忍耐深い主の愛…

2021年の年の瀬を迎えました。教会のデボーションは詩篇106篇から。詩人は「ハレルヤ」という賛美の勧めから、イスラエルがいかに神との契約に不忠実に歩んだか、一方で主はご自身の契約に忠実であられたことを記しました。「しかし主は、御名のゆえに、彼らを救われた。」「それでも、彼らの叫びを聞いたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。」民の不忠実にも拘わらず、主はその憐れみと赦しをもって彼らを導かれました。この忍耐深い主の愛の中に、自分も生かされていることを思いました。今年もコロナ禍に振り回されながらも、多くの恵みと祝福をいただいて、一年を終えることができることを感謝いたします。新しい年も変異株の広がりなどが懸念されますが、世がいかに揺れ動いても、変わらない神の導きに期待して歩んでいきたいと思います。今年もブログを見てくださって本当にありがとうございました。皆さま、どうぞよいお年をお迎えください。

主のみわざの不思議…

12月第五水曜祈祷会、教会のデボーションは詩篇105篇から。「主に感謝し、御名を呼び求めよ。」詩人は、イスラエルの歴史を紐解きながら、アブラハムとの契約を実現される主のみわざを語りました。神は流浪の民だったイスラエルをエジプトに導き、そこで大きな民族とされ、そして今度はエジプトがイスラエルを嫌うようにされ、約束の地へと旅立つように導かれました。主のみわざはすぐに理解できるようなものもあれば、理解するのに忍耐を要するものもある。でも、何が起ころうと神の契約と約束は変わることがありません。良いことも悪しきことも主の御心のうちに行われる、主はご自分の民が苦しんでおられる時、いつも主も苦しんでおられる、主が苦しみを許される時には必ず何かの意味があることを思いました。今年もコロナ禍に振り回された一年でしたが、同時にすべてが当たり前ではない、恵みの中にいたことを学ばせていただいた一年だったように思います。

年末感謝礼拝2021…

2021年最後の主日、少し小雪がちらつきましたが、青空が広がる爽やかな朝でした。度重なる緊急事態宣言、オリンピックの開催、ワクチン接種による混乱など、コロナ禍に振り回された一年が終わろうとしています。礼拝メッセージはルカ17:20から、『神の国はいつ来るのか』というパリサイ人の問いかけにイエスさまが答えられた箇所。彼らは目の前に救い主イエスさまが来られているのに、神の国が始まっていることがわかりませんでした。「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」神の国、神のご支配は、主を信じる者たちの心に、交わりの中にすでに変化を起こしていました。それは今日でも、御言葉に生きる者たちを通して広げられているのです。人の子の日(主の再臨)の到来は、それがいつなのかは誰にもわかりませんが、その日が来たら誰の目にも明らかに認められます。終末のメッセージは、裁きの預言であると同時に、確かな救いへの招きの言葉なのです。

キャンドルサービス2021…

Merry Christmas!今年も御言葉の朗読とバイオリンの調べで、イエス・キリストのご降誕を思い巡らしました。イエスさまは神ご自身である方なのに、神としての威光も栄光も権威もすべて捨てて、人間の赤子となってお生まれになりました。しかも、そこは立派な宮殿でもなく大邸宅でもない、暗く貧しい悪臭の漂う馬小屋の飼い葉桶でした。御使いは告げました。「それが、あなたがたのためのしるしです。」イエスさまはローマ帝国に変わるこの世の王となるために来られたのではなく、全人類を罪とその裁きから救うために来られました。人はみな、生まれてきた本来の目的を見失って、それぞれ自分勝手な道を歩んでいます。自分の命をどう使おうと勝手なこと…一度しかない人生、楽しまなければ損…。そんなキリストの誕生など喜ばない人間の声が聞こえてくる中に、イエスさまはお生まれになられたのです。本物のクリスマスの喜びが皆さまの心にありますように。

主の臨在に励まされ…

12月第四水曜祈祷会はハガイ書から。バビロン捕囚から帰還したユダの民は、エルサレム神殿の再建に着手しました。でも、難民同然の彼らは、経済力も技術力も乏しく、おまけに隣国からの妨害も受けて数年で工事は頓挫してしまいます。月日は流れ、主は預言者ハガイを通して、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュア、さらには民の残りの者に向かって悔い改めと励ましのメッセージを告げられました。「あなたがたの歩みをよく考えよ」「強くあれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ」「今日から後のことをよく考えよ」「わたしがあなたを選んだからだ」ハガイはこの4つの御言葉を中心に、ユダの民を鼓舞し、再び神殿再建へと立ち上がらせていくのです。彼らにとって『神殿』は、神の臨在の象徴であり、神を礼拝し、神との出会いの場所でした。私たちも神との関係を後回しにしないで、主の臨在に励まされて、今日から後のことをよく考えて歩んでいきたいものです。

クリスマス礼拝2021…

アドベント第四週、クリスマス礼拝を献げました。ルカ17:11~、イエスさまがエルサレムへ向かう途中、ある村でツァラアトに冒された10人と出会い、言葉一つで癒された記事をみました。彼らはみなイエスさまの言葉をそのまま信じて行動した時、癒しを経験したのです。どんなに喜んだでしょう。でも、話しはそこで終わりませんでした。その内の一人が大声で神をほめたたえながら戻ってきてイエスさまに礼拝を献げました。九人は癒しの事実だけを喜んだのに対し、彼だけは癒しを行ったイエスさまを喜んだのです。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」彼はこのイエスさまの祝福の言葉を受けて、新しい人生を歩み出していきました。人生のターニングポイントがあります。クリスマスはChristとmasの合成語。キリストのいないクリスマスはただ雰囲気を楽しむだけのお祭りに過ぎません。ぜひ教会で本当のクリスマスを喜び祝いましょう。

ハートフル英会話クリスマス会…

昨年はやむなく自粛しましたが、今年は感染対策とケーキなしで、ハートフル英会話クリスマス会を行いました(子どもたちはごめんなさい)。まずは卓球で体を動かしてから、クリスマスバージョンのUNOで盛り上がりました。もちろん英語です。今日は二つのクラスが合同でしたので、いろいろな方の話しが聞けていつも以上に楽しい時間でした。途中、ウクレレとホルンの演奏でクリスマスキャロルを賛美したり、レイチェルさんのバイブルメッセージでクリスマスの本当の意味についてお聴きしました。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」コロナ禍も今は落ち着いていますが、世界を見れば…まだまだこの先どうなるかわかりません。また、日本国内でも変異ウィルスのオミクロン株の感染が広がりつつあります。このクリスマス、一人でも多くの方に本当の大きな喜びが届けられますようにお祈りしています。

さあ、河馬を見よ…

12月第三水曜祈祷会、ヨブ記40章から。主の創造の偉大さを知ったヨブは、やっと自分がいかに取るに足りない者であるかを知ることができました。神はそんなヨブに向かって、さらに倫理的な側面から語りかけていかれます。そこから、河馬、レビヤタンという神秘的な怪物(高ぶりの象徴)をあげて、それらを造られた神を不義に定める愚かさを指摘されました。結果として、主はヨブの苦しみの問いに直接答えることはされませんでしたが、最後にはヨブを悔い改めへと導かれ、ご自身をより深く知る者としてくださったのです。主はヨブが苦しんでいる時もともにおられ、ともに苦しんでおられました。まさにヨブの苦しみは、主ご自身の苦しみだったのです。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。」ヨブがあれほどの苦しみを通して導かれたこの告白を、今日私たちが恵みによって告白できる幸いを思わされます。

神の創造の偉大さ…

教会のデボーションはヨブ記39章に入りました。長い沈黙を破ってついに神が語りかけられます。それは『なぜこれほどの苦しみにあわなければならないのか』というヨブの問いに答える形ではなく、神の方からの「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。」という問いかけです。神がどのように地の基を定めたか、どのように測り縄を張ったか、自然界の法則、動物たちの養いなど、神の創造の偉大さがことごとく語られていきます。およそ人知をはるかに超えた主のはかりごとです。ヨブに答えられるわけがありません。でも、これによってヨブは自分の小ささをいやというほど示されます。その一方で、偉大なる神がこんな小さな自分と関わりをもってくださっていることにも気づかされていくのです。山は近づけば近づくほどその大きさを知ると言いますが、神の偉大さも知れば知るほど…言葉では表しきれません。でも、その方が今日も語りかけてくださる恵みを感謝します。

慰められたラザロ…

アドベント第三礼拝、メッセージはルカ16:19から。金銭を好むパリサイ人たちはイエスさまの「神と富とに仕えることはできない」という話しを聞いてあざ笑っていました。なぜなら彼らは、富や豊かさは神の祝福の表れであり、律法を守っている自分たちこそが天国に行けると思っていたからです。イエスさまはそんな彼らに、ある金持ちとラザロの話しをされました。金持ちは毎日ぜいたくに遊び暮らし、貧しいラザロは金持ちの施しに頼って生活していた。しばらくして二人に死が訪れ、ラザロは御使いに迎えられアブラハムの懐に、金持ちはハデスの炎で苦しんだという話し。ラザロとは神は助けという意。イエスさまのたとえ話しで名前で話されるのは珍しいことです。人はみな、どんなに裕福でも貧しくても、ただ神の憐れみによって生かされていることを忘れてはなりません。神は心の貧しさ、砕かれた心をご覧になられることを、慰められたラザロから教えられました。

12月

神は苦しむ人をその苦しみの中で…

12月第二水曜祈祷会、ヨブ記36章から。苦しみのどん底で、自分の潔白を主張し、神よりも自分自身のほうを義とするヨブに向かって、エリフはこう言います。「神は苦しむ人をその苦しみの中で助け出し、抑圧の中で彼らの耳を開かれる。」神は人を苦しみから助け出されるのではなく、その苦しみの中で助け出されるというのです。苦難は様々な形で、すべての人の人生に予告なしで襲ってきます。その時、神は何をしておられるのですかと思わず叫びたくなるのではないでしょうか。でも、苦難の中でこそ、私たちの心が神に向き、その御声を聞こうと心の耳が開かれることもあるのです。大事なのは、苦しみや不条理は神から出ているのではないこと、その人が悪を行った結果でもなく、ましてや神からの罰でもないことです。神は苦しみの中でこそ私たちとともにおられるお方です。今日は祈祷会に来られた方々の様々な証しを聞く時となり、生ける真の神を心に覚えました。

あなたは神を待て…

今日は朝から冷たい雨が降る一日でした。教会のデボーションはヨブ記35章~。苦難の中で、神よりも自分の方が正しいと思っているヨブに向かって、エリフの言葉が続きます。彼は、人はみな、苦しみの中で泣き叫んだり、助けを叫び求めりするものですが、本当の意味で神を求めているのではないと言います。それは言わば本能的なものであって、信仰を働かせての祈りではない、今のヨブはそのような人々と同じではないかというのです。このようにヨブを責めた後で、エリフはこう諭しました。「しかし訴えは神の前にある。あなたは神を待て。」神はご自分のしもべの叫び声を聞き洩らすような方ではない、神はご自分から関わりを断ち切ることはない、私たちの救いのためにはどんな犠牲を払うことも厭わない、だから神を信頼して待ち望めと諭したのです。祈っても状況が変わらないと思う時こそ、私たちが真の信仰を養う時。私たちの祈りは神の御手の中にあるのです。

『不正な管理人のたとえ』から…

アドベント第二礼拝。メッセージはルカ16:1から。イエスさまの教えの中でも最も難解なたとえの一つです。主人の財産を勝手に使ってしまった管理人は、主人にそのことを知られてしまい、クビにされた時のために債務者たちに恩を売って後で面倒を見てもらうように考えました。主人はこの不正な管理人が賢く行動したのをほめたという話しです。なんとも首をかしげてしまうような話しですが、実はそういう所ほど気づかなった恵みを発見したりするものです。「不正の富で自分のために友をつくりなさい」「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり」「神と富とに仕えることはできません」たとえ話しの後のイエスさまの解き明かしの中に、著者ルカの独特な視点が感じられ、私自身は非常に教えられました。久しぶりのメッセージ後のグループタイムでも多くの感想があがり、分かち合いも祝福されたようです。今日も恵みに溢れた主の日を感謝いたします。

中村哲さんを覚えて…

長年パキスタン、アフガニスタンで人道支援に尽力してこられた中村哲医師が武装集団の銃撃を受けて召天されてから二年が経ちました。耳を疑うような信じられないニュースでした。中村さんは医師でありながら自ら重機を操作し、『100の診療所より一本の用水路』を合言葉に、1600本の井戸を掘り、全長13kmもの用水路を築き、東京ドーム3500個分にあたる1万6000ヘクタールの土地をよみがえらせ、60万人以上の命を救いました。そんな中村さんはクリスチャンでありながら、イスラム教徒が祈りを捧げるモスクやマドラサ(神学校)を建設して地元の人々を励まし元気づけたそうです。まさに敬天愛人に生きた中村さんの功績はこれからも世界中の人々の心にずっと生き続けることでしょう。「神の御心は何か、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるように…」明日はアドベント第二礼拝。ぜひお近くのキリスト教会に足を運んでみてはいかがでしょう。

天からの知恵こそ…

12月第一水曜祈祷会、ヨブ記32章から。なぜ善人が苦しみにあわなければならないのか。三人の友人たちは、苦難の原因は罪の結果であると主張し、ヨブに悔い改めを迫りましたが、ヨブは自分の正しさを主張するばかりでした。すると側でずっと聞いていたエリフが業を煮やして語り出します。エリフは、ヨブが神よりも自分の方を正しいとしたことや、ヨブの不義を認めながら言い返せない三人の友人たちにも怒りを燃やしました。こうして堰を切ったようなエリフの言葉が続き、もはやヨブは何も言い返せませんでした。「確かに、人の中には霊があり、全能者の息が人に悟りを与える。」天からの知恵こそがあらゆる難題を解決する力です。確かにエリフの言葉は、正論でした。ただ、彼の言葉が苦難の中で痛み悲しんでいるヨブに、どう聞こえたのかは疑問です。結果として、三人の友人もエリフも、ヨブの立場に立って考えるという視点が足りなかったのではないでしょうか。

祈りに支えられて今がある…

教会のデボーションはローマ16章から。パウロ神学を代表する書簡。信仰義認を中心に、一人で読み理解するには難解なところもあったのではないでしょうか。ただ、この終わりのところに関しては、普通の手紙と同じように「…によろしく伝えてください。」と教会や一人一人の顔を思い浮かべるように挨拶を記していて親しみやすいところです。パウロがいかに多くの人のために祈っていたのかがわかります。「どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」手紙を受け取った教会でも、あらためてパウロ先生の働きを覚えて祈ったことでしょう。昨日は私たちの教会を会場に、教団の教職教育部がありました。今年度の報告に始まり、次年度に向かっての審議が長時間に渡って行われました。コロナ禍でZoom会議が続いたので、対面会議は久しぶりでした。関東から新潟から、このために来てくださった先生方のご労と献身に心から感謝いたします。

父のところに行こう…

11月第四主日、秋晴れに天気でしたが、頬に当たる風が一段と冷たく感じる一日でした。今日からアドベント(待降節)。礼拝ではルカ15:11~32から『二人の息子と父の愛』をテーマに御言葉を学びました。弟は父の財産を分けてもらうと遠い国で、湯水のように使って、やがて大飢饉が起こると豚の世話をするはめになり、食べるのにも困り果てました。でも、彼はその人生のどん底で父のことを思い出します。「立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。』」来る日も来る日も父は息子の帰りを待っていました。だから、彼の姿を見つけると、まだ遠かったのに、父はかわいそうに思い、駆け寄って彼を抱き、口づけしました。そして、急いで彼のために一番良い服、指輪、履き物を用意し、子牛を屠って祝宴を始めたのです。神の無条件の愛…。何度読んでも新しい感動が胸に迫って来るところです。

明日からアドベント…

今年もアドベント(待降節)の時期を迎えました。アドベントとは、「到来、到着」を意味します。明日からクリスマスイブまでの4週間、救い主イエス・キリストのご降誕を待ち望む期間です。日曜日ごとに一本ずつローソクを灯していきます。教会でキリストの到来について語る時には3つの意味を持っています。それは、2000年前、誕生によって来られたこと、今日私たちの心のうちに来られること、終わりの日に栄光のうちに来られることです。聖書には、「昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」とあります。私たちにとって最も大事なのは、クリスマスをただの年中行事として迎えるのではなく、その本当の意味を知って迎える時、その人の心にキリストは住んでくださることです。Christmasとは、キリスト(Christ)のミサ・礼拝(mass)という意味です。教会の新しい一年はこの日から始まります。ぜひお近くのキリスト教の教会に足を運んでみてはいかがでしょう。

英会話教室に来られる方々…

教会では毎週木曜日にハートフル英会話教室を行っています。今日も教室からなごやかな会話と子どもたちの元気いっぱいの声が聞こえてきました。中には海外生活をされていた方や留学をされていた方もおられ、文化や習慣の違いなどを聞くこともあります。また、海外旅行のためや仕事で使うため、英語を忘れないためなど、目的もさまざまです。講師の先生はクリスチャンですが、受講される多くの方はクリスチャンではないので、教会に来るのは初めて、聖書を見るのも初めて…という方もおられます。牧師としてはそうした方とちょっとした休憩時間にお話しするのも楽しみの一つです。仏教を信じる方も神道を信じる方も、物は試しで何でもお気軽にご質問ください。ある時は『教会でもクリスマスをやるの?』と聞いてくれたお友だちもいました。教会はクリスチャンだけでなく、どなたにも開かれた場所です。本当のクリスマスの意味も、ぜひお話しできたらと思います。

生きるにしても、死ぬにしても…

11月第四水曜祈祷会、朝から抜けるような青空が広がりました。ローマ14:9「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」聖書では『死』に3つの意味を示しています。肉体の死、霊的な死、永遠の死(第二の死)。人はみな、やがていつかは肉体の死を経験しなければなりません。でも、クリスチャンはイエス・キリストを信じる信仰によって霊的な死から解放されています。また、キリストの十字架の贖いによってすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、永遠の死からも解放されているのです。それゆえ肉体の死は永遠の死に至る門ではなく、天国への門に過ぎません。ここに生きるにしても、死ぬにしても、主のためにという生き方の土台があります。今日の祈祷会も、まずみことばの分かち合いに恵まれ、祈りのうちに主のものとされている幸いを思いました。

一緒に喜ぶために…

11月第三主日、収穫感謝礼拝。礼拝はルカ15:1−10、いなくなった一匹の羊を捜し回る羊飼い、なくした一枚の銀貨を熱心に捜す女性の姿から、イエスさまの譬えを学びました。そこから主は今も失われた人を捜しておられること、一緒に喜びを分かち合われること、罪人が悔い改めることを待っておられることを心に留めました。一人でも多くの方にこのメッセージが届くように祈ります。そして、今日も礼拝後に二名の兄姉の入会式がありました。『あなたは、神の子イエス・キリストの十字架の贖いによって救われたことを確信しますか』という問いかけに、『確信します』とはっきりお答え頂きました。いつもこの誓約の時が、牧師として一番胸が熱くなります。メッセージの通り、一緒に喜びを分かち合うことができて本当に感謝でした。午後は来週から始まるアドベントに向けて大掃除&クリスマスの飾りつけ、夕方は青年たちと卓球で汗を流し、恵まれさまの一日でした。

すべての人をあわれむ主…

私は何とかして自分の同胞にねたみを起こさせて、彼らのうち何人かでも救いたいのです。」キリスト教における『救い』とは…?私は25歳まで聖書を読んだことも教会に行ったこともなかったので、最初は違和感がありました。法にふれるような犯罪を犯しているわけでもないし、人から後ろ指を指されるようなこともしていないし、普通に人は死んだら極楽に行くものだと思っていました。でも、今から25年前、教会に行くようになって、礼拝や聖書を通じて、あらためて人はみな罪人として生まれてくること、神の怒りの下にあって、病気でもなく寿命でもなく、裁きとしての死を迎えなければならないことを知りました。そして、人はみな何かの功徳を積んだり、正しく生きることによってではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われることを教えて頂いたのです。百聞は一見に如かず。まだ…という方は、ぜひ近くのキリスト教会に足を運んでみてください。

信仰は聞くことから…

11月第三水曜祈祷会、教会のデボーションはローマ10:14~。人は、律法の行いよるのではなく、キリストを心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのですとあります。そして、信じるためには聞かなくてはならない、聞くためには宣べ伝える人がいなくてはならない、宣べ伝えるには遣わされなくてはならないと諄々と記していきます。伝道は、私たちの熱心さや言葉の巧みさが重要なのではなく、最終的には聖霊のお働きによるものです。それでも『伝道はどうも苦手で…』『伝道はしないといけないことですか…』と言われるクリスチャンの方は少なくありません。伝道ってなんだろう。今日はそんなことを素直に語り合う機会になりました。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」私たちにとって最も大切なのは聖霊の助けを祈り求めることです。何はともあれいつもそこから始めたいものです。

招かれる者の幸い…

11月第二主日、ルカ14:15~「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」パリサイ派の指導者の食事会に来ていたある客は、どこか誇らしげにそう言いました。でも、イエスさまはそんな彼に向かって、神の国の食卓に招かれる者について譬えをもって話されました。神の目は、自分にはその資格があるとおごり高ぶる者ではなく、招かれる資格などないとへりくだる者たちに注がれていること、「まだ席があります。…私の家をいっぱいにしなさい。」と神が万事を備えてくださっていること、そこにあなたも来なさいと招いてくださっているとは、まさに幸甚の極みです。今日はいつも祈り深く謙遜な姉妹の転入会式といつも小さな教会を駆け回る子どもたちの祝福式がありました。午後は役員会でクリスマス&次年度に向けての話し合い、夕方は久しぶりにお会いするご家族としばしのお交わり、夜は青年たちと賑やかな夕食に…。今日も恵みいっぱいの主日でした。

