見事に2点を取り返しました。特に2点目は一瞬ゴールラインを割ってしまったかのように見えましたが、VAR判定で覆り、文句なしのゴールでした!絶対に勝利をあきらめない気持ちが最後の最後に数㎝の奇跡を生みました。解説者の方が「サッカーの神さまが味方してくれましたね」と言っているのが気になりましたが(勝っても負けても神さまは信じる者の味方ですが…)、小さいことは気にせず、とにかくこの喜びを一緒に分かち合いたいと思います。今日は朝から眠気と疲れでくたくたでしたが…午前中は関西宣教区の会計監査があり、午後からは会堂床のワックスがけを行いました。
12月に入り、ハートフル英会話秋期コースも残すところあと3回となりました。リアナ先生のクラスからはいつも受講生の皆さんの楽しそうな話し声と笑い声が聞こえてきます。一人一人のレベルに合わせて丁寧に教えてくださる先生です。今日のチャペルタイムでは『出会いは神さまからのギフト』という話しをしました。ルツ記2章にはAs it turned outという言葉があります。ここは日本語の聖書では『はからずも』と訳しているのですが、神さまの摂理 providence を感じる箇所です。住み慣れた故郷を離れ、姑ナオミと生きることを選んでベツレヘムにきたルツ…。そんな彼女は落ち穂拾いに出かけた先で、図らずもその町の有力者のボアズと出会っていきました。神を第一にしたルツ、嫁ルツのために祈っていたナオミ、二人には幸いな人生が用意されていたのです。私たちの人生も無数の『はからずも』に満ちています。その一つ一つが偶然ではなく、神からのギフトです。
11月第五水曜祈祷会、ヨハネの黙示録8章から。子羊が七つの封印を解く、神の本格的な審判が始まります。ヨハネは七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢という順番で、次々と起こる不思議な出来事を記しました。黙示録はいろいろと象徴的な用語が出てくるため、解釈もいろいろ分かれる書物です。正式なキリスト教ではない、所謂『異端』と呼ばれるグループも黙示録の数字や民族を独自に解釈して、未来の出来事を予言しようとします。でも、大事なのは、この書の最初の読者はローマ帝国の迫害に苦しめられていたキリスト者であったことです。彼らは厳しい苦難の中で、この書をどう読んだのでしょう。それは終末の恐怖よりも解放の恵み、新しい出エジプトが起こるという希望のメッセージだったと思います。今日の私たちも言い知れない苦難を通らされることはあります。でも、主は苦難を苦難のままで終わらせず、希望に変えてくださることを聖書は伝えているのです。
アドベント第一礼拝。礼拝メッセージは、ヨハネ1:1「初めにことばがあった」の御言葉から。イエス・キリストはクリスマスの日に生まれたのは知っていても、永遠の初めからおられ、万物を創造された神ご自身であることをご存知ないという方もおられます。そこから書き始めるヨハネの福音書は、他の3つの福音書とは少し違った視点でイエスさまのことを描き出しています。詳しくはメッセージの動画を視聴いただければと思いますが、なかなか深い内容が詰まった箇所です。永遠なる神のことを限りある人間が頭で納得しようとしても、それは無理な話しです。かと言って、とにかく盲信すればいいということでもないでしょう。聖書のメッセージに関心をもって聴いてくださる方にはきっと心で信じて確信することの意味が分かっていただけるように思います。このアドベントはクリスマスを意識したメッセージをお話していきます。続けてお聴きいただけましたら幸いです。
明日からいよいよアドベントが始まります。『アドベント』とはラテン語のAdventusからきている『到来』を意味する言葉で、イエス・キリストのご降誕を喜び、感謝し、待ち望んで過ごす期間です。今日は有志の方々が来てくださってクリスマスの飾りつけを行いました。真ん中の写真のアドベントキャンドルは、クリスマス特別礼拝まで日曜日ごとに一本ずつ灯していきます。この時期になると町中に華やかなイルミネーションが灯り始め、クリスマスソングがあちこちから聞こえてきます。でも、その中心のイエス・キリストがおられないということはないでしょうか。もしそうだとしたら…それはただのMasお祭りであってChristmasではありません。「すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた。」クリスマスはこの罪と争いと悲しみに満ちた世界に、永遠なる神が人となってきてくださったことを覚えるときです。教会で本物のクリスマスをお迎えしましょう。
教会のデボーションは黙示録4章に入りました。いよいよ解釈が難しくなってくるように思うかもしれませんが、聖霊の助けを祈り求めて読んでいきましょう。ここからヨハネは聖霊によって七つの光景を見せられます。開かれた門、碧玉や赤めのうのような神のお姿、二十四人の長老たち、稲妻と声と雷鳴、神の七つの御霊、ガラスの海、4つの生き物。一つ一つ細かく説明することはできませんが、まず「開かれた門が天にあった」という言葉に感動を覚えます。私たちの人生はまさにこの開かれた門に通じているからです。そこでは地上では決して見ることのできない素晴らしい光景が広がり、何より栄光と尊厳に満ちた神を目撃するのです。「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。」天の御国で賛美に包まれ、先に召された兄姉たちとともに主を礼拝を献げている光景は圧巻です。天上の礼拝を思い描いて、地上の礼拝を献げていきたいものです。
妻とナイトウォーキングで箕面の滝道に行ってみると、紅葉が綺麗にライトアップされていました。滝道は箕面の教会から徒歩で10分ほどの場所にあります。この時期おそらく日中は大変な混雑だと思いますが、夜はほとんど人通りもなく、幻想的な景色をゆっくり堪能できます。ライトアップは12月4日まで行っているそうです。さて、教会のデボーションはヨハネの黙示録になりました。なかなか難解な書簡ですが、みことばの光のようなガイドブックがあると助かると思います。『黙示』とは、今まで隠されていた霊的な真理を明らかにするという意味です。ヨハネはパトモスという島で黙示を示され、アジアにある七つの教会に宛てて書き送るように命じられました。最初のところでは、七つの教会への神のことばが告げられますが、どれも世々の教会全体に通じるメッセージです。明日は祝日で水曜祈祷会はお休みなので、何か質問等がありましたら教会までご連絡ください。
午前中はCGNTVのリビングライフの撮影がありました。今回で9回目、なんとかここまで来たという感じです。残り3回、お祈り頂ければ幸いです。さて、今日は午後から旧約聖書を学ぶ会がありました。創世記42章からヨセフと兄たちの20年ぶりの再会の場面でした。全世界に飢饉が及ぶ中で、ヤコブはエジプトに穀物があることを知り、息子たちに買いに行くように命じます。ところが息子たちは過去に弟ヨセフを売り飛ばした事を思い出し、エジプトに行きたいと思いません。背に腹は変えず、彼らがエジプトの権力者のもとに行ってひれ伏すと、なんとそれが弟ヨセフだったのです。ヨセフはすぐに兄たちがわかりましたが、自分の素性を明かさず、兄たちにスパイ容疑をかけて監獄に入れました。そこで兄たちが過去に自分を売ったことをどう思っているか確かめたかったのでしょう。ヨセフ物語は神のご計画が随所に表されている箇所です。学びはYouTubeでご視聴頂けます。
11月の収穫感謝礼拝を献げました。大地の恵みの主、勤労の源である主に感謝を捧げ賛美しました。メッセージはⅡテサロニケ3:1から「最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください」をテーマに聴きました。苦難の中を歩む教会は、牧会者パウロの手紙によってどれほど励まされ、確信が与えられ、勇気づけられたことでしょう。テサロニケの教会がこれからもよく祈る教会であってほしいというパウロの思いが伝わってきました。以前、ある牧師が『祈りは万事を変える』と言われていましたが、いつも心に留めておきいたい言葉です。K兄も、感謝礼拝にぴったりの感動的な証しをしてくださいました。アーロン牧師、ビルさん、カナダの教会の方々の愛の奉仕は、この日本でも豊かな実を結んでいくことでしょう。「あなたも行って、同じようにしなさい。」私たちにできることは大海の一滴に過ぎないかもしれませんが、この一滴一滴がなければ大海にはならないのです。
