2021年の年の瀬を迎えました。教会のデボーションは詩篇106篇から。詩人は「ハレルヤ」という賛美の勧めから、イスラエルがいかに神との契約に不忠実に歩んだか、一方で主はご自身の契約に忠実であられたことを記しました。「しかし主は、御名のゆえに、彼らを救われた。」「それでも、彼らの叫びを聞いたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。」民の不忠実にも拘わらず、主はその憐れみと赦しをもって彼らを導かれました。この忍耐深い主の愛の中に、自分も生かされていることを思いました。今年もコロナ禍に振り回されながらも、多くの恵みと祝福をいただいて、一年を終えることができることを感謝いたします。新しい年も変異株の広がりなどが懸念されますが、世がいかに揺れ動いても、変わらない神の導きに期待して歩んでいきたいと思います。今年もブログを見てくださって本当にありがとうございました。皆さま、どうぞよいお年をお迎えください。
12月第五水曜祈祷会、教会のデボーションは詩篇105篇から。「主に感謝し、御名を呼び求めよ。」詩人は、イスラエルの歴史を紐解きながら、アブラハムとの契約を実現される主のみわざを語りました。神は流浪の民だったイスラエルをエジプトに導き、そこで大きな民族とされ、そして今度はエジプトがイスラエルを嫌うようにされ、約束の地へと旅立つように導かれました。主のみわざはすぐに理解できるようなものもあれば、理解するのに忍耐を要するものもある。でも、何が起ころうと神の契約と約束は変わることがありません。良いことも悪しきことも主の御心のうちに行われる、主はご自分の民が苦しんでおられる時、いつも主も苦しんでおられる、主が苦しみを許される時には必ず何かの意味があることを思いました。今年もコロナ禍に振り回された一年でしたが、同時にすべてが当たり前ではない、恵みの中にいたことを学ばせていただいた一年だったように思います。
2021年最後の主日、少し小雪がちらつきましたが、青空が広がる爽やかな朝でした。度重なる緊急事態宣言、オリンピックの開催、ワクチン接種による混乱など、コロナ禍に振り回された一年が終わろうとしています。礼拝メッセージはルカ17:20から、『神の国はいつ来るのか』というパリサイ人の問いかけにイエスさまが答えられた箇所。彼らは目の前に救い主イエスさまが来られているのに、神の国が始まっていることがわかりませんでした。「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」神の国、神のご支配は、主を信じる者たちの心に、交わりの中にすでに変化を起こしていました。それは今日でも、御言葉に生きる者たちを通して広げられているのです。人の子の日(主の再臨)の到来は、それがいつなのかは誰にもわかりませんが、その日が来たら誰の目にも明らかに認められます。終末のメッセージは、裁きの預言であると同時に、確かな救いへの招きの言葉なのです。
Merry Christmas!今年も御言葉の朗読とバイオリンの調べで、イエス・キリストのご降誕を思い巡らしました。イエスさまは神ご自身である方なのに、神としての威光も栄光も権威もすべて捨てて、人間の赤子となってお生まれになりました。しかも、そこは立派な宮殿でもなく大邸宅でもない、暗く貧しい悪臭の漂う馬小屋の飼い葉桶でした。御使いは告げました。「それが、あなたがたのためのしるしです。」イエスさまはローマ帝国に変わるこの世の王となるために来られたのではなく、全人類を罪とその裁きから救うために来られました。人はみな、生まれてきた本来の目的を見失って、それぞれ自分勝手な道を歩んでいます。自分の命をどう使おうと勝手なこと…一度しかない人生、楽しまなければ損…。そんなキリストの誕生など喜ばない人間の声が聞こえてくる中に、イエスさまはお生まれになられたのです。本物のクリスマスの喜びが皆さまの心にありますように。
12月第四水曜祈祷会はハガイ書から。バビロン捕囚から帰還したユダの民は、エルサレム神殿の再建に着手しました。でも、難民同然の彼らは、経済力も技術力も乏しく、おまけに隣国からの妨害も受けて数年で工事は頓挫してしまいます。月日は流れ、主は預言者ハガイを通して、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュア、さらには民の残りの者に向かって悔い改めと励ましのメッセージを告げられました。「あなたがたの歩みをよく考えよ」「強くあれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ」「今日から後のことをよく考えよ」「わたしがあなたを選んだからだ」ハガイはこの4つの御言葉を中心に、ユダの民を鼓舞し、再び神殿再建へと立ち上がらせていくのです。彼らにとって『神殿』は、神の臨在の象徴であり、神を礼拝し、神との出会いの場所でした。私たちも神との関係を後回しにしないで、主の臨在に励まされて、今日から後のことをよく考えて歩んでいきたいものです。
アドベント第四週、クリスマス礼拝を献げました。ルカ17:11~、イエスさまがエルサレムへ向かう途中、ある村でツァラアトに冒された10人と出会い、言葉一つで癒された記事をみました。彼らはみなイエスさまの言葉をそのまま信じて行動した時、癒しを経験したのです。どんなに喜んだでしょう。でも、話しはそこで終わりませんでした。その内の一人が大声で神をほめたたえながら戻ってきてイエスさまに礼拝を献げました。九人は癒しの事実だけを喜んだのに対し、彼だけは癒しを行ったイエスさまを喜んだのです。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」彼はこのイエスさまの祝福の言葉を受けて、新しい人生を歩み出していきました。人生のターニングポイントがあります。クリスマスはChristとmasの合成語。キリストのいないクリスマスはただ雰囲気を楽しむだけのお祭りに過ぎません。ぜひ教会で本当のクリスマスを喜び祝いましょう。
昨年はやむなく自粛しましたが、今年は感染対策とケーキなしで、ハートフル英会話クリスマス会を行いました(子どもたちはごめんなさい)。まずは卓球で体を動かしてから、クリスマスバージョンのUNOで盛り上がりました。もちろん英語です。今日は二つのクラスが合同でしたので、いろいろな方の話しが聞けていつも以上に楽しい時間でした。途中、ウクレレとホルンの演奏でクリスマスキャロルを賛美したり、レイチェルさんのバイブルメッセージでクリスマスの本当の意味についてお聴きしました。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」コロナ禍も今は落ち着いていますが、世界を見れば…まだまだこの先どうなるかわかりません。また、日本国内でも変異ウィルスのオミクロン株の感染が広がりつつあります。このクリスマス、一人でも多くの方に本当の大きな喜びが届けられますようにお祈りしています。
12月第三水曜祈祷会、ヨブ記40章から。主の創造の偉大さを知ったヨブは、やっと自分がいかに取るに足りない者であるかを知ることができました。神はそんなヨブに向かって、さらに倫理的な側面から語りかけていかれます。そこから、河馬、レビヤタンという神秘的な怪物(高ぶりの象徴)をあげて、それらを造られた神を不義に定める愚かさを指摘されました。結果として、主はヨブの苦しみの問いに直接答えることはされませんでしたが、最後にはヨブを悔い改めへと導かれ、ご自身をより深く知る者としてくださったのです。主はヨブが苦しんでいる時もともにおられ、ともに苦しんでおられました。まさにヨブの苦しみは、主ご自身の苦しみだったのです。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。」ヨブがあれほどの苦しみを通して導かれたこの告白を、今日私たちが恵みによって告白できる幸いを思わされます。
教会のデボーションはヨブ記39章に入りました。長い沈黙を破ってついに神が語りかけられます。それは『なぜこれほどの苦しみにあわなければならないのか』というヨブの問いに答える形ではなく、神の方からの「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。」という問いかけです。神がどのように地の基を定めたか、どのように測り縄を張ったか、自然界の法則、動物たちの養いなど、神の創造の偉大さがことごとく語られていきます。およそ人知をはるかに超えた主のはかりごとです。ヨブに答えられるわけがありません。でも、これによってヨブは自分の小ささをいやというほど示されます。その一方で、偉大なる神がこんな小さな自分と関わりをもってくださっていることにも気づかされていくのです。山は近づけば近づくほどその大きさを知ると言いますが、神の偉大さも知れば知るほど…言葉では表しきれません。でも、その方が今日も語りかけてくださる恵みを感謝します。
アドベント第三礼拝、メッセージはルカ16:19から。金銭を好むパリサイ人たちはイエスさまの「神と富とに仕えることはできない」という話しを聞いてあざ笑っていました。なぜなら彼らは、富や豊かさは神の祝福の表れであり、律法を守っている自分たちこそが天国に行けると思っていたからです。イエスさまはそんな彼らに、ある金持ちとラザロの話しをされました。金持ちは毎日ぜいたくに遊び暮らし、貧しいラザロは金持ちの施しに頼って生活していた。しばらくして二人に死が訪れ、ラザロは御使いに迎えられアブラハムの懐に、金持ちはハデスの炎で苦しんだという話し。ラザロとは神は助けという意。イエスさまのたとえ話しで名前で話されるのは珍しいことです。人はみな、どんなに裕福でも貧しくても、ただ神の憐れみによって生かされていることを忘れてはなりません。神は心の貧しさ、砕かれた心をご覧になられることを、慰められたラザロから教えられました。
12月
12月第二水曜祈祷会、ヨブ記36章から。苦しみのどん底で、自分の潔白を主張し、神よりも自分自身のほうを義とするヨブに向かって、エリフはこう言います。「神は苦しむ人をその苦しみの中で助け出し、抑圧の中で彼らの耳を開かれる。」神は人を苦しみから助け出されるのではなく、その苦しみの中で助け出されるというのです。苦難は様々な形で、すべての人の人生に予告なしで襲ってきます。その時、神は何をしておられるのですかと思わず叫びたくなるのではないでしょうか。でも、苦難の中でこそ、私たちの心が神に向き、その御声を聞こうと心の耳が開かれることもあるのです。大事なのは、苦しみや不条理は神から出ているのではないこと、その人が悪を行った結果でもなく、ましてや神からの罰でもないことです。神は苦しみの中でこそ私たちとともにおられるお方です。今日は祈祷会に来られた方々の様々な証しを聞く時となり、生ける真の神を心に覚えました。
今日は朝から冷たい雨が降る一日でした。教会のデボーションはヨブ記35章~。苦難の中で、神よりも自分の方が正しいと思っているヨブに向かって、エリフの言葉が続きます。彼は、人はみな、苦しみの中で泣き叫んだり、助けを叫び求めりするものですが、本当の意味で神を求めているのではないと言います。それは言わば本能的なものであって、信仰を働かせての祈りではない、今のヨブはそのような人々と同じではないかというのです。このようにヨブを責めた後で、エリフはこう諭しました。「しかし訴えは神の前にある。あなたは神を待て。」神はご自分のしもべの叫び声を聞き洩らすような方ではない、神はご自分から関わりを断ち切ることはない、私たちの救いのためにはどんな犠牲を払うことも厭わない、だから神を信頼して待ち望めと諭したのです。祈っても状況が変わらないと思う時こそ、私たちが真の信仰を養う時。私たちの祈りは神の御手の中にあるのです。
アドベント第二礼拝。メッセージはルカ16:1から。イエスさまの教えの中でも最も難解なたとえの一つです。主人の財産を勝手に使ってしまった管理人は、主人にそのことを知られてしまい、クビにされた時のために債務者たちに恩を売って後で面倒を見てもらうように考えました。主人はこの不正な管理人が賢く行動したのをほめたという話しです。なんとも首をかしげてしまうような話しですが、実はそういう所ほど気づかなった恵みを発見したりするものです。「不正の富で自分のために友をつくりなさい」「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり」「神と富とに仕えることはできません」たとえ話しの後のイエスさまの解き明かしの中に、著者ルカの独特な視点が感じられ、私自身は非常に教えられました。久しぶりのメッセージ後のグループタイムでも多くの感想があがり、分かち合いも祝福されたようです。今日も恵みに溢れた主の日を感謝いたします。
長年パキスタン、アフガニスタンで人道支援に尽力してこられた中村哲医師が武装集団の銃撃を受けて召天されてから二年が経ちました。耳を疑うような信じられないニュースでした。中村さんは医師でありながら自ら重機を操作し、『100の診療所より一本の用水路』を合言葉に、1600本の井戸を掘り、全長13kmもの用水路を築き、東京ドーム3500個分にあたる1万6000ヘクタールの土地をよみがえらせ、60万人以上の命を救いました。そんな中村さんはクリスチャンでありながら、イスラム教徒が祈りを捧げるモスクやマドラサ(神学校)を建設して地元の人々を励まし元気づけたそうです。まさに敬天愛人に生きた中村さんの功績はこれからも世界中の人々の心にずっと生き続けることでしょう。「神の御心は何か、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるように…」明日はアドベント第二礼拝。ぜひお近くのキリスト教会に足を運んでみてはいかがでしょう。
12月第一水曜祈祷会、ヨブ記32章から。なぜ善人が苦しみにあわなければならないのか。三人の友人たちは、苦難の原因は罪の結果であると主張し、ヨブに悔い改めを迫りましたが、ヨブは自分の正しさを主張するばかりでした。すると側でずっと聞いていたエリフが業を煮やして語り出します。エリフは、ヨブが神よりも自分の方を正しいとしたことや、ヨブの不義を認めながら言い返せない三人の友人たちにも怒りを燃やしました。こうして堰を切ったようなエリフの言葉が続き、もはやヨブは何も言い返せませんでした。「確かに、人の中には霊があり、全能者の息が人に悟りを与える。」天からの知恵こそがあらゆる難題を解決する力です。確かにエリフの言葉は、正論でした。ただ、彼の言葉が苦難の中で痛み悲しんでいるヨブに、どう聞こえたのかは疑問です。結果として、三人の友人もエリフも、ヨブの立場に立って考えるという視点が足りなかったのではないでしょうか。
教会のデボーションはローマ16章から。パウロ神学を代表する書簡。信仰義認を中心に、一人で読み理解するには難解なところもあったのではないでしょうか。ただ、この終わりのところに関しては、普通の手紙と同じように「…によろしく伝えてください。」と教会や一人一人の顔を思い浮かべるように挨拶を記していて親しみやすいところです。パウロがいかに多くの人のために祈っていたのかがわかります。「どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。」手紙を受け取った教会でも、あらためてパウロ先生の働きを覚えて祈ったことでしょう。昨日は私たちの教会を会場に、教団の教職教育部がありました。今年度の報告に始まり、次年度に向かっての審議が長時間に渡って行われました。コロナ禍でZoom会議が続いたので、対面会議は久しぶりでした。関東から新潟から、このために来てくださった先生方のご労と献身に心から感謝いたします。
11月第四主日、秋晴れに天気でしたが、頬に当たる風が一段と冷たく感じる一日でした。今日からアドベント(待降節)。礼拝ではルカ15:11~32から『二人の息子と父の愛』をテーマに御言葉を学びました。弟は父の財産を分けてもらうと遠い国で、湯水のように使って、やがて大飢饉が起こると豚の世話をするはめになり、食べるのにも困り果てました。でも、彼はその人生のどん底で父のことを思い出します。「立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。』」来る日も来る日も父は息子の帰りを待っていました。だから、彼の姿を見つけると、まだ遠かったのに、父はかわいそうに思い、駆け寄って彼を抱き、口づけしました。そして、急いで彼のために一番良い服、指輪、履き物を用意し、子牛を屠って祝宴を始めたのです。神の無条件の愛…。何度読んでも新しい感動が胸に迫って来るところです。