横田めぐみさんを覚えて…

横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されてからまもなく44年を迎えます。当時13歳だっためぐみさんは部活の終わった帰り道、自宅まで200mという場所で失踪しました。すぐに新潟県警や機動隊による懸命な捜索活動がなされましたが、拉致事件が判明したのはそれから20年も後のことでした。なぜこんなことが起きるのか…自分が悪いのか、先祖が悪いのか…絶望の淵に立つ早紀江さんに、ある宣教師が聖書を手渡しました。しばらく読む気にはなれなかったそうですが、ある時ヨブ記を読んで『私の苦しみがここにある』と教えられたそうです。その後、早紀江姉はクリスチャンとなり、その33年後にご主人の滋さんも病床洗礼を受け、天に凱旋されました。明日は滋兄の誕生日。苦しみの理由、それは人間には理解できません。しかし、主はご存知であり、ともに苦しんでおられる。今はただ、めぐみさんの帰りをひたすら待っておられるご家族のために心からお祈りしています。

関キ災・第五回懇談会…

今週月曜日に関西キリスト災害ネットワーク・第五回懇談会がありました。『この町に教会があってよかった。ー大規模災害災害に備えて、防災の視点でー』をテーマに田村治郎氏の講演を聴きました。今回の出席者は21名、ここまで累計で100名を超える先生方が出席してくださったことになります。本当に感謝です。災害はいつ起こるかわかりません…。南海トラフ大地震も今後30年以内の発生確率は70~80%と言われています。防災士の方も言われました。『もし天気予報で降水確率70~80%と言ったら当然備えをするはず。災害もこの感覚が大事です。』そして『地震10秒診断ーもしもあなたの町で地震が起こると?』『東京備蓄ナビ』という興味深いアプリをご紹介くださいました。無料ですので、ぜひお試しください。今日も教会ではハートフル英会話があり、大人クラスからは楽しそうな笑い声が聞こえ、キッズクラスにも新しいお友だちが来てくださって感謝でした。

ヨブの苦難から考える…

11月第二水曜祈祷会、ヨブ記29~31章。「あのとき」と幸いな生活を振り返り、「しかし今は」と悲惨な現状を語り、「私は自分の目と契約を結んだ」と自らの潔白を主張するヨブの姿を黙想しました。ヨブの幸いな生活の土台は、家族の多さや財産の多さの前に、神との親しい交わりがあったことでした。また、ヨブにとって最も悲惨な状態とは、神に向かって叫んでも、神が何もお答えにならないことです。次第にヨブは自分の潔白を主張することで、神の側に問題があることを訴えていました。神はなぜヨブをこれほどの苦しみにあわせたのか…。それは私たち人間には理解できないことです。でも、イエスさまは言われました。「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」十字架への道を歩まれたイエスさまは、試練がなくなるようにではなく、信仰がなくならないように祈られました。ここに一つの答えがあるように思いました。

主が招かれる食卓で…

11月第一主日、実るほど頭を垂れる稲穂かな…。ルカ14:1~、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」イエスさまは食事会に客として招かれた人たちにたとえを話されました。自分から上座に座ってはいけないこと。なぜなら、自分にはその資格があると心の中で思っている人は、反対に神の前で認められないからです。また、食事会に人々を招く主人にも話されました。もてなしをするなら、友人や家族やお金持ちよりも、貧しい人たちや体の不自由な人たちの方が幸いだということ。なぜなら、その人たちはお返しができないので、終わりの日に、神が報いてくださるからです。イエスさまが教えられたのは、単なる処世訓のようなものではなく、もっと深い霊的な真理、言わば御国での食卓の話しでした。今日は聖餐式の恵みにもあずかり、午後からは役員諮問会がありました。三人の兄姉の立派な信仰告白に心も体も満たされました。

かみさまのおうち…

『ここはかみさまがすんでいるおうちなんだよね』教会の前を通る小さなお子さんがお母さんと話しているのが聞こえました。ここに教会があることを地域の方が心に留めてくださっていたら感謝です。お掃除をしているとご近所の方と挨拶を交わしますが、なかなか教会には用事がなくて…信仰心もないし…でも、クリスマスには行こうかしら…と声をかけてくださる方もいます。ぜひ用事がなくても、信仰心がなくても、気軽に立ち寄って中を覗いてみてください。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」聖書の神さまは、人間が作った家にはお住みにはなりません。なぜなら神はこの天地万物を造られ、私たち人間を造られた方だからです。そのあまりにも偉大なる神さまのことを、どこで聞いたらいいのでしょうか。百聞は一見に如かず。ぜひ日曜日の礼拝に足を運んでみてください。

しかし、みこころは一つ…

11月の第一水曜祈祷会はヨブ記23章から。エリファズの三回目の語りかけも、ヨブを励ますことはできず不毛に終わりました。ヨブも根拠のない罪を責められ、もはやエリファズへの反論をあきらめ、神への独白のように語り出します。「ああ、できるなら、どこで神に会えるかを知って、その御座まで行きたいものだ。」人に理解されない苦しみを、ヨブは神ならきっとわかってもらえると思います。でも、どこを探しても神を見つけることができない…神は全くご自分を隠されてしまった…。ヨブの苦しみは、ここにありました。「しかし、みこころは一つである。だれがその御思いを翻せるだろうか。」神の計画は変わらないが、自分は神の前に黙ることはできない…神にこの苦難の説明を求めたいというのです。今日は祝日だったので、普段あまり来られない方も祈祷会に来てくださって深い分かち合いとなりました。難解なヨブ記を身近に感じることができたことを感謝します。

私の話しを聞いてください…

教会のデボーションはヨブ記21章になりました。二度目のツォファルの語りかけに対するヨブの答えです。絶望の淵に立つにヨブに、友人たちはなんとかして彼を慰めようと説得を試みます。そこでヨブはこの二度目の会話の終わりに、自分が必要としているのは安易な慰めの言葉ではないこと、ましてや説得や非難を受けることなどではないと訴えます。自分の語ることに耳を傾けてほしい…それを自分への慰めにしてほしい…と。友人たちの説得は、不幸が誰かを襲うのはその人が神と人間に対して罪を犯したからだ、悪しき者は裁きを受けるということです。ヨブの答えは、では…私は悪しき者なのか、悪しき者だって長寿を全うし、子孫も財産も与えられている、それが現実ではないかということです。あらためて祝福と繁栄とは何かを考えさせられます。困難の中でこそ、この世の価値観に振り回されないようにしたいものです。主は言われました。「心の貧しい者は幸いなり

狭い門から入りなさい…

10月第五主日、今日も子どもからご年配の方まで多くの方々が集われました。1517年10月31日、ルターはカトリックの免罪符に対する反論として95ヶ条の公開質問状を張り出しました。このニュースは瞬く間に全ヨーロッパへ広がり、プロテスタントの狼煙ともなりました。そこから約500年の歳月が過ぎますが、日本のクリスチャン人口は未だ全体の1%にも満たない状況が続きます。まさに日本でクリスチャンになるのは狭き門と言わざるを得ません。でも、その狭き門を見出し、そこを入口として救いの道を歩み出す人は幸いです。狭き門とはイエス・キリストです。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」大事なのは入口です。宗教はみなどれも同じではありません。最初のボタンの掛け違いはその後ずっと間違えたままです。今日、苦難の中を通らされても、ともに歩む者は少なくても、あなたはわたしに従いなさいと主は招いておられるのです。

続くだけでなく、深まってもいく…

今、日曜礼拝ではイエスさまの生涯を記した福音書から学んでいます。生前イエスさまはどのような言葉を語り、どのような歩みをされたのかを読むと教えられることがたくさんあります。ただ、その頃の弟子たちはイエスさまが語られたことを正確には理解していませんでした。イエスさまが召された後、初めてその言葉と行動の意味を理解したのです。私たちも時に、言われたそのときに言われたことを理解できるとは限りません。その人が亡くなってある年月を経て初めてわかることもあります。私も父を天に見送って16年…。父が何気なく話していた言葉が今になって響いてくることがあります。『人と人との関係はどちらかが亡くなっても続きます。続くだけでなく、深まってもいきます。』最近読んだ本の一節が心に残りました。確かにそうだなと思います。ああしておけばよかった…と考える日々もありましたが、今は父が願うであろう自分として歩みたいと願っています。

どこに私の望みがあるのか…

10月第四水曜祈祷会、教会のデボーションはヨブ記17章になりました。誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていたヨブがなぜこれほどの苦難にあっているのか…。友人たちは、ヨブが神に背いて罪を犯したから神の裁きが下ったのだとヨブに悔い改めを迫ります。しかし、ヨブにとって彼らの言葉は何の慰めにもなりません。むしろ、ヨブは自分の潔白を主張し、ますます絶望の淵へと追いやられていくのです。「いったい、どこに私の望みがあるのか。だれが私の望みを目にするのか。」自分の人生はもう終わったも同然、もはや何の望みもないと独白していくヨブ…。彼のように私たちも時に、神に嘆き苦しみを訴えるような、文句を言いたくなるような時があります。でも、それはつきつめれば心の奥底で神を信頼しているから、信頼したいからこその言葉ではないでしょうか。私たちの希望はイエスさまがいることです。この希望は失望に終わることがありません。

慰めに満ちた葬儀…

今日は朝から冷たい雨が降っていました。昨日の午後、納棺式の際に故人のお顔を見せていただきましたが、穏やかな優しい顔をしておられたので、今主の平安の中にいることを思いました。母教会の先生にも連絡をさせて頂いて洗礼志願書などをFAXで送って頂き、祖母から続くクリスチャンであったことがわかりました。教会生活はあまり熱心な方ではなかったようですが…クリスチャンの従妹の方とも電話で話すことができて、青年時代のこともよく教えて頂きました。ある牧師はこう言います。その人の一生の価値は、その人の働き盛りとかではなく、実にその人の臨終の枕元においてなされるもの…。葬儀の中で御言葉が語られ、永遠のいのち、天の故郷、天国での再会を心に覚えて、ご遺族の方々と讃美歌を歌いました。終わった後、列席者の方に「キリスト教の葬儀もいいもんやね」と仰って頂きました。とても慰めに満ちた葬儀になりました。お祈りを感謝いたします。

神の国に生きる幸い…

10月第四主日、すっかり秋の深まりを感じる一日…。礼拝メッセージはルカ13:10-21。イエスさまは安息日に、18年も病の霊につかれてきた女に声をかけられました。「女の方、あなたは病から解放されました。」彼女はイエスさまのことばを信じて、ただちに立ち上がって、神をあがめたのです。ここに安息日の本質があります。すなわち、安息日はただ習慣的・形式的に守ればいいものではなく、大事なのは『喜びの日』『栄えある日』とすることです(イザヤ58:13)。また、イエスさまは『神の国』について二つのたとえを話されました。『からし種』『パン種』はどちらも極小の種粒でありながら、大きな成長、大きな影響を与えるもの、そして、種自体に生命力があることを示しています。神の国はイエスさまの到来によって始まり、私たちのただ中にあって、今日も全世界で広がりつつ、変わりつつあるのです。礼拝後、今日は転入会式もあって祝福に溢れる一日でした。

労苦から解き放たれて…

以前、教会に来てくださっていたご家族から久しぶりにお電話をいただきました。それは『夫が天に召されました』という寂しい知らせでした。最初にご主人とお会いしたのは今から7年前で、教会のホームページを見て訪ねてくださいました。その時は、しばらく教会生活もお休みされていたようでしたが、少し懐かしそうに聖書や信仰のことについていろいろお話ししてくださったのを覚えています。青年時代、好きな女の子が教会に通っていて、彼女に惹かれて行ったのが最初だったとのこと…(よくある話しです)。それから、洗礼までどのように導かれたのかは聞いておりませんが、いずれにしてもクリスチャンになられたのは本当に幸いでした。聖書にはこうあります。「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。…その人たちはその労苦から解き放たれて安らぐことができる。」葬儀は月曜日になりますが、ご遺族の上に主の慰めと支えをお祈りいただければ幸いです。

ツォファルの最初の語りかけ…

10月第三水曜祈祷会、ヨブ記11章から。三人目の友人ツォファルが満を持してヨブに語りかけます。「ことば数が多ければ、言い返されないだろうか。人は唇で義とされるのだろうか。」先のエルファズ、ビルダデの語りかけに対し、ヨブは実に言葉巧みだと批判します。ツォファルも、ヨブの受けた災いはヨブ自身に問題があると見ていました。そして、二人の友人と同じく彼も、因果応報の考えに基づく神への悔い改めを、ヨブに迫ります。そうすればヨブの苦しみは取り去られ、その繁栄は回復されるのだというのです。最初から自分の答えを持っているツォファルの言葉は、たとえ正論だったとしても…ヨブの心を慰めるどころか、極めて辛辣なものです。こうして、ヨブはますます自分のことをだれも理解してくれないと思っていくのです。私自身も、知らず知らずのうちに聴き手になれず、正論をかざして相手を言い伏せてしまっていることはないか…考えさせられました。

今年もう一年そのままに…

10月第三主日、気持ちの良い青空が広がる一日となりました。礼拝メッセージはルカ13:1-9。イエスさまは群衆に向かって、ガリラヤ人たちが殺されたことやシロアムの塔が倒れて死んだ18人のことについて語られました。当時の人々は何かの災難が起こるとまず神罰を考えたようです。イエスさまはそうした考えを否定して、「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」さらにいちじくの木のたとえをもって、父なる神が忍耐して待っておられること、イエスさまがとりなし祈っておられることを教えられたのです。「今年一年そのままにしておいてください。…それで来年、実を結べばよいでしょう。」いちじくの木を徹底的に守ろうとするイエスさまの思いが、この言葉に表されています。それは、ご自身のいのちをかけてでも守ろうとする愛であり、このイエスさまの愛によって示される神の愛でもあります。この愛が、私たちにも向けられているのです。

もういやです。いつまでも…

ヨブ記7章。エリファズの言葉を受けて、ヨブはあなたに私の苦しみの深さがわかるのですかと反論します。そして、神の訓戒などいらないから、もう自分の命を絶ってほしいと嘆きます。やがてヨブの思いは、友人のエリファズから、神に向かって語り始めます。主のしもべとして生きてきたのに、今自分は家族も財産も何もかも失い、全身の病に冒され、あとは息のように儚く消え去るだけ…もはや再び幸いを見ることはない…というのです。「もういやです。いつまでも生きたくありません。かまわないでください。私の日々は空しいものです。」ヨブの一つ一つの言葉に、深い悲しみが迫ってきます。ただ…大切なのは、神はこのヨブの嘆きの祈りに耳を傾けておられることです。私たちも時に、苦しくて苦しくて生きてることさえ辛い夜が、だれにも理解してもらえないと感じる日々があるのではないでしょうか。「しかし私は、主よ、あなたに叫び求めます。…」(詩篇88:13)

私なら、神に尋ね…

10月第二水曜祈祷会、ヨブ記5章から。昨日に続いてエリファズのヨブへの言葉から学びました。エリファズは、不幸やわざわいは人間の罪の報いなのだから、激しく嘆いたり、神を呪ったりするのは間違っていると語りかけます。むしろ、神の叱責を受けるのは幸いなこと、神はただ懲らしめるだけではなく、その傷を包み、癒してくださる方だと言うのです。「私なら、神に尋ね、神に向かって自分のことを訴えるだろう。」エリファズは無意識のうちに、自分がもしヨブの立場だったらこうするのに…と自己の敬虔さを主張しました。痛みと悲しみの淵にあるヨブは、彼の言葉をどう聞いたのでしょう。まさしく傷口に塩を塗られるような思いだったのではないでしょうか。たとえ真実が混ざっているとしても、言葉には本当に気をつけたいものです。分かち合いの時間にも、いろいろな感想を聞くことができて感謝でした。今日から、少し新しい体制での水曜祈祷会が始まります。

エリファズの最初の語りかけ…

教会のデボーションはヨブ記に入りました。人の苦難の意味について、これほど考えさせられる書はありません。物心両面に恵まれていたヨブは、略奪と天災という四つの災いに遭い、すべてを失います。それでも神の御心と受け止め、神への信頼を持ち続けるヨブのもとに、エリファズ、ビルダデ、ツォファルの三人の友人が訪ねてきます。彼らは、ヨブの悲しみにただ寄り添うしかできませんでしたが、ヨブが徐々に自分の心情を打ち明けたので、まずエリファズが自分の考えを話しました。エリファズは、ヨブの身体を労わりながらも、不幸には必ず原因があること、自分の経験から神の絶対的な正しさを示すなど、ヨブに自分の非を認めさせるような説得をしたのです。彼を励ましたいという気持ちが、いつの間にか上から物を言うような言葉に…。傷ついた人の心を理解せず、不用意な言葉を発するより、ただ黙って寄り添うこと、とりなし祈ることの大切さを思わされます。

恐れるな、小さな群れよ…

10月第二主日は、朝から夏を思わせるような日差しの強い一日でした。礼拝メッセージはルカ12:22‐34から。大勢の人々が集まっている中で、イエスさまは弟子たちに「あなたがたは、…いのちのこと、…からだのことで心配したりするのはやめなさい」と言われました。そして、鳥や草花に目を移して、それらを養っておられる神は、あなたがたのことを価値ある存在として見ておられ、あらゆる面で養ってくださるのだと教えられたのです。天の父なる神さまは、私たちが生きていく上で必要なものをよくご存知です。そして、私たち以上に私たちのことを心配してくださっているのです。イエスさまが弟子たちによく繰り返された言葉に、「恐れるな」があります。それは、彼らの心に深く刻まれていったことでしょう。今もイエスさまは、私たちが慌てたり、何かに恐れている時にも、私たちを憐れんで、この時の弟子たちと同じように声をかけて、励ましてくださるお方です。

木曜日の英会話が開講しました…

今日から、ハートフル英会話・秋期コースが開講しました。久しぶりにお会いする方々と初めてお会いする方々と、また木曜日のなごやかな時間をともに過ごせることを感謝します。教会は、クリスチャンの方はもちろん、クリスチャンではない方にとっても、大人も子どもも、心落ち着く楽しい場所であってほしいと願っています。講師のレイチェルさんとホゼアさんが本当に心を込めて授業をしてくださいますので、とても雰囲気のよいクラスです。大人も子どもも、定員人数までもう少しあります。ご興味のある方はまずは無料体験クラスをお試しください。話しは変わりますが…昨日は東北で、今日は関東で、震度5強の大きな地震がありました。首都圏の地震では、各地で停電があったり、水道管が破裂したり、複数のけが人も出たようです。東日本大震災以来10年ぶりの震度5強とのこと。けが人や被災された方々を覚えてお祈りしています。関西もあらためて注意が必要です。

御霊に導かれて歩もう…

10月第一水曜祈祷会、ローマ8:1‐17。パウロは善を行いたいと願いつつ、自力ではそれができない現実を認め、人はただ救い主の助けを求めるほかないことを述べました。でも、だからこそ「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」というのです。キリストを信じ、キリストの救いにあずかった者は、今や「罪と死の原理」、すなわち罪と死の支配から解放されました。それは、キリストの贖いによって「いのちの御霊の原理」がもたらされたからです。御霊は、私たちのうちに住んでくださって、私たちを永遠のいのちに導き、神の子どもであることを証ししてくださいます。ですから、パウロは他書でも「御霊によって進もうではありませんか。」と勧めるのです。私たちも、肉体的には日ごとに衰えても、霊的には日ごとに新しく造り変えられ、キリストのご支配の中を、キリストの栄光目指して歩もうではありませんか。

ハートフル英会話秋期コース…

緊急事態宣言解除に伴い、今週の木曜日からハートフル英会話秋期コースが始まります。毎週木曜日に行っている英会話教室、皆さまに愛されて今年で27年目を迎えました。日常会話から海外旅行、ビジネス英語など、使える英語を身に着けたいならネイティブ講師から学ぶのが一番です。講師は二人とも敬虔なクリスチャン。最大6人の小グループ制なので、互いに助け合いながら、新しいお友だちの輪が広がります。大人クラスも、初めは皆さん緊張されてこられますが、だんだん親しくなって会話も弾み、いつも笑い声がたえません。Kidsクラスは、フラシュカードを使ったりクラフトをしたり、とにかくいろいろなプログラムがあって楽しい50分です。クラスの時間帯や料金などの詳しい情報はハートフル英会話のページをご覧ください。すでに案内チラシを見てくださった方もいるかと思いますが、ただいま無料体験クラスを受付中!お電話か、メールでお申し込みください。

神に対して富む者に…

10月第一主日、秋晴れの青空が広がる一日。緊急事態宣言解除後の最初の主の日、三回に分かれての礼拝でしたが、多くの方々と久しぶりに顔をあわせ、聖餐式の恵みにもあずかることができて感謝でした。メッセージはルカの福音書12:13‐31。群衆の中の一人がイエスさまに質問したことから、イエスさまが愚かな金持ちの譬えをされたところです。そこから、財産はいのちを保証しないこと、神なき人生を歩む愚かさ、神との正しい関係に生きることを心に留めました。『神に対して富む者』とは、自分で精一杯聖い生活を送り、神の子どもとして多くの良いことをする…ことではなく、何より、こんな弱く愚かな者でも、神から愛されていることを喜び、与えられたいのちを感謝し、喜びの日も悲しみの日も神とともに歩むことです。自分に誇るべきものがなくても、神を信じる者に約束された神との和解があります。今週もこの恵みのうちを歩ませていただけることを感謝します。

律法の下から恵みの下に…

教会のデボーションはローマ6章に入りました。パウロはイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められることを記した後、「それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。」という問いを投げかけます。つまり、神の恵みが増し加わるために、あえて罪の中にとどまっているべきですかというのです。それに対する答えは、「決してそんなことはありません」です。理由は二つ。私たちは律法の下にではなく(罪に対して死んだ者)、恵みの下にある(神に対して生きる者)からです。その目に見えるしるしがバプテスマ(洗礼)です。もちろん洗礼を受けたからといって、すぐに罪から完全に自由になれる人はいません。地上にあっては、罪との戦いや誘惑があります。でも、私たちはみな、聖潔に向けて決定的な一歩を踏み出した者たちです。あとは聖霊により頼みつつ、一歩ずつ完成を目指していきましょう。

一人の義の行為によって…

教会のデボーションはローマ5章に入りました。「こうして…私たちの主イエス・キリストによって、神との平和をもっています。」主イエスを信じる信仰によって、私たちは神との正しい関係が回復しました。その結果、私たちは神との和解、交わりの中に生きる者とされたのです。だからこそ今の患難さえ喜ぶことができる、それは患難が忍耐を生み出すことを知っているからです。忍耐とはただ消極的に我慢することではなく、主に期待して積極的に生きることです。キリストは私たちの罪のために死んでくださった、しかも「私たちがまだ罪人であったとき」に、です。ここに人類に対する神の愛が具体的に示されました。アダムの背きによって全人類に罪が浸透したように、キリストの義の行為によって多くの人が義とされる道が備えられたのです。今、キリストを信じる信仰に歩んでいる者が、どれほど圧倒的な恵みの中に生かされているかを、心に留めて歩みたいと思います。