個人的なことで申し訳ないのですが…私を信仰に導いてくれた友人の個展がありました。埼玉県在住なので、活動拠点は関東圏だと思ってあきらめていましたが、この大阪で開催してくれるなんて、なんとも夢のような時間を過ごさせて頂きました。彼と出会ったのは私がまだクリスチャンになる前で、その頃の私は宗教や信仰について全く無関心で懐疑的でした。そんな私に彼はとても親切で、キリストの香りを感じさせてくれるような人だったことを覚えています。「私たちは…神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。」あれから20年以上も経ちますが、変わらないその穏やかな人柄は、私にとっていつも信仰の初心を思い出させてくれる貴重な人物の一人です。彼の作品からも、そんな彼の温かい優しいメッセージが伝わってくると思います。ホンダマモル作品展示会『ヒトリコテン』11月18日~23日まで開催しています。お近くを通られた際はぜひお立ち寄りください。
教会のデボーションはエゼキエル48章になりました。新しいエルサレムの相続地の割当と人々の商業文化活動の中心となる町について告げられました。細かな規定が続いて、一人で読んでいてもなかなか理解が深まらない箇所だったかもしれません。大切なのは最後にこの町の名が「その日から『主がそこにおられる』」と呼ばれることです。この名は主が常にその民とともにおられることを表しています。過去において主がそこにおられなかったのでエルサレムは破壊され、イスラエルは滅びました。でも、新しいイスラエルにおいては主は決してその民を離れることなく、常に、永遠にその民とともにおられるのです。これこそがエゼキエルの中心的なメッセージでした。今日も教会の英会話には大勢の方が来てくださいました。その多くの方がクリスチャンではありませんが、ここにくると何かホッとする…神さまを近くに感じる…そのように言われ続ける教会となりたいものです。
11月第三水曜祈祷会、朝はエゼキエル46章から、夜はルツ記1章から御言葉を学びました。エゼキエル書では、神が神殿で礼拝を献げる者に「自分が入った門を通って帰ってはならない」と命じられた言葉が心に留まりました。ルツ記では、主人と二人の息子を失った姑ナオミをひとりにするわけにはいかないと「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」と告白したルツの献身に心打たれました。今日はギデオン協会の方が久しぶりに来てくださって、救いの証しを聞きました。慎ましく暮らすスウェーデンのある宣教師の教会に泥棒が入り、後に警察に捕まったのですが、宣教師はその泥棒を釈放してほしいと警察に嘆願書を送ったそうです。そんなどこまでも聖書に忠実に生きる献身者の姿勢がひとりの青年を信仰に導き、83歳を過ぎて今もギデオン協会で聖書を進呈する働き人になられていることに感動を覚えました。一粒の麦には無限の実を結ぶ可能性があるのですね。
11月第二主日、今日は久しぶりの恵みの雨。外は少し寒く感じましたが、教会の中は主の恵みと祝福で温かな礼拝でした。礼拝メッセージはⅡテサロニケ2:1~パウロはあらためて「主の日」について正しく待ち望むことを教えました。『私こそ神である』『主の日はすでに来ている』などと偽りを語る者たちがいて信徒たちを惑わしていました。今日も元統一教会やエ〇バの証人のような偏った終末論が一部の人たちを惑わす時代…。『だから宗教は嫌いだ』という人が増えているのも残念なことです。でも、私たちクリスチャンも主の日(再臨)がいつ来てもいい心備えを忘れているとしたら、襟を正さなければならないでしょう。「アーメン。主イエスよ、来てください。」昨日、結婚した二人のご家族も礼拝に来てくださり、喜びと幸せを分かち合ってくださいました。ご主人のご家族も明日アメリカに帰国されるとのこと。午後はバイブルクラスもあり、恵まれさまの一日でした。
秋晴れのさわやかな天気のもと、今日は教会の青年たちの結婚式がありました。結婚カウンセリングを通して、二人の出会いから、家族のこと、将来のこと、なぜ結婚するのか…いろいろ伺いながら本当に神さまが若い二人を導いてくださったことがわかりました。「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」聖書は、結婚する男女は、離れ、結ばれ、一体となると教えています。二人とも国籍は違いますが、同じ天国に国籍を持つクリスチャンです。家庭は愛を学ぶ学校。これから二人には『愛』を学ぶための様々な訓練が待っているでしょう。でも、それは二人を引き裂くものではなく、より関係を深めるための訓練です。今日の神の前の誓約をいつも思い出して、神さまを中心とした温かい家庭を築いていってほしいと思います。さて、明日は日曜日。ぜひお近くの教会に礼拝を献げにいきましょう。初めての方も心から歓迎いたします。
昨夜は442年ぶりとなる皆既月食と惑星食があり、神秘的な光景に思わず「天は神の栄光を語り告げ」の御言葉を思い出しました。これを神の奇跡と見るか、偶然と見るかでは大きな違いです。11月第二水曜祈祷会、朝はエゼキエル書40章から、夜はルツ記1章から御言葉を学びました。主はエゼキエルを高い山に連れて行き、神殿の幻を見せてその寸法まで詳しく示しました。そこから神は緻密で正確な計画をもっておられるのがわかります。また、主人と二人の息子を亡くして不幸のどん底に陥ったナオミでしたが、彼女の口から主への信仰がなくなることはありませんでした。そんなナオミの信じる神を、ルツは「あなたの神は私の神です」と告白していったのです。神はこの世の歴史の初めから終わりまでを緻密に計画されていて、私たちの人生も神の計画の内にあり、偶然はありません。誰と出会うか、何と出会うか…私たちは奇跡の連続の中に生きていることを思わされます。
11月第一主日、今日もさわやかな秋晴れの一日でした。久しぶりにアメリカからMike&Judie宣教師夫妻がきてくださって証しをしてくださいました。礼拝メッセージはⅡテサロニケ1:1‐12、パウロはテサロニケの教会に再び手紙を書き送ります。手紙の冒頭でパウロはまずテサロニケ教会に対する感謝を記しました。彼らは迫害と苦難に耐えながら、信仰が大いに成長し、互いの間で愛が増し加わっているからです。「苦しめられているあなたがたには、私とともに、報いとして安息を与えることです。このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。」テサロニケ教会の苦難は必ず報われること、主イエスの日は必ず訪れること、主の栄光を受けることを記しました。この手紙が書かれた時代からすれば、現代、主イエスの現れの日はずっと近づいています。私たちもこの日を期待して待ち望めるように、福音に生きましょう。
ある中学生の子に「亘先生はどうしていつも3つのポイントでメッセージするんですか」と聞かれました。よくお話しを聞いてくれてるなぁと思いつつ「3つだとわかりにくい?」と尋ねると、「わかりやすいよ」と言ってもらえて感謝でした。スリーポイントメッセージはよく批判されることもありますが、自分なりにいろいろ思うところがあってこの形のメッセージを続けています。もしその理由を一つ挙げるとするなら…東京で一人暮らしをする母にもわかるメッセージを…ということです。母は80歳を過ぎて、クリスチャンでもありませんから、聖書のメッセージを理解するのは本当に大変なようです。「今日はさっぱりわからなかった」「少しだけわかった」と正直に感想を言ってくれます。何はともあれ毎週YouTubeで視聴してくれているので…聖霊さまの導きがあるように祈っています。明日も、礼拝を献げるすべての方とともに神さまのことばに聴き入りたいと思います。