今年もアドベント(待降節)の時期を迎えました。アドベントとは、「到来、到着」を意味します。明日からクリスマスイブまでの4週間、救い主イエス・キリストのご降誕を待ち望む期間です。日曜日ごとに一本ずつローソクを灯していきます。教会でキリストの到来について語る時には3つの意味を持っています。それは、2000年前、誕生によって来られたこと、今日私たちの心のうちに来られること、終わりの日に栄光のうちに来られることです。聖書には、「昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」とあります。私たちにとって最も大事なのは、クリスマスをただの年中行事として迎えるのではなく、その本当の意味を知って迎える時、その人の心にキリストは住んでくださることです。Christmasとは、キリスト(Christ)のミサ・礼拝(mass)という意味です。教会の新しい一年はこの日から始まります。ぜひお近くのキリスト教の教会に足を運んでみてはいかがでしょう。
教会では毎週木曜日にハートフル英会話教室を行っています。今日も教室からなごやかな会話と子どもたちの元気いっぱいの声が聞こえてきました。中には海外生活をされていた方や留学をされていた方もおられ、文化や習慣の違いなどを聞くこともあります。また、海外旅行のためや仕事で使うため、英語を忘れないためなど、目的もさまざまです。講師の先生はクリスチャンですが、受講される多くの方はクリスチャンではないので、教会に来るのは初めて、聖書を見るのも初めて…という方もおられます。牧師としてはそうした方とちょっとした休憩時間にお話しするのも楽しみの一つです。仏教を信じる方も神道を信じる方も、物は試しで何でもお気軽にご質問ください。ある時は『教会でもクリスマスをやるの?』と聞いてくれたお友だちもいました。教会はクリスチャンだけでなく、どなたにも開かれた場所です。本当のクリスマスの意味も、ぜひお話しできたらと思います。
11月第四水曜祈祷会、朝から抜けるような青空が広がりました。ローマ14:9「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」聖書では『死』に3つの意味を示しています。肉体の死、霊的な死、永遠の死(第二の死)。人はみな、やがていつかは肉体の死を経験しなければなりません。でも、クリスチャンはイエス・キリストを信じる信仰によって霊的な死から解放されています。また、キリストの十字架の贖いによってすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられ、永遠の死からも解放されているのです。それゆえ肉体の死は永遠の死に至る門ではなく、天国への門に過ぎません。ここに生きるにしても、死ぬにしても、主のためにという生き方の土台があります。今日の祈祷会も、まずみことばの分かち合いに恵まれ、祈りのうちに主のものとされている幸いを思いました。
11月第三主日、収穫感謝礼拝。礼拝はルカ15:1−10、いなくなった一匹の羊を捜し回る羊飼い、なくした一枚の銀貨を熱心に捜す女性の姿から、イエスさまの譬えを学びました。そこから主は今も失われた人を捜しておられること、一緒に喜びを分かち合われること、罪人が悔い改めることを待っておられることを心に留めました。一人でも多くの方にこのメッセージが届くように祈ります。そして、今日も礼拝後に二名の兄姉の入会式がありました。『あなたは、神の子イエス・キリストの十字架の贖いによって救われたことを確信しますか』という問いかけに、『確信します』とはっきりお答え頂きました。いつもこの誓約の時が、牧師として一番胸が熱くなります。メッセージの通り、一緒に喜びを分かち合うことができて本当に感謝でした。午後は来週から始まるアドベントに向けて大掃除&クリスマスの飾りつけ、夕方は青年たちと卓球で汗を流し、恵まれさまの一日でした。
「私は何とかして自分の同胞にねたみを起こさせて、彼らのうち何人かでも救いたいのです。」キリスト教における『救い』とは…?私は25歳まで聖書を読んだことも教会に行ったこともなかったので、最初は違和感がありました。法にふれるような犯罪を犯しているわけでもないし、人から後ろ指を指されるようなこともしていないし、普通に人は死んだら極楽に行くものだと思っていました。でも、今から25年前、教会に行くようになって、礼拝や聖書を通じて、あらためて人はみな罪人として生まれてくること、神の怒りの下にあって、病気でもなく寿命でもなく、裁きとしての死を迎えなければならないことを知りました。そして、人はみな何かの功徳を積んだり、正しく生きることによってではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われることを教えて頂いたのです。百聞は一見に如かず。まだ…という方は、ぜひ近くのキリスト教会に足を運んでみてください。
11月第三水曜祈祷会、教会のデボーションはローマ10:14~。人は、律法の行いよるのではなく、キリストを心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのですとあります。そして、信じるためには聞かなくてはならない、聞くためには宣べ伝える人がいなくてはならない、宣べ伝えるには遣わされなくてはならないと諄々と記していきます。伝道は、私たちの熱心さや言葉の巧みさが重要なのではなく、最終的には聖霊のお働きによるものです。それでも『伝道はどうも苦手で…』『伝道はしないといけないことですか…』と言われるクリスチャンの方は少なくありません。伝道ってなんだろう。今日はそんなことを素直に語り合う機会になりました。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」私たちにとって最も大切なのは聖霊の助けを祈り求めることです。何はともあれいつもそこから始めたいものです。
11月第二主日、ルカ14:15~「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」パリサイ派の指導者の食事会に来ていたある客は、どこか誇らしげにそう言いました。でも、イエスさまはそんな彼に向かって、神の国の食卓に招かれる者について譬えをもって話されました。神の目は、自分にはその資格があるとおごり高ぶる者ではなく、招かれる資格などないとへりくだる者たちに注がれていること、「まだ席があります。…私の家をいっぱいにしなさい。」と神が万事を備えてくださっていること、そこにあなたも来なさいと招いてくださっているとは、まさに幸甚の極みです。今日はいつも祈り深く謙遜な姉妹の転入会式といつも小さな教会を駆け回る子どもたちの祝福式がありました。午後は役員会でクリスマス&次年度に向けての話し合い、夕方は久しぶりにお会いするご家族としばしのお交わり、夜は青年たちと賑やかな夕食に…。今日も恵みいっぱいの主日でした。
横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されてからまもなく44年を迎えます。当時13歳だっためぐみさんは部活の終わった帰り道、自宅まで200mという場所で失踪しました。すぐに新潟県警や機動隊による懸命な捜索活動がなされましたが、拉致事件が判明したのはそれから20年も後のことでした。なぜこんなことが起きるのか…自分が悪いのか、先祖が悪いのか…絶望の淵に立つ早紀江さんに、ある宣教師が聖書を手渡しました。しばらく読む気にはなれなかったそうですが、ある時ヨブ記を読んで『私の苦しみがここにある』と教えられたそうです。その後、早紀江姉はクリスチャンとなり、その33年後にご主人の滋さんも病床洗礼を受け、天に凱旋されました。明日は滋兄の誕生日。苦しみの理由、それは人間には理解できません。しかし、主はご存知であり、ともに苦しんでおられる。今はただ、めぐみさんの帰りをひたすら待っておられるご家族のために心からお祈りしています。
今週月曜日に関西キリスト災害ネットワーク・第五回懇談会がありました。『この町に教会があってよかった。ー大規模災害災害に備えて、防災の視点でー』をテーマに田村治郎氏の講演を聴きました。今回の出席者は21名、ここまで累計で100名を超える先生方が出席してくださったことになります。本当に感謝です。災害はいつ起こるかわかりません…。南海トラフ大地震も今後30年以内の発生確率は70~80%と言われています。防災士の方も言われました。『もし天気予報で降水確率70~80%と言ったら当然備えをするはず。災害もこの感覚が大事です。』そして『地震10秒診断ーもしもあなたの町で地震が起こると?』『東京備蓄ナビ』という興味深いアプリをご紹介くださいました。無料ですので、ぜひお試しください。今日も教会ではハートフル英会話があり、大人クラスからは楽しそうな笑い声が聞こえ、キッズクラスにも新しいお友だちが来てくださって感謝でした。
11月第二水曜祈祷会、ヨブ記29~31章。「あのとき」と幸いな生活を振り返り、「しかし今は」と悲惨な現状を語り、「私は自分の目と契約を結んだ」と自らの潔白を主張するヨブの姿を黙想しました。ヨブの幸いな生活の土台は、家族の多さや財産の多さの前に、神との親しい交わりがあったことでした。また、ヨブにとって最も悲惨な状態とは、神に向かって叫んでも、神が何もお答えにならないことです。次第にヨブは自分の潔白を主張することで、神の側に問題があることを訴えていました。神はなぜヨブをこれほどの苦しみにあわせたのか…。それは私たち人間には理解できないことです。でも、イエスさまは言われました。「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」十字架への道を歩まれたイエスさまは、試練がなくなるようにではなく、信仰がなくならないように祈られました。ここに一つの答えがあるように思いました。
11月第一主日、実るほど頭を垂れる稲穂かな…。ルカ14:1~、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」イエスさまは食事会に客として招かれた人たちにたとえを話されました。自分から上座に座ってはいけないこと。なぜなら、自分にはその資格があると心の中で思っている人は、反対に神の前で認められないからです。また、食事会に人々を招く主人にも話されました。もてなしをするなら、友人や家族やお金持ちよりも、貧しい人たちや体の不自由な人たちの方が幸いだということ。なぜなら、その人たちはお返しができないので、終わりの日に、神が報いてくださるからです。イエスさまが教えられたのは、単なる処世訓のようなものではなく、もっと深い霊的な真理、言わば御国での食卓の話しでした。今日は聖餐式の恵みにもあずかり、午後からは役員諮問会がありました。三人の兄姉の立派な信仰告白に心も体も満たされました。
『ここはかみさまがすんでいるおうちなんだよね』教会の前を通る小さなお子さんがお母さんと話しているのが聞こえました。ここに教会があることを地域の方が心に留めてくださっていたら感謝です。お掃除をしているとご近所の方と挨拶を交わしますが、なかなか教会には用事がなくて…信仰心もないし…でも、クリスマスには行こうかしら…と声をかけてくださる方もいます。ぜひ用事がなくても、信仰心がなくても、気軽に立ち寄って中を覗いてみてください。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」聖書の神さまは、人間が作った家にはお住みにはなりません。なぜなら神はこの天地万物を造られ、私たち人間を造られた方だからです。そのあまりにも偉大なる神さまのことを、どこで聞いたらいいのでしょうか。百聞は一見に如かず。ぜひ日曜日の礼拝に足を運んでみてください。
11月の第一水曜祈祷会はヨブ記23章から。エリファズの三回目の語りかけも、ヨブを励ますことはできず不毛に終わりました。ヨブも根拠のない罪を責められ、もはやエリファズへの反論をあきらめ、神への独白のように語り出します。「ああ、できるなら、どこで神に会えるかを知って、その御座まで行きたいものだ。」人に理解されない苦しみを、ヨブは神ならきっとわかってもらえると思います。でも、どこを探しても神を見つけることができない…神は全くご自分を隠されてしまった…。ヨブの苦しみは、ここにありました。「しかし、みこころは一つである。だれがその御思いを翻せるだろうか。」神の計画は変わらないが、自分は神の前に黙ることはできない…神にこの苦難の説明を求めたいというのです。今日は祝日だったので、普段あまり来られない方も祈祷会に来てくださって深い分かち合いとなりました。難解なヨブ記を身近に感じることができたことを感謝します。
教会のデボーションはヨブ記21章になりました。二度目のツォファルの語りかけに対するヨブの答えです。絶望の淵に立つにヨブに、友人たちはなんとかして彼を慰めようと説得を試みます。そこでヨブはこの二度目の会話の終わりに、自分が必要としているのは安易な慰めの言葉ではないこと、ましてや説得や非難を受けることなどではないと訴えます。自分の語ることに耳を傾けてほしい…それを自分への慰めにしてほしい…と。友人たちの説得は、不幸が誰かを襲うのはその人が神と人間に対して罪を犯したからだ、悪しき者は裁きを受けるということです。ヨブの答えは、では…私は悪しき者なのか、悪しき者だって長寿を全うし、子孫も財産も与えられている、それが現実ではないかということです。あらためて祝福と繁栄とは何かを考えさせられます。困難の中でこそ、この世の価値観に振り回されないようにしたいものです。主は言われました。「心の貧しい者は幸いなり」
10月第五主日、今日も子どもからご年配の方まで多くの方々が集われました。1517年10月31日、ルターはカトリックの免罪符に対する反論として95ヶ条の公開質問状を張り出しました。このニュースは瞬く間に全ヨーロッパへ広がり、プロテスタントの狼煙ともなりました。そこから約500年の歳月が過ぎますが、日本のクリスチャン人口は未だ全体の1%にも満たない状況が続きます。まさに日本でクリスチャンになるのは狭き門と言わざるを得ません。でも、その狭き門を見出し、そこを入口として救いの道を歩み出す人は幸いです。狭き門とはイエス・キリストです。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。」大事なのは入口です。宗教はみなどれも同じではありません。最初のボタンの掛け違いはその後ずっと間違えたままです。今日、苦難の中を通らされても、ともに歩む者は少なくても、あなたはわたしに従いなさいと主は招いておられるのです。
今、日曜礼拝ではイエスさまの生涯を記した福音書から学んでいます。生前イエスさまはどのような言葉を語り、どのような歩みをされたのかを読むと教えられることがたくさんあります。ただ、その頃の弟子たちはイエスさまが語られたことを正確には理解していませんでした。イエスさまが召された後、初めてその言葉と行動の意味を理解したのです。私たちも時に、言われたそのときに言われたことを理解できるとは限りません。その人が亡くなってある年月を経て初めてわかることもあります。私も父を天に見送って16年…。父が何気なく話していた言葉が今になって響いてくることがあります。『人と人との関係はどちらかが亡くなっても続きます。続くだけでなく、深まってもいきます。』最近読んだ本の一節が心に残りました。確かにそうだなと思います。ああしておけばよかった…と考える日々もありましたが、今は父が願うであろう自分として歩みたいと願っています。
10月第四水曜祈祷会、教会のデボーションはヨブ記17章になりました。誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていたヨブがなぜこれほどの苦難にあっているのか…。友人たちは、ヨブが神に背いて罪を犯したから神の裁きが下ったのだとヨブに悔い改めを迫ります。しかし、ヨブにとって彼らの言葉は何の慰めにもなりません。むしろ、ヨブは自分の潔白を主張し、ますます絶望の淵へと追いやられていくのです。「いったい、どこに私の望みがあるのか。だれが私の望みを目にするのか。」自分の人生はもう終わったも同然、もはや何の望みもないと独白していくヨブ…。彼のように私たちも時に、神に嘆き苦しみを訴えるような、文句を言いたくなるような時があります。でも、それはつきつめれば心の奥底で神を信頼しているから、信頼したいからこその言葉ではないでしょうか。私たちの希望はイエスさまがいることです。この希望は失望に終わることがありません。
今日は朝から冷たい雨が降っていました。昨日の午後、納棺式の際に故人のお顔を見せていただきましたが、穏やかな優しい顔をしておられたので、今主の平安の中にいることを思いました。母教会の先生にも連絡をさせて頂いて洗礼志願書などをFAXで送って頂き、祖母から続くクリスチャンであったことがわかりました。教会生活はあまり熱心な方ではなかったようですが…クリスチャンの従妹の方とも電話で話すことができて、青年時代のこともよく教えて頂きました。ある牧師はこう言います。その人の一生の価値は、その人の働き盛りとかではなく、実にその人の臨終の枕元においてなされるもの…。葬儀の中で御言葉が語られ、永遠のいのち、天の故郷、天国での再会を心に覚えて、ご遺族の方々と讃美歌を歌いました。終わった後、列席者の方に「キリスト教の葬儀もいいもんやね」と仰って頂きました。とても慰めに満ちた葬儀になりました。お祈りを感謝いたします。