行いでなく信仰による義…

9月第五水曜祈祷会、ローマ4:1-25から。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」パウロはユダヤ人が誇りとするアブラハムとダビデの例を挙げて、行いではなく信仰によって義と認められることを記しました。丁度、旧約聖書を学ぶ会でアブラハムの晩年を学んだところでしたので、「不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます」ということの意味がよくわかりました。アブラハムも75歳の時に神の召命を受けて信仰の旅が始まりましたが、時に神に背き、神の叱責を受けることもありました。それでも彼は、神の声に励まされ「望み得ない時に望みを抱いて信じ、…神には約束したことを実行する力があると確信して」歩み続けたのです。このような信仰者になるには、アブラハムでさえも、長い年月の神の取り扱いを受けました。私たちもアブラハムの子孫として、約束を信じて偉大な信仰者の歩みに倣いたいものです。

悪しき病からの癒し…

9月第四主日、爽やかな風が気持ちのよい一日でした。伝道者の書6章から『悪しき病からの癒し』をテーマに、神の賜物を楽しめない空しさ、今あるもので満足できない空しさ、神と言い争う空しさをポイントに御言葉を学びました。『だれが知るだろうか。…だれが人に告げることができるだろうか。…日の下で何が起こるかを。』誰も知り得ない、それが6章の結論でした。『悪しき病』とは、神なき人生を歩む者の心を蝕む病魔です。放っておけば確実に死に至る病となります。でも、感謝すべきは、今日の私たちはこの問いの答えをイエス・キリストのうちに見出すことができることです。今は教会に行きたくても、他の方のことを考えて自粛しておられた方も多いと思います。それぞれの地域教会で事情は違うと思いますが、私たちの教会も緊急事態宣言の解除を目安に、主日の三部礼拝を再開します。また、教会で皆さまと心一つに礼拝をささげられるのを楽しみにしています。

宣教130周年記念大会…

昨日は同盟教団宣教130周年記念大会がありました。教団の歴史、特色、展望がどういうものかをあらためて再確認する良い機会となりました。1891年に来日した15名の宣教師(その内の一人は来日後3ヵ月で召天)は、今では想像もつかないような迫害、経済的必要、霊的戦いを覚えながら未伝地での宣教と救霊のために献身してくださいました。その功績は、現在261の教会、信徒11,965人が所属し、さらに日本とアジアと世界に仕える教団となり、今も前進し続けています。朝岡理事長の全体講演の中で『コロナ禍にあって多くの教会が困難の中にある。でも、私たちの思いを越えて働かれる主の御業に、私たちは参与するのだ。』という言葉が心に残りました。確かに自分の教会だけが祝福されればいい、同盟教団の教会が増えればいいというのが、130周年に覚えることではありません。主が必要とされるならば、喜んで宣教協力し、献げていく教会でありたいと思わされました。

不義に対する神の怒り…

昨夜は中秋の名月。思わず「天は神の栄光を語り告げ。大空は御手のわざを告げ知らせる。」の御言葉を思い出す夜でした。そして、今日の水曜祈祷会。ローマ1:18~「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」同じ天を見上げるのでも、今朝は身の引き締まる思いがしました。『怒り』とは『神の裁き』(終末的審判)を表す言葉です。人間は、自然の美しさを思うと同時に、その造り主に思いを馳せなければなりません。罪の本質は、何か犯罪を犯すことではなく、神を認めず、神を神としてあがめないことです。私たちはこの世に生まれてから、何もかも当たり前ではない現実の中を、自分の力で生きてきたのではなく、神によって生かされてきました。神は義しい方ですから罪に対しては厳しい裁きを下されます。と同時に、神は愛なる方ですから神を求める者には全き赦しをお与えになるのです。

すべての聖徒たちへ…

教会のデボーションはローマ人への手紙になりました。今日はその書き出し1:1‐7から。ギリシャ語原文では一続きのあいさつ文。「キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。」この一節だけでも深みのある言葉です。キリスト・イエスに対する全き服従、神の福音のために選び分かたれ、復活の主の証人として遣わされた者だということ。ここから、福音とは何か、自分の使命とは何か、パウロがこの手紙を通して伝えたいことが、短い文章の内にギュッとまとめられています。ちょっと難しそうだな…と感じる方もいるかもしれませんが、Ⅱ歴代誌の時のように1章ずつではなく、ローマ書は短い節に区切って見ていきますので、なんとか読書百篇の気持ちで一緒に味わっていきましょう。「…すべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。」聖霊さまがお一人ひとりのデボーションを祝福してくださいますように祈っています。

束の間の人生を生きる…

9月第三主日、台風一過の青空が広がりました。伝道者の書5章から。伝道者である著者は、形式や口先だけの信仰の空しさ、また金銭や富を追い求めることの空しさを覚え、結論として神が与えたいのちの日数の間を楽しみ喜ぶように告げました。「こういう人は自分の生涯のことをあれこれ思い返さなさい。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」私たちの人生は短く、あれこれ思い返している暇もないほど束の間に過ぎてゆくものかもしれません。でも、神がその人生を喜びで満たしてくださることを信頼して、たとえ束の間であっても、一心に主を賛美し、その栄光を表していきたいものです。今日は礼拝後に二人の方の洗礼式がありました。コロナ禍なので、細やかなお祝いしかできませんでしたが、天で大きな喜びの声が上がっていることを思いました。まさに神の時、新しい人生の出発に、立ち合えて感謝でした。これからの信仰生活の祝福を心よりお祈りしています。

愛と信頼の告白…

詩篇102篇は苦しむ者の祈りです。「主よ、私の祈りを聞いてください。私の叫びが、あなたにまで届きますように。」詩人は、心身ともに病気にかかり、自分のいのちの終わりまで予感していたようです。でも、彼は言葉にできないその思いを、神に向けて行きました。「それはあなたが、憤りと激しい怒りのゆえに、私を持ち上げ、私を投げ捨てられたからです。」今の状態はたまたまではなく、神が通らされている試練であるならば、回復を与えてくださるのも神です。イエスさまも、神の許しなしには何事も起こり得ないと言われました。困った時こそ神の名を呼び求めましょう。私たちは何か辛い試練にあうと、早くそこから抜け出したい、解放されたいと願い求めるものですが、まず今の状況を神が知らないはずがない、神は間違ったことをなさらない、忘れてはおられない…そのような信頼に立ちたいものです。すべてのことを、私たちを愛するゆえになさる方だからです。

ユダ王国の滅亡…

9月第三水曜祈祷会はⅡ歴代誌36章から。ヨシヤ王の死後、南ユダは滅びの最終段階に入り、4人の王が登場して幕を閉じます。どの王の時代もエジプトから、バビロンから攻撃を受け、国は弱体化していきました。それでも主は、たびたび使者を遣わして悔い改めを迫りますが、彼らは全く聞く耳を持たず、預言者らを蔑み笑いものにしました。こうして、ついに主の激しい憤りが燃え上がり、カルデア人の王ネブカドネツァルによって、若者も年寄りも殺され、神の宮は焼かれ、剣を逃れた者たちもバビロンへ捕らえ移されるという壊滅状態に陥ったのです。神の厳しい審判でした。でも、本書の最後には、エレミヤによる回復と希望の預言とペルシャの王キュロスによる解放宣言が記されていました。「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み…」主はご自身の計画をもって歴史を導いておられる、ゆえに主の裁きは真の回復の始まりでもあることを思いました。

取り組みの集大成…

教会のデボーションはⅡ歴代誌35章、南ユダ国最後の信仰の王ヨシヤに関する記述です。彼は8歳で王となり、16歳で主を求め、20歳で改革を開始し、31年間主の目にかなうことを行ったとあります。その中でも特筆されるのは、先週のヒゼキヤ王の場合もそうでしたが、過越のいけにえを献げて神への献身を示したことです。『過越』はイスラエルの民がエジプトの奴隷から主によって助け出されたことを記念する祭りです。「イスラエルでこのような過越のいけにえが献げられたことはなかった。」過越にかけるヨシヤ王の熱心は膨大な量のいけにえや祭司・レビ人への命令に表されていました。その後しばらくして、ヨシヤ王はエジプトの王との戦いで不慮の死を遂げていきます。これほどの改革を行った王が…なんともあっけない死に方に思いますが、「全ユダとエルサレムは、ヨシヤのために喪に服した。」という言葉に、彼の労苦も決して無駄ではなかったことを感じました。

三つ撚りの糸…

9月第二主日。アメリカ同時多発テロ事件から20年が過ぎました。今年8月末に最後の米軍機が現地を離れ、米史上最も長い戦争に終止符が打たれましたが、今もなお政治的混乱が続くアフガニスタンのために祈りたいと思います。今日の礼拝メッセージは伝道者の書4章からでした。権力者たちに虐げられている者たちの涙、神なき成功、神なき人生、神なき名声の空しさを覚えました。「二人は一人よりもまさっている。…一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」イソップ童話の『三本の棒』、毛利元就の『三本の矢』を思い出すところですが、自分と隣人、そして第三の糸に、イエス・キリストを見ることができるのはクリスチャンの格別な恵みです。また、午後からの役員会では緊急事態宣言再延長に伴い、教会も来会自粛期間を再延長することを決めました。今はただ感染者数の減少を祈りつつ、主の憐れみを求めたいものです。

今日はちょっと休憩…

4日間の研修会が終わりましたので、今日はちょっと休憩。秋の花がほしいなぁと思って、The Farmへ。この時期は春や夏と違って花の種類も限られていて、とりあえず…今日は見て回るだけで満足でした。秋と言えば『秋桜』ですが、種から準備していたのが、目を出して15㎝くらい伸びたところでぜんぶ枯れてしまいました。土が原因だったのか、暑さだったのか…わかりませんが、結局、つぼみをつけたものをいくつか買って植えることにしました。でも、教会で花を育てるのは、何より見て喜んでくださる方がいると思うからで…今の緊急事態宣言中は来会する方も少なく、寂しいものです。気を取り直して、狭い教会の畑を耕し、ジャガイモでも植えようかなと思っています。ある方が気にして『山下先生はワーカホリックじゃないですか…』と心配してくださったのですが、適当に休んでおります。お気遣いありがとうございます💦皆さまも季節の変わり目、ご自愛ください。

神の民の再建…

月曜日から同盟教団のオンラインでの補教師研修会が行われています。私も教職教育部員なので、若い先生方と一緒に9つの講演会に出席しました。同盟教団の牧師として知っておかなければならない事柄を、一つ一つ先輩の先生が経験も踏まえて教えてくださるのでかなり実践的です。対面のような深い交わりは持てませんが、家族で参加されている先生もいたので、オンラインならではの良さもありました。これから正教師試験にチャレンジする先生方のために祈らされました。さて、今日の水曜祈祷会はⅡ歴代誌31章から。ヒゼキヤは、祭司とレビ人を組分けして、主の律法に記されているとおりにいけにえを献げさせました。さらに、彼らが律法に専念するためにエルサレムに住む人々に献げものをするように命じたのです。いやいやながらではなく、喜んで献げる民の姿が目に浮かびます。ヒゼキヤの思いは民全体に浸透し、まさに神の民みんなで行う宗教改革となったのです。

エルサレムには大きな喜びが…

教会のデボーションはⅡ歴代誌30章になりました。29章からヒゼキヤが南ユダの王として即位し、神殿を修復し、レビ人を聖め、偶像を徹底的に除去する宗教改革を行ったことが記されています。しばらく信仰的に堕落した王さまが続きましたので、ヒゼキヤの登場はまさに希望の光です。ヒゼキヤはイスラエルとユダの全土に過越のいけにえを献げるように呼びかけました。「主に立ち返りなさい。そうすれば、主は…あなたがたのところに、帰って来てくださいます。」その頃、北イスラエルはアッシリヤの攻撃を受け、すでに首都サマリヤは陥落し、多くの民が連れ去られる中で、ヒゼキヤの呼びかけを物笑いにし、嘲る人々もいました。でも、こうした危機的状況だからこそ、神の救いを求めてエルサレムに集まり、大きな喜びをもって礼拝を献げる者たちもいたのです。「…彼らの祈りは、主の聖なる御住まいである天に届いた。」こんな喜びに溢れる礼拝を献げたいものです。

人の心に永遠を…

9月第一主日、雨も上がり青空が広がる一日。今日の礼拝メッセージは伝道者の書3章からでした。有名な箇所ですが、読めば読むほど…その深遠さに圧倒されるところで、一回のメッセージでは語り尽くせないことを感じました。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」神は創造の時から、人の心に永遠なる方を慕い求める思いを与えられました。自分の心が神に向けて造られたこと、また神に知られ、愛されていることを知ること、人生においてこれ以上の幸いはありません。伝道者の書、まだ三合目まで登り始めたばかりですが、読書百遍の気持ちで読んでいきたいと思います。今日も教会に来られた方は奉仕者も入れて10人ほどで、新しい方も来てくださって感謝でした。パラリンピックも閉会しました。選手の皆さま、本当にお疲れさまでした。

人の愚かさ…

9月最初の水曜祈祷会はオンラインで行いました。今日もライブでの解説はお休みさせていただいて、会堂で録画した映像を視ました。Ⅱ歴代誌24章はヨアシュ、25章はアマツヤ、26章はウジヤ王。この時代の王の特徴は、最初は主の目にかなうことを行っていたのに、後半に神から離れ、身を滅ぼしていくことです。読んでいて思わず『どうしてここで…』と思ってしまうほど、見事に偶像に心奪われ、預言者の声に耳を傾けず、神を侮り、自分勝手な行いに走り、主の御怒りを受けていきます。スケールは違いますが、私たちの信仰生活にも通じることかもしれません。初めのうちは謙遜にへりくだっても、ある程度、問題が解決すると神から目を離してしまう…自力でなんとかできると錯覚してしまう…。王たちの信仰の不甲斐なさが、どこか自分の姿と重なるからこそ余計ヤキモキするのかもしれません。王たちの問題点をしっかり心に留めて、私たちも兜を締め直したいものです。

イサクとリベカの出会い…

8月の旧約聖書を学ぶ会がありました。私事ですが、今日は2回目のワクチン接種があったため、予め録画したものを配信させていただきました。愛妻サラが召天し、老人となったアブラハム。後の気がかりは、まだ息子イサクの嫁が決まっていないことでした。そこでアブラハムは信頼できるしもべを呼び寄せて、息子の妻となる女性を見つけてきてほしいと命じました。しもべは祈りの内に具体的な主のお取り計らいを求めます。すると、彼が祈りが終わらないうちに、リベカという素晴らしい女性が目の前に現れたのです。この後リベカはしもべと一緒にイサクのもとに行くことを決心し、長旅に出発しました。夕暮れ近く、散歩から帰ってきたイサクが目を上げて見ると、ちょうど、らくだに乗ったリベカも目を上げて、二人が見つめ合うという感動的な出会いのシーンでした。「…イサクは、母の亡き後、慰めを得た。」アブラハムとサラの祈りはこうして聞き届けられたのです。

ファミリーコンサート2021…

8月第五主日、緊急事態宣言延長に伴い、教会もあらためて来会自粛となり、オンラインの礼拝となりました。伝道者2章から「万古不易の真理」というテーマで、イスラエルの最高の知恵者であり、栄華を極めたソロモンが、地位も名声も富もすべてを手に入れ、その結果はいかに。「すべては空しく、風を追うようなものだ。」つまり求めても、手に入れても、心は満たされなかったのです。むしろ、食べる、飲む、働く…こうした基本的な生活の中に満足を見出す、それもまた神の御手によることと受け取っていく、ここに人間の知恵があるというのが心に残りました。今日は午後からファミリーコンサートがありました。昨年はコロナ禍で中止でしたが、今年はオンラインでの開催。バイオリン、ビオラ、チェロ、ウクレレ、サックス、ピアノ、フルート、オーボエ、歌、鉄棒、証し、多くの方が出演してくださいました。私たちの教会らしいコンサートができたことを感謝します。

生存者数二百七十六人…

8月の第四水曜祈祷会がありました。二週間お休みをいただきましたので、久しぶりの祈祷会に少し緊張しました。使徒の働き27:27~パウロたちを乗せたローマ行きの船は暴風に襲われ、アドリア海を漂っていました。人々は二週間も何も食べずに暴風に翻弄されるままになっていましたが、パウロの「あなたがたは助かります」という言葉によって元気づけられ、食事をとりました。夜が明けたころ、近くに入江が見えてきましたが、二つの潮流に挟まれて船は座礁し、ついに船尾から壊れ始めていきます。もはや万事休す…でも、パウロの言葉を信頼した百人隊長の指示で、二百七十六人全員が無事に陸に上がることができたのです。ともにこの危機を経験したルカならではの臨場感にあふれる描写でした。どんなに人間的にはもうダメだ…と思うような状況に陥っても、たとえ沈みゆく船の中にあっても、まことの神を知る私たちの存在は決して小さくないことを思わされました。

いよいよローマへ…

教会のデボーションは使徒27章です。人々の不当な訴えによって総督や王の前で証しをしてきたパウロは、いよいよローマ皇帝ネロのもとに送られることになりました。当時の世界の首都ローマにおいて福音を証しすることは、パウロが長く切望していたことであり、世界宣教における神の計画が前進することでもありました。ただし、ローマへの道のりはなお遠く、険しいものでした。途中、船は向かい風にあおられ、さらには暴風に襲われ、難破の危機に陥りました。もはや人々の助かる望みも完全に絶たれようとしている中で…パウロは毅然としてこう言いました。「元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う人は一人もありません。」パウロのように、神の御心に従って歩んでいても、途中で思わぬ暴風に襲われることはあります。でも、「私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになる。」この揺るがない確信を、私たちも持っていたいものです。

前進への命令…

8月第四主日、今日は献堂4周年記念礼拝でした。私たちの教会がこの場所に移ってきて、もう丸4年が過ぎるのだな…と感慨深く思いました。今はみんなで集まってのお祝いはできませんが、この教会でいろいろな方と出会い、主にある交わりを持たせていただいたことを感謝します。今日の礼拝メッセージは玉井邦美師が申命記1:5-8からメッセージを取り次いでくださいました。ただ恵みを受けるだけの教会生活は危険であること、また、教会には託された使命があることについてチャレンジを受けました。「あなたがたは向きを変えて出発せよ。」コロナ禍にあって、教会の活動も何かと制約がありますが、あらためて目を上げて教会が進むべき方向を確認できたように思います。今日もまた、コロナの感染者数は日曜日としては過去最多を更新。明後日からはパラリンピックも始まります。まだまだ感染拡大に歯止めがかからない状況ですが、御心を求めていきたいと思います。

キャンプ終わりました…

今週は夏休みをいただいて、大学生のオンラインキャンプで奉仕させていただきました。本当に充実した、内容の濃い四日間でした。緊急事態宣言が発令される中でもこうしてzoomを通してキャンプの恵みを味わうことができたのは、実行委員をはじめスタッフ、現役生、卒業生、多くの方の祈りと支えがあってのことだったと思います。この場を借りてあらためて御礼申し上げます。ありがとうございました。どこか自然の中で、対面で、時間も気にせずできたら…と思った学生たちもいたと思いますが、今の情勢の中での最善だったのではないでしょうか。今回のテーマは『伝道』でしたが、グループリーダーから信仰の決心や信仰の原点に帰る青年たちがいたことを聞いて、主の御名をあがめました。彼らにはまた、明日から厳しい現実が待っていると思います。でも、キリストがともにおられ、一人ひとりに与えられた御言葉が支えと希望になりますようにお祈りしています。

神の奇跡…

オンラインキャンプ、三日目が終わりました。今回の奉仕を依頼された時は、コロナ禍の教会のことで頭が一杯で、お受けするかどうか思案しましたが、これまで教会の青年たちがどれだけお世話になってきたかを考えたら、地域教会の牧師として感謝を表すべきだと思わされました。実際、キャンプが始まってみると、配信に不手際があったり、妻が入院することになったり…いろいろな予期せぬことが起こりましたが、まっすぐに御言葉に向かおうとする青年たちの姿に励まされっぱなしの三日間でした。連日メッセージの後に、zoomの牧師室に青年たちが訪ねてきてくれて、質問や感想を分かち合ってくれましたが、まさに牧師冥利に尽きる時間でした。参加者77名、初参加10名。「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」キャンプは明日の派遣礼拝で終わりますが、コロナ禍の時代の青年たちを、祈りと御言葉をもって送り出したいと思います。

信仰がなくならないように…

箕面の青空が戻ってきました。でも、このところの長雨は日本各地に甚大な被害をもたらし、金曜日頃まで予断を許しません。また、もはや驚きもないですが、大阪の新型コロナの新規陽性者も2,296人という過去最多を更新。全国でも23,000人を超え、歯止めがかからない状況です。神がいるならなぜこんな状況を許しているんですか…今日もキャンプの分科会で質問がありました。きちんと答えられたかわかりませんが、確かなことは、神はこの状況をご存知であって、心を痛めておられるということです。夜の集会のメッセージも、ペテロたちがイエスさまを見捨てて逃げ出していくところからでした。イエスさまはシモンに「サタンがあなたがたをふるいにかけようとしている」と警告しました。それなのに…。でも、イエスさまがそんな彼のために「あなたの信仰がなくならないように祈りました」と言われたことを中心に話しました。ここに私たちへの慰めがあるからです。

深みに漕ぎ出し…

今日からキリスト者学生会のサマーキャンプが始まりました。Zoomなので、学生たちとゆっくり交わることはできませんが、画面越しにキャンプの雰囲気を味わうことができて感謝です。私は分科会と夜の集会でメッセージを担当します。今夜はペテロとイエスさまの出会いの場面から、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」を中心聖句に話しました。最後にカメラを切り替えるのを忘れていたことに気づきましたが…時すでに遅し。でも、何人かの方に『特に問題ありませんでしたよ』と優しく声をかけられ…とにかく一日目を終えてホッとしました。あと三日間、気を抜かずに奉仕を全うできるようにお祈り頂ければ幸いです。新型コロナによる緊急事態宣言はついに地域拡大と期間延長が正式に決まりました。また、西・東日本でも激しい雨が予想され、どこで土砂災害が起きてもおかしくない状況です。様々なことが最小限に抑えられるようにお祈りしています。