水曜祈祷会は朝と夕べに行っていますが、朝は詩篇141篇から、夜はヨナ書4章から御言葉を学びました。詩篇141篇は夕べの祈りとしても有名で、苦難の中でも主に信頼することの大切さを心に留めました。ヨナ書4章は起承転結のクライマックスでした。ヨナは敵国ニネベの滅亡を望みましたが、神が裁きを思い直されたことを怒りました。神はそんなヨナに「あなたは当然であるかのように怒るのか」と問われたのです。こうして神はヨナに一本の唐胡麻と一匹の虫、そして東風を備えてご自身の御旨を示されました。私たちも自分の近視眼的な考えで善悪を判断し、それが思うようにいかないとすぐに怒りを露にすることがあるかもしれません。でも、果たして神へのその不平不満は当然のことなのか…考えたいものです。この書はまさにヨナの悔悛録でした。ヨナ書4章の最後の神の言葉「ましてわたしは…」これこそヨナが預言者として生涯心に刻んだ召命の言葉だったのでしょう。
教会のデボーションはエゼキエル36章から。「イスラエルの家」は罪を犯して神の御名を汚したために神のさばきを受けて苦しんできました。神はそんな捕囚の民を導き、集めて連れ帰るだけでなく、彼らを内側から新しくしてくださるのです。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。」それは、信仰者の内に聖霊が住んでくださって、悔い改めに導き、神の言葉に聴き従うようにされることを表します。クリスチャンになるというのは、聖人君子にならなきゃいけないとか、教会に行かないダメとか、聖書を読まないとダメとか…そういうことではありません。ただ、イエスさまを私の救い主として信じることです。そうすれば自ずと自己中心的な古い生き方から、神中心の新しい生き方に変えられていきます。新しい心と新しい霊が与えられ、神とともに歩む人生は楽しいですよ。今日は家から車で15分の万博公園に行って、秋を堪能してきました。
10月第五主日、秋晴れのさわやかな一日。礼拝メッセージはⅠテサロニケ5:12‐24から。パウロは手紙の最後に幾つかの勧めをしました。まず教会の指導的な立場にある人たちへの態度について、次に信徒同士のあり方について、いつも善を行うように努めなさいとありました。また、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことにおいて感謝しなさい、御霊の働きを止めてはいけないと続きました。そして、平和の神ご自身があなたがたを完全に聖なるものとしてくださるという祈りと確信をもって筆を置きました。「あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」神の真実は、かつて私たちを選び、救いに招いてくださった方が、今もなお私たちを召してくださることに表されます。礼拝後は臨時教会総会を行い、第一種教会申請の決議をしました。その後は、賛美集会、卓球大会、最後は岡山の後藤先生が立ち寄ってくださり、盛り沢山の一日となりました。
この時期になると町にはハロウィン関連のグッズがたくさん売られていますが、もちろんキリスト教とは全く関係がありません。11月1日のカトリック教会の『諸聖人の日』の前夜と関係があるとか諸説ありますが…オバケの仮装して楽しむ?ことで、とにかく事故やケガがないように祈るばかりです。むしろ、この日はマルティン・ルターがカトリック教会の免罪符に対する反論として教会の扉に『95か条の提題』を打ち付け、そこからプロテスタントの歴史が始まったと言われる宗教改革記念日です。ドイツの一部では祝日となる地域もあるようですが、この日が世界的なイベントになることはないでしょう。「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてある通りです。」単なるイベントではなく、私たちにとってこの日は信仰によって生きることを再確認する日です。ぜひ宗教改革記念礼拝にご出席ください。
今週の水曜祈祷会はエゼキエル書33章から。「わたしは生きている。ー神である主のことばー。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。」神の御心は裁きではなく、赦しです。裁くことが神の目的なら、この世はだれも救われません。でも、福音が語られるところには救いがあります。厳しい言葉は愛の現われです。神は私たちが、神とともに生きることを喜ばれるのです。今日の英会話のチャペルタイムでも、リアナ先生が詩篇91篇から話してくださいました。人生晴れの日もあれば雨の日もある…。でも、そのすべての日々に神はともにおられる。そして、私たちの避け所となってくださる。「私の避け所 私の砦 私が信頼する私の神。」自分ではどうすることもできない苦難の日に、すぐ呼び求める方を知っている人は幸いです。ぜひあなたも聖書からその御方の声を聴いてみてください。
昨日は私たちの教会で関キ災・第七回懇談会の稲場圭信教授の講演をCGNTVの協力のもと撮影させていただきました。『宗教者による災害対応の現実と課題』をテーマに専門家のお立場から最前線の情報を語っていただきました。稲場先生は、日本最大級の避難所情報『災救マップ』の開発・運営をされています。その使い方や登録方法などもパワーポイントを使って分かりやすく説明して頂きました。これは日本のすべてのキリスト教会が登録するべきものだと思いました。稲場先生とお会いしたのは神社仏閣の代表者も参加する防災減災プロジェクトの集まりでした。『災救マップ』については以前から知ってはいましたが、あらためてその重要性がわかりました。この講演は11月7日(月)関キ災・第七回懇談会で公開されます。また、話しは違いますが、今夏の参議院選挙で初当選した金子道仁牧師が早くも予算委員会で答弁に立たれていましたので、宜しければご視聴ください。
10月第四主日、気持ちのいい風を感じながら…蛍池聖書教会の野々山芳和伝道師をお迎えして歓迎礼拝を献げました。礼拝メッセージは『唯一まことの主』をテーマに、ヨハネの福音17:3から取り次いで頂きました。神がひとり子を遣わし、私たちのために贖いを成してくださって救いの道を示してくださったこと、神は一人でも多くの人が救いにあずかることを望んでおられることがよくわかりました。今日は午後から野々山先生とある姉妹の婚約式もあったので大勢の方々が来会してくださり、祝福に溢れる時となりました。二人の婚約の誓約も証しもとても感動的で神の導きを感じました。「すべての事には定まった時期があり…。神のなさることは時にかなって美しい。」夕方婚約式も終わってひと段落したところにTCU学長の山口陽一先生が立ち寄ってくださって、ご褒美のような心温まる交わりを頂きました。今週も主にある皆さまの上に主の守りと平安がありますように…。
どこからかキンモクセイの甘い香りが漂ってきます。さわやかな天気に教会前の花たちもどこなくいい表情です。創世記43章16節~。エジプトの宰相になったヨセフの前に、かつてヨセフを売り飛ばした兄たちが弟のベニヤミンを連れて立つ場面です。ヨセフは兄たちのことを知っていましたが、兄たちは目の前の宰相がヨセフだとは知りません。ヨセフは家を管理する者に兄たちをもてなすように命じますが、兄たちはひどい目にあわされる…と思っていました。そんな彼らに管理者がこう言ったのです。「安心しなさい。恐れることはありません。」彼は兄たちを安心させ、水を与え、足を洗い、できる限りのもてなしをしました。彼の言動から、主人のヨセフから良い影響を受けていたことがわかります。人は触れるものに似てくると言いますが、ヨセフの周りにはキリストの香りが漂っていたのでしょう。そんなキリストの芳しい香りを体験しに、あなたも教会に来られませんか。