10月第四主日、すっかり秋の深まりを感じる一日…。礼拝メッセージはルカ13:10-21。イエスさまは安息日に、18年も病の霊につかれてきた女に声をかけられました。「女の方、あなたは病から解放されました。」彼女はイエスさまのことばを信じて、ただちに立ち上がって、神をあがめたのです。ここに安息日の本質があります。すなわち、安息日はただ習慣的・形式的に守ればいいものではなく、大事なのは『喜びの日』『栄えある日』とすることです(イザヤ58:13)。また、イエスさまは『神の国』について二つのたとえを話されました。『からし種』『パン種』はどちらも極小の種粒でありながら、大きな成長、大きな影響を与えるもの、そして、種自体に生命力があることを示しています。神の国はイエスさまの到来によって始まり、私たちのただ中にあって、今日も全世界で広がりつつ、変わりつつあるのです。礼拝後、今日は転入会式もあって祝福に溢れる一日でした。
以前、教会に来てくださっていたご家族から久しぶりにお電話をいただきました。それは『夫が天に召されました』という寂しい知らせでした。最初にご主人とお会いしたのは今から7年前で、教会のホームページを見て訪ねてくださいました。その時は、しばらく教会生活もお休みされていたようでしたが、少し懐かしそうに聖書や信仰のことについていろいろお話ししてくださったのを覚えています。青年時代、好きな女の子が教会に通っていて、彼女に惹かれて行ったのが最初だったとのこと…(よくある話しです)。それから、洗礼までどのように導かれたのかは聞いておりませんが、いずれにしてもクリスチャンになられたのは本当に幸いでした。聖書にはこうあります。「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。…その人たちはその労苦から解き放たれて安らぐことができる。」葬儀は月曜日になりますが、ご遺族の上に主の慰めと支えをお祈りいただければ幸いです。
10月第三水曜祈祷会、ヨブ記11章から。三人目の友人ツォファルが満を持してヨブに語りかけます。「ことば数が多ければ、言い返されないだろうか。人は唇で義とされるのだろうか。」先のエルファズ、ビルダデの語りかけに対し、ヨブは実に言葉巧みだと批判します。ツォファルも、ヨブの受けた災いはヨブ自身に問題があると見ていました。そして、二人の友人と同じく彼も、因果応報の考えに基づく神への悔い改めを、ヨブに迫ります。そうすればヨブの苦しみは取り去られ、その繁栄は回復されるのだというのです。最初から自分の答えを持っているツォファルの言葉は、たとえ正論だったとしても…ヨブの心を慰めるどころか、極めて辛辣なものです。こうして、ヨブはますます自分のことをだれも理解してくれないと思っていくのです。私自身も、知らず知らずのうちに聴き手になれず、正論をかざして相手を言い伏せてしまっていることはないか…考えさせられました。
10月第三主日、気持ちの良い青空が広がる一日となりました。礼拝メッセージはルカ13:1-9。イエスさまは群衆に向かって、ガリラヤ人たちが殺されたことやシロアムの塔が倒れて死んだ18人のことについて語られました。当時の人々は何かの災難が起こるとまず神罰を考えたようです。イエスさまはそうした考えを否定して、「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」さらにいちじくの木のたとえをもって、父なる神が忍耐して待っておられること、イエスさまがとりなし祈っておられることを教えられたのです。「今年一年そのままにしておいてください。…それで来年、実を結べばよいでしょう。」いちじくの木を徹底的に守ろうとするイエスさまの思いが、この言葉に表されています。それは、ご自身のいのちをかけてでも守ろうとする愛であり、このイエスさまの愛によって示される神の愛でもあります。この愛が、私たちにも向けられているのです。
ヨブ記7章。エリファズの言葉を受けて、ヨブはあなたに私の苦しみの深さがわかるのですかと反論します。そして、神の訓戒などいらないから、もう自分の命を絶ってほしいと嘆きます。やがてヨブの思いは、友人のエリファズから、神に向かって語り始めます。主のしもべとして生きてきたのに、今自分は家族も財産も何もかも失い、全身の病に冒され、あとは息のように儚く消え去るだけ…もはや再び幸いを見ることはない…というのです。「もういやです。いつまでも生きたくありません。かまわないでください。私の日々は空しいものです。」ヨブの一つ一つの言葉に、深い悲しみが迫ってきます。ただ…大切なのは、神はこのヨブの嘆きの祈りに耳を傾けておられることです。私たちも時に、苦しくて苦しくて生きてることさえ辛い夜が、だれにも理解してもらえないと感じる日々があるのではないでしょうか。「しかし私は、主よ、あなたに叫び求めます。…」(詩篇88:13)
10月第二水曜祈祷会、ヨブ記5章から。昨日に続いてエリファズのヨブへの言葉から学びました。エリファズは、不幸やわざわいは人間の罪の報いなのだから、激しく嘆いたり、神を呪ったりするのは間違っていると語りかけます。むしろ、神の叱責を受けるのは幸いなこと、神はただ懲らしめるだけではなく、その傷を包み、癒してくださる方だと言うのです。「私なら、神に尋ね、神に向かって自分のことを訴えるだろう。」エリファズは無意識のうちに、自分がもしヨブの立場だったらこうするのに…と自己の敬虔さを主張しました。痛みと悲しみの淵にあるヨブは、彼の言葉をどう聞いたのでしょう。まさしく傷口に塩を塗られるような思いだったのではないでしょうか。たとえ真実が混ざっているとしても、言葉には本当に気をつけたいものです。分かち合いの時間にも、いろいろな感想を聞くことができて感謝でした。今日から、少し新しい体制での水曜祈祷会が始まります。
教会のデボーションはヨブ記に入りました。人の苦難の意味について、これほど考えさせられる書はありません。物心両面に恵まれていたヨブは、略奪と天災という四つの災いに遭い、すべてを失います。それでも神の御心と受け止め、神への信頼を持ち続けるヨブのもとに、エリファズ、ビルダデ、ツォファルの三人の友人が訪ねてきます。彼らは、ヨブの悲しみにただ寄り添うしかできませんでしたが、ヨブが徐々に自分の心情を打ち明けたので、まずエリファズが自分の考えを話しました。エリファズは、ヨブの身体を労わりながらも、不幸には必ず原因があること、自分の経験から神の絶対的な正しさを示すなど、ヨブに自分の非を認めさせるような説得をしたのです。彼を励ましたいという気持ちが、いつの間にか上から物を言うような言葉に…。傷ついた人の心を理解せず、不用意な言葉を発するより、ただ黙って寄り添うこと、とりなし祈ることの大切さを思わされます。
10月第二主日は、朝から夏を思わせるような日差しの強い一日でした。礼拝メッセージはルカ12:22‐34から。大勢の人々が集まっている中で、イエスさまは弟子たちに「あなたがたは、…いのちのこと、…からだのことで心配したりするのはやめなさい」と言われました。そして、鳥や草花に目を移して、それらを養っておられる神は、あなたがたのことを価値ある存在として見ておられ、あらゆる面で養ってくださるのだと教えられたのです。天の父なる神さまは、私たちが生きていく上で必要なものをよくご存知です。そして、私たち以上に私たちのことを心配してくださっているのです。イエスさまが弟子たちによく繰り返された言葉に、「恐れるな」があります。それは、彼らの心に深く刻まれていったことでしょう。今もイエスさまは、私たちが慌てたり、何かに恐れている時にも、私たちを憐れんで、この時の弟子たちと同じように声をかけて、励ましてくださるお方です。
今日から、ハートフル英会話・秋期コースが開講しました。久しぶりにお会いする方々と初めてお会いする方々と、また木曜日のなごやかな時間をともに過ごせることを感謝します。教会は、クリスチャンの方はもちろん、クリスチャンではない方にとっても、大人も子どもも、心落ち着く楽しい場所であってほしいと願っています。講師のレイチェルさんとホゼアさんが本当に心を込めて授業をしてくださいますので、とても雰囲気のよいクラスです。大人も子どもも、定員人数までもう少しあります。ご興味のある方はまずは無料体験クラスをお試しください。話しは変わりますが…昨日は東北で、今日は関東で、震度5強の大きな地震がありました。首都圏の地震では、各地で停電があったり、水道管が破裂したり、複数のけが人も出たようです。東日本大震災以来10年ぶりの震度5強とのこと。けが人や被災された方々を覚えてお祈りしています。関西もあらためて注意が必要です。
10月第一水曜祈祷会、ローマ8:1‐17。パウロは善を行いたいと願いつつ、自力ではそれができない現実を認め、人はただ救い主の助けを求めるほかないことを述べました。でも、だからこそ「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」というのです。キリストを信じ、キリストの救いにあずかった者は、今や「罪と死の原理」、すなわち罪と死の支配から解放されました。それは、キリストの贖いによって「いのちの御霊の原理」がもたらされたからです。御霊は、私たちのうちに住んでくださって、私たちを永遠のいのちに導き、神の子どもであることを証ししてくださいます。ですから、パウロは他書でも「御霊によって進もうではありませんか。」と勧めるのです。私たちも、肉体的には日ごとに衰えても、霊的には日ごとに新しく造り変えられ、キリストのご支配の中を、キリストの栄光目指して歩もうではありませんか。
緊急事態宣言解除に伴い、今週の木曜日からハートフル英会話秋期コースが始まります。毎週木曜日に行っている英会話教室、皆さまに愛されて今年で27年目を迎えました。日常会話から海外旅行、ビジネス英語など、使える英語を身に着けたいならネイティブ講師から学ぶのが一番です。講師は二人とも敬虔なクリスチャン。最大6人の小グループ制なので、互いに助け合いながら、新しいお友だちの輪が広がります。大人クラスも、初めは皆さん緊張されてこられますが、だんだん親しくなって会話も弾み、いつも笑い声がたえません。Kidsクラスは、フラシュカードを使ったりクラフトをしたり、とにかくいろいろなプログラムがあって楽しい50分です。クラスの時間帯や料金などの詳しい情報はハートフル英会話のページをご覧ください。すでに案内チラシを見てくださった方もいるかと思いますが、ただいま無料体験クラスを受付中!お電話か、メールでお申し込みください。
10月第一主日、秋晴れの青空が広がる一日。緊急事態宣言解除後の最初の主の日、三回に分かれての礼拝でしたが、多くの方々と久しぶりに顔をあわせ、聖餐式の恵みにもあずかることができて感謝でした。メッセージはルカの福音書12:13‐31。群衆の中の一人がイエスさまに質問したことから、イエスさまが愚かな金持ちの譬えをされたところです。そこから、財産はいのちを保証しないこと、神なき人生を歩む愚かさ、神との正しい関係に生きることを心に留めました。『神に対して富む者』とは、自分で精一杯聖い生活を送り、神の子どもとして多くの良いことをする…ことではなく、何より、こんな弱く愚かな者でも、神から愛されていることを喜び、与えられたいのちを感謝し、喜びの日も悲しみの日も神とともに歩むことです。自分に誇るべきものがなくても、神を信じる者に約束された神との和解があります。今週もこの恵みのうちを歩ませていただけることを感謝します。
教会のデボーションはローマ6章に入りました。パウロはイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められることを記した後、「それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。」という問いを投げかけます。つまり、神の恵みが増し加わるために、あえて罪の中にとどまっているべきですかというのです。それに対する答えは、「決してそんなことはありません」です。理由は二つ。私たちは律法の下にではなく(罪に対して死んだ者)、恵みの下にある(神に対して生きる者)からです。その目に見えるしるしがバプテスマ(洗礼)です。もちろん洗礼を受けたからといって、すぐに罪から完全に自由になれる人はいません。地上にあっては、罪との戦いや誘惑があります。でも、私たちはみな、聖潔に向けて決定的な一歩を踏み出した者たちです。あとは聖霊により頼みつつ、一歩ずつ完成を目指していきましょう。
教会のデボーションはローマ5章に入りました。「こうして…私たちの主イエス・キリストによって、神との平和をもっています。」主イエスを信じる信仰によって、私たちは神との正しい関係が回復しました。その結果、私たちは神との和解、交わりの中に生きる者とされたのです。だからこそ今の患難さえ喜ぶことができる、それは患難が忍耐を生み出すことを知っているからです。忍耐とはただ消極的に我慢することではなく、主に期待して積極的に生きることです。キリストは私たちの罪のために死んでくださった、しかも「私たちがまだ罪人であったとき」に、です。ここに人類に対する神の愛が具体的に示されました。アダムの背きによって全人類に罪が浸透したように、キリストの義の行為によって多くの人が義とされる道が備えられたのです。今、キリストを信じる信仰に歩んでいる者が、どれほど圧倒的な恵みの中に生かされているかを、心に留めて歩みたいと思います。
9月第五水曜祈祷会、ローマ4:1-25から。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」パウロはユダヤ人が誇りとするアブラハムとダビデの例を挙げて、行いではなく信仰によって義と認められることを記しました。丁度、旧約聖書を学ぶ会でアブラハムの晩年を学んだところでしたので、「不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます」ということの意味がよくわかりました。アブラハムも75歳の時に神の召命を受けて信仰の旅が始まりましたが、時に神に背き、神の叱責を受けることもありました。それでも彼は、神の声に励まされ「望み得ない時に望みを抱いて信じ、…神には約束したことを実行する力があると確信して」歩み続けたのです。このような信仰者になるには、アブラハムでさえも、長い年月の神の取り扱いを受けました。私たちもアブラハムの子孫として、約束を信じて偉大な信仰者の歩みに倣いたいものです。
9月第四主日、爽やかな風が気持ちのよい一日でした。伝道者の書6章から『悪しき病からの癒し』をテーマに、神の賜物を楽しめない空しさ、今あるもので満足できない空しさ、神と言い争う空しさをポイントに御言葉を学びました。『だれが知るだろうか。…だれが人に告げることができるだろうか。…日の下で何が起こるかを。』誰も知り得ない、それが6章の結論でした。『悪しき病』とは、神なき人生を歩む者の心を蝕む病魔です。放っておけば確実に死に至る病となります。でも、感謝すべきは、今日の私たちはこの問いの答えをイエス・キリストのうちに見出すことができることです。今は教会に行きたくても、他の方のことを考えて自粛しておられた方も多いと思います。それぞれの地域教会で事情は違うと思いますが、私たちの教会も緊急事態宣言の解除を目安に、主日の三部礼拝を再開します。また、教会で皆さまと心一つに礼拝をささげられるのを楽しみにしています。
昨日は同盟教団宣教130周年記念大会がありました。教団の歴史、特色、展望がどういうものかをあらためて再確認する良い機会となりました。1891年に来日した15名の宣教師(その内の一人は来日後3ヵ月で召天)は、今では想像もつかないような迫害、経済的必要、霊的戦いを覚えながら未伝地での宣教と救霊のために献身してくださいました。その功績は、現在261の教会、信徒11,965人が所属し、さらに日本とアジアと世界に仕える教団となり、今も前進し続けています。朝岡理事長の全体講演の中で『コロナ禍にあって多くの教会が困難の中にある。でも、私たちの思いを越えて働かれる主の御業に、私たちは参与するのだ。』という言葉が心に残りました。確かに自分の教会だけが祝福されればいい、同盟教団の教会が増えればいいというのが、130周年に覚えることではありません。主が必要とされるならば、喜んで宣教協力し、献げていく教会でありたいと思わされました。
昨夜は中秋の名月。思わず「天は神の栄光を語り告げ。大空は御手のわざを告げ知らせる。」の御言葉を思い出す夜でした。そして、今日の水曜祈祷会。ローマ1:18~「不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」同じ天を見上げるのでも、今朝は身の引き締まる思いがしました。『怒り』とは『神の裁き』(終末的審判)を表す言葉です。人間は、自然の美しさを思うと同時に、その造り主に思いを馳せなければなりません。罪の本質は、何か犯罪を犯すことではなく、神を認めず、神を神としてあがめないことです。私たちはこの世に生まれてから、何もかも当たり前ではない現実の中を、自分の力で生きてきたのではなく、神によって生かされてきました。神は義しい方ですから罪に対しては厳しい裁きを下されます。と同時に、神は愛なる方ですから神を求める者には全き赦しをお与えになるのです。