神から離れた人生…

8月第三主日は戦後76年目の終戦の日でした。先の大戦で亡くなられた方々を覚えて祈り、世界平和への思いを新たにしました。また、昨夜は西日本を中心に記録的な大雨が降り続き、各地に甚大な被害がありました。新型コロナの感染者数も一日2万人を突破する日が続いています。主よ、憐んでください…とただただ祈るばかりです。礼拝では伝道者の書1章からみことばを心に留めました。「空の空。伝道者は言う。空の空、すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」「空」とはもともと「息」を意味する言葉で、すぐに消えてしまう儚いものを表していました。神との関りのない人生はなんと儚く、空しいものだろうかというのです。それは当代随一の知恵者と言われ、経験豊富な伝道者の実感のこもった言葉でした。時代がどんなにうつり変わっても人間の本質は変わりません。今日の私たちにも、多くの気づきを与えてくれる書簡です。

千載一隅の好機…

台風一過でしたが、大事にしていた向日葵が倒れてたり、看板が飛んでしまっていたり…

CGNTVの撮影もあり、片付けと奉仕で慌ただしい一日でした。さて、教会のデボーションは使徒の働き21章から。聖霊に導かれたパウロは、いよいよエルサレムに到着しました。そこで早速、教会の指導者たちと会って神が異邦人の間でなさったことを報告し、ともに神をほめたたえたのですが、そのすぐ後でアジアから来たユダヤ人たちの扇動によって逮捕されてしまいました。なんとも痛々しい結果に…と思いきや、パウロは自分を「殺してしまえ」と叫ぶ民衆に向かって、立ち上がって弁明をしていったのです。その時、民衆は叫ぶのをやめて、パウロの話しに静かに聞き入ったとあります。この状況を千載一隅の機会に変えてしまうとは…。パウロの力強い証しにとても励まされました。私も来週はKGKのサマーキャンプ。オンラインですが、学生の方々に証しできる機会を感謝しています。

惜しまずにいられない…

8月第二主日はヨナ書4章から。ヨナの宣教によって、ニネベの人々がみな神を信じ、悔い改めに導かれました。ところが、これほど素晴らしいことが起こっているのに、ヨナは不愉快で神に怒っていたのです。自分の思うように事が進まず、逆に最も懸念していたことが成就してしまい、「私は生きているより死んだ方がましです」とまで言い出す有り様。主はそんなヨナの心に問いかけながら、静かに悔い改めを迫ります。そして、一夜で生えて一夜で滅びた唐胡麻を惜しむヨナに、ご自身の御心を示されたのです。「ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。」情け深くあわれみ深い主の愛があふれ出るような語りかけが心に響きました。今日は、緊急事態宣言発令に伴い、多くの方が来会を自粛され、オンラインで礼拝を献げられました。世界中で賛否両論あった東京オリンピックも今日が閉会式。多くの感動を与えてくれた選手の方々に感謝します。

走るべき道のりを走る…

使徒の働き20章から。パウロは約三年のエペソの宣教に一応のピリオドをを打って、御霊に示され遠くローマを目指すことを決意します。そこからマケドニヤに渡り、ギリシャ、トロアスの諸教会を再訪し、多くのことばをもって弟子たちを励ましました。中でも、ミレトスで教会の長老たちを呼び寄せての決別説教は圧巻です。「そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません」「鎖と苦しみが私を待っている」「けれども、私が走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。」パウロの宣教は、まさに命がけでした。その伝道者としての使命感にただただ圧倒されるばかりです。今もコロナ禍の状況が深刻化する中で、不要不急ではない礼拝をどのように献げるのがベストなのか…。一人一人が祈りのうちに御心を示していただき、主にあって平安があるように祈っています。

五十にして…

五十にして天命を知る…。現実はなかなか厳しいものですが、自分も50歳になりました。主の憐れみと大勢の方々の祈りと励ましに支えられて、なんとか今も牧師という尊い働きをさせていただけることを感謝いたします。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが…」今から25年前、洗礼を受けた時のお祝いに、教会のある方から三浦綾子さんの『ちいろば先生物語』の本をいただいて初めて榎本保郎牧師のことを知りました。こんな生き方があるんだ…と胸をワクワクさせながら読んだのを思い出します。その榎本先生は、さまざまな国で福音を宣べ伝え、52歳という若さで天に召されました。お会いしたことはありませんが、尊敬する先生の年齢に近づいて、改めてその偉大さを感じます。足元にも及ばないことは重々承知しながら、私は私なりに、少しでもイエスさまをお乗せするのに間に合う者にならせていただきたいと思わされます。

聖霊を受けましたか…

新型コロナの新規感染者数が増え続ける中、大阪府をはじめ6都府県で緊急事態宣言が発令されました。4度目の緊急事態宣言をどう受け止めるか…人によって温度差がありそうです。教会としては改めてオンライン礼拝を推奨していく方針ですが、この時期、一人でも多くの方が教会に目を向けてくださって、福音にふれていただければと願うばかりです。教会のデボーションは使徒19章から。パウロが第3次宣教旅行でエペソを訪問した際に、弟子たちに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」と答えたとあります。今日でもありそうな会話です。確かなことは、私たちがイエスを主と告白することができるなら、その人の心には聖霊がおられます。この聖霊が私たちの信仰生活を導いてくださっているのです。

思い直される主…

8月第一主日、礼拝メッセージはヨナ書3章から。主の御顔を避けて逃げ出したヨナは、荒れ狂う海に投げ入れられ、絶望の淵で大魚に飲み込まれ、そこで主への悔い改めに導かれました。主はそんなヨナに再び「立ってあの大きな都ニネベに行き…」と前と同じ使命を与えられたのです。ペテロもそうでしたが、失敗から立ち直った者が、改めて遣わされていく姿に感動します。3章は何といってもニネベの人々がひたむきに悔い改める姿が印象的です。神はそんな人々の姿をご覧になってわざわいを下すのを思い直されました。礼拝後に数人の方と『神は一度決められたことを思い直されるのか…』について話しましたが、まさに主の御心がここに示されています。それは、裁きよりも、救いであることです。「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」午後からの役員会では、緊急事態宣言発令後の教会の対応について話し合いました。結果については、また後日お知らいたします。

箕面災害支援ネットワーク会議…

新型コロナの新規感染者数は東京で過去最多の4,058人、大阪も再び1,000人超えとなりました。この数字だけでは判断できない面もあると思いますが、やはりより一層の注意が必要であることは間違いありません。明日の礼拝は感染対策を講じた上で通常の三部制で行いますが、2日以降のことは今後の社会状況等を鑑みて判断することになります。今日は午後から第1回箕面災害支援ネットワーク会議に出席しました。社協が中心となって、災害協力隊、青年会議所、消防団、ボランティアグループ、キューズモールなど、さまざまな団体の責任者が来られて、これまでの経験や情報を共有し、とても有意義な会議でした。こうした集まりにこれだけの人たちが集まる箕面市は頼もしいです。災害は起きないことに越したことはありませんが、地震や台風などの自然災害がこれだけ続く時代ですから、いざという時のために、教会も地域に役立つネットワークを作っていけたらと思います。

知られていない神に…

オリンピックの熱戦が続く中、一昨日あたりから国内の新規感染者数が1万人を超えるようになりました。感染力の高いデルタ株の猛威です。これを受けて、東京に続き、埼玉、神奈川、千葉、大阪にも緊急事態宣言が発出されることが決まりました。菅総理の会見ではワクチン接種の効果と人流の減少傾向が強調されていましたが、国民に向けての具体的な行動指針というものは明示されなかったように感じました。教会としても、今後の礼拝や集会をどうするか…役員会を中心に難しい判断が迫られています。教会のデボーションは使徒の働き17:16から、パウロのアテネ宣教の記述です。当時アテネには3000を超える宗教施設・礼拝所があり、さらに「知られていない神に」と刻まれた祭壇までありました。パウロは、そうした人々の宗教心を認めつつ、天地を造られた神を証ししたのです。私も今日は箕面市の災害支援ネットワークの会議に出席します。よき証しになれば感謝です。

ピリピ伝道(一)リディア…

7月最後の水曜祈祷会は使徒の働き16章から。パウロの第二次宣教旅行はここまで辛苦をともにしてきたバルナバとの意見の相違から、別行動をとる形で始まりました。二人とも優れた信仰者なのになぜ…と思うところですが、これよって二つの宣教チームが誕生し、宣教の拡大と次世代の育成という二倍の祝福につながるのです。パウロはシラスとともにアジアの教会を訪問した後、聖霊に導かれてヨーロッパへと渡っていき、そこでは紫布の商人リディアとその家族、若い女奴隷、さらには牢獄の看守やその家族など…次々と救いにあずかっていく者たちの姿が描かれています。もちろん、パウロたちに反対する者たちもいて、厳しい迫害もありました。でも、一人の魂が救われるために、神がすべてを導いておられることを思う時、私たちが今、クリスチャンとして歩んでいることはそれだけで意義深いことだと思わされます。とにかくここを出発点に、今日を歩んで行きましょう。

天の故郷にあこがれて…

7月の旧約聖書を学ぶ会がありました。創世記23章、アブラハムが妻サラのために墓地を購入するところから。アブラハム75歳、サラ65歳に、「わたしの示す地へ行きなさい」という神の命令がありました。行き先もわからず信仰をもって歩んだアブラハムの傍らにはいつも妻サラの存在がありました。喜びも悲しみもともに分かち合ってきた配偶者の死に、アブラハムは「悼み悲しみ、泣いた」とあります。信仰者であってもこの地上の別れは辛いものです。でも、泣いてばかりもいられません。アブラハムは立ち上がって、墓地を購入し、サラを葬りました。そして、やがて自分も子孫もその墓に納められていくのです。信仰者にとって『墓』は、単に人生のゴールではなく、同じ約束を相続する者として生き、天の故郷をあこがれつつ、この世を旅立った記念碑。私たちもみな、神の備えられた天へと引き上げられ、そこで再会し、主にまみえて礼拝をささげる続きがあるのです。

救いは主のもの…

7月第四主日、幾分涼しさを感じる朝でした。礼拝準備をしている時に、ある牧師の召天の知らせがありました。65歳、自宅での突然死とのこと…。詳しいことはわかりませんが、後輩に対しても面倒見のいい優しい先生でした。お世話になった先生のことを思い巡らしながら、今日の説教奉仕をさせていただきました。ヨナ書2章は、ヨナの感謝の祈りが綴られています。主の御顔を避けて、主の命令とは反対の町に向かったヨナでしたが、途中で激しい暴風に遭い、荒れ狂う海の中に投げ入れられてしまいました。息もできず海底に沈みゆく中で、もはや死を覚悟するしかなかったでしょう。しかし主は、そんな彼のために大魚を備えられ、助けられたのです。ヨナは大魚の腹の中で主を思い出し、主との関係を回復していきました。苦難に遭えば、誰もが主を思い出すものでもありません。思い出すのも、主の恵み。主は私たちのためにも救いの扉を備えて待っていてくださるのです。

異邦人を悩ませない…

57年ぶりとなる東京オリンピックが開会式を行いました。新型コロナの影響で史上初の一年延期、しかも緊急事態宣言が発令される中での開幕です。華やかな式典に胸躍らせる方もいれば、断固反対する方がいるのも確か。一番気の毒なのは間に立たされる選手の方々でしょう。大会関係者も命を削るような17日間だと思いますが…世界中の思いが一つとなるように祈ります。使徒の働き15章は、異邦人の救いに関して激しい論争が起こったエルサレム会議の出来事。今まで正しいと思ってきたことを捨てて新しい現実を受け入れるのはなかなか容易なことではありません。人の罪の性質は他者を悪者に仕立て自らを正しいと主張しやすいものです。サタンもそこにすかさず楔を打ち込んで、対立や分派を起こさせます。でも、この会議では聖霊が一人ひとりに働いて見事な解決に至りました。正論をかざすのも大事ですが、相手の立場に立って考えることを忘れないでいたいものです。

恵みによる救い…

人が多く集まれば、それだけ性格や考え方に違いがあるものです。直前までもつれにもつれた東京五輪も今日が開会式。すでにソフトボール、サッカーなど、酷暑の中でも懸命にプレーする選手たちの姿に大いに励まされます。いずれの国の方もみな、神が創造され、いのちを与えられた尊い存在。日本の面子より、『平和の祭典』と呼ぶにふさわしい大会になってほしいものです。教会のデボーションは使徒の働き15章から。異邦人の回心を喜ぶパウロとバルナバと、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべき」というエルサレムの長老たちの間で協議が行われました。信仰か、形式か…という議論に、ペテロが大事な一言を。「…主イエスの恵みによって救われる」去年からのコロナ禍で社会は大きく変わり、教会の活動も大きく変わってしまいました。だからこそ本質を見誤らず、ただ過去を懐かしむだけなく、新しい未来に向かって進んでいきたいです。

癒されるのにふさわしい信仰…

今日の水曜祈祷会は使徒の働き14章から。パウロの第一次宣教旅行は、行く先々で大勢の人々が信じると同時に、信じようとしない者たちによる迫害が起きました。パウロたちの宣教がいかに影響力があったのかが伝わってきます。そんな彼らがリステラで出会った足の不自由な人の出来事は心に残りました。彼は生まれつき足が動かず、これまで一度も歩いたことがありませんでした。彼はパウロたちの話しに真剣に耳を傾け、パウロたちも彼が癒されるにふさわしい信仰があるのを見たので「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と命じると、彼は飛び上がって歩き出したというのです。彼のイエスを信じる信仰が彼を癒やしたのです。今の時代なら、通りすがりの誰かがその光景を動画に撮ってYoutubeにアップしたら、どれだけの人が見て信じるだろう…と不埒な考えが頭をよぎりましたが、やはり奇跡も大事ですが、みことばを信じる人が起こされることの大切さを思いました。

苦難に耐える…

7月第三主日はハレファ・スルヤ師をお迎えして歓迎礼拝をささげました。「望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。」の御言葉からメッセージをしてくださいました。過去・現在・未来にある望みを覚えつつ、今ある苦難に耐え、1~2度ではなく、絶えず祈り続けていくことの大切さを語ってくださいました。個人的には、苦難に耐える召し、苦難に耐えることで奉仕をしている…というのが心に残りました。メッセージの中で前ジャカルタの知事のアホック氏の話しがありましたが、詳しいことがわかってよかったです。数年前、留学生のある学生が知事選のために祈ってくださいと話していたのを思い出しました。世界一のイスラム教国であるインドネシアでクリスチャンが役職に就くことの難しさ、大切さを考えさせられました。苦難は、忍耐を…品性を…希望を生み出す。この希望は神の愛が注がれているゆえに失望に終わることはないという約束を感謝します。

神はみこころのままに…

長い梅雨が明けて、猛烈な暑さがやってきました。日中は34℃まで上がったそうですが、これからさらに暑さは増してくるでしょう。コロナの感染も心配ですが、熱中症にも気をつけなければならない時期です。さて、教会のデボーションは使徒の働き13章になりました。アンティオキア教会から世界初の海外宣教師が派遣されます。このビジョンは彼らが教会で主に礼拝をささげている中で与えられました。そして、聖霊はこのために相応しい人物たちを聖別して送り出されたのです。神は今日でも礼拝の中で私たちに語られます。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」神は今、私たちに何を語ろうとしておられるのでしょうか。明日は久しぶりの歓迎礼拝です。講師のハレファ・スルヤ師は学位、聖書知識はもちろん、謙遜で温かみのある先生です。ぜひご家族一緒に大きな期待をもって、主に礼拝をささげましょう。

春期コース終了…

水曜祈祷会はⅡ歴代誌19章から。アハブとの共闘で出陣したヨシャファテは九死に一生を得てエルサレムに帰還すると、有害無益な北王国の訪問をやめて、内政に専念しました。偶像の除去、律法の教育、主への恐れをもって歩むという王の思いが国中に浸透していきます。そんな平穏な南ユダに、モアブ人とアンモン人らの連合国が攻めてきました。この国家危急の時にヨシャファテ王は恐れを抱きつつも、いつものごとく主の宮に来て祈りを捧げました。「私たちは苦難の中からあなたに呼ばわります。あなたは聞いて、お救いくださいます。」神はその祈りに応えて「主の救いを見よ」と約束されました。まさにこれは神の戦い、信仰による勝利でした。さて、ハートフル英会話春期コースも今日が最後のクラス。朝から30℃近くまで上がって、午後は梅雨明け前の不安定な空から、時折バケツをひっくり返したような雨が…。いざという時のために、日頃からの備えが大切です。

久しぶりの再会…

東京は4度目となる緊急事態宣言が発令されました。本当に飲食店や観光業をはじめ多くの事業主が悲鳴を上げていることでしょう。2021年上半期の倒産件数も過去50年間ではバブル末期に次ぐ二番目の低水準だったそうです。父と自営業を営んでいた頃を思い出します。また、新型コロナの感染者数も東京が830人、大阪も225人といずれも前週の火曜日の数値を大きく上回ってきていて、第五波は五輪の真っ最中に来るとも言われています。これで大阪も緊急事態宣言が発令されてしまったら、また教会でも来会自粛をお願いしなければならなくなることも考えられます。このタイミングになりましたが、昨年9月に結婚で別の教会に移っていった青年と奥さまに久しぶりに再会しました。元気そうで何より。初々しい生活ぶりを見せてもらいながら、今後に考えているビジョンを聞いて頼もしさを感じました。大きな決断をするのが難しい時期ですが、主の最善を心より祈っています。

ヨシャファテの過ち…

Ⅱ歴代誌18章から。晩年は主から離れてしまったアサ王に代わって、息子ヨシャファテが南ユダの王位を継承しました。彼については多くの章を使って詳しくその治世が記されています。その生涯の大半は信仰深い、賢明な王の姿として描かれているのですが、やはり分岐点となったのは北イスラエルのアハブ王と姻戚関係を結んだことです。これによってヨシャファテは続く世代に大きな災厄を呼び込んでしまうことになります。まさに取り返しのつかない大きな罪悪をダビデの家に、そしてユダの国にもたらしていくのです。一つの判断、選択の誤りから、その後の人生、歴史を大きく変えてしまうことがわかります。人生のターニングポイントでどのような選択をするか…。「ヨシャファテは…言った。まず、主のことばを伺ってください。』」信仰者の道も、晴れの日もあれば、雨の日、曇りの日もあります。それでもまず第一に主のことばを求める者でありたいものです。

主の御顔を避けて…

7月第二主日、日中は30℃を越える夏日となりました。今日から礼拝ではヨナ書を講解していきます。「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。」主の召命がヨナに下りました。でも、ヨナはそれに背いて、ニネベとは正反対のタルシシュ行きの船に飛び乗ります。ニネベと言えばイスラエルにとっては悪しき敵国。憐れみ深い神がこの国を顧みるために自分を遣わすのだと思うと、ヨナとしてはどうしても従う気になれなかったのでしょう。そんな主の御顔を避けて、できるだけ遠くへ逃れようとするヨナの姿は、今日の私たちの姿とどこか重なってきます。そこがこの短い預言書が多くの方に愛される理由なのかもしれません。礼拝が終わって一人の女の子が質問に来てくれました。『どうして心の貧しい人がさいわいなんですか』私なりに説明すると、笑顔を見せてくれたので感謝でした。午後からは大学生からパソコンの操作を学んで…充実した主の日でした。

あなたが主を求めるなら…

東京五輪開幕まであと二週間、東京都で4度目となる緊急事態宣言の発出が決まり、さらに首都圏一律で無観客が決定しました。あちこちで落胆の声が上がっていることでしょう。また、これによる経済損失も計り知れません。熱海の土砂災害の復旧を祈りながら、今日も各地で大雨警報が発令され、気分も暗くなります。こんな時は日々のデボーションで励ましを…と思いますが。Ⅱ歴代誌14章から、南ユダのレハブアムの後を継いだアビヤ王、その後を継いだアサ王と、それぞれに目を留める出来事もあり、比較的落ち着いた時期を迎えましたが、その最後には主へのつまずきが記されていました。「あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自分を示してくださいます。」自分が願うような励ましではなくても、神が歴代誌を通して告げられるメッセージを素直に受けとっていきたいと思います。

主は正しい…

熱海で起きた土石流は4日目を迎え、死者7名、安否不明者27名となりました。もはや毎年のようにどこかで豪雨災害が起きています。安否不明者の確認と復旧が少しでも早く進みますようにお祈りしています。昨日もハンガーゼロの災害セミナーに参加しましたが、教会の責任と宣教について考えました。あらためて箕面市のハザードマップを見直すと、教会も危険度1の地域にあります。発災時に何ができるのか…地域にどんな貢献ができるのか…具体的な備えをしておかなくてはなりません。豪雨災害だけではなく、南海トラフは今後20年以内に70~80%。首都直下型地震も今後30年で70%、富士山噴火も連動して発生することなどが予想されています。神の愛と救いを地域に宣べ伝える教会として、有事の際こそその行動がとれなければ意味がありません。平時の時だけ主を賛美するのでなく、危急の時にも「主は正しい」とへりくだって証しできる者でありたいと思います。

レハブアムの治世…

教会のデボーションはⅡ歴代誌11章から。ソロモン王が死んで息子レハブアムが王位を継承しました。でも、彼の時代に王国は南北に分断し、乱世の時代を迎えていきます。それにしてもレハブアム王のわがままぶりは目に余るものでした。民の窮状に目を留めず、父ソロモンをも軽くあしらい、自分が偉大な存在であるかのように振る舞います。「三年の間、彼らがダビデとソロモンの道に歩んだからである。」かろうじて三年間は、神の人シェマヤの声に従って、王権を回復させていきますが、やがて主の目に悪であることを行い、主の懲らしめをうけることになるのです。『金持ち三代』とも言いますが、祖父ダビデの信仰遺産は孫のレハブアムには受け継がれませんでした。困難の中にいる時よりも、繁栄の中にいる時の方が信仰的には危険も多いということなのでしょうか。自分が神の戒めに逆らうだけでなく、子どもたちにも逆らわせた責任は重いと言わざるを得ません。