今日は全国的に肌寒い一日となり、盛岡では早くも初霜が観測されたそうです。10月第三祈祷会、朝はエゼキエル書27章から、夜はヨナ2章から御言葉を心に留めました。主はエゼキエルに、繁栄の中にあるツロについて哀歌を唱えよと命じました。それはエルサレムの滅亡をあざ笑っていたツロもやがて同じ道を辿るからです。「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこの通りです。」というイエスさまの言葉を思い出しました。また、主の御顔を避けて神から逃れようとしたヨナは嵐の海に投げ落とされ、死を覚悟しました。でも、ヨナはその苦しみの中で「主を思い出しました」というのです。「しかし、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」というイエスさまの言葉が迫ってきました。だれもが苦難を通りたいとは思いませんが、苦難を通らなければ知りえない恵みもあるのです。今日も苦難の中にある神の家族を覚えてお祈りしました。
教会のデボーションはエゼキエル26章に入りました。他人の失敗や不幸を喜ぶことを『シャーデンフロイデ」と言うそうですが、他人の不幸は蜜の味と思う人間の本質は昔も今も同じです。神はエゼキエルを通して、荒れ果てたエルサレムをあざ笑う周辺諸国に対して裁きの預言を告げられます。ツロは地中海貿易で栄え、経済的にも非常に豊かな都市で、また防衛面でも難攻不落を誇っていました。しかし、そんな高慢と虚栄の罠に陥っていたツロに向けて、主は「わたしはおまえを敵とする。…多くの国々をおまえに向けて攻め上らせる。」と宣告されたのです。そして、エルサレム陥落後、この神の預言は文字通り、実現しました。エルサレムの滅亡を喜んだツロが自分も同じように滅びていったように、他人の不幸を喜ぶ人は自分も同じような不幸を味わうことになる。他人の不幸を見たら、自分自身も同じ罪を犯していることを思い、悔い改めのきっかけとしたいものです。
秋晴れのさわやかな天気のもと第三主日礼拝を献げました。礼拝メッセージはⅠテサロニケ5:1‐11で、パウロが主の日の備え方について記したところでした。「その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。」迫害の中にあるテサロニケの教会にとって主の日がいつなのかは深刻な問題でした。パウロはその日は盗人が夜やって来るように突然にしかも必ず訪れると言いました。ただその日がいつなのかは誰も知りません。だからその日がいつ来てもいいように、生活を整えておきなさいというのです。私たちはすでに暗闇の中にはおらず、光の子どもとして頂きました。その根拠はイエス・キリストの贖いのゆえです。キリストを信じるは神の御怒りを受けることがなく、永遠のいのちの希望がある。それは何と幸いなことかと思います。どんなに財産を貯えても、人々の称賛を受けても、この幸いには敵いません。あなたはこの幸いを受け取っておられますか。
『一日千秋』と言いますが、一日の長さが1000年にも思えるほどに…何かをずっと待っているということがあるでしょうか。運動会の日を待っている子どもたちもいれば、出産日を待ち焦がれている若い夫婦もいるでしょう。病いが癒される日を待っている家族もいれば、戦争が終わる日を待ち焦がれている方々もいるでしょう。教会は大きな家族ですから祈ることもたくさんあります。私たちにとって祈りは願い事がすべてかなえられることやご利益を期待するものではなく、神の御心を知り、神の御心に導かれるためのものです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事において感謝しなさい。」初代教会のキリスト者たちは厳しい迫害の中で主の再臨の日を一日千秋の思いで待ち焦がれていたことでしょう。「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」とありますが、私たちも主の再臨を心待ちにする者として祈りつつ礼拝を献げましょう。
今日はハートフル英会話がありましたが、大人クラスに臨時講師のリアナ先生が来てくださいました。明るく優しい先生で、クラスの雰囲気もとても良い感じでした。夕方からはキッズクラスで元気いっぱいの子どもたちが英会話を楽しんでいました。こうして地域の方々が教会に足を運んでくださることを感謝しています。またタイトルにもあるように、今日は新〇地イエス教の方から丁寧なお手紙を頂きました。封筒には先出人も書いてありましたので、お返事を書かねば…と思いましたが、少し遅れてしまいそうなのでこちらで失礼します。世間ではカルトと言われている団体ですが、手紙の内容から決して不謹慎な思いで書いているのではないことを感じます。こうして自筆で、一つ一つ住所を調べて、キリスト教の牧師宛に手紙を送っていることを思う時に、隔靴掻痒に感じるのはなぜなのでしょう…。お手紙もいいですが、直接お電話かお会いしてお話しできたらと思います。
10月第二水曜祈祷会、エゼキエル22章から。エルサレム陥落の預言が告げられました。聖なる都エルサレムが流血の都となる。それは、イスラエルの民が自らのただ中で血を流し、自らの偶像を造ったことが大きな要因でした。主はそんな彼らに「イスラエルの家はわたしにとって金かすとなった」と告げられました。こうして神を恐れないエルサレムの人々の行動に対し、主の厳しい審判が下るのです。でも、その厳しい審判の裏側には神の嘆きと悲しみがありました。「この地を滅ぼすことがないように、わたしは、この地のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口に立つ者を彼らの間に探し求めたが、見つからなかった。」破れ口に立つ者とは、神と人との間に立って、とりなし手となることです。神の御心は悪しき者たちの死ではなく、彼らがその生き方から立ち返って生きることです。神はこの時代も、私たちクリスチャンに破れ口に立つ使命をお与えになっているのです。
10月第二主日、今日はシトシトと雨の一日でしたが、恵みに溢れる礼拝となりました。体調を崩してお休みされていた兄弟も礼拝に来てくださって本当に感謝でした。礼拝メッセージはⅠテサロニケ4:9‐18から。「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。」主の再臨を前に死んでしまった人々は再臨の祝福にあずかれないのではないかという教会の質問に、パウロは答えました。「眠っている人」とは主の再臨の時必ずよみがえる一時的な眠りということです。キリスト者は復活の主がそうであったように、体のよみがえりを信じています。その時生きている人たちも彼らと一緒に雲に引き上げられて空中で主と会うのです。神を悲しませ、背き続けてきた者を、主イエスご自身が迎えてくださる…なんという憐れみでしょう。今日は午後からバイブルクラスもありました。
教会のデボーションはエゼキエル20章1‐26節。ここは、神の愛の戒めと厳しさがテーマとなっています。「神である主はこう言われる。あなたがたが来たのは、わたしに尋ねるためなのか。わたしは生きている。わたしは決してあなたの求めに応じない。」イスラエルの長老たちへの主の厳しい言葉です。そこから出エジプトの出来事まで遡り、偶像で身を汚す人々に対する神の裁きについて告げられます。でも、神はご自身の民をエジプトから救い出し、神の掟と定めを与えて、それらを行うなら…生きると告げられました。掟、定め、安息日は、人間が神のみこころを知るために、神が与えてくださったものです。それは今日も同じです。安息日は今日の日曜日(主日)に置き換えられますが、私たちはこの日をどのように過ごされるでしょうか。「それでも、わたしは彼らをあわれんで…」礼拝は神さまからあなたへの恵みの招待状です。ぜひお近くの教会へ出席してみてください。
今年の同盟教団・秋の研修会は、静岡県のつま恋で行われました。3年ぶりの対面での開催ということで、久しぶりにお会いする先生方ばかりで…本当に感謝でした。今回の「あらためて考えるー教会、教師、式文」をテーマにした3つの講義もよかったですが、合間の食事時間や休憩時間に先生方と気さくに話せたことが嬉しかったです。そのほかにも、開会礼拝、夜の聖会、早天祈祷会、記念式、追悼式、派遣礼拝とぎゅうぎゅう詰めの一泊二日でしたが、たっぷり充電して帰ってきました。中でも印象に残ったのは、教師・教師配偶者50年の表彰式で、長きに渡ってご奉仕されてきた先生方のお証しに感動しました。ある一人の先生は、秋の研修会に来ることを楽しみにしながら、今年8月に召天され、奥さまが代わりに表彰を受けられました。最後まで忠実な奉仕を全うされた先生に、天国でイエスさまが「善かつ忠なるしもべ」と労いのことばをかけてくださっていることでしょう。