教会のデボーションはローマ人への手紙になりました。今日はその書き出し1:1‐7から。ギリシャ語原文では一続きのあいさつ文。「キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。」この一節だけでも深みのある言葉です。キリスト・イエスに対する全き服従、神の福音のために選び分かたれ、復活の主の証人として遣わされた者だということ。ここから、福音とは何か、自分の使命とは何か、パウロがこの手紙を通して伝えたいことが、短い文章の内にギュッとまとめられています。ちょっと難しそうだな…と感じる方もいるかもしれませんが、Ⅱ歴代誌の時のように1章ずつではなく、ローマ書は短い節に区切って見ていきますので、なんとか読書百篇の気持ちで一緒に味わっていきましょう。「…すべての、神に愛され、召された聖徒たちへ。」聖霊さまがお一人ひとりのデボーションを祝福してくださいますように祈っています。
9月第三主日、台風一過の青空が広がりました。伝道者の書5章から。伝道者である著者は、形式や口先だけの信仰の空しさ、また金銭や富を追い求めることの空しさを覚え、結論として神が与えたいのちの日数の間を楽しみ喜ぶように告げました。「こういう人は自分の生涯のことをあれこれ思い返さなさい。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。」私たちの人生は短く、あれこれ思い返している暇もないほど束の間に過ぎてゆくものかもしれません。でも、神がその人生を喜びで満たしてくださることを信頼して、たとえ束の間であっても、一心に主を賛美し、その栄光を表していきたいものです。今日は礼拝後に二人の方の洗礼式がありました。コロナ禍なので、細やかなお祝いしかできませんでしたが、天で大きな喜びの声が上がっていることを思いました。まさに神の時、新しい人生の出発に、立ち合えて感謝でした。これからの信仰生活の祝福を心よりお祈りしています。
詩篇102篇は苦しむ者の祈りです。「主よ、私の祈りを聞いてください。私の叫びが、あなたにまで届きますように。」詩人は、心身ともに病気にかかり、自分のいのちの終わりまで予感していたようです。でも、彼は言葉にできないその思いを、神に向けて行きました。「それはあなたが、憤りと激しい怒りのゆえに、私を持ち上げ、私を投げ捨てられたからです。」今の状態はたまたまではなく、神が通らされている試練であるならば、回復を与えてくださるのも神です。イエスさまも、神の許しなしには何事も起こり得ないと言われました。困った時こそ神の名を呼び求めましょう。私たちは何か辛い試練にあうと、早くそこから抜け出したい、解放されたいと願い求めるものですが、まず今の状況を神が知らないはずがない、神は間違ったことをなさらない、忘れてはおられない…そのような信頼に立ちたいものです。すべてのことを、私たちを愛するゆえになさる方だからです。
9月第三水曜祈祷会はⅡ歴代誌36章から。ヨシヤ王の死後、南ユダは滅びの最終段階に入り、4人の王が登場して幕を閉じます。どの王の時代もエジプトから、バビロンから攻撃を受け、国は弱体化していきました。それでも主は、たびたび使者を遣わして悔い改めを迫りますが、彼らは全く聞く耳を持たず、預言者らを蔑み笑いものにしました。こうして、ついに主の激しい憤りが燃え上がり、カルデア人の王ネブカドネツァルによって、若者も年寄りも殺され、神の宮は焼かれ、剣を逃れた者たちもバビロンへ捕らえ移されるという壊滅状態に陥ったのです。神の厳しい審判でした。でも、本書の最後には、エレミヤによる回復と希望の預言とペルシャの王キュロスによる解放宣言が記されていました。「バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み…」主はご自身の計画をもって歴史を導いておられる、ゆえに主の裁きは真の回復の始まりでもあることを思いました。
教会のデボーションはⅡ歴代誌35章、南ユダ国最後の信仰の王ヨシヤに関する記述です。彼は8歳で王となり、16歳で主を求め、20歳で改革を開始し、31年間主の目にかなうことを行ったとあります。その中でも特筆されるのは、先週のヒゼキヤ王の場合もそうでしたが、過越のいけにえを献げて神への献身を示したことです。『過越』はイスラエルの民がエジプトの奴隷から主によって助け出されたことを記念する祭りです。「イスラエルでこのような過越のいけにえが献げられたことはなかった。」過越にかけるヨシヤ王の熱心は膨大な量のいけにえや祭司・レビ人への命令に表されていました。その後しばらくして、ヨシヤ王はエジプトの王との戦いで不慮の死を遂げていきます。これほどの改革を行った王が…なんともあっけない死に方に思いますが、「全ユダとエルサレムは、ヨシヤのために喪に服した。」という言葉に、彼の労苦も決して無駄ではなかったことを感じました。
9月第二主日。アメリカ同時多発テロ事件から20年が過ぎました。今年8月末に最後の米軍機が現地を離れ、米史上最も長い戦争に終止符が打たれましたが、今もなお政治的混乱が続くアフガニスタンのために祈りたいと思います。今日の礼拝メッセージは伝道者の書4章からでした。権力者たちに虐げられている者たちの涙、神なき成功、神なき人生、神なき名声の空しさを覚えました。「二人は一人よりもまさっている。…一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」イソップ童話の『三本の棒』、毛利元就の『三本の矢』を思い出すところですが、自分と隣人、そして第三の糸に、イエス・キリストを見ることができるのはクリスチャンの格別な恵みです。また、午後からの役員会では緊急事態宣言再延長に伴い、教会も来会自粛期間を再延長することを決めました。今はただ感染者数の減少を祈りつつ、主の憐れみを求めたいものです。
4日間の研修会が終わりましたので、今日はちょっと休憩。秋の花がほしいなぁと思って、The Farmへ。この時期は春や夏と違って花の種類も限られていて、とりあえず…今日は見て回るだけで満足でした。秋と言えば『秋桜』ですが、種から準備していたのが、目を出して15㎝くらい伸びたところでぜんぶ枯れてしまいました。土が原因だったのか、暑さだったのか…わかりませんが、結局、つぼみをつけたものをいくつか買って植えることにしました。でも、教会で花を育てるのは、何より見て喜んでくださる方がいると思うからで…今の緊急事態宣言中は来会する方も少なく、寂しいものです。気を取り直して、狭い教会の畑を耕し、ジャガイモでも植えようかなと思っています。ある方が気にして『山下先生はワーカホリックじゃないですか…』と心配してくださったのですが、適当に休んでおります。お気遣いありがとうございます💦皆さまも季節の変わり目、ご自愛ください。
月曜日から同盟教団のオンラインでの補教師研修会が行われています。私も教職教育部員なので、若い先生方と一緒に9つの講演会に出席しました。同盟教団の牧師として知っておかなければならない事柄を、一つ一つ先輩の先生が経験も踏まえて教えてくださるのでかなり実践的です。対面のような深い交わりは持てませんが、家族で参加されている先生もいたので、オンラインならではの良さもありました。これから正教師試験にチャレンジする先生方のために祈らされました。さて、今日の水曜祈祷会はⅡ歴代誌31章から。ヒゼキヤは、祭司とレビ人を組分けして、主の律法に記されているとおりにいけにえを献げさせました。さらに、彼らが律法に専念するためにエルサレムに住む人々に献げものをするように命じたのです。いやいやながらではなく、喜んで献げる民の姿が目に浮かびます。ヒゼキヤの思いは民全体に浸透し、まさに神の民みんなで行う宗教改革となったのです。
教会のデボーションはⅡ歴代誌30章になりました。29章からヒゼキヤが南ユダの王として即位し、神殿を修復し、レビ人を聖め、偶像を徹底的に除去する宗教改革を行ったことが記されています。しばらく信仰的に堕落した王さまが続きましたので、ヒゼキヤの登場はまさに希望の光です。ヒゼキヤはイスラエルとユダの全土に過越のいけにえを献げるように呼びかけました。「主に立ち返りなさい。そうすれば、主は…あなたがたのところに、帰って来てくださいます。」その頃、北イスラエルはアッシリヤの攻撃を受け、すでに首都サマリヤは陥落し、多くの民が連れ去られる中で、ヒゼキヤの呼びかけを物笑いにし、嘲る人々もいました。でも、こうした危機的状況だからこそ、神の救いを求めてエルサレムに集まり、大きな喜びをもって礼拝を献げる者たちもいたのです。「…彼らの祈りは、主の聖なる御住まいである天に届いた。」こんな喜びに溢れる礼拝を献げたいものです。
9月第一主日、雨も上がり青空が広がる一日。今日の礼拝メッセージは伝道者の書3章からでした。有名な箇所ですが、読めば読むほど…その深遠さに圧倒されるところで、一回のメッセージでは語り尽くせないことを感じました。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」神は創造の時から、人の心に永遠なる方を慕い求める思いを与えられました。自分の心が神に向けて造られたこと、また神に知られ、愛されていることを知ること、人生においてこれ以上の幸いはありません。伝道者の書、まだ三合目まで登り始めたばかりですが、読書百遍の気持ちで読んでいきたいと思います。今日も教会に来られた方は奉仕者も入れて10人ほどで、新しい方も来てくださって感謝でした。パラリンピックも閉会しました。選手の皆さま、本当にお疲れさまでした。
9月最初の水曜祈祷会はオンラインで行いました。今日もライブでの解説はお休みさせていただいて、会堂で録画した映像を視ました。Ⅱ歴代誌24章はヨアシュ、25章はアマツヤ、26章はウジヤ王。この時代の王の特徴は、最初は主の目にかなうことを行っていたのに、後半に神から離れ、身を滅ぼしていくことです。読んでいて思わず『どうしてここで…』と思ってしまうほど、見事に偶像に心奪われ、預言者の声に耳を傾けず、神を侮り、自分勝手な行いに走り、主の御怒りを受けていきます。スケールは違いますが、私たちの信仰生活にも通じることかもしれません。初めのうちは謙遜にへりくだっても、ある程度、問題が解決すると神から目を離してしまう…自力でなんとかできると錯覚してしまう…。王たちの信仰の不甲斐なさが、どこか自分の姿と重なるからこそ余計ヤキモキするのかもしれません。王たちの問題点をしっかり心に留めて、私たちも兜を締め直したいものです。
8月の旧約聖書を学ぶ会がありました。私事ですが、今日は2回目のワクチン接種があったため、予め録画したものを配信させていただきました。愛妻サラが召天し、老人となったアブラハム。後の気がかりは、まだ息子イサクの嫁が決まっていないことでした。そこでアブラハムは信頼できるしもべを呼び寄せて、息子の妻となる女性を見つけてきてほしいと命じました。しもべは祈りの内に具体的な主のお取り計らいを求めます。すると、彼が祈りが終わらないうちに、リベカという素晴らしい女性が目の前に現れたのです。この後リベカはしもべと一緒にイサクのもとに行くことを決心し、長旅に出発しました。夕暮れ近く、散歩から帰ってきたイサクが目を上げて見ると、ちょうど、らくだに乗ったリベカも目を上げて、二人が見つめ合うという感動的な出会いのシーンでした。「…イサクは、母の亡き後、慰めを得た。」アブラハムとサラの祈りはこうして聞き届けられたのです。
8月第五主日、緊急事態宣言延長に伴い、教会もあらためて来会自粛となり、オンラインの礼拝となりました。伝道者2章から「万古不易の真理」というテーマで、イスラエルの最高の知恵者であり、栄華を極めたソロモンが、地位も名声も富もすべてを手に入れ、その結果はいかに。「すべては空しく、風を追うようなものだ。」つまり求めても、手に入れても、心は満たされなかったのです。むしろ、食べる、飲む、働く…こうした基本的な生活の中に満足を見出す、それもまた神の御手によることと受け取っていく、ここに人間の知恵があるというのが心に残りました。今日は午後からファミリーコンサートがありました。昨年はコロナ禍で中止でしたが、今年はオンラインでの開催。バイオリン、ビオラ、チェロ、ウクレレ、サックス、ピアノ、フルート、オーボエ、歌、鉄棒、証し、多くの方が出演してくださいました。私たちの教会らしいコンサートができたことを感謝します。
8月の第四水曜祈祷会がありました。二週間お休みをいただきましたので、久しぶりの祈祷会に少し緊張しました。使徒の働き27:27~パウロたちを乗せたローマ行きの船は暴風に襲われ、アドリア海を漂っていました。人々は二週間も何も食べずに暴風に翻弄されるままになっていましたが、パウロの「あなたがたは助かります」という言葉によって元気づけられ、食事をとりました。夜が明けたころ、近くに入江が見えてきましたが、二つの潮流に挟まれて船は座礁し、ついに船尾から壊れ始めていきます。もはや万事休す…でも、パウロの言葉を信頼した百人隊長の指示で、二百七十六人全員が無事に陸に上がることができたのです。ともにこの危機を経験したルカならではの臨場感にあふれる描写でした。どんなに人間的にはもうダメだ…と思うような状況に陥っても、たとえ沈みゆく船の中にあっても、まことの神を知る私たちの存在は決して小さくないことを思わされました。
教会のデボーションは使徒27章です。人々の不当な訴えによって総督や王の前で証しをしてきたパウロは、いよいよローマ皇帝ネロのもとに送られることになりました。当時の世界の首都ローマにおいて福音を証しすることは、パウロが長く切望していたことであり、世界宣教における神の計画が前進することでもありました。ただし、ローマへの道のりはなお遠く、険しいものでした。途中、船は向かい風にあおられ、さらには暴風に襲われ、難破の危機に陥りました。もはや人々の助かる望みも完全に絶たれようとしている中で…パウロは毅然としてこう言いました。「元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う人は一人もありません。」パウロのように、神の御心に従って歩んでいても、途中で思わぬ暴風に襲われることはあります。でも、「私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになる。」この揺るがない確信を、私たちも持っていたいものです。
8月第四主日、今日は献堂4周年記念礼拝でした。私たちの教会がこの場所に移ってきて、もう丸4年が過ぎるのだな…と感慨深く思いました。今はみんなで集まってのお祝いはできませんが、この教会でいろいろな方と出会い、主にある交わりを持たせていただいたことを感謝します。今日の礼拝メッセージは玉井邦美師が申命記1:5-8からメッセージを取り次いでくださいました。ただ恵みを受けるだけの教会生活は危険であること、また、教会には託された使命があることについてチャレンジを受けました。「あなたがたは向きを変えて出発せよ。」コロナ禍にあって、教会の活動も何かと制約がありますが、あらためて目を上げて教会が進むべき方向を確認できたように思います。今日もまた、コロナの感染者数は日曜日としては過去最多を更新。明後日からはパラリンピックも始まります。まだまだ感染拡大に歯止めがかからない状況ですが、御心を求めていきたいと思います。
今週は夏休みをいただいて、大学生のオンラインキャンプで奉仕させていただきました。本当に充実した、内容の濃い四日間でした。緊急事態宣言が発令される中でもこうしてzoomを通してキャンプの恵みを味わうことができたのは、実行委員をはじめスタッフ、現役生、卒業生、多くの方の祈りと支えがあってのことだったと思います。この場を借りてあらためて御礼申し上げます。ありがとうございました。どこか自然の中で、対面で、時間も気にせずできたら…と思った学生たちもいたと思いますが、今の情勢の中での最善だったのではないでしょうか。今回のテーマは『伝道』でしたが、グループリーダーから信仰の決心や信仰の原点に帰る青年たちがいたことを聞いて、主の御名をあがめました。彼らにはまた、明日から厳しい現実が待っていると思います。でも、キリストがともにおられ、一人ひとりに与えられた御言葉が支えと希望になりますようにお祈りしています。
オンラインキャンプ、三日目が終わりました。今回の奉仕を依頼された時は、コロナ禍の教会のことで頭が一杯で、お受けするかどうか思案しましたが、これまで教会の青年たちがどれだけお世話になってきたかを考えたら、地域教会の牧師として感謝を表すべきだと思わされました。実際、キャンプが始まってみると、配信に不手際があったり、妻が入院することになったり…いろいろな予期せぬことが起こりましたが、まっすぐに御言葉に向かおうとする青年たちの姿に励まされっぱなしの三日間でした。連日メッセージの後に、zoomの牧師室に青年たちが訪ねてきてくれて、質問や感想を分かち合ってくれましたが、まさに牧師冥利に尽きる時間でした。参加者77名、初参加10名。「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」キャンプは明日の派遣礼拝で終わりますが、コロナ禍の時代の青年たちを、祈りと御言葉をもって送り出したいと思います。