ただ、恵みによって

7月第一主日は梅雨の晴れ間の一日でした。コロサイ人への手紙もついに終わりのあいさつから。改めて思うのは、この時のパウロはローマの牢獄に捕らえられ、裁判を待っている状態だったことです。でも、この手紙にはそんな苦難の中の嘆き節は一切見られず、恵みに始まり、恵みをもって閉じられています。パウロは代筆者を介して、コロサイの教会を思いながら一つ一つの言葉を丹念に選んで手紙を記していったのでしょう。そして最後に記したのは自分と一緒にいる同労者たちの消息でした。ティキコ、オネシモ、アリスタルコ、マルコ、ユストと呼ばれるイエス、エパフラス、ルカ、デマス…ともすると何気なく読み飛ばしてしまいそうな名前の羅列ですが、その中にもパウロの伝えたいメッセージが込められていました。私たちも一人ひとり、至らぬ点や不甲斐ないところもありますが、主にあって新しくされ、互いに助け合い、祈り合う交わりであることを感謝いたします。

2021年の折り返し…

早いもので2021年も折り返しを迎え、今日もハートフル英会話クラスから楽しそうな笑い声が聞こえてきました。コロナ禍も少しずつ変化がありますが、まだまだ余談の許さない状況が続きます。少し前の大阪のように、東京の感染者も増えつつあり、23日からのオリンピック開催時には1000人台になることが予想されています。厳しい現実が続きますが、下を向かず、目を高く上げて歩んでいきたいものです。教会のデボーションはⅡ歴代誌8章から。ソロモンは神殿建設という大事業を成し遂げ、王国に平穏をもたらしました。「安息日ごと…日ごとの定めにしたがって献げた」壮麗な神殿において心からの礼拝を献げる日々が続いたことでしょう。でも、そんなソロモンもやがて主の道から反れて、彼の死後、王国は南北に分断、霊的堕落の一途を辿っていきます。勝って兜の尾を閉めよ、とはよく言ったものです。「目を覚ましていなさい」という主の声が聞こえてくるようです。

赦された者の幸い…

7月第二主日、少し湿度は高めでしたが、穏やかな週の始まりを感謝します。今日の礼拝では昨年受洗された兄弟(教会ではお互いを兄弟姉妹と呼びます)が特別賛美をしてくださいました。お話しは苦手なので…ということでしたが、賛美を通して十分に主の恵みを証ししてくださいました。礼拝メッセージは詩篇32篇から。イスラエル二代目王のダビデには大きな過ちを犯した過去がありました。自分の部下であるウリヤの妻バテ・シェバと関係を持ち、さらに彼女の妊娠がわかるとウリヤを戦死に見せかけて殺してしまったのです。普通の倫理観からすれば到底許されない言語道断のことですが、今から3000年前のイスラエル王のことですから想像の域を出ません。ただ…信仰者であるダビデは当然律法が姦淫と殺人についてどう教えているかを知っていたはずですから弁解の余地なしだったでしょう。預言者ナタンに糾弾されて、赦されるはずがない罪を抱えてもがき苦しだ様子が描写されています。そして、ついに罪を告白した時、神の赦しを体験していったのです。「幸いなことよ。その背きを赦され 罪をおおわれた人は。」詳しくは礼拝メッセージをご視聴ください。

ひまわりの日…

夏の代表的な花と言えば、ひまわりですが、明日は『ひまわりの日』です。1977年7月14日に日本初の静止気象衛星『ひまわり1号』が打ち上げられたことに由来します。ちなみに『ひまわり』という名前は、植物のひまわりが常に太陽の方向を向いているように、気象衛星も常に地球を見続けていることから名づけられたそうです。ひまわりの花言葉の一つに『あなただけを見つめる』というのがありますが、私たちの信仰もかくありたいと思いました。


敷居はありません…

教会は敷居が高いとある方が仰っていましたが、本来は『不義理や面目のないことがあって、その人の家へ行きにくい』という意味の言葉。お愛想で仰っられたのかもしれませんが、お上品で敬虔な信者が集う所と思っている方は少ないのではないでしょうか。クリスチャンになる前の自分は、一度入ったら強引に勧誘されてただでは帰れない所…と思っていましたが、それも昔のことでしょう。そもそも教会はバリアフリーですので、敷居もありません💦


ダビデは難を逃れ…

7月第二水曜祈祷会、曇りのち雨の湿度の高い一日でした。デボーションはⅠサムエル記19章から。連戦連勝で一躍人々の脚光を浴びるダビデを、サウルはついに殺害すると公に宣言しました。最初は小さな嫉妬心から「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」という人々の声を聞いて憎しみが湧き、やがて殺意へと変わっていったのです。理解に苦しむのはダビデでした。どうしてサウルが自分の命を狙うのか…わからない。そこへヨナタンが間に立ち、ダビデを弁護し、サウルを説得します。サウルもそれを聞いて一時は殺意を鎮めますが、すぐに心の中で抑えきれなくなり、ダビデ暗殺計画を実行したのです。でも、そこでも妻ミカルが機転を働かせて、ダビデの命を救いました。ダビデはサムエルのもとに逃げ込んで、これまでのことを全部打ち明けました。サムエルは自分が油を注いだダビデのために祈ったでしょう。すると、神の霊がサウルたちの追手を恍惚状態にして、ダビデは難を逃れ、暗殺計画は失敗に終わったのです。まるでスパイ映画を見ているような間一髪の大脱出劇でした。私たちも自分では気づかいところで神が守ってくださっていることを覚えました。

神の啓示を心に留めて…

7月第一主日、まだ梅雨も明けていないのですが、日中は35度を超える酷暑となりました。メッセージは詩篇19篇から。近代科学の父ガリレオ・ガリレイは「神は人間に向けて二つの書物を書かれた。一つは聖書、もう一つは自然である。」と言ったそうです。自然界において神は自己を啓示しておられるというのです。「天は神に栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」神の作品の展示会のようなこの世界にいながら、多くの人は神の存在を否定する。あるいは、都合のいい時だけ呼び出して願い事をする。…なんとも、人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは…の詩篇も聞こえてきます。「主のおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主の証しは確かで、浅はかな者を賢くする。」詩人は律法を重荷や束縛としてではなく、神との正しい関係を教えるもの、自らを悔い改めに至らせるものとして受けとめています。それらは金や蜜よりも慕わしい、それを守れば大きな報いがあるというのです。神の前に悔いた心、神を信頼する素直な心をもって、はばからずに、神を主と呼び、わが岩、わが贖い主と告白できるのはなんと幸いなことでしょう。

ダビデとゴリヤテ…

Ⅰサムエル記17章から。有名なダビデとゴリヤテの話しです。ゴリヤテは背丈が3m、完全武装の巨人。対するダビデは羊飼いの少年。戦う前から勝敗は決まっているようなものでした。しかし、主への信頼だけを武器に戦いを挑んだダビデは物の見事にゴリヤテを打ち倒したのです。まさに大番狂わせ、小よく大を制す。いつ読んでもダビデとゴリヤテの物語は私たちにチャレンジする勇気を与えてくれます。


由来は聖書から…

ハートフル英会話では隔週でチャペルタイムがあります。something like scales from Saul's eyes クリスチャンの方には自明の理ですが、目から鱗の由来が聖書だったのをご存知でしょうか(Acts9:18)。熱心なユダヤ教徒だったサウルは、イエスさまと出会ってキリスト者に変えられていきました。前例主義から解放され、新しい事に目が開かれるのは素晴らしいことです。The words of the Bible will change you.


ほどほどの信仰の悲劇…

7月第一水曜祈祷会、今日も梅雨曇りの一日でした。今日のデボーションは聖書の中でも理解に苦しむ箇所の一つ、Ⅰサムエル記15章から。サムエルはイスラエルの初代王サウルに言いました。「今、行ってアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい。容赦してはならない。」サウルにしてみれば、なぜ…と言い返したくなるところですが、彼はしくしくと戦いの準備をし、谷で待ち伏せして見事アマレク人を打ち破りました。そして、敵国の王を生け捕りにし、肥えた羊や牛の最も良いものを惜しみ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶したのです。サウルはアマレク人との戦いに勝利すればいいのであって、最良の羊や牛まで聖絶することはないと思ったようです。つまり、自分の考えを優先して神の命令をほどほどに割り引いて従ったのです。主のことばがサムエルに臨みます。「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。」神の失望と落胆がいかに大きいかを表す表現です。サムエルに悔い改めを迫られても、全く悪びれる様子もないサウルの姿は、どこか人間の本質を表しているようにも思います。神、、熱くも冷たくもない、生ぬるい信仰を嫌われるのです。

人生で最も大切なこと…

6月第五主日、朝から梅雨らしい小雨の降る湿度の高い一日となりました。礼拝メッセージは伝道者の書12章から。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」それは若者だけに向けた言葉ではなく、老いも若きも今日が一番若い日であるゆえに、今日あなたの創造者を覚えよという勧めです。だれもが年を取り、体も弱り、やがて死の日が訪れる…そうなる前に人生の大切な決断を先延ばしにしてならないというのです。ソロモンはこの伝道者の書を記すのに、思索し、探求し、まとめたとありますから、彼が心血を注いだことがわかります。それでも「空の空。伝道者は言う。」から始まる本書は当時の人でも理解するのは大変だったかもしれません。でも、読めば読むほどに神の奥深いメッセージが表されていくような不思議な書物でした。礼拝後、ソロモンについて、モーセやダビデとは違って信仰者として決して立派な人物ではなかったのでは…という声もありましたが、そういう完ぺキではない人をも用いられる神さまのご計画を思いました。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ、神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

聖ペテロと聖パウロの日…

今日はカトリック教会暦では聖ペテロと聖パウロの祝日とのことです。ペテロとパウロが殉教した正確な日はわかっていませんが、キリスト教史において重要な役割を果した二人であることに間違いはありません。私自身は、もともとは漁師で、無学な普通の人と言われたペテロに共感を覚えますが、厳格な教育を受け、熱心なユダヤ教徒だったパウロの回心の証しにも感銘を受けます。タイプの違う二人ですが、天国から今の時代をどう見ているのでしょう。


私の証人は主である…

デボーションはⅠサムエル記12章から。私の証人は主である…これほど力強い言葉はありません。私は人生で最初に出会ったクリスチャンの方を泥棒だと思っていました。その人が毎日バイト先のレジから500円を盗んでいると聞いたからです。私はある時『よくないことだよ』と伝えましたが、彼女は何も弁解しませんでした。しばらくして彼女が何も盗んでいなかったことがわかりました。私は彼女に謝りながら、クリスチャンってすごいと思ったのです。


新しい人に変えられて…

6月第四水曜祈祷会、強い日差しもなく、曇り空で過ごしやすい一日でした。デボーションはⅠサムエル記10章から。民の願いに応える形で、主はイスラエルに王を立てることを承認されました。そこでスポットが当てられるのがキシュのひとり息子サウルです。「イスラエルの中で彼より美しい者はいなかった」とあるので、立派な風貌だったと思われます。サウルは雌ろばを捜している中でサムエルと出会い、促されるままにイスラエルの君主として油を注がれました。予期せぬ出来事にさぞかし驚いたでしょう。まだ、この頃のサウルは「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか」と言ったり、叔父さんに王位のことを話さなかったり、荷物の間に隠れていたり…とどこか頼りない、自信なさげな姿が見られます。まさにサウルは彼自身の能力ではなく、神に見出され、新しい心を与えられて王となったのでした。ですから、彼に必要だったのは、自分を選び、自分に油を注ぎ、新しい心を与えて王として立ててくださった神さまから目を離さないことだったのです。サウルの選びから、私たちの選びについても、大切なことを教えられました。

不確かな人生を生きる…

6月第四主日、今日は梅雨らしい湿度の高い一日でした。礼拝メッセージは伝道者の書11章から。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」有名な御言葉ですが、その意味を理解している人は少ないかもしれません。その一つの解釈はソロモンの海上貿易が背景にあると考えます。行く手に何があろうと、船に荷を積んで、大胆に漕ぎ出していかなくては、利益を得られません。また、風を警戒している人は種を蒔かない、雨雲を見ている人は刈り入れをしない。時を逸し、まさに蒔かない種は生えません。いずれも、心配ごとばかり見ていないで、結果は主に委ねて事を行う大切さを教えています。「朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。…若い日にあなたの心を喜ばせよ。」もちろん、何事も思慮深く、祈り心をもって事を行え。急ぎ足の者はつまずくともありますので、アクセルとブレーキを間違えないようにしたいものです。でも、大事なことは、この何が起こるかわからない不確かな時代にあって、何を人生の羅針盤とするかということでしょう。聖書は、私たちを幸いな人生へと導く唯一の神のことばです。

人はこれから起こることを…

箕面川の蛍が見頃を迎えました。昨夜の雨で水量の増した川の上を、蛍の群れが幻想的にゆらゆらと飛んでいました。やっと梅雨らしい季節になってきたと思えば、今度は各地の災害が心配です。「人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることを…」何もかも不確かな時代だからこそ、人には人生の確かな羅針盤が必要ではないでしょうか。明日の日曜日、お近くの教会にお出かけください。


いなくなった一匹の羊…

梅雨を前に、もうプランターの向日葵が咲き始めました。今日のチャペルタイムでは、レイチェル先生が聖書から「いなくなった一匹の羊」の話しをしてくださいました。教会のディボーションはⅠサムエル記5章から。ペリシテ人はイスラエルを破って、神の箱を奪っていきましたが、この後が大変でした。この先について詳しく学びたい方は、こちらでも話していますので、宜しければお聞きください。


主のことばを認める…

Ⅰサムエル記3章から。祭司エリのもとで主に仕えていた少年サムエルに、主の語りかけがありました。サムエルは最初それが誰の声かわかりませんでしたが、エリの助言でわかりました。しかもその最初の預言は、エリの家の裁きについてでした。預言者の使命は、神の言葉をそのまま人々に語ることです。エリの「その方は主だ」という言葉が心に残りました。主の前に心砕かれた者でありたいものです。


その名をサムエルと呼んだ…

教会のデボーションはⅠサムエル記に入りました。1章はハンナの祈りから始まります。「このはしためを忘れず、男の子を下さるなら…」主は彼女を心に留められ、翌年男の子を与えられました。ハンナはその子をサムエルと呼び、「この子を主におゆだねいたします」と主に献げたのです。2章はそんな彼女の賛美が記されています。神は私たちの祈りを聞いていてくださる方であるとともに、ご自身の計画を確実に進めていかれる方であることを思いました。


神はすでに喜んでおられる…

6月第三主日、今日も30度を超える蒸し暑い中でしたが、父の日を覚える賛美礼拝を献げました。礼拝メッセージは伝道者の書9章から。善人も悪人もすべての人に同じ結末としての死が臨むこと、でも、生きている者には希望があること、それゆえ神はすでにあなたのわざを喜んでおられることを心に留めました。「空の空」で始まる伝道者の書は、全般的に虚無的・懐疑的な内容で記されています。信仰もって読まなければ、全く意味を読み違えてしまう書物です。ノーベル賞作家のヘミングウェイをはじめ、文豪ゲーテ、名文筆家ルナン、作曲家のブラームスなど多くの文化人が本書から影響を受け、中でも宗教改革者マルティン・ルターは本書を『慰めの書』と呼んだとのこと。ルターが見出した『慰め』とは何だったのでしょう。そう思ってあらためてじっくり読むと、実に励ましと慰めに満ちた言葉が散りばめられているのがわかります。「しかし、人には拠り所がある。…神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。」神を抜きにして考えるなら、この世はいかに「空」であるか、神を信じて歩むことこそ「空」からの脱却があるということを本書は教えているのです。

御霊によって歩もう…

最高気温33度まで上がり真夏日となりました。洗濯物はどんどん乾いて助かりますが、少し雨が恋しそうなアジサイです。今週は教会員の夫婦に第一子が与えられました。待ちに待った誕生に、教会全体が喜びに包まれました。思えば彼女が信仰告白に導かれ、洗礼を受け、クリスチャンの男性と知り合って結婚し、出産に導かれるという御霊の導きを見せて頂きました。今後もご家族の祝福を祈っています。


約束の子どもです…

6月第二水曜祈祷会、ガラテヤ人への手紙4章から。パウロはガラテヤの諸教会にユダヤ主義者たちが現われ、救われるためには割礼を受けなければならないと言って人々を惑わしていることを聞きました。そうした問題に対して、今日の所でも旧約聖書の創世記を紐解いて、女奴隷の子と自由の女の子の比喩から、あなたがたはイサクのように約束の子どもですと記したのです。パウロの手紙は読んでいて難解に思う箇所もありますが…そもそも二千年の時を経て、文化も生活習慣も全く異なる時代の手紙を読んでいるのですから、何が言いたいのか容易にわからなくても仕方のないことで、むしろ理解できることの方が驚きでしょう。自分に置き換えてみれば、イエスさまを信じたばかりの頃、不甲斐ない信仰生活を顧みて、こんなんでクリスチャンと言えるだろうかと悩んだ時期がありました。でも、「兄弟たち、あなたがたは…約束の子どもです。」というパウロの言葉は力強く、勇気が湧いてくる言葉です。私たちは何をもって自分が救われていると確信するのかと言えば、御言葉の約束です。救いの道は、平均台のような細い道ではなく、大通りのような恵みの道なのです。

知恵ある者は神を恐れる…

6月第二主日、九州地方が梅雨入りし、関西も曇りのち小雨の一日でした。礼拝では一人の姉妹が自分の半生を振り返る「証し」をしてくださいました。幼小中高と引っ越しをし、小さい頃からいろいろな経験をする中でイエスさまと出会い、信仰に導かれたこと、いつも聖書の言葉によって支えられてきたことを素直な表現でお話しくださいました。礼拝メッセージも伝道者の書8章から。「恐れる」とは単に恐怖心のことではなく、何より畏敬の念をもつことです。その最初の一歩が御言葉に従うことです。神のことばに従わずして、お願いだけ聞いてもらおうというなら、そこまでの関係でしょう。神とはどういうお方なのか、何を私たちに告げておられるのか、聖書やメッセージを聴くことがなければわかりません。何はともあれ「主を恐れることは知恵の初め」です。そこから神と私との極めて親密な関係が始まっていきます。混沌さを増す世の中にあって、「しかし私は、神を恐れる者が、神の御前で恐れ、幸せであることを知っている。」の御言葉がいかに大切であるかを心に留めました。夕礼拝の後には信仰のリスタートを決心する青年がいて…実に感謝な一日でした。

いつまでも残るのは…

6月に結婚する花嫁は幸せになれる…と言いますが、聖書的根拠はありません。むしろ、神に導かれた結婚ならば何月に結婚しても幸せになれるでしょう。今日は茨木聖書教会で結婚式があり、10分の奨励を頼まれて行ってきました。幸せそうなお二人を見ていたら、、気がつけば20分ほどになっていました。「いつまでも残るのは信仰と希望と愛…。」新しい出発をされるお二人の祝福をお祈りしています。


福音の真理の大切さ…

6月第一水曜祈祷会、今日からガラテヤ人への手紙を読んでいきます。まだ始まったばかりのガラテヤの諸教会の中に、異邦人はキリストを信じるだけでは救われず、割礼を受けてモーセの律法を守らなければならないと主張する者たちが現れました。それを知ったパウロは、すぐにペンを取り、自分の使徒職を弁明し、あらためて福音の真理を論証しました。今日も似て非なるキリスト教に注意が必要です。


主の臨在と主の導き…

今日もやや雲の多い空ですが、心地よい風の吹く一日を感謝いたします。教会のデボーションは、いよいよ出エジプト記40章を迎えました。神の臨在を示す幕屋建設も大詰めを迎えます。イスラエルの民の罪のゆえに、神との契約は破られ、神はもはやイスラエルの中に臨在することを拒否されました。でも、モーセの必死のとりなしの祈りによって契約は更新され、神は再び臨在を約束されたのです。その後は民も立ち直り、一致団結して幕屋に関するすべての備品を完成させ、定められた場所に配置しました。16節以下に、「主がモーセに命じられたとおり…」という言葉が七回も出てくるのは、モーセが細部に至るまで主のみことばに忠実に従ったことの表れです。こうして幕屋は設営され、主の臨在を現す雲が会見の天幕を覆い、主の栄光が幕屋に満ちました。約束の地に向かう旅の間、主は民とともにいてくださるのです。今日の私たちの教会とっても必要なのは、イエスさまの贖いを通して神と契約を結び、天の御国に至るまで、神のことばに従い続けることです。

神のみわざに目を留めよ…

6月第一主日、台風の影響もあって大気の状態が不安定な一日でした。今日は嬉しいことに中学生と小学生の兄妹の新来者が来てくれました。礼拝に出席するのは初めてということで、二人とも緊張した表情でしたが、しっかり最後まで礼拝メッセージも聴いてくれました。メッセージは伝道者の書7章から。「名声は香油にまさり、死ぬ日は生まれる日にまさる。」人は自分の死についてまじめに考えることによって、生きることの意味に気づかされるものです。また、事の終わりは始まるにまさるというのも、何事も終わってみなければ事の良し悪しはわからないことを教えています。最後に、私たちの人生は神の御手の中にあるからこそ、順境の日にも逆境の日にも意味があります。伝道者の書は、神なき人生の空しさを教えています。神はご自分のひとり子をお与えになったほどに私たちを愛されました。それがイエス・キリストの十字架です。ここに神の愛があります。午後からは教会のピクニックでしたが、途中から雷雨のため中止。みんな雨でビショビショになって教会に帰り、急遽、卓球大会となりました。今日の二人の兄姉もまた教会に来てくれるのを待っています。

空の空、伝道者は言う…

早いもので6月に入りました。教会の横のアジサイが今年も見事に咲いてくれました。美しい草花を見ると思い出すのが、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。」というの御言葉。まことにアーメンです。ソロモンと言えば知恵の書ですが、明日の礼拝では伝道者の書の7章からメッセージを聴いていきます。事前の準備は入りません。どなたでも気軽にご出席ください。


あり余るほどのささげ物…

昨日は大雨警報が出ましたが、今日は抜けるような青空が広がりました。水曜祈祷会は出エジプト記36章から。モーセの呼びかけによっていよいよ幕屋の建設が開始されます。主が知恵を授け、心を動かされた職人たちが起こされ、民のささげ物によってあり余るほどになったとあります。「すべて主が命じられたとおりに…」私たちも与えられた賜物を持ち寄って教会を建て上げていきたいと思いました。