天高く馬肥ゆる秋、実りの秋を迎えました。教会前の花も植え替えをし、早速ご近所の方から声をかけられました。教会のデボーションは詩篇139篇から。「主よ あなたは私を探り 知っておられます。」神が私たちのことをどれほど心にかけ、その思いのすべてを知ってくださっていることを教える詩篇です。私事ですが、今日は父の命日ということもあって、いろいろなことを思い返します。目の前の現実が辛すぎて、神への怒り、不満でいっぱいになり、聖書を破り捨てた日…。あれから18年が経ち、今も寂しい気持ちはありますが、こうして立ち直らせて頂いて、神への信仰に歩めるのは、恵みのわざ以外にありません。今、悲しみの中にある方も、必ず主はその心と思いを知ってくださっています。そして、み言葉を通して慰めと励ましを与え、とこしえの道に導いてくださいます。今日もお一人ひとりの上に、主がともにいてくださいますように心からお祈りしています。
10月第一主日、今日はまた夏を思わせるような暑い一日でした。礼拝ではⅠテサロニケ4:1‐8からメッセージを聴きました。「最後に兄弟たち。主イエスにあってお願いし、また勧めます。」ここから『追伸』としては、やや長いパウロの勧めが続きます。それは、テモテの報告からテサロニケの教会の中に不品行に対する誤った考えを持つ者たちがいることを聞いたからです。でも、パウロはそれを頭ごなしに叱責するのではなく、まず彼らが現にパウロたちの教えに従って歩んでいるのだから、ますますそうしてくださいと励ましたのです。相手を認めることのない叱責は、落胆と反発を招きますが、受け入れることから出発する忠告は、人を励まし、矯正に導くものです。牧会者パウロの気遣いを感じる箇所でした。「神に喜ばれるためにどのように歩むべきか」キリスト者としていつも心に覚えておきたい言葉です。今週も御霊の助けを頂いて、信仰に歩ませて頂きましょう。
教会のデボーションは詩篇136篇になりました。ここは交読文の形式になっていて、礼拝の場で二つのグループが交互に朗唱したようです。「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで。」冒頭の1節が本篇全体の要約です。神が何をしてくださったかを歌う前にまず神がどのような方かを賛美し、そして感謝する理由を一つ一つ具体的に歌っていきます。この偉大なる神が天地万物創造し、私たち一人一人を造られたのです。それでも人はみな、生まれながらの罪人で、神を知らず、神に背を向けて歩んでいました。その先にあるのは死と裁きにほかなりません。でも、神はそんな私たちのためにイエス・キリストを遣わし、私たちの罪の身代わりとして十字架にかけられました。聖書は、この方を信じる者に神の子どもとなる特権を与え、永遠のいのちを与えると約束しているのです。明日の礼拝で、ともにこの主の恵みはとこしえまでと賛美しましょう。
9月第四水曜祈祷会、エゼキエル16章から。この章では、主に愛されていながら偶像を慕い求めるエルサレムを、夫に愛されていながら姦淫を重ねるみだらな妻に譬えています。イスラエルの誇りであり拠り所でもあるエルサレムは、そもそも罪に染まったカナン人の地でした。つまりエルサレムが聖なる都と呼ばれるのは、ただ神の選びと恵みによるものだったのです。それなのに、エルサレムは主の寵愛を裏切り、諸国の民と姦淫を行っていきました。しかも、主から与えられた富と美しさと名声を利用して、そのことを行ったのです。この章を今日の私たちに適用するのはなかなか難しいことですが、主が偶像崇拝をいかに重く見ておられるのかを教えられる箇所でした。偶像崇拝とは、神以外のものを神のごとくより頼み、神との関係をないがしろにすることです。見捨てられても仕方のないエルサレムへの神の厳しい裁きの言葉には、悔い改めを迫る神の愛が表されていました。
9月第四主日は秋の歓迎礼拝がありました。今日は特別に、ブラジルの浜田献宣教師が宣教報告とメッセージをしてくださいました。短い時間でしたが、浜田先生のこれまで10年間の宣教活動の一端を報告していただき、メッセージは使徒の働き16章25~34節から『真夜中の奇跡』をテーマに語っていただきました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」浜田先生の静かな語り口から、このシンプルなメッセージを信じる大切さをあらためて心に留めました。最後に浜田先生とzoomを繋いで直接話せたことは感謝でした。礼拝後はグループタイムで恵みを分かち合い、浜田先生のご家族とお働きを覚えてお祈りしました。また、午後からは久しぶりにバイブルクラスもあって、英語の聖書を通してイエスさまの十字架上の七つのことばを深く味わいました。今日も盛りだくさんでしたが、恵みいっぱいの一日でした。宣教の主に感謝いたします。
教会のデボーションはエゼキエル13章に入りました。主はエゼキエルに、偽預言者たちに対する警告を与えました。彼らの特徴は、「自分の心のまま」に預言し、自分の霊に従うこと。荒廃した時代に人々の不安につけこみ、主の名を使って商売する彼らは、食べ物を求めて廃墟をはい回る狐そっくりでした。主は、そんな彼らに「わたしは、わたしの民をあなたの手から救い出す。」と言われたのです。今日も『クリスチャンでも、占いを信じたり、お守りを持つことはいけないことですか…』という質問を受けることがあります。不安な気持ちをなんとか落ち着けたいのでしょうが、それが一時的な安心を与えることはあっても根本的な解決には至りません。『神さまを信じていれば必要ありません』という私の答えも、その方に届いているのか…。やはり実際に礼拝に来て、神の前に静まり、メッセージに聴き入る。それは特別な恵みの機会であることを知って頂きたいと思います。
今日は10月分のリビングライフの撮影日でした。もともと自分には荷が重すぎる奉仕だと思っていましたが、このところあれこれ用事も重なって、説教準備に十分な時間を費やせないできてしまいました。でも、昨日の水曜祈祷会でも祈っていただいて、なんとか語る言葉が与えられ、自分のベストは尽くしました。あとは5つのパンと2匹の魚を差し出した少年のような思いで、主にお委ねしたいと思います。だれかひとりでもその心に御言葉が響き、信仰が励まされ、聖書に関心をもっていただけたら幸いです。昔読んだ本に『真の説教とは生きることに関わっている。その人が成長すれば、その説教も成長し、その人に力があって初めて、その説教も力に溢れる…』とありました。一人の人を造りあげるのに20年かかるように、一つの説教をつくるのに20年かかる…牧師16年目としては、これも心に刻んでおきたい言葉です。皆さまのとりなしのお祈りに心から感謝をいたします。
台風一過の今日は風が涼しく、だいぶ秋らしく感じました。大阪は風も雨も大したことはありませんでしたが、日本列島を縦断した台風は各地で大きな被害を出したようです。一日も早い復旧をお祈りしています。教会のデボーションはエゼキエル9章から。神の憤りがついにエルサレムの上に下されます。主は、都を罰する6人の男たちと亜麻布の衣をまとった者を呼ばれました。そして、亜麻布の衣をまとった者に「都の中、エルサレムの中を行き巡り、ここで行われているすべての忌み嫌うべきことを悲しんでいる人々の額に、しるしをつけよ。」と命じられ、ほかの者たちには「…打ち殺せ。あわれみをかけてはならない。惜しんではならない。」と厳しく命じられました。背信の民に対する容赦ない神の裁きと、その中にも主の憐みが見られる箇所でした。なかなか生活に適用するのが難しい箇所ですが、明日は亜麻布の衣をまとった者に、救い主のひな型が見られるところです。