箕面の青空が戻ってきました。でも、このところの長雨は日本各地に甚大な被害をもたらし、金曜日頃まで予断を許しません。また、もはや驚きもないですが、大阪の新型コロナの新規陽性者も2,296人という過去最多を更新。全国でも23,000人を超え、歯止めがかからない状況です。神がいるならなぜこんな状況を許しているんですか…今日もキャンプの分科会で質問がありました。きちんと答えられたかわかりませんが、確かなことは、神はこの状況をご存知であって、心を痛めておられるということです。夜の集会のメッセージも、ペテロたちがイエスさまを見捨てて逃げ出していくところからでした。イエスさまはシモンに「サタンがあなたがたをふるいにかけようとしている」と警告しました。それなのに…。でも、イエスさまがそんな彼のために「あなたの信仰がなくならないように祈りました」と言われたことを中心に話しました。ここに私たちへの慰めがあるからです。
今日からキリスト者学生会のサマーキャンプが始まりました。Zoomなので、学生たちとゆっくり交わることはできませんが、画面越しにキャンプの雰囲気を味わうことができて感謝です。私は分科会と夜の集会でメッセージを担当します。今夜はペテロとイエスさまの出会いの場面から、「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」を中心聖句に話しました。最後にカメラを切り替えるのを忘れていたことに気づきましたが…時すでに遅し。でも、何人かの方に『特に問題ありませんでしたよ』と優しく声をかけられ…とにかく一日目を終えてホッとしました。あと三日間、気を抜かずに奉仕を全うできるようにお祈り頂ければ幸いです。新型コロナによる緊急事態宣言はついに地域拡大と期間延長が正式に決まりました。また、西・東日本でも激しい雨が予想され、どこで土砂災害が起きてもおかしくない状況です。様々なことが最小限に抑えられるようにお祈りしています。
8月第三主日は戦後76年目の終戦の日でした。先の大戦で亡くなられた方々を覚えて祈り、世界平和への思いを新たにしました。また、昨夜は西日本を中心に記録的な大雨が降り続き、各地に甚大な被害がありました。新型コロナの感染者数も一日2万人を突破する日が続いています。主よ、憐んでください…とただただ祈るばかりです。礼拝では伝道者の書1章からみことばを心に留めました。「空の空。伝道者は言う。空の空、すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」「空」とはもともと「息」を意味する言葉で、すぐに消えてしまう儚いものを表していました。神との関りのない人生はなんと儚く、空しいものだろうかというのです。それは当代随一の知恵者と言われ、経験豊富な伝道者の実感のこもった言葉でした。時代がどんなにうつり変わっても人間の本質は変わりません。今日の私たちにも、多くの気づきを与えてくれる書簡です。
台風一過でしたが、大事にしていた向日葵が倒れてたり、看板が飛んでしまっていたり…
CGNTVの撮影もあり、片付けと奉仕で慌ただしい一日でした。さて、教会のデボーションは使徒の働き21章から。聖霊に導かれたパウロは、いよいよエルサレムに到着しました。そこで早速、教会の指導者たちと会って神が異邦人の間でなさったことを報告し、ともに神をほめたたえたのですが、そのすぐ後でアジアから来たユダヤ人たちの扇動によって逮捕されてしまいました。なんとも痛々しい結果に…と思いきや、パウロは自分を「殺してしまえ」と叫ぶ民衆に向かって、立ち上がって弁明をしていったのです。その時、民衆は叫ぶのをやめて、パウロの話しに静かに聞き入ったとあります。この状況を千載一隅の機会に変えてしまうとは…。パウロの力強い証しにとても励まされました。私も来週はKGKのサマーキャンプ。オンラインですが、学生の方々に証しできる機会を感謝しています。
8月第二主日はヨナ書4章から。ヨナの宣教によって、ニネベの人々がみな神を信じ、悔い改めに導かれました。ところが、これほど素晴らしいことが起こっているのに、ヨナは不愉快で神に怒っていたのです。自分の思うように事が進まず、逆に最も懸念していたことが成就してしまい、「私は生きているより死んだ方がましです」とまで言い出す有り様。主はそんなヨナの心に問いかけながら、静かに悔い改めを迫ります。そして、一夜で生えて一夜で滅びた唐胡麻を惜しむヨナに、ご自身の御心を示されたのです。「ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。」情け深くあわれみ深い主の愛があふれ出るような語りかけが心に響きました。今日は、緊急事態宣言発令に伴い、多くの方が来会を自粛され、オンラインで礼拝を献げられました。世界中で賛否両論あった東京オリンピックも今日が閉会式。多くの感動を与えてくれた選手の方々に感謝します。
使徒の働き20章から。パウロは約三年のエペソの宣教に一応のピリオドをを打って、御霊に示され遠くローマを目指すことを決意します。そこからマケドニヤに渡り、ギリシャ、トロアスの諸教会を再訪し、多くのことばをもって弟子たちを励ましました。中でも、ミレトスで教会の長老たちを呼び寄せての決別説教は圧巻です。「そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません」「鎖と苦しみが私を待っている」「けれども、私が走るべき道のりを走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を全うできるなら、自分のいのちは少しも惜しいとは思いません。」パウロの宣教は、まさに命がけでした。その伝道者としての使命感にただただ圧倒されるばかりです。今もコロナ禍の状況が深刻化する中で、不要不急ではない礼拝をどのように献げるのがベストなのか…。一人一人が祈りのうちに御心を示していただき、主にあって平安があるように祈っています。
五十にして天命を知る…。現実はなかなか厳しいものですが、自分も50歳になりました。主の憐れみと大勢の方々の祈りと励ましに支えられて、なんとか今も牧師という尊い働きをさせていただけることを感謝いたします。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが…」今から25年前、洗礼を受けた時のお祝いに、教会のある方から三浦綾子さんの『ちいろば先生物語』の本をいただいて初めて榎本保郎牧師のことを知りました。こんな生き方があるんだ…と胸をワクワクさせながら読んだのを思い出します。その榎本先生は、さまざまな国で福音を宣べ伝え、52歳という若さで天に召されました。お会いしたことはありませんが、尊敬する先生の年齢に近づいて、改めてその偉大さを感じます。足元にも及ばないことは重々承知しながら、私は私なりに、少しでもイエスさまをお乗せするのに間に合う者にならせていただきたいと思わされます。
新型コロナの新規感染者数が増え続ける中、大阪府をはじめ6都府県で緊急事態宣言が発令されました。4度目の緊急事態宣言をどう受け止めるか…人によって温度差がありそうです。教会としては改めてオンライン礼拝を推奨していく方針ですが、この時期、一人でも多くの方が教会に目を向けてくださって、福音にふれていただければと願うばかりです。教会のデボーションは使徒19章から。パウロが第3次宣教旅行でエペソを訪問した際に、弟子たちに「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは「いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません」と答えたとあります。今日でもありそうな会話です。確かなことは、私たちがイエスを主と告白することができるなら、その人の心には聖霊がおられます。この聖霊が私たちの信仰生活を導いてくださっているのです。
8月第一主日、礼拝メッセージはヨナ書3章から。主の御顔を避けて逃げ出したヨナは、荒れ狂う海に投げ入れられ、絶望の淵で大魚に飲み込まれ、そこで主への悔い改めに導かれました。主はそんなヨナに再び「立ってあの大きな都ニネベに行き…」と前と同じ使命を与えられたのです。ペテロもそうでしたが、失敗から立ち直った者が、改めて遣わされていく姿に感動します。3章は何といってもニネベの人々がひたむきに悔い改める姿が印象的です。神はそんな人々の姿をご覧になってわざわいを下すのを思い直されました。礼拝後に数人の方と『神は一度決められたことを思い直されるのか…』について話しましたが、まさに主の御心がここに示されています。それは、裁きよりも、救いであることです。「見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。」午後からの役員会では、緊急事態宣言発令後の教会の対応について話し合いました。結果については、また後日お知らいたします。
新型コロナの新規感染者数は東京で過去最多の4,058人、大阪も再び1,000人超えとなりました。この数字だけでは判断できない面もあると思いますが、やはりより一層の注意が必要であることは間違いありません。明日の礼拝は感染対策を講じた上で通常の三部制で行いますが、2日以降のことは今後の社会状況等を鑑みて判断することになります。今日は午後から第1回箕面災害支援ネットワーク会議に出席しました。社協が中心となって、災害協力隊、青年会議所、消防団、ボランティアグループ、キューズモールなど、さまざまな団体の責任者が来られて、これまでの経験や情報を共有し、とても有意義な会議でした。こうした集まりにこれだけの人たちが集まる箕面市は頼もしいです。災害は起きないことに越したことはありませんが、地震や台風などの自然災害がこれだけ続く時代ですから、いざという時のために、教会も地域に役立つネットワークを作っていけたらと思います。
オリンピックの熱戦が続く中、一昨日あたりから国内の新規感染者数が1万人を超えるようになりました。感染力の高いデルタ株の猛威です。これを受けて、東京に続き、埼玉、神奈川、千葉、大阪にも緊急事態宣言が発出されることが決まりました。菅総理の会見ではワクチン接種の効果と人流の減少傾向が強調されていましたが、国民に向けての具体的な行動指針というものは明示されなかったように感じました。教会としても、今後の礼拝や集会をどうするか…役員会を中心に難しい判断が迫られています。教会のデボーションは使徒の働き17:16から、パウロのアテネ宣教の記述です。当時アテネには3000を超える宗教施設・礼拝所があり、さらに「知られていない神に」と刻まれた祭壇までありました。パウロは、そうした人々の宗教心を認めつつ、天地を造られた神を証ししたのです。私も今日は箕面市の災害支援ネットワークの会議に出席します。よき証しになれば感謝です。
7月最後の水曜祈祷会は使徒の働き16章から。パウロの第二次宣教旅行はここまで辛苦をともにしてきたバルナバとの意見の相違から、別行動をとる形で始まりました。二人とも優れた信仰者なのになぜ…と思うところですが、これよって二つの宣教チームが誕生し、宣教の拡大と次世代の育成という二倍の祝福につながるのです。パウロはシラスとともにアジアの教会を訪問した後、聖霊に導かれてヨーロッパへと渡っていき、そこでは紫布の商人リディアとその家族、若い女奴隷、さらには牢獄の看守やその家族など…次々と救いにあずかっていく者たちの姿が描かれています。もちろん、パウロたちに反対する者たちもいて、厳しい迫害もありました。でも、一人の魂が救われるために、神がすべてを導いておられることを思う時、私たちが今、クリスチャンとして歩んでいることはそれだけで意義深いことだと思わされます。とにかくここを出発点に、今日を歩んで行きましょう。
7月の旧約聖書を学ぶ会がありました。創世記23章、アブラハムが妻サラのために墓地を購入するところから。アブラハム75歳、サラ65歳に、「わたしの示す地へ行きなさい」という神の命令がありました。行き先もわからず信仰をもって歩んだアブラハムの傍らにはいつも妻サラの存在がありました。喜びも悲しみもともに分かち合ってきた配偶者の死に、アブラハムは「悼み悲しみ、泣いた」とあります。信仰者であってもこの地上の別れは辛いものです。でも、泣いてばかりもいられません。アブラハムは立ち上がって、墓地を購入し、サラを葬りました。そして、やがて自分も子孫もその墓に納められていくのです。信仰者にとって『墓』は、単に人生のゴールではなく、同じ約束を相続する者として生き、天の故郷をあこがれつつ、この世を旅立った記念碑。私たちもみな、神の備えられた天へと引き上げられ、そこで再会し、主にまみえて礼拝をささげる続きがあるのです。
7月第四主日、幾分涼しさを感じる朝でした。礼拝準備をしている時に、ある牧師の召天の知らせがありました。65歳、自宅での突然死とのこと…。詳しいことはわかりませんが、後輩に対しても面倒見のいい優しい先生でした。お世話になった先生のことを思い巡らしながら、今日の説教奉仕をさせていただきました。ヨナ書2章は、ヨナの感謝の祈りが綴られています。主の御顔を避けて、主の命令とは反対の町に向かったヨナでしたが、途中で激しい暴風に遭い、荒れ狂う海の中に投げ入れられてしまいました。息もできず海底に沈みゆく中で、もはや死を覚悟するしかなかったでしょう。しかし主は、そんな彼のために大魚を備えられ、助けられたのです。ヨナは大魚の腹の中で主を思い出し、主との関係を回復していきました。苦難に遭えば、誰もが主を思い出すものでもありません。思い出すのも、主の恵み。主は私たちのためにも救いの扉を備えて待っていてくださるのです。
57年ぶりとなる東京オリンピックが開会式を行いました。新型コロナの影響で史上初の一年延期、しかも緊急事態宣言が発令される中での開幕です。華やかな式典に胸躍らせる方もいれば、断固反対する方がいるのも確か。一番気の毒なのは間に立たされる選手の方々でしょう。大会関係者も命を削るような17日間だと思いますが…世界中の思いが一つとなるように祈ります。使徒の働き15章は、異邦人の救いに関して激しい論争が起こったエルサレム会議の出来事。今まで正しいと思ってきたことを捨てて新しい現実を受け入れるのはなかなか容易なことではありません。人の罪の性質は他者を悪者に仕立て自らを正しいと主張しやすいものです。サタンもそこにすかさず楔を打ち込んで、対立や分派を起こさせます。でも、この会議では聖霊が一人ひとりに働いて見事な解決に至りました。正論をかざすのも大事ですが、相手の立場に立って考えることを忘れないでいたいものです。
人が多く集まれば、それだけ性格や考え方に違いがあるものです。直前までもつれにもつれた東京五輪も今日が開会式。すでにソフトボール、サッカーなど、酷暑の中でも懸命にプレーする選手たちの姿に大いに励まされます。いずれの国の方もみな、神が創造され、いのちを与えられた尊い存在。日本の面子より、『平和の祭典』と呼ぶにふさわしい大会になってほしいものです。教会のデボーションは使徒の働き15章から。異邦人の回心を喜ぶパウロとバルナバと、「異邦人にも割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべき」というエルサレムの長老たちの間で協議が行われました。信仰か、形式か…という議論に、ペテロが大事な一言を。「…主イエスの恵みによって救われる」去年からのコロナ禍で社会は大きく変わり、教会の活動も大きく変わってしまいました。だからこそ本質を見誤らず、ただ過去を懐かしむだけなく、新しい未来に向かって進んでいきたいです。
今日の水曜祈祷会は使徒の働き14章から。パウロの第一次宣教旅行は、行く先々で大勢の人々が信じると同時に、信じようとしない者たちによる迫害が起きました。パウロたちの宣教がいかに影響力があったのかが伝わってきます。そんな彼らがリステラで出会った足の不自由な人の出来事は心に残りました。彼は生まれつき足が動かず、これまで一度も歩いたことがありませんでした。彼はパウロたちの話しに真剣に耳を傾け、パウロたちも彼が癒されるにふさわしい信仰があるのを見たので「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と命じると、彼は飛び上がって歩き出したというのです。彼のイエスを信じる信仰が彼を癒やしたのです。今の時代なら、通りすがりの誰かがその光景を動画に撮ってYoutubeにアップしたら、どれだけの人が見て信じるだろう…と不埒な考えが頭をよぎりましたが、やはり奇跡も大事ですが、みことばを信じる人が起こされることの大切さを思いました。