わたしもあなたがたを遣わす…

今年も世田谷中央教会を会場に教師候補者研修会が行われました。同盟教団の補教師を目指す神学生・伝道師たちがともに集まり、互いに顔を合わせて、学びと交わりの時を持ちました。深澤牧師の奨励に始まり、今回のテーマは青年宣教・キャンプ宣教。まさに同盟教団の宣教のスピリットを学ぶ、非常に充実した内容で、私自身も初心を思い返しました。


求めなさい。そうすれば…

5月第四主日礼拝、今日も青空が広がる清々しい一日でした。新鎌ヶ谷聖書教会の玉井敦子師をお迎えして、ルカ11:1-13から『祈りを教えてください』というテーマでメッセージを取り次いでいただきました。イエスさまの祈っておられるのを見て、弟子たちが祈りについて尋ねたところから。イエスさまはまず『主の祈り』を教えられました。キリスト教の祈りがいわゆる自分本位なご利益宗教ではないことがわかります。それを心得た上で、具体的に祈ること、しつこく(粘り強く)祈ること、信頼して祈ることを教えられました。私たちは自分が祈ることが一番正しいと思うものです。時には、自分の方が立ち場が上であるかのように、神を従わせるような、脅すような…内容で祈っていることもあるかもしれません。でも、何より神は私たちの祈りを待っておられる方であり、最善を用意して待っておられる方だということを覚えたいものです。神が与えてくださるもので最も価値のあるものは、『聖霊』を与えてくださることです。たとえ自分が願った通りの答えでなくても…それを受け入れることができるなら、それは私たちの内に住んでおられる聖霊の働きなのです。

主は、あわれみ深く…

デボーションは出エジプト記34章から。モーセの必死のとりなしの祈りによって、主はあらためてイスラエルと契約を結ばれました。咎の報いは三、四代なのに、恵みは千代まで保たれる主。旧約聖書の神は厳しすぎる…とよく言われますが、本当にそうでしょうか。…つくづく自分もうなじを固くする民であることを思わされました。「実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。


能登地震災害支援・団体代表者の集い…

能登地震災害支援・団体代表者の集いが石川県内灘聖書教会でありました。能登ヘルプの方々の証しと報告、今後の発題やグループディスカッションなど7時間の濃密な集会、そして、翌日は現地視察と祈りの時を持ちました。詳しい事はクリスチャン新聞等で紹介されますが、これほど多くの団体代表者が一堂に会してともに祈り、被災地支援について協力し合えることに、主のなさる不思議を思いました。


わざわいを思い直された…

出エジプト記32章から御言葉を心に留めました。25章から始まった幕屋に関する詳細な規定は31章で完結しました。幕屋は主への礼拝を献げるための空間であり、安息日は主への礼拝を献げるための時間です。それぞれを聖別しなければならないことが命じられました。今日も私たちが主の日に礼拝を献げる上で心しておきたいことでもあります。こうしていよいよモーセがシナイ山で主と語り終え、さとしの板を頂いて下山していくのですが…山の下では大変なことが起きていました。民はモーセの帰りが遅いので不安になり、アロンに「われわれに先立って行く神々を、われわれのために造ってほしい。」と頼んだのです。アロンは民の圧力に負けて鋳物の子牛を造り、それをあなたの神々だと言い、明らかな偶像礼拝を行いました。「私たちは主の言われたことをすべて行います」と三度も誓ったのに…わずか40日足らずのことでした。あらためて神が契約を結び、律法を与え、聖いものにしようとしておられる民は、このような民であったことを思いました。これを受けてモーセの必死のとりなしの祈りが献げられるのです。詩篇106:23、103:8、9が心に響いてきました。

聖霊の助けを頂いて…

5月第三主日、小雨の降る中でしたが、今日も大勢の方とともにペンテコステ礼拝を献げました。キリスト教の三大行事の一つ。イエスさまが復活されてから五十日目、約束を待ち望んでいた弟子たちの上に聖霊が降り、その日3000人が救われて初代教会が誕生しました。初代教会の特徴は、麗しい交わりと力強い宣教です。日ごとに主を信じる者たちがますます増える一方で、それに妬みを覚えたサドカイ派の者たちが、使徒たちを捕えて公の留置場に入れました。もはや万事休すでした。ところが、神は主の使いを遣わして使徒たちを助け出され、宮の中でいのちのことばを殻りなさいと命じたのです。そのような度重なる苦難の中にも初代教会は衰退するどころか、ますます発展していきました。その原動力となったのは、彼らが心を一つにして祈り求めること、また、聖霊が彼らとともに証人となっていることです。今度も不思議な方法で助けられた使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けたことを喜びながら最高法院を後にしました。山上の説教の一節(マタイ5:10-12)を思い出したのでは。私たちも今日、聖霊の助けを頂いて、力強く福音を証ししていきましょう。

四十九日とペンテコステ…

明日はペンテコステの礼拝です。ある方が『仏教の四十九日みたいなものですかね』と言われましたが…。一般に仏教では亡くなられた方は七日ごとに閻魔大王による裁きを受け、四十九日目の審判で極楽地獄が決まるとされています。遺族はそれまで追善法要を行い、四十九日法要を終えて忌明けとなるとのこと。果たしてキリスト教の『ペンテコステ』(五十日目)とどう違うのか…。明日の礼拝で。


教会の誕生日…

木曜日はハートフル英会話がありました。大人クラスではレイチェルさんの若かりし頃の結婚式の写真がシェアされ、それぞれの懐かしい思い出話に花が咲きました。また、チャペルタイムではペンテコステがテーマとなり、キリスト教の三大行事についてお話ししました。『ペンテコステ』は聖霊降臨日、または教会の誕生日とも呼ばれます。夕方のキッズクラスは今日も元気いっぱいの子どもたちでした。


聖所に入るときには…

5月第三水曜祈祷会、出エジプト記28章から御言葉を心に留めました。「あなたの兄弟アロンのために、栄光と美と表す聖なる装束を作れ。…彼を聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるためである。」大祭司アロンは十二部族の代表として、聖なる装束を身にまとっていなければ聖所に入ることができませんでした。大祭司の務めは、イスラエルの民の罪を負い、彼らの献げものを携え、彼らに代わって神の前に立つことです。エポデの下の青服に金の鈴がつけられるのは、聖所に出入りする時、その音が聞こえて、彼が死ぬことのないようにするためとあります。祭司職に任命されるのは、大変な名誉であると同時に大きな責任が伴う、まさにいのちがけの務めだったでしょう。あらためてイエスさまが永遠の大祭司として、自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げてくださった恵みを覚えました。分かち合いの中で、私たちも万人祭司として、どんな務めがあるかを考えました。「…聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません。」言葉だけの伝道には力がないでしょう。まず自分自身を神さまに献げ、良きとりなし手にして戴きましょう。

大胆に福音を語ろう…

5月第二主日、曇り空でしたが、清々しい風が気持ちいい一日でした。今日は母の日歓迎礼拝で、あらためて母を与えてくださった神さまに心からの礼拝を献げました。大学生の頃来ていた青年が、今日はママとなって来てくれました。今はご主人の仕事の関係でフィリピンに住んでいて、こうして里帰りのように教会を訪ねてくれるのは本当に嬉しいことです。さて、今日の礼拝メッセージは使徒の働き4章から。生まれつき足の不自由な人の癒しをきっかけにペテロたちが伝道すると、そこで大勢の人々が信仰に導かれました。でも、ユダヤの権威者たちはそのことを問題とし、おまえたちは何の権威によって…あのようなことをしたのか、とペテロたちを審問しました。そこでペテロは大胆に答えます。「この方以外にはだれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」これがついこの間までカヤパの官邸で迫害を恐れて「その人を知らない」と三度もイエスさまを否んだ同一人物とは誰も思わなかったでしょう。ペテロを勇敢な使徒に変えられた聖霊は、今日も私たちを造り変えてくださるのです。

『母の日』を覚えて…

1907年5月12日、アンナジャービスが亡き母を偲んで教会で記念会を行ったことに始まります。アンナの母アンは南北戦争中に敵味方に関わらず負傷した兵士を助ける活動を行ったり、戦後には『母の友情の会』を作り、戦争で傷ついた兵士やその家族を癒すための働きを行った活動的な方だったそうです。そんな『母アンの日』ではなく、『母の日』として今でも世界中で祝われるのは素晴らしいことです。


「教会」という場所…

教会には何十年と信仰生活を送っている方から、最近来られたばかりの方まで様々な方が来られています。人の痛みがわかって、親切で、さりげなく寄り添ってくれる人ばかりがいるわけではありません。イエスさまのような完璧な人などいなく、むしろ、不完全な者たちの集まりです。でも、だからこそ、神の愛、赦し、憐れみを一緒に聖書から学びませんか。それが教会という場所ではないでしょうか。


契約の血…

5月第二水曜祈祷会、日中は汗ばむような陽気でしたが、夕方からはぐっと肌寒くなりました。寒暖差がある時期、体調管理に気をつけましょう。聖書は出エジプト記24章を読みました。ここでいよいよ神と民との間における契約が結ばれます。契約とは、二人以上の人もしくは二つ以上のグループの間における協定(同意)、または盟約であり、それぞれが両者が何をすべきかという条件に示されています。神は民に対して祝福と助けを約束し、民は神に対して従順を約束しました。モーセはいけにえの血の半分を取って祭壇に振りかけ、後の半分を民に振りかけました。「見よ、これは、これらすべてのことばに基づいて、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」新約のイエスさまのことばを思い起こしました。イエスさまは人となって、私たち人間側の、神への背きの罪を身代わりに背負ってくださいました。時々ある方から『キリスト教の救いはタダなんですよね』と質問されることがありますが、決してそうではありません。パウロも「あなたがたは…代価を払って買い取られたのです。」と語ります。私たちも贖われた者として、神の栄光を現していきたいものです。

美しの門の奇跡…

5月第一主日、初夏を思わせる暑さの中、今日も子どもからご年配の方まで多くの方が礼拝に集われました。メッセージは使徒3章から。生まれつき足の不自由な彼は毎日『美しの門』の側に座って行き交う人に施しを求めていました。彼はすでに40歳を過ぎていたとあります(4:22)。ここまでどんなに辛い人生を歩んできたのでしょう。でも、その日はペテロたちと出会った彼にとって忘れることのできない日となりました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」彼にとって本当に必要だったのは使えばなくなってしまうような金銀ではなく、イエスさまの御名を信じて立ち上がる信仰でした。イエスさまは今も私たちのために日々とりなしの祈りをしてくださっています。ですから、イエスさまの御名で祈る祈りには力があるのです。今週はゴールデンウィークということもあって、遠方からも久しぶりの方が来られました。午後からは青年たちを中心に卓球で汗をかき、夕礼拝にも三人の方が来てくださり、じっくりメッセージに聴き入りました。今日も恵みに溢れる一日に感謝いたします。

目には目を、歯には歯を…

教会のデボーションは出エジプト記21章から。十戒を受けた後、23章まで『契約のことば』が語られていきます。神によって贖われた民は主のために聖別された民として、律法の下に生活することになります。中でも「目には目を、歯には歯を。」は有名です。損害を受けたら、二倍、三倍にして返したくなるのが世の常ですが、それでは事態は悪化の一途を辿ります。今も昔も聖書が最も求めているのは報復ではなく、むしろ、愛を持って善を行うことです。


あなたの神に会う備えを…

先日、詩画作家・星野富弘氏が天に召されました。事故で体にハンディキャップを負いながら、多くの作品を通して神の素晴らしさを証しされました。今は天で、イエスさまから「善かつ忠なる僕よ」と労いの言葉を頂いていることでしょう。さて、5月第一水曜祈祷会は、出エジプト記19章から。『神に会う備えをせよ』というテーマでした。私たちもみな、やがては神の御前に立つ時が来ます。その時、顔をあげて、主とまみゆるように心備えが必要です。


約束の聖霊を受けて…

4月第四主日、今日も温かな日射しが差し込む教会で、主なる神に礼拝を献げました。メッセージは使徒の働き2章から。使徒たちはイエスさまが言われた通り、父なる神の約束を心を一つにして祈り待ち望んでいました。五旬節の日、エルサレム神殿は大勢のユダヤ人たちで賑わっていたでしょう。すると天から突然、激しい風、炎のような舌が一人ひとりの上にとどまり、使徒たちはみな、御霊が語らせてくださるままに他国のことばで話し始めたのです。視覚にも聴覚にもはっきりとわかる圧倒的な出来事でした。御霊に満たされたペテロたちは立ち上がって、旧約聖書の預言の成就であること、ナザレのイエスこそメシアであってその方を殺してしまったこと、悔い改めて、バプテスマを受けることを大胆に語りました。こうしてその日、3000人が救われて最初の教会が誕生したのです。聖霊は巡礼に来ていたすべての人に自動的に降られたのではなく、ひたすら約束を待ち望む者たちの間に降られました。このペンテコステの出来事は一回限りのことですが、聖霊の働きは今も私たちの間で継続しています。百聞は一見に如かず。ぜひお近くの教会に足を運んでみてください。

悟ることがなければ…

教会のデボーションは詩篇49篇から。葬式の際にもよく読まれる詩篇です。すべての国々の民に共通するのは死の問題です。死は人生の教師として重大ななぞを投げかけます。死がすべての人の終りであるが、死はすべてのことの終りであろうか、と。この世でどんなに富を得、成功を収めたとしても、富はたましいを救うことはできず、死の力に勝たせてはくれません。「しかし 神は私のたましいを贖い出し よみの手から奪い返してくださる。…人は死ぬとき 何一つ持っていくことができず その栄誉も その人を追って下ることはできない。」どんなに大事なものでも、死に際して人は何も携えて行くことができません。「富」そのものは悪ではありませんが、大事なのは、栄華の中にあっても神を忘れないこと、神に望みをもって、神とともに生きることです。神との交わりは地上の生活に喜びを与え、死の恐怖に怯える必要がなくなります。イエスさまも「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」と教えられました。慌ただしい毎日、少し心を休ませて、自分が歩んでいる道は、悟りのない人生か、価値ある人生かを自問自答したいものです。

渇きと敵からの救い…

4月第四水曜祈祷会、出エジプト記17章から。エジプトから救い出されたイスラエルの民は荒野に導かれ、食糧、飲み水の問題を通して霊的な訓練を受けました。状況が悪くなるとすぐに不平を訴える民でしたが、主は見離さずにご自身が必要を満たされることを教えられました。また、アマレクとの戦いではとりなしの祈りの大切さを示されました。私たちも互いに支え合い、祈り合っていきたいものです。


新たな出発のために…

4月第三主日、今日から創立31周年の新たな歩みが始まります。神さまがどんなご計画を立てているのか楽しみです。先立つ主に期待して前進していきたいと思います。礼拝メッセージは使徒の働き1章から。復活の主は昇天されるまでの間、弟子たちとともに過ごし、神の国のことを語り、そして、父の約束を待ちなさいと命じられました。教会の原点、信仰生活の原点、それは祈りつつ待ち望むことからです。


よい始まりはよい終わりをもたらす…

温かい陽気に教会の花たちもいい表情です。さあ、教会の31周年の歩みが始まりました。何事も始めが肝心。“A good beginning makes a good ending” どんな簡単なことでも五分程度考えてから始めると物事はスムーズに進むものです。大きな事をしようと思う場合はなおさら準備期間が大切。いつの時代も、教会にとって欠かすことのできない準備は祈りです。主の前に静まって、御声に耳を傾けましょう。


まさにこの日に…

今週の水曜祈祷会は出エジプト記12章を読みました。いよいよ第十の災禍がエジプト全土を襲います。主はその前にイスラエルの全会衆に「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ」と告げられました。新しい出発の時を新しい暦の始まりとしたのです。主はこの時、過越のいけにえと種なしパンの祭りを祝うように命じられました。人々は主がモーセとアロンに命じられたとおり、家族ごとに、一人ひとりが傷のない一歳の雄の子羊を食べ、その血を鴨居と二本の門柱に塗り付けました。真夜中になって主はエジプトの地のすべての長子をみな打たれましたが、イスラエルの民は守られました。するとファラオもついに観念し、モーセたちを呼び寄せて「私の民の中から出て行け。…そして私のためにも祝福を祈れ。」と言いました。エジプトの最高権力者は最後まで自分で祈ろうとはしませんでした。その悔い改めが本物ではなかったということです。こうしてイスラエルの民は壮年男子だけで60万人、さらには女性、子ども、外国人、家畜…と大集団でエジプトを脱出していきます。想像を絶する主の御業がまさにこの日に実現するのです。

創立30周年記念礼拝…

今日は創立30周年記念礼拝を献げました。初代牧師の安宣教師ご家族が祝辞をしてくださり、吉持日輪生師がメッセージをとりついでくださいました。詩篇91:14-16から、テーマは『彼とわたしの30年』「彼がわたしを愛しているから わたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているから わたしは彼を高く上げる。」創立30周年にぴったりのメッセージでした。小さな家庭集会から教会の歩みが始まり、担任牧師が遣わされ、今日まで神さまは宣教の実を豊かに結んでくださいました。また、母教会の茨木聖書教会をはじめ、たくさんの方々の祈りと献げものに支えられました。この教会を通して、洗礼を受けられた方々、信仰が育まれた方々、カップルとなり家族となられた方々、最近来られた方々など、多くの方が礼拝に来てくださいました。礼拝後は久しぶりの愛餐会。忙しいスケジュールの合間をぬってキム先生がチャプチェとチヂミを作って来てくださいました。コロナ禍ではみんなで一緒に昼食をとるという機会もなかったので、今日は格別に楽しい、嬉しいひと時でした。さあ、次の40周年、50周年に向かって、また明日から主とともに歩んでいきましょう。

信仰の襷を繋いで…

今春、教会は創立30周年を迎えました。1994年4月に開所式が行われ、翌年には阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件が発生しました。終末を予感させるような大事件が起こる中で、始まったばかりの教会にも様々な苦難があったでしょう。それでも信仰の先達たちが襷を繋ぎ続けてくださったからこそ30周年という節目を迎えられます。この感謝を覚えながら私たちも襷をしっかり繋いでいきたいと思います。


教会が身近なところに…

ハートフル英会話春期コースが始まりました。今学期はレイチェル先生が大人クラスとキッズクラス、ホゼア先生が小学校高学年から高校生までを担当します。今日も教会に朗らかな笑い声と子どもたちの元気一杯の声が響きました。こうして地域の方々が

教会と関りを持ってくださるのは感謝なことです。教会は聖書を学ぶだけの場所ではありませんので、お近くの教会に、気軽に足を運んでみてください。


ただひとりの神、主を知るために…

4月第二水曜祈祷会、デボーションは出エジプト記8章を読みました。モーセとアロンの神の警告をファラオが聞き入れないので、ついにエジプトに十の災禍が始まりました。最初はナイル川の水が血に変わるというものでした。ファラオとしてはここまで大変なことになるとは思っていなかったということでしょうか。それでもファラオは心を頑なにし、モーセたちの言うことを聞き入れなかったのです。次は、蛙の大量発生がエジプト全土を覆うというものでした。十の災禍の多くは普段大人しい小動物がエジプトの大都市を倒すという構図です。ファラオはたまらずモーセたちに頼みました「主に祈れ。そうすれば、私はこの民を去らせる。主にいけにえを献げるがよい。」ついにファラオが主の臨在を認め、悔い改めに導かれるかと思いきや、モーセたちの祈りによって一息つくと、再び心を硬くし、彼らの言うことを聞き入れなかったのです。喉元過ぎれば熱さ忘れる…そんなことを繰り返しているから、神は忍耐の限界に達し、9章12節以降は「主はファラオの心を硬くなにされたので…」という言葉が続きます。神は侮られる方ではありません。肝に銘じておきたいものです。

いつも主がとなりに…

4月第一主日、今日も清々しい春の風を感じながら礼拝を献げました。メッセージはマタイ28:11-20、いわゆるイエスさまの大宣教命令から。ユダを除く十一人の弟子たちはマリアたちに言われた通りガリラヤに行って、復活の主と再会しました。ある者は喜んで礼拝を献げ、ある者は疑いを抱きつつそこにいました。イエスさまはそんな彼らにご自分から近づいて、万物の支配者となられたことを示されると、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と命じられたのです。弟子たちには途方もない命令に感じたでしょう。でも、イエスさまは彼らがその命令を全うできるように、力強い約束も与えられたのです。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」マタイの福音書は、インマヌエルの預言から始まり、インマヌエルの約束で閉じる書簡でした。今日は聖餐式の恵みに加えて、子どもたちの進級式もありました。みんな一つずつ学年が変わり、環境が変わっていきます。親御さんたちも祈りつつ、慌ただしい日々でしょう。期待と不安が入り混じる春、インマヌエルの約束が一人ひとりの今日を生きる力となりますように。

神の杖を手に取って…

教会のデボーションは出エジプト記4章から。モーセがいよいよエジプトに帰郷し、人々に神の御旨を伝えに行くところです。モーセに命じられた使命は前途多難、ファラオとの全面対決でした。そんな彼の手には神の杖がありました。それは主の臨在の証し。私たちも、神の杖を心にもって進んでいきたいものです。今週は入学式・入社式もありましたからそれぞれのご家庭で新しい年度が始まったことでしょう。春は何かと変化の時期、心と体が支えられてよいスタートが切れるようにお祈りしています。


大いなる祝福の前の苦しみ…

4月第一水曜祈祷会、出エジプト記2章から。エジプトの王ファラオがイスラエルの男の子はみなナイル川に投げ込まなければならないと公布する中、モーセは誕生しました。そんな恐ろしい時代に、神を恐れる助産婦たち、モーセの両親、姉のミリアム、ファラオの娘、主は一人一人に働かれてモーセの命を守られたのです。人は誰もが、自分で生きているのではなく、生かされていることを思わされました。


新年度礼拝…

今年も桜が満開を迎えました。桜は他の木とは違って、花が咲き、後から葉が出ます。枯れ木に命が宿ったように咲き誇る様子は、イエスさまの死からの復活と重なります。今日はライフワークス社の新年度礼拝でメッセージをさせていただきました。代表の所信表明を聴きながら、これからの未来に向けてキリスト教葬儀社の働きの大切さをあらためて感じました。春は出会いと別れの時期でもあります。皆さまの新年度の上に主の守りをお祈りいたします。