9月第三主日、今日は召天者記念礼拝を献げました。教会にはすでに天に召された兄姉たちの写真が並べられ、天国での交わりに思いを馳せました。礼拝メッセージはヨハネの黙示録21章から。ヨハネは、キリストの再臨、千年王国、最後の審判を経て、クライマックスの新天新地について記していきます。以前の天と以前の地は過ぎ去り、新しい天と新しい地が実現します。その中央には、すべての聖徒たちが住む聖なる都、新しいエルサレムが花嫁のように整えられて、神のみもとから降って来る。新天新地では、神ご自身が永遠に我らとともにおられ、すべての涙をぬぐい取ってくださるのです。「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」今日の第一礼拝と第二礼拝で、二人の方が素晴らしいお証しをしてくださいました。アーカイブにも残していますので視聴してみてください。午後からは囲碁・将棋クラスが再開しました。
コロナ禍に伴いマスクをすることが定着し、マスクなしの顔を見る機会がすっかり減ってしまいました。子どもたちも、クラスメイトでもマスクなしの顔を見たことがない友達もたくさんいるとのこと。きっと、社会一般的に同様なことがあるのでしょう。笑っているのか、怒っているのか…表情が見られないのはなんとも残念な気がします。今日は一人の女の子が引っ越しで最後のクラスとなり、寂しい別れとなりました。でも、一人の女の子が同じく引っ越しで最初のクラスを受けてくれました。新しい出会いに感謝です。思えば教会の英会話クラスにもこれまでたくさんの子どもたちが来てくれていましたが、みんなどうしているのでしょう。去る者は日々に疎し…と言いますが、たまには思い出して立ち寄ってくれたらなぁと思います。それにしてももう5年以上通って来てくれている子に、「ここ教会なの知っている?」と聞いたら「知らなった」と言われたのには驚きました。
9月第二水曜祈祷会、教会のデボーションはエゼキエル書3章に入りました。エゼキエル書は幻や象徴的表現が多く、難解と言われる書簡です。南ユダがバビロンによって滅ぼされ多くの民が捕囚として連れて行かれる中に、エゼキエルもいました。何もかも失ったエゼキエルに、神は「人の子よ。…この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に告げよ。」と召命を告げられました。『巻物』とは神のことばです。つまり、まず自分がみことばをしっかり味わい、自分のものにしてから人々に語りなさいというのです。そして、人々はあなたの言うことを聞こうとしない。…彼らが聞いても、聞かなくても、『神はこう告げられる』と彼らに言いなさいというのです。聞き手がどうであれ、とにかく語ることが預言者の使命です。預言者とは神のことばを預かった人のこと。言わば今日のすべてのクリスチャンは預言者であり、祭司でもあります。何よりも祈りが私たちの働きのカギなのです。
9月第二主日、まだまだ厳しい暑さが続きます。礼拝メッセージはⅠテサロニケ3章から。パウロは再びテサロニケに行きたいと思いましたが、サタンの妨げによって実現できず、変わってテモテを派遣しました。テモテによって教会の人々が強められ励まされ、苦難の中にあっても動揺しないでほしいからです。そのテモテがテサロニケからパウロのもとに帰って来て良き知らせを伝えました。その報告にパウロも一方ならず慰められたのです。だれもがみな、できることなら苦難を避けたいものです。でも、この不信仰の世にあってキリスト者として置かれている限り、苦難は避けられません。イエスさまも「この世にあっては患難がある。しかし、勇気を出しなさい。」と言われました。忘れてはならないのは、主にあって苦難は苦難で終わらないこと、それによってもたらされる恵みがどんなに大きく豊かなものであるかです。『我とともに老いゆけよ。最善はなお未来にあり。』
新型コロナウィルスの国内感染者の累計が2000万人を超えました。今年7月に1000万人を超えたところだったのが、わずか二か月でさらに1000万人の倍増です。いまだ大阪モデルも赤信号で、余談の許さない状態。多くの人が会いたい人に会えない…行きたいところに行けない…というジレンマを抱えていることと思います。万事をご存知である主が、そうした一人ひとりの思いに寄り添ってくださることを祈っています。使徒パウロも同じような思いを抱いていたのでしょうか。「あなたがたにはたくさん書くべきことがありますが、紙と墨ではしたくありません。私たちの喜びが満ち溢れるために、あなたがたのところに行って、直接話したいと思います。」今で言えば、『メールやLINEではしたくありません。顔をあわせて話したいと思います。』という感じでしょうか。今夜は中秋の名月。どこからでも同じ月を見れるように、明日も同じ主を礼拝できることを感謝いたします。
教会のデボーションはヨハネ20:19から。昨日は、泣いていたマグダラのマリアに「なぜ泣いているのですか」とイエスさまが声をかけられたところからでした。私たちも悲しみに暮れて、目の前が真っ暗になってしまうことがあります。でも、そんな時こそ、ともにおられるイエスさまの御声を聴くことがあるのです。今朝の箇所でも、弟子たちがユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけて肩を寄せ合っている所に「平安があなたがたにあるように」とイエスさまが声をかけられました。それは、イエスさまは今も生きておられて、私たちの状況をよく知り、側に寄り添って声をかけてくださることを暗示しています。トマスは『自分の目で見て、手で触ってみるまでは決して信じない』と言っていました。同じようなことを今もよく耳にしますが、イエスさまは「見ないで信じる人たちは幸いです。」と言われました。悲しみや痛みの中にある方に、主の御声が聞こえるように祈っています。
月曜日から教団の補教師研修会が始まりました。25名の伝道師の先生方が説教演習や7つの講義を聴いて学んでいます。今年は浜名湖バイブルキャンプ場に3年次の先生方が集まり、他の先生方はzoomでの参加です(私はホスト役なので自宅からの参加)。同盟教団の基本的な考え方を学ぶ機会ですが、牧師16年目の私も自分が伝道師になったばかりの頃を思い返して一緒に学んでいます。コロナ禍でなければ、本当は同期の先生方も一緒に集まって顔をあわせて学び、空き時間には交わりも持てたのに…そこは残念です。私自身は自宅からの参加でしたので、空き時間に日曜日のメッセージの撮り直しと明日の水曜祈祷会の動画を撮影することができて感謝でした。明日の祈祷会はヨハネの福音書20章から『空っぽの墓を見て』というテーマでイエスさまのよみがえりの記事から学びます。教団の研修会は全部で4日間。若い先生方の良い研鑽の時となりますようにお祈りください。
9月第一主日、今日も朝から暑い一日となりました。Ⅰテサロニケ2:1から、人間は噂や中傷に弱いものですが、福音を委ねられている者として、神に勇気づけられ、神を喜ばすことを第一に、母のように・父のように愛に溢れる教会を目指していきたいと思わされました。今朝はまたパソコンの調子が悪く、動画の配信が途中からできなくなってしまいました。お待ちいただいた方々には誠に申し訳ありませんでした。午後は役員会があり、夕方から結婚式の打ち合わせがあり、夜に再度録画をしようと試みましたが、復旧できませんでした。実は今日から教団の補教師研修会が4日間続き、zoomのホストをする関係ですぐに対応ができません。できるだけ早く再録画したいと思っていますが、もうしばらくお待ちください。その関係で、今週の水曜祈祷会も教会には集まらず、YouTubeでの配信のみとなります。今週もいろいろありますが、神に勇気づけられて、歩みたいと思います。