7月第三主日はハレファ・スルヤ師をお迎えして歓迎礼拝をささげました。「望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。」の御言葉からメッセージをしてくださいました。過去・現在・未来にある望みを覚えつつ、今ある苦難に耐え、1~2度ではなく、絶えず祈り続けていくことの大切さを語ってくださいました。個人的には、苦難に耐える召し、苦難に耐えることで奉仕をしている…というのが心に残りました。メッセージの中で前ジャカルタの知事のアホック氏の話しがありましたが、詳しいことがわかってよかったです。数年前、留学生のある学生が知事選のために祈ってくださいと話していたのを思い出しました。世界一のイスラム教国であるインドネシアでクリスチャンが役職に就くことの難しさ、大切さを考えさせられました。苦難は、忍耐を…品性を…希望を生み出す。この希望は神の愛が注がれているゆえに失望に終わることはないという約束を感謝します。
長い梅雨が明けて、猛烈な暑さがやってきました。日中は34℃まで上がったそうですが、これからさらに暑さは増してくるでしょう。コロナの感染も心配ですが、熱中症にも気をつけなければならない時期です。さて、教会のデボーションは使徒の働き13章になりました。アンティオキア教会から世界初の海外宣教師が派遣されます。このビジョンは彼らが教会で主に礼拝をささげている中で与えられました。そして、聖霊はこのために相応しい人物たちを聖別して送り出されたのです。神は今日でも礼拝の中で私たちに語られます。「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。」神は今、私たちに何を語ろうとしておられるのでしょうか。明日は久しぶりの歓迎礼拝です。講師のハレファ・スルヤ師は学位、聖書知識はもちろん、謙遜で温かみのある先生です。ぜひご家族一緒に大きな期待をもって、主に礼拝をささげましょう。
水曜祈祷会はⅡ歴代誌19章から。アハブとの共闘で出陣したヨシャファテは九死に一生を得てエルサレムに帰還すると、有害無益な北王国の訪問をやめて、内政に専念しました。偶像の除去、律法の教育、主への恐れをもって歩むという王の思いが国中に浸透していきます。そんな平穏な南ユダに、モアブ人とアンモン人らの連合国が攻めてきました。この国家危急の時にヨシャファテ王は恐れを抱きつつも、いつものごとく主の宮に来て祈りを捧げました。「私たちは苦難の中からあなたに呼ばわります。あなたは聞いて、お救いくださいます。」神はその祈りに応えて「主の救いを見よ」と約束されました。まさにこれは神の戦い、信仰による勝利でした。さて、ハートフル英会話春期コースも今日が最後のクラス。朝から30℃近くまで上がって、午後は梅雨明け前の不安定な空から、時折バケツをひっくり返したような雨が…。いざという時のために、日頃からの備えが大切です。
東京は4度目となる緊急事態宣言が発令されました。本当に飲食店や観光業をはじめ多くの事業主が悲鳴を上げていることでしょう。2021年上半期の倒産件数も過去50年間ではバブル末期に次ぐ二番目の低水準だったそうです。父と自営業を営んでいた頃を思い出します。また、新型コロナの感染者数も東京が830人、大阪も225人といずれも前週の火曜日の数値を大きく上回ってきていて、第五波は五輪の真っ最中に来るとも言われています。これで大阪も緊急事態宣言が発令されてしまったら、また教会でも来会自粛をお願いしなければならなくなることも考えられます。このタイミングになりましたが、昨年9月に結婚で別の教会に移っていった青年と奥さまに久しぶりに再会しました。元気そうで何より。初々しい生活ぶりを見せてもらいながら、今後に考えているビジョンを聞いて頼もしさを感じました。大きな決断をするのが難しい時期ですが、主の最善を心より祈っています。
Ⅱ歴代誌18章から。晩年は主から離れてしまったアサ王に代わって、息子ヨシャファテが南ユダの王位を継承しました。彼については多くの章を使って詳しくその治世が記されています。その生涯の大半は信仰深い、賢明な王の姿として描かれているのですが、やはり分岐点となったのは北イスラエルのアハブ王と姻戚関係を結んだことです。これによってヨシャファテは続く世代に大きな災厄を呼び込んでしまうことになります。まさに取り返しのつかない大きな罪悪をダビデの家に、そしてユダの国にもたらしていくのです。一つの判断、選択の誤りから、その後の人生、歴史を大きく変えてしまうことがわかります。人生のターニングポイントでどのような選択をするか…。「ヨシャファテは…言った。『まず、主のことばを伺ってください。』」信仰者の道も、晴れの日もあれば、雨の日、曇りの日もあります。それでもまず第一に主のことばを求める者でありたいものです。
7月第二主日、日中は30℃を越える夏日となりました。今日から礼拝ではヨナ書を講解していきます。「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。」主の召命がヨナに下りました。でも、ヨナはそれに背いて、ニネベとは正反対のタルシシュ行きの船に飛び乗ります。ニネベと言えばイスラエルにとっては悪しき敵国。憐れみ深い神がこの国を顧みるために自分を遣わすのだと思うと、ヨナとしてはどうしても従う気になれなかったのでしょう。そんな主の御顔を避けて、できるだけ遠くへ逃れようとするヨナの姿は、今日の私たちの姿とどこか重なってきます。そこがこの短い預言書が多くの方に愛される理由なのかもしれません。礼拝が終わって一人の女の子が質問に来てくれました。『どうして心の貧しい人がさいわいなんですか』私なりに説明すると、笑顔を見せてくれたので感謝でした。午後からは大学生からパソコンの操作を学んで…充実した主の日でした。
東京五輪開幕まであと二週間、東京都で4度目となる緊急事態宣言の発出が決まり、さらに首都圏一律で無観客が決定しました。あちこちで落胆の声が上がっていることでしょう。また、これによる経済損失も計り知れません。熱海の土砂災害の復旧を祈りながら、今日も各地で大雨警報が発令され、気分も暗くなります。こんな時は日々のデボーションで励ましを…と思いますが。Ⅱ歴代誌14章から、南ユダのレハブアムの後を継いだアビヤ王、その後を継いだアサ王と、それぞれに目を留める出来事もあり、比較的落ち着いた時期を迎えましたが、その最後には主へのつまずきが記されていました。「あなたがたが主とともにいる間は、主はあなたがたとともにおられます。もし、あなたがたがこの方を求めるなら、あなたがたにご自分を示してくださいます。」自分が願うような励ましではなくても、神が歴代誌を通して告げられるメッセージを素直に受けとっていきたいと思います。
熱海で起きた土石流は4日目を迎え、死者7名、安否不明者27名となりました。もはや毎年のようにどこかで豪雨災害が起きています。安否不明者の確認と復旧が少しでも早く進みますようにお祈りしています。昨日もハンガーゼロの災害セミナーに参加しましたが、教会の責任と宣教について考えました。あらためて箕面市のハザードマップを見直すと、教会も危険度1の地域にあります。発災時に何ができるのか…地域にどんな貢献ができるのか…具体的な備えをしておかなくてはなりません。豪雨災害だけではなく、南海トラフは今後20年以内に70~80%。首都直下型地震も今後30年で70%、富士山噴火も連動して発生することなどが予想されています。神の愛と救いを地域に宣べ伝える教会として、有事の際こそその行動がとれなければ意味がありません。平時の時だけ主を賛美するのでなく、危急の時にも「主は正しい」とへりくだって証しできる者でありたいと思います。
教会のデボーションはⅡ歴代誌11章から。ソロモン王が死んで息子レハブアムが王位を継承しました。でも、彼の時代に王国は南北に分断し、乱世の時代を迎えていきます。それにしてもレハブアム王のわがままぶりは目に余るものでした。民の窮状に目を留めず、父ソロモンをも軽くあしらい、自分が偉大な存在であるかのように振る舞います。「三年の間、彼らがダビデとソロモンの道に歩んだからである。」かろうじて三年間は、神の人シェマヤの声に従って、王権を回復させていきますが、やがて主の目に悪であることを行い、主の懲らしめをうけることになるのです。『金持ち三代』とも言いますが、祖父ダビデの信仰遺産は孫のレハブアムには受け継がれませんでした。困難の中にいる時よりも、繁栄の中にいる時の方が信仰的には危険も多いということなのでしょうか。自分が神の戒めに逆らうだけでなく、子どもたちにも逆らわせた責任は重いと言わざるを得ません。
7月第一主日は梅雨の晴れ間の一日でした。コロサイ人への手紙もついに終わりのあいさつから。改めて思うのは、この時のパウロはローマの牢獄に捕らえられ、裁判を待っている状態だったことです。でも、この手紙にはそんな苦難の中の嘆き節は一切見られず、恵みに始まり、恵みをもって閉じられています。パウロは代筆者を介して、コロサイの教会を思いながら一つ一つの言葉を丹念に選んで手紙を記していったのでしょう。そして最後に記したのは自分と一緒にいる同労者たちの消息でした。ティキコ、オネシモ、アリスタルコ、マルコ、ユストと呼ばれるイエス、エパフラス、ルカ、デマス…ともすると何気なく読み飛ばしてしまいそうな名前の羅列ですが、その中にもパウロの伝えたいメッセージが込められていました。私たちも一人ひとり、至らぬ点や不甲斐ないところもありますが、主にあって新しくされ、互いに助け合い、祈り合う交わりであることを感謝いたします。
早いもので2021年も折り返しを迎え、今日もハートフル英会話クラスから楽しそうな笑い声が聞こえてきました。コロナ禍も少しずつ変化がありますが、まだまだ余談の許さない状況が続きます。少し前の大阪のように、東京の感染者も増えつつあり、23日からのオリンピック開催時には1000人台になることが予想されています。厳しい現実が続きますが、下を向かず、目を高く上げて歩んでいきたいものです。教会のデボーションはⅡ歴代誌8章から。ソロモンは神殿建設という大事業を成し遂げ、王国に平穏をもたらしました。「安息日ごと…日ごとの定めにしたがって献げた」壮麗な神殿において心からの礼拝を献げる日々が続いたことでしょう。でも、そんなソロモンもやがて主の道から反れて、彼の死後、王国は南北に分断、霊的堕落の一途を辿っていきます。勝って兜の尾を閉めよ、とはよく言ったものです。「目を覚ましていなさい」という主の声が聞こえてくるようです。
預言者ミカは嘆かずにはいられませんでした。ずっと手入れをしてきた果樹園が荒らされて、実を見ることができない時のよう…神の前に敬虔な人がいない、心の直ぐな人がいないとは、そうした状態だというのです。その当然の結果として刑罰の日がくる。神は侮られる方ではない。人は種を蒔けばその刈り取りもしなければならない。そんな絶望的状況の中でミカは祈ります。「しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。」目の前の現実だけを見ていたら、希望の光は見えてこないでしょう。でも、主を仰ぎ見るとき、そこで私たちの祈りを待っておられる方がいることに気づかされていきます。裁きの言葉は神がまだこの世を見放していない証しです。「あなたがエジプトの地から出た日のように、わたしは奇しいわざを彼らに見せる。」試練も神の計画の一部。私たちが悔い改める(人生の方向転換をする)とき、神は嫌々赦すのではなく、喜んで赦してくださいます。そこで神と出会い、神に祈り求め、神の赦しと贖いにあずかる道があるのです。飼葉桶の幼子は、クリスマスがその最もよい機会であることを示しているのです。
昨日は12月の『旧約聖書の学び会』がありました。小さな学び会ですが、いつもお二人の方が必ず出席してくださって一緒に御言葉の恵みを味わっています。牧師としてそれは本当に有難いことだなと感謝しています。「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」イエスさまの臨在を感じながら、同じ祝福にあずかっている幸いを思いました。もちろんオンラインでご視聴くださる方々にも本当に励まされています。どうぞ来年も学び会にご参加いただけましたら幸いです。また、今日は2024年最後の水曜祈祷会がありました。ミカ書5章から『主の大逆転を待つ』というテーマで御言葉を心に留めました。私が一番心に残ったのは「ベツレヘム・エフラテよ」です。メシアの出現は南ユダの首都エルサレムではなく、地図にも載らないよう寒村ベツレヘムだと告げられました。そしてその預言通り、約800年の時を経てキリストがお生まれになったのです。あなたの今がどんなに暗くても、神はあなたを忘れたりしません。神はこの世の弱い者…無に等しい者を選ばれる方です。そこに私たちの思いを越えた神のご計画があるのです。
12月アドベント第三週、いよいよクリスマスが近づいてきました。今日の礼拝メッセージはマタイ1:18-25「インマヌエルの神」がテーマでした。大工のヨセフと婚約関係にあったマリアののもとに、突然主の使いが現れて「あなたは身ごもって男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」と告げました。マリアは戸惑いつつも信仰をもって受け留めましたが、ヨセフにはまだ何も告げられていませんでした。彼女の胎に赤子が宿ったことが分かると、身に覚えのないヨセフは思い悩んでいきます。穏やかな生活が根底から揺さぶられるような苦悶の日々だったでしょう。神はそんな彼の夢の中に御使いを送り、「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアを妻として迎えなさい。」と告げられました。ヨセフもまたこの常識では考えられない状況を信仰をもって受け入れていったのです。大きな重荷を背負わされた若い夫婦にとってインマヌエルの約束は何よりも心の支えとなったことでしょう。それは私たちの信仰生活も同じです。今日は午後からキッズ&ファミリークリスマスがありました。子どもたちの降誕劇も可愛かったです。賑やかで温かいクリスマス会となりました。
クリスマス受胎告知と言えばマリアが有名ですが、もう一人の立役者のヨセフを忘れてはいけません。妻マリアの胎に宿ったのが自分の子どもではなく、その子の名さえ自分で決められないという不条理を背負ったヨセフ。思いたくもないマリアに対する疑惑…。誰にも言えない悩みの日々を過ごしたことでしょう。でも、ヨセフはアリアとともに生きる決断をしたのです。このヨセフなくしてマリアもなく、世界で最初のクリスマスの奇跡もなかったのです。
今日はハートフル英会話秋期コースの最後のクラスでした。大人の方はクッキーハウス作りとプレゼント交換、キッズクラスはオリジナルクラフトをしました。どちらもクリスチャンの講師ならではのアイディアで本物のクリスマスを楽しみ味わいました。「キリストは富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたがキリストの貧しさによって富む者となるためです。」冬期コースを受付開始。1月16日から開始します。
12月第二水曜祈祷会、イザヤ書66章から。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。」いよいよこの預言書の最後の章を迎えました。偉大なる主の前に、私たち人間の二つの姿が描かれています。それは神が目を留められる者と拒まれる者です。その違いはあまりにも大きいと言わざるを得ません。でも、神は悪しき者が滅びゆくのを黙って見過ごすことができないお方でした。それゆえ神としてのすべての栄光をかなぐり捨てて、人となって降られたのです。
教会のデボーションはイザヤ書65章から。「わたしを尋ねなかった者たちに…わたしは見出された。」イスラエルの民が偶像を拝んで反逆するので、その結果、神の惜しみない愛と救いの御手は、他の民族(異邦人)に向けられることになったとあります。今日、神の民はユダヤ人であれ異邦人であれ、イエスを救い主であり主であると受け入れた人々です。「わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。」世の終わりには新天新地が再創造され、すべてのものは新しくされます。その時、私たちにとって大事なのは、神との関係が回復していることです。聖書には、神を信じた者、その名を受け入れた者に神の子どもとなる特権をお与えになられたとあります。"クリスマス(Christmas)"…それはイエス・キリストのご降誕を喜び祝う祭りです。キリストが人となって来られてからすでに2000年以上も経っているのに、今も世界中で祝われているのは不思議なことではないでしょうか。この時期、教会では様々なクリスマスイベントがあります。お一人でも、ご家族でも、ぜひお近くのキリストの教会で、本物のクリスマスを体験しましょう。