イースター賛美礼拝2024…

今日は復活祭の賛美礼拝でした。マタイ28:1-10からメッセージが語られました。空っぽの墓はイエスさまのよみがえりを示していました。この方はマリアたちに出会われたように、私たちにも出会ってくださるのです。あらためて復活の主の希望に感謝しました。また、ずっと祈っていた方や久しぶりの方も礼拝に来られました。午後からはキッズ&ファミリーイースター。今年は少し人数が少なめでしたが、その分たっぷりと子どもたちにイースターの希望を話せたように思います。すべての事に感謝します。


神さまいるのになぁぜなぁぜ…

コロナ禍もやっと落ちついて、今年は春のチャレンジャーキャンプが行われました。テーマは『神さまいるのに悩むのなぁぜなぁぜ??』。宣教区の諸教会から中高生、スタッフ・牧師と合わせて70名ほどが参加しました。特に今回は30周年という節目の年で、このために半年以上前から準備がなされてきましたが、まず講師の先生が開催当日に高熱で欠席となり、キャンプリーダーも葬儀のため途中で帰らなければならなくなるなど、前途多難の始まりでした。すぐに代役のメッセンジャーということで、アベンジャーズのように3人の牧師が立ち上がり、先発、中継ぎ、抑えで、一日ずつを担当することになりました。結果、主の憐れみで、まるで最初から準備されていたかのような三者三様の力強いメッセージと、賛美チームの素晴らしいリードで中高生たちからの応答も非常によいものとなりました。春からの新しい歩みに向けて、一人ひとりがいろいろな思いを持って参加してくれましたが、聖書の御言葉が彼らの歩みを支え、励まし、力づけ、いつもイエスさまがともにいてくださるようにお祈りしています。…ちょっとハードな三日間でしたが、すべて守られて感謝でした。

苦難に立ち向かう力…

3月第三主日、今日は茨木聖書教会副牧師のハレファ・スルヤ師をお迎えして、ルカ22:39‐46から「苦難に立ち向かう力」をテーマにメッセージを語っていただきました。私たちには避けるべき苦難と避けない方がいい苦難とがあること、イエスさまは苦難に対して祈りをもって臨まれたことなど、非常にわかりやすい言葉で、また受難週にふさわしいメッセージでした。礼拝後のグループタイムも、今日は『親近感のある弟子たちは』ごとに分かれて、それぞれとてもよい分かち合いができていたようです。私は久しぶりに子ども礼拝でメッセージを語らせていただきましたが、イエスさまの十字架のメッセージを子どもたちがまっすぐに聞いてくれたのが印象的でした。珍しい人が来た…と思ってくれたのでしょうか。最後に『イエスさまを信じる人は手を上げてください』と招きをしたところ、みんなが手を上げてくれたのが嬉しかったです。普段なかなか見ることのできない子ども礼拝の様子も今回よくわかりました。ぜひ子ども礼拝にご家族でいらしてください。また、朝の礼拝はちょっとハードルが高いという方も、ぜひ一度午後4時30分からの夕礼拝に出席してみませんか。

第75回教団総会…

第75回教団総会が行われました。新理事長、新理事が選出され、教団の新しい歩みが始まりました。しばらくコロナ禍が続きましたので、諸教会とも厳しい教会の歩みだったことが再確認されました。召天された牧師、退職された牧師、兼牧や閉鎖になった教会もありました。人間的な試算では今後ますます厳しい状況が予想されますが、先立つ主に期待して前を向きたいと思います。最終日には正教師試験に合格した新しい牧師たちの按手が行われ、今年も自分の初心を思い返して帰阪しました。さて,教会のデボーションはマタイ26:36から。病人を癒し、嵐をも静めるイエスさまの神としての面が印象的なあまり、苦しみも痛みも味わわれたイエスさまの人間としての面を忘れがちです。そのことをあらためて思い出させてくれるのが、このイエスさまのゲッセマネの祈りでしょう。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるようにしてください。」ここにキリスト教の祈りの奥深さがあります。受難週を前に、十字架に向かわれるイエスさまのとりなしの祈りに心を合わせたいと思います。

タラントをどう使うか…

教会のデボーションはマタイの福音書25章14節から。昨日に続いて、終わりの日を生きる姿勢について教えられた箇所、有名なタラントのたとえ。ある主人が三人のしもべにタラントを預けて旅に出たという話しです。タラントはTalentの語源とも言われるので才能や能力と思う人もいますが、本来は金の単位で、資産や財産を意味する言葉です。1タラントは6000デナリと言いますから相当な財産。そのタラントを預かったしもべは、一人はそれを資本に五タラントを儲け、同様にもう一人も二タラントを儲けました。ところが、一タラントを預かったしもべはそれを失くしてはいけないと思って土の中に隠しておいたのです。しばらくして主人が帰って来て清算をすると、二人のしもべは忠実だとほめられて、一人のしもべは怠け者だと叱られたという話し。このたとえのポイントは、主人が「それぞれの能力に応じて」タラントを預けたということでしょう。多すぎず、少なすぎずです。しかも、それをどう使いなさいとか何をしなさいとは一切言わずに各自の判断に任せていること。私たちもこの世に生まれてどれだけ多くの財産を神から預かっているのか…考えさせられました。

その日、その時に備えて…

3月第三主日礼拝、今日は曇りのち小雨の空模様でした。礼拝メッセージはマタイ25:1‐13、イエスさまが弟子たちに終末への備えについて教えられた3つのたとえ話しの一つ。十人の娘たちは花嫁の友人たちで、花婿が夜花嫁を迎えに来るのをともしびを持って出迎える務めがありました。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かったとあります。彼女たちはみなともしびを持って花婿を待っていたのですが、違いは予備の油を持ってきているかどうかでした。たとえのポイントは、花婿はキリスト、十人の娘たちは個々のキリスト者、ともしびは信仰生活(教会生活)、油は聖霊を表していることでしょう。つまり、教会にいる私たちがキリストの再臨をどう待ち望んでいるのかが問われているのです。ともしびを灯すには油が必要なように、信仰生活にも聖霊との交わりは欠かせません。万一に備えて予備の油を持って来た賢い娘たちと、先の事を考えずに油を持ってこなった愚かな娘たち…その差はあまりにも歴然でした。イエスさまがここで伝えたかったのは、終わりの日にあなたも賢い娘たちのように生きなさいということです。奥深い内容がギュッと詰まったメッセージでした。

ノアの日のように…

ハートフル英会話冬期コースが終了しました。今期もいろいろな出会いと別れがありましたが、楽しいクラスを講師と受講生の皆さまで作ってくださって心から感謝しております。これから三週間ほど間が空いて、また4/11から春期コースが始まります。大人クラス・キッズクラス、すでにオブザーバーの受付を開始しました。興味関心のある方はぜひ体験クラスをお申込みください。さて、教会の聖書通読はマタイ24章に入りました。十字架にかかられる時が近づく中で、イエスさまが弟子たちにされた最後の説教の場面。イエスさまはエルサレムの破壊とこの世の終わりを重ね合わせて話されました。まず偽キリストの出現、戦争や戦争のうわさ、国や民族間の対立、地震や飢饉の発生がその前兆です。それはまだ産みの苦しみの初めで、さらに弟子の迫害、背教と裏切り、偽預言者、道徳の退廃が続きます。そうした苦難の日々の後、かつてない天変地異が起こり、偉大な力と栄光を伴って人の子が再臨されるのです。それは「ノアの日と同じように実現する」とあります。あの時代にノアが忠実に神のことばを信じて歩んだように、私たちも霊の目を覚まして歩みたいものです。

四方八方塞っても…

『信仰とは四方八方塞っても上を開くことだ。』…「平民の福音」の著者としても有名な救世軍士官・山室軍平師の言葉です。1940年3月13日夜半、吹奏楽の聖歌演奏の中、『神よ、御国へ参ります』と言って召されたそうです。救世軍と言えば、最近は各地で災害が起こった際に迅速かつ的確な支援をされているのを目にします。同盟教団とは少し立場は違いますが、学ぶところの多い素晴らしい団体です。


自分を低くする者…

東日本大震災から13年を迎えました。2万人以上の方が命を亡くし、今もなお3万人近い方が避難生活を送られています。原発廃炉の見通しもつかない状況ですが、復興のために続けてお祈りします。あの頃、ボランティアに行った時にお世話になった現地の方と今も妻は連絡を取り合っています。それも尊いことだと思います。今日のデボーション、「だれでも自分を低くする者は低くされ、自分を高くする者は高くされます。」祈りの大切さを思わされました。


一番大切な教え…

3月第二主日、今日も穏やかなお天気のもと神の家族が一つ心で礼拝を献げました。メッセージはマタイ22章34‐46節から。パリサイ人の中の律法の専門家がイエスさまを試みようと声をかけてきました。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」彼らは聖書全体から肯定的、否定的な613の戒めを見出していました。それらは平等に重んじられるべきものでしたが、それでもより重い戒め、より軽い戒めという区別をしていたようです。イエスさまの答え次第では訴える口実になると思ったのでしょう。そこでイエスさまが即時に答えられたのは、全身全霊をもって神を愛すること、隣人を自分自身のように愛することです。この二つの戒めに聖書のメッセージが集約されると言われたのです。そう言われても…どちらもそうそう簡単にできるとは思えない…。そんな声も聞かれました。確かに自分の力でそれを成し遂げようと思ったら、だれもが挫折を味わうでしょう。でも、ダビデがそうであったように、私たちも御霊によってキリストを主と呼び、この方とともに歩んでいきたいと思います。このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されているのですから…。

能登半島災害支援ボランティア…

月曜日から5人のチームで能登半島地震災害支援ボランティアに行ってきました。事前の天気予報ではずっと雨マークだったので心配していましたが、結果一日も雨に濡れることもなく、すべての作業が守られました。朝は内灘聖書教会内の能登ヘルプの事務所に集合し、デボーションとお祈りを持って出発。派遣先ではおもに家財の運び出しと片付け、割れたガラスや崩れた塀の処分などを行い、午後3時過ぎには片づけを始めてホテルに戻りました。目に映る光景は、たくさんの倒れた家屋、ひび割れた道路、4メートルを超す隆起した港…がありました。作業の合間に、被災された方とも直接お話しができましたが、地震発生直後のご様子やご家族を亡くされたこと…町も港も何もかも変わってしまったことを伺いました。あらためて…言葉では表現できない甚大な被害だったことを痛感しました。『大阪から来ました』と言いますと、『遠くから来てくれて本当にありがとう』と何度もお礼を言われました。今回の私たちの働き自体は本当に些細なものですが、少しでも被災者の方々の慰めと励ましに…そして、次のボランティアに来こられる方々の繋ぎとなれれば幸いです。

神のものは神に…

3月第一主日、風は冷たかったですが、青空の広がる一日でした。今日も教会に大勢の方が来られ、ともに主の御名をあがめる礼拝を献げました。メッセージはマタイ22章15節~22節、新約聖書の中でも有名な一節を心に覚えました。パリサイ人たちはヘロデ党の者たちと結託して、イエスさまをことばの罠にかけようと、カエサルに税を納めることは良いか悪いかを質問したのです。どちらに答えてもイエスさまを訴えようという魂胆でした。イエスさまは彼らの頑なな心を悲しく思われたでしょう。そしてデナリ銀貨を用いてあの有名な一節を言われたのです。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」キリスト者は天に属する者ではありますが、地上に生活する者としてその国の制度に従わなければなりません。理由は「主のゆえに」です。イエスさまも納税の義務を果たし、ピラトの裁判にも服されました。それと同時にさらに重要なのは、神に造られた者として、私たちは神の言葉に従い、神の栄光のために生きることです。イエスさまはすべての人に、あなたも人生の方向転換をして、神のもとに来なさい、神とともに歩みなさいと招いているのです。

私の望み…

昨年の秋に植えたカリフラワーが見事に育ったので少し早いのですが収穫しました。次はスナップエンドウが楽しみです。今週の水曜祈祷会では詩篇39篇を読みました。言い知れない苦難の中で、神への希望が人生のむなしさを支えている詩篇。「主よ お知らせください。私の終わり 私の齢がどれだけなのか。私がいかにはかないことを しることができるように。」口は禍の元と言いますが、ダビデは自分の舌で罪を犯さないように決意します。むしろ、神に向かってつぶやくのではなく、人生のはかなさを覚えることで心砕かれていきました。それでも「私の望み それはあなたです。」という信仰が一筋の光となって父なる神への希望の道を照らします。自分の人生の終わり、将来への悟りは、今を生きる意味を明らかにします。主にあって、私たちは生かされている。苦難の中で、本当に大切なものに目を向けていったダビデの信仰に教えられました。


神に招かれる幸い…

2月第四主日、雨がシトシトと降る少し肌寒い一日でしたが、教会の中はいつものごとく大勢の方が来られ、朝に2回の礼拝、子ども礼拝、午後からはスペシャルグレイスタイム、夕礼拝と恵みに溢れる一日となりました。礼拝メッセージはマタイ22章1‐14節、祭司長たちの頑なな態度を示すためにイエスさまが話された譬え話しの一つ、王子の結婚披露宴の譬えから。この話しのポイントは、王は父なる神、王子はイエスさま、結婚披露宴は天の御国、先に招かれた人はユダヤ人、後から招かれた人は異邦人を指しているところです。王は自分の息子の結婚披露宴のためにすべての準備を整えて、人々を招待しました。ところが、先に招いていた客は来ようとしなかったので、王はしもべを大通りに行かせ、出会った人をみな、披露宴に招待しました。すると、一人だけ王が準備した婚礼の礼服を着ていない人がいたので、その人を恵みの外に放り出したという話し。私たちも、この世の王である神から披露宴のような礼拝に招かれていること、礼服も準備していただいてそれを着て出られる幸いを思いました。病室にいる兄弟ともオンライン礼拝で一つ思いになれることも感謝します。

悪い農夫たちのたとえ…

ロシアによるウクライナ侵攻から2年が経ちました。教会のデボーションはマタイ21章33節から。イエスさまのたとえ話しの続き。ある主人がぶどう園を農夫たちに貸して旅に出ました。収穫期になったので主人は農夫たちのところにしもべを遣わして、分け前をもらおうと思いましたが、彼らはしもべたちを次々と殺し、最後は主人の息子まで殺してしまったのです。イエスさまが、主人はその農夫たちをどうするだろうかと問うと、聞いていた人々は、主人は農夫たちを滅ぼして、別の農夫たちに貸すでしょうと答えました。イエスさまは、この息子こそご自身であることを明らかにされたのです。イエスさまは今も生きておられ、やがてこの世界の裁き主として来られます。私たち人間は神さまから託されたこの世をどのように管理しているかを思わされました。


何が主に喜ばれることか…

2月第三水曜祈祷会、今日はヨハネ12章の高価なナルドの香油を捧げたマリア、マタイ21章のろばの背に乗ってエルサレムに入城されたイエスさまの姿を心に留めました。マリアはなぜ人々が見ている前でこのような惜しみない愛を現すことができのか…。また、ろばの飼い主はなぜ「主がお入り用なのです」という言葉だけですぐに渡してくれたのか…。どちらも何が主に喜ばれることかを考えたからでしょう。一方で、言葉だけの正論を振りかざし、マリアを貶めたユダをはじめ弟子たちの姿…。また、「ホサナ」と叫んでイエスさまを迎えた群衆の熱狂ぶり…。どちらも受難週に向かうイエスさまの目にどのように映っていたのでしょう。「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。」(エペソ5:10)をあらためて考えさせられる祈祷会でした。


らくだが針の穴を通る…

2月第三主日、柔らかな日射しが差し込む教会で礼拝を献げました。礼拝メッセージはマタイ19章から。富める青年がイエスさまのところに来て、永遠のいのちを得るためにはどんな良いことをすればいいのでしょうかと尋ねたところ、財産を全部売り払って貧しい人たちに与えなさいと言われました。彼は良い行いによって救われることがどんなに難しいか、自分が何に執着しているかを思い知ったでしょう。そして、金持ちこそ救われると思っていた弟子たちもあらためて救われるには何が必要かを学んだことでしょう。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」あの青年も、ぶどう園が閉まってしまう夕方には間に合って弟子たちと同じ恵みにあずかることができたのでは…。今日のデボーション20章を読んでそんな思いになりました。


結婚と離婚について…

あちこちでかわいい梅花を目にする時期になりました。教会のデボーションはマタイ19章1節から。イエスさまはいよいよガリラヤからエルサレムに向かって出発します。するとパリサイ人たちが近づいて来て、イエスさまに論争を試みてきました。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」イエスさまは彼らの質問に対し、創世記から紐解いて、結婚とは何かを話されました。つまり、結婚とは神が結び合わせたものであり、人間の意志や都合によって引き離してはならないということです。パリサイ人たちはすかさず「では、モーセはなぜ…」と申命記24:1を引用して、離婚はできると主張しました。これに対し、イエスさまは離婚は最初から認められていたのではなく、人々の心が頑ななので許容したこと、「だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」と教えられました。このイエスさまの結婚に関する教えは今日の私たちにとっても重要です。日本の離婚率も三組に一組の割合…。私たちも結婚とは何かをあらためて考えたいものです。結婚カウンセリングもお勧めします。

あなたがたにできないことは何もない…

2月第二水曜祈祷会ではマタイ17:14‐27を読みました。イエスさまが三人の弟子たちと山から戻ってくると、ある人が自分の息子を憐れんでくださいと懇願してきました。息子はてんかんで大変苦しんでいて、弟子たちのところに連れて行っても、治すことができませんでした。イエスさまは思わず「ああ、不信仰な曲がった時代だ」と嘆息し、弟子たちに代ってその子から悪霊を追い出されたのです。弟子たちが自分たちに追い出せなかった理由をそっと尋ねにいくと、イエスさまは明確に答えられました。「あなたがたの信仰が薄いからです。…からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」信仰は量が問題なのではなく、質が問題です。半信半疑の信仰、あるいは神がいるなら証拠を見せろという人には、このイエスさまの言葉の真意は伝わらないでしょう。私たち自身は無力でも、私たちにとって幸いなのは、この無限の力をもった神を知っていることです。ある本の一節を思い出します。『パスカルが言ったように、神を信じて我々が失うものは何もなく、得るものは無限である。』

あなたこそキリスト…

2月第二主日、厳しい寒さもひと休みという一日でした。礼拝メッセージはマタイの福音書の分水嶺16:20‐30から。ピリポ・カイザリアでのイエスさまと弟子たちの有名な問答の場面。「あなたがたはわたしをだれだと言いますか。」この問いにどう答えるか、それが人生の大きな分かれ道です。ペテロは弟子たちを代表して、「あなたは生ける神の子キリストです。」という実に幸いな信仰告白をしました。イエスさまはその告白を大変満足されて、このことをあなたに明らかにしたのはわたしの父だと言われたのです。また、イエスさまは「わたしはこの岩(信仰告白)の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません」とも言われました。教会は、建物の荘厳さより、イエスさまを救い主と信じる者たちの群れを指します。そして、教会にはよみの門(死者の行くところ)に打ち勝つ、天の御国の鍵(福音)が託されているのです。福音を信じる人には御国に入る門が開けられ、信じない者にはその門は閉ざされる。私たち教会はまさに今日のノアの箱舟です。上から目線ではなく、ノアのごとくその生き方で、義を宣べ伝えていきたいと思います。

かわいそうに思われた…

教会のデボーションはマタイ15:29‐39から。イエスさまは神への祈りや弟子たちと交わりのため、人々を避け、遠いツロ・シドン地方を旅されました。徒歩でなされたこの旅行は、少なくても二、三カ月を要したことでしょう。そこではイエスさまとカナン人の女の麗しい出会いがあり、彼女の立派な信仰をほめられました。それから再びガリラヤに戻ってくると、イエスさまのもとに大勢の病人が連れて来られ、その一人一人を癒されました。それを見た人々は驚いてイスラエルの神をあがめたのです。そんなイエスさまのもとにはますます大勢の群衆が押し寄せてきました。イエスさまは弟子たちを呼んで言われます。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べ物を持っていないのです…」そう言って七つのパンとわずかな小魚で4,000人以上の人々のお腹を満腹にされる奇跡をなされたのです。「かわいそうに」とは内臓を表わす言葉を語源とし、「はらわたが揺すぶられる」「胸が痛む」などの意味があります。まさに寝食を忘れて人々の痛みを知り、その求めに応えられたイエスさま。目には見えませんが、この方は今も私たちの近くにおられます。

向かい風の中の信仰…

今日は時折みぞれ混じりの雨が降る寒い一日でした。聖書通読はマタイ14章とマルコ11章から。イエスさまのご命令で、弟子たちは舟に乗り込み向こう岸へと向かいますが、途中で強い向かい風に煽られ、夜明けまで波に悩まされました。自分たちがこんなに困っているのに主は何をしているんだ…と思う者もいたでしょう。すっかり気が動転してしまった弟子たちは、荒れ狂う湖の上を歩いてくるイエスさまを見ても、だれかわかりませんでした。イエスさまはそんな狼狽する彼らを憐れんで、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と声をかけられ、助けられたのです。同様の記事は8章にもありました。イエスさまはこのような信仰の訓練をしばしばなされたということでしょう。私たちの信仰も平時ではなく、想定外の有事の中でこそ試されるものです。大事なことは、イエスさまは私たちの弱さを十分知っておられて、「主よ、助けてください」と求めるなら、助けてくださるということです。私たちも、今も生きておられ、ともに歩んでくださるイエスさまを体験して、「まことに、あなたは神の子です」という信仰を告白し続けていこうではありませんか。

主が来られる日まで…

2月第一主日、立春を迎え、暦の上では春が始まりました。まだしばらく寒い日は続きますが、日に日に一日が長くなるのを感じながら温かな春を待ち望みたいと思います。礼拝メッセージはⅠコリント11:23‐26から。イエスさまは、渡される夜、弟子たちと最後の食事をとるとき、パンを取り、祝福してこれを裂き、弟子たちに与えて言われました。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」今日の聖餐式の元になった言葉です。聖餐式のパンとぶどう酒は、イエスさまの裂かれたからだ、流された血潮を表しています。イエスさまは私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり死んでくださいました。それによって私たちに神との平和が与えられ、私たちは癒されたのです。さらにイエスさまは死からよみがえって、今も生きておられ、私たちを聖餐に招き、やがて再び来られるとあります。まさに過去、現在、未来まで、キリスト教の中心教理がすべてこの聖餐に表されています。「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。」イエスさまの救いの素晴らしさが一人でも多くの方に伝わりますように。