献堂5周年記念礼拝&ファミリーコンサートが過ぎ、次の6周年に向かっての新たな一歩が始まります。この5年間、本当にたくさんの主の御業を見せていただきました。多くの出会いと別れがあり、多くの笑いと涙がありました。新型コロナの感染で教会の交わりは少し制限されましたが、新しい神の家族も加わって、教会がひと回り大きくなったように感じます。主はこれからも私たちの真ん中にいてくださって、私たちの思いを超えて不思議を見せてくださり、先立って導いてくださることを感謝いたします。9月に入り、ハートフル英会話秋期コースもスタートしました。夏休みの間しばらく見なかった子どもたちも少しずつ大きくなって、平日の教会の賑やかさが戻ってきました。明日は日曜礼拝です。宣教の秋、収穫の主に期待して礼拝を献げましょう。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
8月第五水曜祈祷会、残暑の厳しい一日となりました。二週間ぶりの祈祷会となりましたので少し新鮮な感じでした。デボーションは詩篇135篇から。あらためて神賛美に招かれている幸いを覚えました。「ハレルヤ 主の御名をほめたたえよ。」『ハレルヤ』とは、ヘブル語の『ヒレル(ほめたたえよ)』と『ヤ(ヤハウェの略)』の合成語です。「主の御名をほめたたえよ」とは、ただ口先で主を賛美することではなく、いつもどこにいても主を誇りとして生きる、主に信頼して生きることです。主はどういうお方であるかをいつも思い返すことは大切なことです。この方はすべての神々にまさる方であり、望むところをことごとく行われ、万物を支配し、私たちを救うためにご自身の命まで投げ出してくださった方です。今日はオンラインで参加してくれた小さな男の子の祈りの姿にも大変励まされました。神は私たちのどんな小さな祈りにも耳を傾けてくださることを感謝します。
8月も終わりに近づき、今日は月一の旧約聖書を学ぶ会がありました。創世記39章から。兄弟たちに妬みをかって商人に売られてしまったヨセフ。彼はエジプトへ連れて行かれ、ファラオの廷臣で侍従長のポティファルに奴隷として買い取られました。故郷を離れ、兄弟たちに見捨てられ、すべてを失った彼はどんなに辛かったでしょう。神は何もしてくれない…と不信仰に陥っても仕方がないような状況で、彼は一切不平を言いませんでした。主もそんな彼とともにおられ、彼のすることすべてを成功させたのです。そのまま主人の側近まで成り上がったヨセフでしたが、今度は主人の妻の誘惑に遭い、無実の罪で捕らえられ監獄に入れられました。さすがに自暴自棄に陥るかと思いきや、そこでも彼は誠実に歩み、主も彼とともにおられ、監獄の長の心にかなうようにされたのです。どんな状況にあっても、主ととも歩んだヨセフ…彼のような信仰者にならせていただきたいものです。
8月第四主日、今日は献堂五周年記念礼拝がありました。2017年に会堂を取得してから、多くの方々が集う教会にしてくださり、いつも先立ち導いてくださる主に心から感謝いたします。教会にとって大切なのは、建物の大きさや人数の多さではなく、神を父と仰ぎ、イエス・キリストを主と告白する者たちの群れであることです。今日の礼拝メッセージのⅠテサロニケの手紙からも、あらためて教会とは何か、クリスチャンとはいかなる者かを教えられました。「神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。」神の愛はすべての人が対象です。この愛は選びによって知ることができ、その目的は私たちが救いにあずかることです。教会はこの福音を宣べ伝えていく使命があります。どんなに難しく思えるような状況の中にも、聖霊がともに働いてくださいますから、これからもさまざまな奇跡を期待し、信仰をもって歩んでいきましょう。
日中の暑さもだいぶ弱まって、セミの鳴き声がなくなり、すっかり秋の虫の声に変わりました。教会のデボーションはヨハネ17章から。イエスさまは十字架に向かう前に、父なる神に切なる祈りをささげました。それはご自分のためではなく、弟子たちのため、また、すべての人のためにとりなし手となるためです。『大祭司の祈り』と呼ばれるこの個所は、あらためてイエスさまの深いご愛を感じるところです。「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。」それは、波風を立てないで仲良くやるようにということではない。御霊によって自分の罪を明らかにされ、悔い改めて、神との和解をいただいた者の集まりにおいて、神の御心がなるために一つになろうとする愛のことである…。今日はこの御言葉と解説が心に響きました。この主のとりなしの祈りに感謝して、献堂5周年記念礼拝を献げたいと思います。
8月第四水曜祈祷会は牧師の夏季休暇で休会とさせていただきました。教会のデボーションはヨハネ16章から。イエスさまはご自分の十字架の時が迫っている中で、弟子たちにも迫害が避けられないことを告げられました。彼らがそういうことを行うのは、父もわたしも知らないからです。イエスさまはご自分が去っていくことは、あなたがたにとって必ず益となる。それは助け主である聖霊がおいでになるから。その時、あなたがたの悲しみは喜びに変わると約束されたのです。今日でもキリスト教を知らない方から見れば、仏教的なしきたりや習慣に従わない姿はなんと罰当たりな…と思われるかもしれません。実際、因習の深い地域では迫害に近いこともあるでしょう。そんなことなら形だけ手を合わせておこうと思われる方もいます。でも、安易な行動は後になって後悔することもあります。御霊の働きを信じて、事前によく祈り、知恵深い行動をとるように心がけたいものです。
8月第三主日、今日は関西宣教区の講壇交換でした。茨木聖書教会の協力牧師ハレファ・スルヤ師が『ネヘミヤの祈り』と題してメッセージを取り次いでくださいました。私たち一人一人がネヘミヤに倣って祖国と同胞の救いに関して思いを向けることができるように、大変な状況の中にあるクリスチャンや、地方教会を覚えてますます祈っていけるように、キリスト者としての視野が広がるような素晴らしいメッセージでした。スルヤ先生の穏やかな語り口、深い聖書解釈に自然と心が開かれ、神の臨在を覚えました。私は約5年ぶりに茨木聖書教会でメッセージを取り次がせいていただきました。久しぶりにお会いする方々の顔を見たら、嬉しくなってついつい力が入りすぎてしまいました。あらためて私たちの教会はこの茨木聖書教会の祈りの中から誕生し、支えていただき、今日までずっと祈りに覚えていただいていることを実感しました。神の家族の交わりに心から感謝いたします。
今日は幾分暑さも和らいで過ごしやすく感じました。教会のデボーションはヨハネ13:21-38。イエスさまは最後の晩餐の席で「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります」と言われました。この時、主はすでに、ユダの心にサタンが入ってご自分を裏切ることを知っていました。それでも、最後までその名前を明かさずに悔い改めを迫られたのです。ここでの主とユダのやり取りは、なんとも心が痛みます。確かなことは、ユダには思い留まるチャンスが何度もあったことです。ある人たちは『ユダは主の命令に忠実に従ったのだ。ユダが裏切らなければ十字架もなかった。』と言ったりしますが、それは大きな読み間違いです。実はこの後、主はペテロにも「あなたは三度わたしを知らないと言います」と告げられました。そして、その通り、ペテロは主を否んで逃げて行ったのは有名です。ユダとペテロの違いは何だったのでしょう。「主を裏切る」とはどういうことでしょう。
教会のデボーションはヨハネ13章に入りました。ここから十字架に向かわれるイエスさまの最後の晩餐の記述でます。イエスさまは夜が明ければ、ご自分が十字架にかかって死ぬことをご存知でした。でも、弟子たちはそんなことを考えもせずに、自分たちの中で誰が一番偉いだろうかと議論をしていたというのです。そうした中で、イエスさまはご自分から上着を脱ぎ、しもべの姿を取って弟子たちの足を洗われました。そして、「わたしがしていることは、今はわからなくても、後でわかるようになります。」と言われたのです。神ご自身である方が、人間の汚れた足を洗われる…。それは私たちが想像する以上に重大な意味があることです。イエスさまは今日も、私たちの汚れた足を洗おうとたらいを準備をして待っていてくださいます。あなたは『私は結構です』と足を引っ込めるでしょうか。それとも『主よ、あなたの愛を感謝いたします』と素直に足を出されるでしょうか。