12月アドベント第二礼拝、冷たい空気が頬に当たる朝ですが、教会はいつものように温かな神の愛に包まれる礼拝を献げました。メッセージはルカ1:26ー55マリアのもとに御使いによる受胎告知がなされたところから。処女降誕は神にとってはごく細やかな奇跡だったでしょう。神が人となられたということ、これこそはるかに大いなる奇跡です。一層驚くべきは、ほかならぬ自分が神の母として選ばれるという御告げを、このごく普通乙女が信じたということです。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」という思いから、「どうぞ、あなたのことば通り、この身になりますように」という信仰に変えられていったマリア。疑い、戸惑いを覚えつつも、みことばに信頼して歩もうとする、その健気な姿は今日の私たちにも大切な信仰者のあり方を教えています。ただ、プロテスタントの教会はそんな彼女を敬愛することはあっても、崇拝することは致しません。カトリックの教会も崇敬であって崇拝ではないと言われますが…聖母、聖人という言葉はいかがなものなのでしょう。神はこの卑しいはしために目を留めてくださったというマリアの信仰に、私は共感するところです。
教会のデボーションはイザヤ64章から。63章に続いて「主よ、あなたは私たちの父です」とあります。神に背を向ける民に代わって、イザヤのとりなしの祈りが続きます。自分たちは神によって造られた者です。主よ、憐れんでくださいというのです。苦しい時の神頼み…というとなんだかご都合主義のように思われますが、それでも苦しい時の神離れに比べればまだマシです。求めましょう。神は憐れみ深く、求める者に答えてくださるお方なのですから。
目的地に行くにはそのまま直進するのが一番早いとしても、紅葉の見頃もあと僅か…と思うと、あえて遠回りしたくなるものです。丁度、いま読んでいる本にも似たようなことが書いてありました。『最短距離で行くとか効果的に最速でゴールに到着するといった目標は、霊的旅路において意味をなさない。この旅路では、回り道も、道に迷うといったことも含め、道のりのすべてに価値がある…』人生の回り道にも神が見せたい景色があるのかもしれません。
12月第一水曜祈祷会、イザヤ書61章から。「彼らは昔の廃墟を建て直し、かつての荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。」テキストの最後にあった『私の歩む日々は、誰かの救いと結びついているだろうか、それとも私自身の幸いだけのものだろうか。』との問いかけが心に残りました。今日は中村哲氏の召天日でした。医師でありながら多くの井戸や用水路を建設し、60万人以上の命を救いました。敬神愛人の信仰…私たちにも大切です。
12月アドベント第一礼拝、今日も素晴らしい快晴でした。メッセージはルカ1:5ー25から。祭司の家系の老夫婦ザカリヤとエリサベツのもとに、御使いガブリエルが現れ、ヨハネ誕生の知らせを告げました。それは老夫婦にとって、また、イスラエルをはじめ全人類にとっても大いなる喜びをもたらす知らせでした。でも、ザカリヤはその知らせを疑って、ならば「証拠」を見せてくださいと言います。すると、御使いはこう答えました。「…見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じられなかったからです。」神にとって不可能なことはなく、神の約束は時至って必ず実現する…ザカリヤはそれを身をもって体験し、信じない者から信じる者に変えられていきました。神のことばを信じることは小さな子どもでもできることです。むしろ、大人の方が自分の常識が先に立ち、科学的証明や納得する根拠を提示してくれたら、信じるかどうするか考えようと思うのかもしれません。今日は中学校まで来てくれていた女の子が、大学生となって久しぶりに夕礼拝に来てくれました。感謝です。
教会のデボーションはイザヤ58章から。「もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を『喜びの日』と呼び、主の聖日を『栄えある日』と呼び、これを尊んで、自分の道を行かず、自分の好むことを求めず、無駄口を慎むなら、そのとき、あなたは主をあなたの喜びとする。…」安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。十戒の中でも最も丁寧に命じられているのが、安息日規定です。ただ、この日を聖なるものとするのは、今も昔も容易なことではなかったようです。「聖」という言葉には、他とは区別するという意味があります。「安息日」(新約時代は日曜日)を他の日とは区別して、神のために特別な日とするためにはどうしたらいいのでしょう。もしすぐに思いつくことがなければ、教会の礼拝に出席してみられませんか。ただ何もしないで、心と体を休ませる日も大切でしょう。でも、この日を「喜びの日」「栄えある日」として、自分のための日から、神への感謝を表す日として過ごしてみるのはいかがでしょう。今年もアドベント(待降節)の時期を迎えました。ぜひ教会で本当のクリスマスを一緒に過ごしましょう。
「主が、病の床で彼を支えられますように。彼が病むとき 寝床から起き上がらせてください。」次の日曜日、私たちの教会の最高齢の兄弟が久しぶりに礼拝に来られます。足腰が弱くなられ、前のように電車とバスを乗り継いでくることはできませんが、ご家族が車で乗せてきてくださるそうです。いつも教会に行くことを励みにリハビリに取り組んでいるとのこと。祈りに答えてくださる主に感謝です。
11月第四水曜祈祷会、イザヤ書55章から。「渇いている者はみな、水を求めて出て来るがよい。」心に霊的な渇き覚える者はみな、神のところに来なさいという招きのことばです。数年前、ここに教会があってよかった…と言ってくださった方がいました。今はもう天国にいますが、忘れられない言葉です。私自身も教会がなければ、神を知ることはなかったですし、全く違う人生を歩んでいたことでしょう。
先週は来客を案内して京都の桂離宮に行ってきました。まだ少し早い紅葉でしたが、歴史を感じつつ、静かな庭園でしばしリラックスさせて頂きました。また、日曜日は岡山県のモダンな教会と無牧の教会で奉仕させて頂いて、温かく迎えて頂いて、本当に感謝でした。でも、一つ大変なミスをしてしまい、ある教会では開始時間を間違えて20分も遅れて到着しました。申し訳ありません。自戒の念を込めて記しておきます。こんなことは初めてでしたが、車での移動は気を付けます。恵みと反省の一日でした。
11月第四主日、今日は秋の歓迎礼拝としてKGK関西地区主事の池淵亮介師をお迎えしてメッセージを取り次いでいただきました。最初にKGK(キリスト者学生会)の紹介をしていただき、その活動は学生の祈りから始まり、もうすぐ80周年を迎えるとのことです。ルカ6:46-49から、揺れ動く時代、みことばというしっかりした土台の上に人生を建て上げていくことの大切さを教えていただきました。私たちの教会でも大学生たちがKGKを通してたくさんの恵みを受けています。主事や関係スタッフの方々のご労に心から感謝いたします(という私も協力会の一人なのでもっと貢献しないといけません…)。午後からの二つの交わり会にも男女ともに多くの方が出席してくださって、よい分かち合いができたそうです。ゲストの池淵主事がいてくださったからかもしれません。池淵師のメッセージをお聴きになりたい方はYouTubeからご視聴ください。さて、私は岡山県の二つの教会でメッセージの奉仕がありました。一つはライブハウスのような教会で、若い青年が大勢来られていました。もう一つは無牧の教会でしたが、信徒の方々の不断の祈りに支えられていることを感じました。
イザヤ51章から。「まことに、主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。」それは絶望に淵に立つイスラエルにとって、単なる気休めなどではない、現状の変革を促し、憂いを喜びに、絶望を希望に変えるメッセージです。この時代も、国内外ともに波乱に富んだ時代、神を神としてあがめることのない社会です。それでも、イエスさまはあなたを慰めて、救いへと招いておられるのです。
今日はイギリスの作家C.S.ルイスの召天日。彼の著書『痛みの問題』にはこうあります。「神は楽しみにおいて私たちに囁きかけ、良心において語る。でも、苦痛においては私たちに向かって激しく呼びかけたもうのである。苦痛は耳を塞いだ世界を呼び覚まそうとしたもう神のメガホンである。」私たちは平時よりも苦難の中でこそ神を体験するように思います。「主はご自分の民を慰め、その苦しむ者を憐れまれるからだ。」今日も英会話クラスから楽しい声が聞こえてきました。
11月第三水曜祈祷会、イザヤ書48章を読みました。「あなたが頑なであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので。」いくら呼びかけても聞く耳を持たない南ユダの民ですが、神は忍耐をもって救いの道を指し示します。どんなに背を向けても「わたしはあなたの神、主である」と宣言されるのです。ご自分の民を憐れむ万軍の主の熱心を覚えました。午後からは友人のヒトリコテンに行ってきました。今回も優しい絵に心が和みました。お勧めします。
11月の旧約聖書を学ぶ会がありました。出席者は少なめですが、その分ゆっくりな分かち合いもできて感謝です。出エジプト記12章、エジプトに第十の災禍が下されようとしていました。ここまで頑なな姿勢を貫いてきたファラオも、さすがに「…出て行ってくれ」と言わざるを得ない状況が迫っていました。イスラエルの民も神がどんな御業を起こされるのか、皆目見当がつかなかったでしょう。430年間もエジプトで奴隷状態に置かれていた民に自由が与えられる…信じ難いことだったはずです。そうした中で主は、過越の祭りの制度を定められました。「異国人はだれもこれにあずかってはならない。しかし…割礼を施せば、これにあずかることができる。」過越の祭りは、傷のない子羊を屠り、その血を門柱と鴨居に塗って、種なしパンを食べる儀式です。主は、この日は神の民にとって忘れられない記念となり、永遠の掟としてこれを祝わなければならないと言われたのです。今日のクリスチャンはイエスさまが言われた通り『聖餐式』として十字架を心に覚えます。聖書を知らない人から見れば単なるパンとぶどう酒ですが、クリスチャンにとっては極めて厳粛な儀式です。
11月第三主日、秋も深まり紅葉の美しい時期を迎えました。礼拝メッセージはエステル記6ー7章から。ダニエルのような立派な信仰者ではない、等身大のエステルに共感を覚える人も多いのではないでしょうか。エステル記には「神」「主」という言葉は出てきません。また、「祈り」「信仰」という言葉もあえて使っていません。でも、この書には神がこの世を支配し、歴史を導き、人々を動かしていること、また、エステルやモルデカイが祈りと勇気と信仰をもってユダヤ人を救いに至らせることが見事に描かれています。また、ハマンの性質はだれもが持っている罪の性質。モルデカイを陥れるための木に、最後はハマン自身がかけられていくさまには、読者である私たちにも罪の性質を十字架のもとに脱ぎ捨てることを教えているのです。そして、神は私たちと個人的に交わりを持ってくださると同時に、私たちをご自身の計画の中で用いてくださいます。私たちが苦しんだり、悩んだり、傷ついたりするのは、私たち個人の問題なのではありません。私たちがその戦いの中で慰められたり、励まされたり、立ち直ったりするのは、ほかの兄弟たちの救いにも繋がっていくのです。
「あなたを造り、あなたを母の胎内にいるときから形造り、あなたを助ける主はこう言う。」聖書は、自然淘汰説に基づく進化論ではなく、三位一体の神の御手による創造論を告げています。すべてが偶然の中で進化していったものなら、人はなぜ生きているのか、なぜ生まれてきたのかを考える必要はないでしょう。でも、どうしても考えてしまう、それが人間が目的をもって造られた証拠です。神は今も、私たちを助けたいと思って呼びかけているのです。
11月第二水曜祈祷会、イザヤ書43章を読みました。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」多くの方に愛されるこの聖句ですが、あらためてだれがだれに向かって言っているのかを考えると、その言葉の深淵さに圧倒される思いです。神が呼びかけておられるのは、聞く耳をもたない神に敵対してきた者たちでした。イエスさまも放蕩息子の帰りを待つ父の譬えをされましたが、まさにこの神の愛の深さを教えられたのです。
「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともなく」教会に祈りのリクエストを送ってくださる方を覚えてお祈りしています。特にインフルエンザが流行っているようで、重症化されている方もいます。主の癒しと慰めがありますように。イエスさまは傷ついている方や心が折れかかっている方に憐み深い方です。元気な時はそれほど必要と思わなくても、弱さを覚えている方のために、イエスさまのとりなしの祈りの御声が聞こえてきますように。
11月第二主日、抜けるような青空のもと今日も日曜礼拝が献げられました。小学校の教員になられて28年、現在は校長先生をされている方がお証しをしてくださいました。不遇な幼少期を過ごされる中で、ある先生の言葉に励まされ、ご自身も教師を目指し、大変な努力をして見事教員試験に合格。その後もまさに天職とも言える充実した教師人生。ところが、突然の病…。フルマラソンを18回も完走している体力の持ち主にも拘らず、入院、休職…と先の見えない苦難を余儀なくされました。でも、愛するご家族に支えられ、友人に支えられ、教会の多くの方の祈りに支えられ、兄弟の笑顔が戻ってきました。今回の証しは、どうしてもご本人の口から復活報告を聞きたくてお願いしました。今日はその方の54歳の誕生日。素晴らしいお証しに主の御名をあがめました。礼拝メッセージはエステル記5章から。エステルもまた、自らの使命に堅く立ち、大事な場面で神の栄光を仰ぐ秘訣を心得ていました。今日は児童祝福式もあり、子どもたちもそのまま大人と一緒に礼拝に参加。最後まで静かにノートを取る姿勢に感動しました。午後は囲碁将棋クラス、夕礼拝も祝され感謝します。
教会のデボーションはイザヤ38章から。ヒゼキヤは病気になって死にかかっていましたが、主は彼の祈りに答えて「あなたの寿命にもう十五年を加える」と告げられました。人生のアディショナルタイムをどう生きるかを思いました。今週は月曜日は知人が出演するミュージカル『ナルニア王国物語』を鑑賞に、火曜日は牧師会がありました。昨日の祈祷会でもよい交わりが与えられたことを感謝いたします。
教会のデボーションは詩篇65篇から。主の御前には静寂と賛美がある。一日の始まりにまず静まって、今日も生かされていることを感謝し、御名をほめたたえましょう。ダビデは、神を悲しませる数々の罪が祈りの手を下げさせようとしても、「しかし 私たちの背きを あなたは赦してくださいます。」と告白しました。ご都合主義だ、日和見主義だと言われても、神から引き離そうとするサタンの声に耳を貸してはなりません。罪を悲しみ、そこから離れることが悔い改めの一歩です。「私たちの救いの神よ。あなたは恐れるべきみわざで 義のうちに答えられます。」たとい、目の前の問題が重くのしかかってきても、騒ぎ立つ心を静めて、御霊の声に聴き従いましょう。主はどこか遠くにおられるのではなく、私たちの心と日常の中にともにおられます。「あなたは地を訪れ 水を注ぎ これを大いに豊かにされます。」秋は収穫の季節。私たちの生活に必要な水と穀物の恵みを与えてくださる収穫の主に感謝をささげましょう。世にあっては様々な艱難辛苦があります。でも、主にあって勇敢に歩みましょう。私たちの弱さ愚かさのうちにも、主は働いてくださることを信じて。
教会の前を通られた方に『教会ではハロウィンをお祝いしないのですか』と声をかけて頂きましたが、ハロウィンはキリスト教の行事ではありません。今や世界中で盛り上がるハロウィン、その起源は大昔の古代ケルト人が行っていた祭礼で、秋の収穫を祝うとともに、悪霊を追い払う宗教的な行事だったとのこと。死者の魂が家族のもとに戻って来るとは、言わば日本のお盆のようなものです。この土着信仰がやがてキリスト教と結びつき、カトリックの諸聖人の日の前夜祭として祝われるようになったようですが、いずれにしても異教的な伝統や迷信に基づいたものなのでキリスト教の祭礼とは言いかねます。プロテスタントの教会で10月31日と言えば宗教改革記念日です。カトリックの修道士だったマルティン・ルターがヴィッテンベルク城の教会の門に95箇条の提題を掲示したことに始まります。一番問題としたのは、免罪符を買うことによって煉獄における刑罰を軽減されるという誤った教えでした。これも言わば仏式の戒名と似ているかもしれません。昔からあることだから…みんながしているから…という付和雷同は要注意です。我ここに立つというものを持ちたいですね。
教会のデボーションは詩篇61篇から。ダビデは心が地の果てと思えるような状況で神の名を呼び求めました。それは何の希望もなく、神を遠くに感じるところということでしょう。それでもダビデは「神よ 私の叫びを聞き 私の祈りに耳を傾けてください。」と告白します。人間の限界こそ、神との機会です。深く掘った井戸の底から空を見上げると、昼間でも星が見えると言います。その真昼の星のように普通では見えないものが、人生には幾つもあります。それは暗い井戸の底から見上げた時、見えるものです。神はご自身の民の祈りを、必ず聞いてくださっています。自分が願った時にすぐに結果が得られなくても、神はご自身の計画の中で最善を用意しておられるのです。「こうして 私はあなたの御名を とこしえまでもほめ歌い 日ごとに 私の誓いを果たします。」八方塞がりの中から引き上げられたダビデの賛美が聞こえてきます。主に信頼する者は、恥を見ることも、失望することもない。まことの光である方は必ずご自身の栄光を見せてくださいます。主をほめたたえることは私たちの力です。今日も聖霊がお一人ひとりの歩みを支え、導いてくださいますように。