小さな種のたとえ…

イエスさまは『種を蒔く人のたとえ』の解き明かしの後に、続けて3つのたとえを弟子たちに話されました。一つ目は『毒麦のたとえ』です。ある人が良い種を畑に蒔いた後、眠っている間に敵がやってきて毒麦を蒔いていきました。穂がでるまでは、毒麦と小麦は見分けがつきにくいので、主人は収穫までそのまま待つようにと言ったのです。キリスト教にも表面的には似ていても、本質的に全く違うものがあるのでご注意ください。二つ目は『からし種のたとえ』です。どんな種よりも小さいのに、成長すると、どの野菜よりも大きくなり、鳥が巣を作るようになるのです。まさにキリスト教は、少数の弟子たちから始まって全世界へと伝わっていきました。三つ目は『パン種のたとえ』です。わずか一握りのパン種のかたまりが、39㍑の粉を膨らませることから、からし種のたとえと同様に神の国の成長発展を意味していたのです。イエスさまの話しは本当に機知に富んだものです。理解しようとする者にはより分かりやすく、そうでない者にはさらに分かりにくくなる…。それは今日も同じです。信仰をもって耳を傾けるなら、わきまえのない者にも悟りが与えられるのです。

たとえで話す理由…

1月第五水曜祈祷会、マタイ13章にはイエスさまが群衆に向かって御国の奥義について語られた幾つかの話しが記されています。その最初の話しが『種を蒔く人のたとえ』です。教会学校でも定番の箇所ですが、あらためて読み直すと多くの励ましがあります。ここには農夫が蒔いた種が、道端、土の薄い岩地、茨の間に落ちた結果、良い実を結ばなかったこと、でも、良い地に落ちた種は実を結び、100倍、60倍、30倍になったとあります。農夫にとって大事なのは、無駄な労苦に思えることもあること、そして結果を見るには忍耐が必要なことです。『種』はみことば、『畑地』はそれを聴く人の心の状態を表しているとしたら、わかりやすいかもしれません。ただ、イエスさまがたとえで話す理由は、単にわかりやすくするためではなく、聞く耳のある者(聴こうする意志を持つ者)にはもっとわかるように、そうでない者にはさらにわかりにくくすることです。イエスさまの福音は奥深いと思わされます。数年前の、2000年前の種が発芽した…というニュースを思い出しましたが、私たちに命じられているのは福音宣教、その結果はすべて主にゆだねて待ち望みたいと思います。

みことばに生きる教会…

1月第四主日、時より小雨が降りましたが、寒さは幾分和らいだ一日でした。礼拝メッセージはエペソ3:14‐21から。ガリラヤから始まったイエスさまの福音が、地中海沿岸地方をはじめ全世界へと伝わっていった大きな要因は、パウロの存在です。パウロはもともと厳格なユダヤ教徒でしたが、復活の主と出会い、劇的な回心を遂げました。その後も迫害を受けながら、宣教の最前線に立って、キリスト教最大の伝道者と言われるほどになったのです。ここにはそんなパウロの切なる祈りが綴られています。「どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。」パウロの祈りは父なる神に聴き届けられ、時代から時代へ、今も力強く宣べ伝えられています。福音のバトンを受け継いだ者として、私たちもまたこの時代における使命を果たしていきたいと思います。2024年はこの御言葉を年間聖句として覚え、毎週の礼拝で賛美していきます。新しい教会テーマソングもできました。ぜひご視聴ください。

わたしが喜びとするのは…

教会のデボーションはマタイ12章から。イエスさまの弟子たちが麦畑を通った時、空腹だったので穂を摘んで食べたところ、その日が安息日だったので、パリサイ人たちがそれを労働とみなし、咎め立てたという箇所です。イエスさまは幾つかの旧約聖書を引用して、安息日を儀式的に守ることより、人間の緊急の必要を満たすことが優先されること、安息日の本来の目的は、労働の禁止よりも神の御心を行うことだと教えられました。つまり、神が喜ばれるのは儀式のような形式ではなく、隣人に対するあわれみの心を持つことです。今週も、ZOOMで能登半島地震の情報共有会議がありましたが、北陸聖書連盟を中心とした『能登ヘルプ』という災害ネットワークが立ち上がり、支援金・義援金の受付が開始されました。現地ではあちこちで断水が続き、未だ余震も続いていて、全壊率も高いということで、ボランティアの受付も来週からになりそうとのこと…。支援物資に関しても、刻一刻と現地の状況が変わるので、FaceBookなどを見て必要な物を送ってほしいとのことです。大したことはできないのですが、自分も行って何かさせて頂きたいと、はやる気持ちを抑えています。

春先はカルトの勧誘にお気をつけください…

いよいよ本格的な受験シーズンを迎えました。学生たちは寒さと誘惑に戦いながら最後の追い込みに励んでいることでしょう。側で見守っている親御さんたちも気が気ではないと思います。そうした中で、着々と勧誘の準備をしているグループがあります。毎年春先はカルト的な宗教も、ここぞとばかりに活動が活発化します。普通のサークルの勧誘と思ったら、それは隠れ蓑で、実は宗教の勧誘だったということはよくある話しです。誘う側も全く悪気がないし、紹介される人たちも人格者が多かったりするので、そこがカルトの集まりだとは気づきません。気づいた時には『ごほうび』と『恐怖』という二重洗脳に陥って、そこから抜け出せなくなってしまいます。つまり、グループの人たちこそ本物の友人、本物の家族だと思うようになり、そこから抜けることは罪であり、地獄行きだという意識を植え付けるのです。今まで仲の良かった家族にも平気で隠しごと(図りごと)をするようになります。入り口は広く、出口は狭く…それがカルトの手口(教え)です。過剰に心配することはありませんが、特に春先、若い世代の方々は学内等での優しい勧誘に気をつけてください。

弱い者を用いられる主…

今日は午前中にCGNTVの方が来られて、10分ちょっとのメッセージを三回分撮影しました。もうこの奉仕も10年以上になりますが、カメラの前で話すのは未だに緊張します。もちろん第一の願いは、まだ福音を聴いたことのない方に少しでもわかりやすく聖書のメッセージを伝えることですが、説教者として簡潔に話すための良い訓練にもなっています。撮影が終わってスタッフの方と談笑することも楽しみの一つです。また午後からは旧約聖書を学ぶ会がありました。出エジプト記4章から。主は燃える柴の中に現れて、モーセに「今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。」と命じられました。でも、この時のモーセはあまりにも大きな使命にたじろぎ、自分の弱さを訴えました。ここでのモーセと主とのやり取りは、今日の私たちも聖書を読んでいる時やメッセージを聴いている時に感じることかもしれません。でも、主はそんなモーセに「わたしはあなたとともにいる」と何度も告げられ、彼を力づけられたのです。神の前に自分の弱さを認めることは大切なことですが、そこでくじけないで、主の命令には必ず約束も伴うことを心に覚えていきたいものです。

あわれんでくださる主…

1月第三主日、大寒にあたり一年で最も寒い時期を迎えましたが、今日は賛美礼拝としていつも以上に高らかに主をほめたたえました。目をつぶって祈りながら賛美する人もいれば、手を上げて、立ち上がって踊り出す人もいました。また、メッセージ前には一人の姉妹が素晴らしい証しをしてくださいました。礼拝メッセージはマタイ9:35‐38から。「…群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。」『あわれむ』という言葉は『内臓』を意味する言葉です。イエスさまは、群衆(全人類)をご覧になって、内なる心が震えわななくほどに激しい思いを持たれました。私たちの救いのために、ご自分の御子をこの世に送ってくださった父なる神の愛、すべてを捨てて低くへりくだってくださった主イエスの憐れみを思いました。特に「収穫は多いが、働き手が少ない…」という言葉が心に響きました。この時代にも、福音を必要とする方が大勢います。午後からはバイブルクラス、夕礼拝、青年会と、今日も多くの方とともに主の日を喜び感謝を献げました。今週もキリストの心を我が心として歩んでいきたいと思います。

あなたの信じたとおりに…

1月第三水曜祈祷会、少し寒さも和らいで青空が気持ちのいい一日でした。聖書はマタイ8:1‐17から。イエスさまの山上の説教の後、ツァラアトの癒し、百人隊長のしもべの癒し、ペテロの姑の癒しの三つの癒しの記事が続きます。イエスさまは彼らの懇願する声や状況に目を留められました。そして、当時の慣習に縛られず、病人にさわり、百人隊長の所に行き、手を触れられて、彼らの思いに奇跡をもって報いられたのです。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」人間の目にはどんなに難しいことのように思えても、イエスさまのもとに直ぐな心で求めていくことの大切さを思いました。イエスさまは求める者に必ず応えてくださる方です。今日はOCCで阪神淡路大震災追悼の祈り会がありました。早いもので29年の年月が経ちます。災害は忘れた頃にやって来ると言いますが、1995年に阪神淡路大震災、2011年に東日本大震災、今年は元旦に能登半島地震が発生しました。その間にも日本各地で地震や災害が頻発している状況を鑑みると、もはや明日どこで何が起きてもおかしくありません。日頃の備えとともに、終末の備えをするように聖書は告げているのです。

信仰と疑問の間で…

雲の切れ間から日射しは見えましたが、はらはらと小雪の舞う一日となりました。それでもこの寒い時期にも関わらず、健気に咲いている花たちを見るとなんだか励まされます。以前の自分のことですが、『神がいるならどうして…』この疑問がある限り、クリスチャンになることはできないと思っていました。礼拝でメッセージを聴いて感動することがあっても、すぐに疑問がわいてきて、自分で自分にブレーキをかけるように深入りしないでおこう…クリスチャンになったら、今まで自由にしていたこともできなくなる…と思っていました。そんな疑いや不安を抱えたまま、私は洗礼を受けました。だからというわけではないのですが、私は100%の信仰がなくてもクリスチャンにはなれますよと言っています。イエスさまと一緒にいた弟子たちだって、よく信仰の薄い者たちと言われていました。しかもあのユダでさえ、最後まで見捨てられなかったのですから。「もしあなたが悟りに呼びかけ、英知に向かって声をあげ、銀のようにこれを探し、隠された宝のように探り出すなら、そのとき、あなたは主を恐れることをわきまえ知り、神を知ることを見出すようになる。

心配しなくてよい…

1月第二主日、今日の礼拝ではマタイ6:19‐34からメッセージを聴きました。イエスさまのもとには弟子たちをはじめ病人や生活に困窮する人々が大勢集まっていました。イエスさまはそうした人々に心配しなくてよいと言われたのです。「心配」とはくよくよと思い煩ったり、必要以上に不安になることを意味しました。生活のこと、健康のこと、仕事や将来のこと、家族や人間関係のことまで…誰もがみな心配を抱えて歩んでいます。それはいつの時代も同じです。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」いくら心配しても先のことはだれにもわかりません。でも、先のことを計画しておられる方がだれであるかを私たちは知っています。心配から解放される秘訣は神を信頼することです。ある方が、イエスさまの時代の人々から見れば、現代人はずっとずっと恵まれている訳で『それでも心配するのはどういうことなのだろう』と思うに違いない…と言われていたのが印象的でした。礼拝後は成人祝福式を行いました。お休みの青年もいましたが、新成人たちの新しい出発が祝福されるように心からお祈りしています。

わたしはあなたがたに言います…

今年最初の水曜祈祷会がありました。マタイ5:33‐42「偽って誓ってはならない」「目には目を、歯には歯を」の解釈についてイエスさまの教えを学びました。ユダヤ人は誓いをしてもしばしばそれを果たさないことがあったようです。そのために律法学者たちは神の名以外の物を指して誓った場合は果たさなくても許されるという抜け道を考えました。イエスさまはこれに対して「誓ってはいけません」と教えられたのです。また、被害者が加害者に対して、受けた被害と同等の物を弁償してもらう権利(同害復讐法)がありました。これは報復させる権利というより、個人的報復によってお互いの間に争いが続くのを防ぐための規定でした。イエスさまはそうした誤った解釈を正して「悪い者に手向かってはいけません」と教えられたのです。私たちも自分の思い込みや誤った解釈に気をつけたいもの。そして自分の力ではできないからこそ、聖霊の助けを祈り求めたいものです。能登半島地震で亡くなられた方は既に200人を超え、二万人以上の方が避難所生活を余儀なくされています。明朝もキリスト全国災害ネットの世話人会で話し合いますが…主の憐れみを祈るばかりです。

本当に幸いな人とは…

1月第一主日、今日は最初の日曜日、新年礼拝を献げました。礼拝ではマタイの福音書5章から『山上の説教』の冒頭を読みました。イエスさまのガリラヤ宣教は多くの実を結び、その評判を聞いた大勢の群衆が集まって来ました。彼らはみな、様々な病や痛みで苦しむ人、生活に困窮する人々でした。イエスさまはそうした彼らを意識しながら、弟子たちをみもとに呼んで告げられました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」聞いていた人たちは不思議に思ったでしょう。普通に考えれば、貧しい人よりも富んでいる人の方が、悲しむ人よりも健康である人の方が幸いだと思いますが、イエスさまはそう言われなかったのです。「心が貧しい人」とは、神の前に自分が何一つ誇れるものがないことを自覚し、神に助けを呼び求める者を指します。わたしのもとに来たあなたがたは幸いです…イエスさまの優しい語りかけが心に響きました。今日は午後から新成人を迎えた青年たちが茨木聖書教会から来てくれて、小学生だった頃の面影を懐かしく思い出しながら、立派になった彼らの姿に励まされました。今日も恵みに溢れる一日を感謝いたします。

主の道を用意せよ…

旧約聖書の最後は預言者マラキの言葉をもって閉じられました。それからイエスさまが現れるまでの約400年間、神の言葉を告げる預言者は現れませんでした。言わば沈黙の400年です。そこに突然荒野に現れたのが、バプテスマのヨハネでした。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」悔い改めるとは、単に反省することではなく、人生の方向転換をし、神に立ち帰ること、人生を新しくやり直すことを意味しました。また、天の御国が近づいたとは、神の統治される国が、イエスさまの到来によって始まりイエスさまの再臨によって完成されるということです。「主の道を用意せよ」とは、救い主を心に迎え入れるために妨げとなっているものを除きなさいということです。私たちも今年、主の通られる道、主の御言葉をまっすぐ受け入れる心備えができているでしょうか。もうすでに目を覆いたくなるような出来事が頻発していますが、だからこそ騒ぐ心を静めて、変わらない御言葉に聴きたいと思います。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」こんな時主はどこにおられるのか…。あの苦しむ人たちとともにおられるのです。

神の言葉に立って生きる…

新しい2024年が始まりました。みなさま今年も宜しくお願い致します。元旦礼拝ではマタイ2:13-23から御言葉を心に留めました。東の国の博士たちの訪問はヨセフとマリアを喜ばせたと思いますが、その喜びも長くは続きませんでした。「人生一寸先は闇」と言いますが、神は御使いを遣わして、ヨセフたちに今すぐエジプトに逃げるように命じられました。博士たちが王宮とは別の道で帰ったことを知り、ヘロデは怒り狂い、ついに新約聖書中最も残忍な事件が起きってしまったのです。どうしてこんな痛ましい事件が起きてしまったのか…神はなぜこれを止めてくださらなかったのか…。様々な人間的な思いが頭に浮かびます。でも、聖書にはその明確な理由はなく、「預言者を通して語られたことが成就した」という言葉を繰り返して、こうした一つ一つの出来事が偶然ではなく、神のご摂理の中で起きたことであることを示したのです。私たち人間には知り得ない神の深淵なるご計画があることを思います。今日も午後4時頃に石川県能登半島で震度7強の地震が発生し、各地に甚大な被害が発生しました。今は一つでも多くのいのちが守られるように心からお祈りしています。

価値ある人生を生きる…

今年最後の主日礼拝を献げました。礼拝メッセージはマタイ2:1-12から。東の国の博士たちは不思議に輝く星を見つけ、思い切って救い主を礼拝するために旅出ちました。交通網もない時代、星だけを頼りに長旅をするのは様々な試練があったでしょう。それでも彼らは途中で引き返すことなく、神の導きを信じて進みました。ところが、彼らが胸躍らせながらエルサレムに着くと、町は何事もなかったようにいつも通りの様子でした。博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか。」と尋ねると、それを耳にしたヘロデ王が動揺し、彼らにその幼子のことを調べてくるように命じました。こうして博士たちはついに幼子を見つけ、この上もなく喜び、自分たちの持っていた黄金、乳香、没薬を献げ、心からの礼拝を献げたのです。人に従うより神に従うこと、クリスマスの中心が何であるか、それが今日の私たちにとってどんな祝福なのかをあらためて教えられました。今日もこうして教会でともに集まり、礼拝を献げることができて感謝でした。拙いブログを読んでくださってありがとうございます。皆さまの上に主の祝福を心よりお祈りしています。

主を愛せよ…

12月第四水曜祈祷会、クリスマスの余韻を覚えつつ、今日はオンラインで祈祷会を行いました。新型コロナは五類に移行してだいぶ落ち着いてきましたが、このところ緩やかな増加傾向にあるとのことです。年末年始に帰省されたり、旅行に出かける方も多いと思いますので、どうぞご自愛くださいますように。デボーションは詩篇31篇から御言葉を心に留めました。著者は厳しい逆境の中で心身ともに弱さを覚えていました。しかし、「私は主に信頼します。あなたこそ私の神です。と自らを奮い立たせるように信仰を告白したのです。人はみな、生きていれば必ず問題はあります。すぐに解決できる問題もあれば、長い時間かかる問題もあります。そうした中で、信仰者にとっての慰めは、主が私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみをご存じであることです。御使いは、飼葉桶に寝ている幼子…それが、あなたがたのためしるしですと告げました。すべてを捨ててこの世にお生まれになられた主は、私たちの悩み、悲しみ、苦しみを知っておられるのです。「主を愛せよ。すべて主にある敬虔な者たち。主は誠実な者を保たれるが、高ぶる者には 厳しく報いをされる。

あなたのための救い主…

12月第四主日、今日は午前中にクリスマス特別礼拝、また夕方からはクリスマスイブ・キャンドルサービスを献げました。礼拝ではルカ2章から『あなたのための救い主』と題してメッセージをさせていただきました。世界で最初の救い主誕生の知らせは、当時の社会で特に虐げられていた羊飼いたちに告げられました。彼らは寒空の中、野宿をしながら羊の群れの夜番をしていなければならないほど、仕事に追われ、生活に追われていました。神はそんな人々から見下げられていた彼らを選んで、御使いを遣わされたのです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」『あなたがた』とは民全体を指す言葉、まさに全世界の人々に向けて語られる神のメッセージでした。羊飼いたちはその知らせを信じて、「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」と出かけて行きました。この素直な応答ゆえに救い主誕生を目の当たりにしたのです。人間にとっては偶然に思えることも、神にとってはすべてが必然です。皆さまの上にもクリスマスの良き知らせがありますように。

本当のクリスマスを…

今年もΧ'mas(Χはギリシャ語。英語のXではありません。)が近づいてきました。クリスマスはキリストのご降誕を喜び祝い、礼拝を献げる日です(大体AD4世紀頃から祝うようになったと言われます)。聖書にはイエスさまの誕生日が12月25日だったという記述はありません。なぜこの日にしたのかというと、ローマ人たちが冬至を境に日が長引くのを『太陽の誕生日』として祝っていたことに関係しているようです。太陽の誕生と言えば、「世の光・義の太陽」。つまりクリスチャンたちはこの異教的な祝祭をキリスト教的に祝ったのです。ちなみに日本で最初にクリスマスを祝ったのは1552年の山口県。その後、信長、秀吉、家康…と時代は移り、キリシタン禁制とともにクリスマスも消滅し、それから時を経て…明治7年(1874年)に再び祝うようになったとのこと。ちなみに…クリスマスイブはクリスマスの前日ではなく、…夕方という意味(ユダヤの暦では日没を境に日が変わります)、つまり12月24日の夕方からクリスマスは始まります。教会ではこの日、朝にはクリスマス特別礼拝があり、夕方からはキャンドルサービスがあります。皆さまのお越しをお待ちしております。

人を恐れると罠にかかる…

12月第三水曜祈祷会、教会のデボーションは箴言29章から。「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」この間の子どもクリスマス会に来ていた男の子が帰り際に『クリスマスってサンタクロースの日じゃないの?』と質問してくれました。後ろでお母さんが『牧師さんに聞いてみたら…』と背中を押してくれたようです。確か私も小学校高学年くらいまでサンタクロースの存在を信じていたので、友だち同士で話しているのを聞いて、戸惑いつつもなんとかごまかしたのを覚えています。子どもながらに、周りのみんなが知っているのに自分だけが知らないのはこんなに恥ずかしいんだ…と思ったものです。でも、大人になってその考えも変わりました。「人を恐れる」とは、人の顔色をうかがうこと、人の思惑を気にすることです。聖書は、その先には罪の罠があるから気をつけなさいと教えています。なぜなら罪とは、神に背を向けること、神を二の次にすることだからです。たとえ周りのみんながどう思おうと、自分はここに立つというものを持っていたいものです。「支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし、人をさばくのは主である。

ヨセフへの受胎告知…

アドベント第三礼拝がありました。この時期になると、町は華やかな雰囲気に包まれると同時に、一人一人は慌ただしい日々に忙殺され、クリスマスを祝うどころではない方も多いでしょう。でも、だからこそ神の前に静まり、御言葉からクリスマスの本当のメッセージに耳を傾けたいものです。今日の礼拝メッセージはマタイ1:18‐25から、ヨセフへの受胎告知がテーマでした。許嫁のマリアが身ごもっている…それはヨセフにとって穏やかな暮らしから一転して奈落の底へ落とされるような知らせでした。受け入れがたい現実を前に、彼には二つに一つの道しかありません。マリアの懐妊を公にして罰を受けさせるか、密かに離縁状を書いて町から去らせるか…前者を選べばヨセフの責任は問われず、後者を選べばヨセフにも疑惑の目が向けられるでしょう。そこで彼が選んだのは後者。マリアを助ける唯一の手段でした。でも、彼がその決断を下す時、神は御使いを遣わして、神に従うもう一つの道があることを告げられたのです。私たちも時に、人間的には八方塞のような状況に立たされる時がありますが、神はもう一つの道、脱出の道、神に従う道を用意しておられるのです。