8月第二主日、台風一過の青空の一日でした。創世記3章14節から。アダムとエバはサタンである蛇の誘惑に陥り、ついに人類最初の罪を犯してしまいました。神である主はまず蛇に厳しい裁きを告げられるとともに、原福音と呼ばれる救いの計画を啓示されました。また、女と人に対してもそれぞれ裁きを告げられましたが、なお希望となる道も暗示されたのです。神はアダムとエバのために皮の衣を作って着せてくださいました。それは人間の罪を覆うためには、ほかのものの命が流されることを表していました。こうして神は人間をエデンの園から完全に追放し、いのちの木への道を守られました。罪を犯した人間が永遠に生きることなどあってはならないことだからです。それは逆を言えば、人間が救いに至る唯一の道を残されたということです。あまりにも深い内容を短時間に語り尽くすことはできず…。どうかお一人一人に御言葉からさらなる深い気づきが与えられますように。
教会のデボーションはヨハネ12章から。イエスさまに高価なナルド油を惜しみなく注いだマリアとその行動を非難したユダの姿を見ました。イエスさまはユダが盗人であることを知りながら、「そのままにしておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために…」と言い、特に彼の偽善を責めることもありませんでした。人間の言動をすべてご存知である主の悲しみを思いました。次の日曜日は創世記3章から学びますが、サタンの誘惑に陥り、罪を犯したアダムとエバは、神の呼びかけに身を隠し、ついに自己弁護と責任転嫁の言い訳をしました。まるで赤信号なのに道に出て、車にはねられた人が、自分は悪くない、こんなところに信号があるのがいけないというようなもの。時々『新約の神は優しいけど、旧約の神は怖い』ということを聞きますが、創世記から読めばそうした思いはなくなるのでは…。旧約においても新約においても、神の愛と寛容と忍耐は変わっていないのです。
8月第二水曜祈祷会、デボーションはヨハネ11:17から。イエスさまはラザロが重い病気にかかっていると聞きましたが、それから4日後に行くと、ラザロは死んで墓に葬られていました。姉のマルタは、イエスさまに「主よ、もしここにいてくださったなら…」と言ってただ…悲しみに暮れていました。誰もがはみな、やがては肉体の死を経験しなければなりません。そして死は、人間にはどうすることもできない現実を突きつけるのです。でも、イエスさまは違いました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」今、マルタに求められていたは、このことを信じることでした。イエスさまを信じる者にとって、肉体の死はすべての終わりではなく、永遠のいのちの始まりです。私たちにとっては絶望に思えることも、神のご計画においては神の栄光を現す時となる。信じるなら神の栄光を見る…そのことを再確認させていただきました。
8月第一主日、礼拝では創世記3章から人間の罪の初めについてメッセージを聴きました。人間は互いに助け合って、エデンの園を管理し、神との麗しい関係にありました。でも、それを妬ましく思ったサタンが人間に近づき、言葉巧みに誘惑し、ついに禁断の木の実を食べさせてしまったのです。こうして人間に罪が入り、全世界が罪の影響を受け、全人類に死が及び、一瞬にして世界は変わってしまいました。まさに覆水盆に返らずです。神はその時何があったのかをすべて知った上で人間に呼びかけました。「あなたはどこにいるのか」それは裁きのことばというより、罪人に悔い改めを救いへの招きのことばでした。私たちはまず、自分が生まれながらの罪人であり、神を知らず、神に背を向けた者であることを知らなければなりません。それゆえすべての者が死につながれています。この辛い現実から私たちを救い出すために、イエス・キリストはこの世に来てくださったのです。
米国が広島に原爆を投下してから77年目を迎えます。一瞬にして十数万人の尊い命が失われ、多くの方が被爆され、今も後遺症に苦しんでおられる方々がおられます。あらためてご遺族の上に、病の中にある方々に、主の慰めを祈るとともに平和への思いを新たにしなければと思わされました。今もロシアによるウクライナ侵攻が続く中で、中国も米国を牽制して台湾周辺で軍事演習を行うなど不穏な空気が拭えません。日本の政治は旧統一教会の問題で、もうしばらく与野党の足の引っ張り合いが続きそうです。新型コロナウィルス感染急拡大の中、都内でサル痘の感染者も確認されたとのこと。様々なことに心が騒がされますが…今日のデボーションのみことばに励まされました。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」イエスさまが真の牧者として私たちのことをよく知ってくださり、この揺れ動く時代をともに歩んでくださる幸いを感謝いたします。
8月第一水曜祈祷会、教会のデボーションはヨハネ9:1から。イエスさまが生まれつき目の見えない盲人を癒されるところからでした。弟子たちは盲人に対する憐みの思いからではなく、この人が生まれつき目が見えないのは誰の罪のせいなのかという宗教的な関心からイエスさまに質問しました。それは当時のユダヤに因果応報の考え方があったからです。イエスさまは答えられました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」多くの人は現在の言い知れない苦難や試練の原因を自分の過去や先祖にあるのではと考えますが、イエスさまは神のわざが現れるため、まさに未来に目を向けるようにと教えられます。今日の祈祷会でも兄姉たちの証しにとても励まされました。たとえ今、辛い中を通っていても、神はご計画をもっておられることを忘れないでいたいと思います。主に信頼する者は決して失望することがないのですから。
いよいよ来週、ある若い夫婦が留学のため渡米します。コロナ禍でもあり、本当に大きな決断です。皆さまのお祈りに覚えて頂けましたら幸いです。教会のデボーションはヨハネ8:48からイエスさまとユダヤの宗教指導者たちの論争が続きます。ユダヤ人たちはイエスさまのことばを素直に聞くことができず、かえってイエスさまを悪霊呼ばわりしました。イエスさまはそんな彼らにも悔い改めを迫ります。「だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」誤解や偏見を一回リセットしてよく話を聞いてみたら…新たな真実が見えてくることもあります。旧約、新約の時代は過ぎて、今はメシア到来の成約時代に入っているという方もいれば、なんとかの証人のように、既成の教会は悪の巣窟だと思っている方もおられます。いくらここで呼びかけても無駄ですと仰る方もいますが、本当のところは話してみないとわからないと思います。
7月第五主日、今日も朝から日射しの強い一日となりました。礼拝メッセージは創世記2:18‐25、神である主が人のために助け手を創造されるところからでした。「人がひとりでいるのはよくない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」ここまで神はご自分が創造された世界を見て「それを良しと見られた」と仰っていましたが、ここでは「良くない」と言われたのです。それは、創造主である神が人がひとりでいることに満足されなかったということです。そこで神は人のあばら骨から助け手である女性を創造されました。「助け手」とは本質を一つにした対等なパートナーということです。神が連れて来られた女性を見て、アダムはどんなに喜んだことでしょう。ここで、神は結婚の制度を定められました。結婚とは、別々の存在だった者が愛において一体となることを意味します。結婚は人が決めた制度ではなく、神が定められた制度のゆえに偉大な奥義なのです。
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