10月第四主日、穏やかな曇り空のもと、今日も神を愛する方々とともに礼拝を献げました。メッセージはエステル記3章から。ペルシア帝国の宰相になったハマンは、モルデカイが自分に膝をかがめずひれ伏さないのを見て憤り、彼一人を手にかけるのでは満足せず、王国中のユダヤ人全員を抹殺する法令を出しました。なんと恐ろしい計画でしょう。昔からの民族間の確執も影響していたようです。過越の祭りを前にして、喜び祝う日は一転して最悪の知らせを聞く日となりました。モルデカイは自分のとった振る舞いがこれほど大きな問題になるとは夢想だに思わなかったでしょう。ただひとり孤独を感じながら、主の名を叫び求めていたのではないでしょうか。モルデカイ一人に責任を負わせ、人の弱さにつけこみ、神の救いの計画を阻もうとするサタンのせせら笑いが聞こえてきます。でも、神はそんなご自分の民の苦難を知らないはずがありません。その苦難さえご自身の栄光を現すために用いてくださるのです。今日は礼拝後に献児式が行われ、ご家族が主の前に献身の証しをされました。神さまは私たち一人一人に特別な計画を持っておられます。祝福をお祈りいたします。
風に吹かれて金木犀の甘い香りがしてきました。昨日は旧約聖書を学ぶ会があり、出エジプト記12章から主が過越の祭りと種なしパンの祭りを定められたところを学びました。それは単なる祭りではなく、イエスさまの十字架の贖いを指し示すものでした。また、今日の水曜祈祷会ではイザヤ書30章を読みました。神の御心を求めず、罪に罪を増し加えるばかりの南ユダの指導者に対して、預言者イザヤはその先にあるのは滅亡しかないと語ります。さらに、真の神にではなく、最も近い大国エジプトに助けを求める彼らに向かって、イザヤは「彼らは助けとならず、役にも立たない」と訴えました。彼らはそんなイザヤに対して、「われわれに心地よいことを語り、だましごとを預言せよ」と言い出す始末。もはや問答無用で神の裁きが下っても仕方がないと思う場面で、イザヤは不思議なことを語りました。「もうあなたは泣くことはない。あなたの叫ぶ声に応え、主は必ず恵みを与え、それを聞くとき、あなたに答えてくださる。」目と耳を疑うような記述。神の裁きは滅ぼすことが目的ではありません。神はどこまでも恵みとあわれみを与えようとして待っておられるのです。
教会のデボーションはイザヤ書28章から。ソロモンの治世の後、イスラエル王国は南北に分断し、エルサレムは南ユダ王国に収まりましたが、北イスラエル王国は偶像礼拝に導かれて行きました。イザヤはそんな北王国に神の裁きが下ること、そして南王国も不信仰な生活を悔い改めなければ同じ結末に至ることを告げました。でも、そんなイザヤの言葉に民は耳を貸さず、自分たちは大丈夫と高を括っていたのです。昨日の洗礼式から一夜明けて、花の手入れをしながら古い記憶を思い返していました。私は26歳の時、恥ずかしながら洗礼式の3日前に、『やっぱり辞退します』と言ってキャンセルしました。教会に通い始めて一年、まだ聖書のことも神様のこともよくわかっていないし、何よりこんな半信半疑の信仰で洗礼を受けてはいけないと思ったのです(誰かにそう言われたわけでもないのに…)。それから何だか教会の方にあわせる顔がなくて、礼拝にもしばらく行かなくなりました。でも、その苦い経験も洗礼について真剣に考える機会となったので、今となってはいい想い出です。翌年、右も左もわからない、ありのままで洗礼を受けた自分をほめてあげたいと思います。
10月第三主日、朝には雨も上がり、柔らかな日射しが差し込む中、主の御名をあがめる礼拝を献げました。メッセージはエステル記2章から。クセルクセス王が王妃ワシュティを失脚し、新たな王妃選びのコンテストが開催されました。モルデカイはユダヤ人の孤児だったエステルを引き取り、自分の娘のように養い育ててきました。当時王の命令は絶対ですから、二人は不本意ながらもコンテストの招集に従います。するとエステルは王の目にとまり、他の多くの娘たちを尻目に見事王妃に選ばれたのです。その後、モルデカイが王の暗殺計画を知り、エステルを通して王に告げることなど、どれも偶然とは言えない神の計画の序章を見て2章は終わります。いわゆる伏線回収もエステル記の醍醐味です。今日は何よりお二人の姉妹の洗礼式がありました。それぞれに違った人生を歩む中で、イエスさまと出会い、同じ日に洗礼へと導かれました。教会で最初にお二人とお会いした日から、主がお二人を一つ一つ導いてこられた様子を間近で見せていただけて、牧師としてこんな感慨深い日はありません。新しい信仰の一歩を踏み出されたお二人のために心から祝福をお祈りしています。
デボーションはピレモンへの手紙に入りました。25節の小さな手紙ですが、パウロの愛がギュッと詰まった内容です。ピレモンのもとから逃げ出したオネシモが、獄中のパウロと出会って救いにあずかり、忠実な信徒となって、ピレモンの所に帰って行く。どうか回心した彼を赦してあげてほしいというパウロの親心は、まさに「父よ、彼らをお赦しください…」というイエスさまの愛を投影するものです。
10月第三水曜祈祷会、ピリピ3章を読みました。短い手紙には『喜び』という言葉が16回も出てきます。パウロは獄中からこの手紙を書きました。「ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし」信仰生活は競争ではありません。栄光のゴールは既に用意されていてそこに向かってひたすら前進することです。聖霊も助けてくださいます。人生辛酸多し、されど神は愛なり。
秋晴れのもと、関西宣教区ソフトボール大会がありました。コロナ禍や雨天中止が続きましたので、今年は5年ぶりの開催。参加者90名、遠くは静岡県からも来てくださり、熱戦が繰り広げられました。午前は2コートに分かれての総当たり、午後は負けたら終わりのトーナメント。決勝戦は最終回までもつれる好ゲーム。優勝は茨木、箕面はミックスチームで惜しくも準優勝。なかなかの健闘ぶりでした。
10月第二主日、今日も柔らかな日射しが差し込む会堂で三回の礼拝がありました。メッセージは今日からエステル記を読んでいきます。「エステル記」はユダヤ人の間で最も親しまれている聖書の一つ。エステルという聡明な女性と、彼女を育てたモルデカイという一人のユダヤ人が知恵と勇気と信仰をもってユダヤ民族存亡の危機から救うというのが大筋です。この話しはクセルクセス王の治世の第三年、187日にも及ぶ大宴会が催されたことから始まります。豪華絢爛の飾りつけ、大理石の柱や床、煌びやかな王宮がその舞台。まさに酒池肉林、神なきこの世の縮図とも言えるこのところである事件が起きました。ぶどう酒で陽気になった王が七人の宦官に「王妃ワシュティに王冠をかぶらせて、王の前に連れてくるように」と命じたことでした。宴会の最後の余興に、自分の美しい妻を見せびらかせようとしたのでしょうが、王妃はこの命令を拒んで出てこなかったのです。これには王も相当に怒ったでしょうが、そんな揺れ動く人間たちの背後で、見えざる神の計画も既に始まっていました。私たちも、目には見えずとも神の確かな導きに信頼して歩んでいこうではありませんか。
教会のデボーションはピリピ1章に入りました。ピリピ人への手紙は、パウロが牢獄の中で裁判を待っている時に書いた手紙です。ピリピの教会は、パウロが第二次宣教旅行の際にこの町で幾人かの人が救われ、ヨーロッパで最初に誕生した教会です。まだ人数も少なく、豊かな教会だったわけではありませんでしたが、開拓当初からパウロの宣教を支援し続けてきました。パウロは手紙と献金を届けてくれたエパフロデトを通してピリピの教会の様子を聞き、一方ならぬ励ましと慰めを受けたことでしょう。この手紙は冒頭からそんな牧会者パウロの喜びと感謝に溢れた内容となっています。私たちの教会も、能登半島豪雨災害の知らせを受けてすぐに祈りと支援を呼びかけました。できることはわずかですが、現地で生活している方を覚えて、ボランティアに従事されている方を覚えて、今日支援物資と献金を送りました。教会の宣教は、人数を増やすことや建物を維持することが目的ではありません。キリストにあってともに救いの喜びを分かち合うことが源泉です。牢獄の中にいても失われない喜び、それがこの手紙をもってパウロが最も分かち合いたかったことなのでしょう。
聖書の神は、やがて終わりの日に再臨の主が来られて、罪と悲しみと争いに満ちたこの世を正しくさばかれると告げられます。その日、あらゆる階級の人々は、手にしていた繁栄をすべて失い、目に映るのは荒廃した光景だけとあります。大変厳粛な預言です。イザヤが活躍した時代、ユダの人々は豊かさの中で神をあなどり、形式的な信仰生活を送っていました。そうした世の価値観の中で、イザヤの預言はなんとも空しく響いていたと思います。愛と慈しみに満ちたメッセージであれば、少しは聴く耳を持つ人たちもいたでしょうが、罪を知らずして愛だけを求めているなら、そこに本当の悔い改め、救いへの渇望は湧き上がってはこないでしょう。「主よ、あなたは私の神。私はあなたをあがめ、御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、真実に成し遂げられました。」やがてこの御言葉は成就します。神の御旨は裁きにあらず、救いにあり。罪人に注がれる神の憐れみ。ひとり子のいのちをもってしても贖いの御業を成し遂げられた万軍の主の熱心。この神のまなざしが今も、私たち一人ひとりに注がれていることを心に留めたいと思います。
10月第一主日、今日は宣教区講壇交換で学園前聖書教会の吉田篤師が来てくれました。礼拝メッセージはマタイ20:1ー16、有名なイエスさまの天の御国のたとえから。「天の御国は自分のぶどう園で働く人を雇うために朝早く出かけてた主人のようなものです。」主人は、9時、12時、15時、17時と出かけて行き、みな同じように一日一デナリの約束をしました。そして、夕方になって賃金を貰う時がくると、朝から働いている人たちは多くもらえると思ったら、約束通り一デナリでした。しかも最後にきてたった一時間しか働かなった人たちも同じ賃金だったのです。これには朝から働いた人たちは主人に不満をもらしたというのです。『主人』はイエスさまを指しています。また、約束した一デナリを『救い』として考えるなら、早くから働こうが、遅くから働こうが、ともにその恵みにあずかることを一緒に喜びたいものです。イエスさまがくださる救いは成果主義や行為義認とは無関係の恵みによる賜物です。私たちはともすると自分は朝や昼から働いている者だと思いがちですが、実は夕方頃に雇われた者なのかもしれません。今日、自分にできる精一杯の奉仕を献げましょう。
教会のデボ―ションはイザヤ23章から。ツロはイスラエルの北、地中海沿岸に広がる古代フェニキヤの主要な都市の一つでした。17章から22章までの国や都市が政治・軍事的な面から取り上げられて来たのと違って、フェニキヤは経済・通商におい世界的に知られていました。エジプトはツロの陥落によって重要な貿易パートナーを失うことに…。栄枯盛衰は世の常です。すべては神に掌握されているのです。
同盟教団 秋の研修会がありました。今回は『牧会者のセフルケアと宣教の情熱』というテーマで松本雅弘師を講師としてお迎えしました。イエスさまの瞳に映る自分を見つめ直し、そこから力を頂いて遣わされていく者になりたいと思わされました。夜の聖会ではベテランの増山毅師が力強い証しをしてくださいました。慰めと励ましに満ちた研修会でした。私は質疑応答の時間の進行役をさせて頂きました。
キリスト全国災害ネットの第10回全体会合がヤマザキパン総合クリエイションセンターでありました。ヤマザキ製パンの飯島社長はクリスチャンであり、今回の会場も提供してくださいました。今回も全国のキリスト教・災害支援団体が集まり、能登半島・豪雨災害の最新情報や今後の災害支援に関する講演、具体的なアイディアなど有意義な会合となりました。今後も協力の輪が広がることを祈ります。
9月28日(土)教会墓地のリフォームが完成し、初めての墓前礼拝を行いました。雨が心配されましたが、お天気も守られて感謝でした。「主は私たちのために死なれましたが、それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。」クリスチャンにとってのお墓はご先祖様の魂が眠る場所ではなく、兄姉が信仰に生きた証し・記念碑です。私たちの国籍は天にありますので、やがてはそこで再会する希望があります。その日までそれぞれの信仰の生涯を全うしていきましょう。
9月第五主日、曇り空の日でしたが、気持ちのいい風が吹く一日でした。礼拝メッセージはネヘミヤ8章から。城壁再建のために祖国に帰還したネヘミヤは、内からも外からも様々な困難に直面しながら、52日という驚くべき速さで工事を完成させました。そして、門衛、歌い手、レビ人が任命され、いよいよ準備は整い、第七の月が来ると民は一斉に水の門の広場に集まり、学者エズラが律法を朗読しました。すると、民はみなひれ伏して礼拝し、涙を流しました。過去のイスラエルの歴史を知り、また、自分たちが神の御心から遠く離れた生活をしていたからです。それでもエズラは言いました。「今日はあなたがたの神、主にとって聖なる日である。泣いてはならない。悲しんではならない。…主を喜ぶことはあなたがたの力なのだから。」神のことばに耳を傾け、自分の罪を示されるのは良いことではないでしょうか。でも、もっと大事なのはそこから向きを変えて新しく歩み始めることです。聖なる日は、ほかの日と区別する特別な日です。ぜひあなたも、日曜日を教会で礼拝を献げる特別な日にしませんか。今日の礼拝にも新しい方も久しぶりの方も来てくださって感謝でした。
9月第四水曜祈祷会、秋風が気持ちのいいさわやかな一日でした。デボーションはイザヤ書11章から御言葉を学びました。北イスラエルを滅ぼすアッシリヤ帝国の滅亡を告げた後、イザヤはメシヤの来臨について預言しました。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」切り倒されてわずかに残った切り株…でも、そこから芽が出て枝になり成長して、ついには豊かな実を結ぶ。およそ絶望的だと思っていた状況に、まだ希望が残っているというのです。時代がどうあれ、世の価値観がどうであれ、神を信頼し、神の言葉に生きる者は、終わりの日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りの者を買い取られるのです。イエス・キリストは、私たちの贖い主です。「贖う」とは、「代価(犠牲)を払って買い戻す」という意味があります。私たちの救いには、キリストの命という大きな代価が支払われました。あとはその救いを感謝して受け取るだけです。神は私たちの口を強制的にこじ開けて、救いを突っ込むようななさいません。あくまで自分から心開いて救いを受け入れることをひたすら待っておられるのです。主の忍耐深さこそ、私たちの救いです。
9月第四主日、昨夜はどしゃ降りの大雨でしたが、今日はなんとか天気も守られての召天者記念礼拝でした。すでに天に召された兄姉のお写真が並べられ、御国の完全なる礼拝を覚えつつ、私たちも心からの礼拝を献げました。今日は豊橋ホサナキリスト教会の青年たちが特別賛美をしてくれて、新鎌ヶ谷聖書教会牧師の玉井邦美師がメッセージをとりついでくださいました。ヨハネ2章のカナの婚礼の奇跡から、イエスさまが『時』を定めておられること、人々を用いること、最良のものを備えておられることを学びました。玉井師は私に洗礼を授けてくださった牧師であり、義父でもあります。もう20年以上前から知っている先生ですが、相変わらずお元気で力強いメッセージでした。自分も先生の年齢までこんなに情熱的に語れるだろうか…と思いました。私自身は子ども礼拝でのメッセージを担当しました。出エジプト記32章からの難しい箇所でしたが、モーセのとりなしの祈りのところで子どもたちのお喋りが止み、真剣な顔でお話しを聞いてくれたのが印象的でした。午後からは玉井師の講演会。コロナ禍でしばらくお休みしていましたが、学びの大切さを思わされました。
今日は今にも雨が降ってきそうな曇り空でしたが、石川県では大雨特別警報が出て被害が起きています。主の守りを心よりお祈りいたします。秋までに間に合うかな…と思っていた最後の向日葵が大輪を開きました。教会横の畑には肥料を入れて冬野菜の準備です。豊橋ホサナキリスト教会の青年たちがキャンプへ向かう途中で立ち寄ってくれました。明日の歓迎礼拝で特別賛美をしてくれます。感謝です。
教会のデボーションはイザヤ書6章から。ここはイザヤが預言者として召命を受けたところです。彼が主の現臨にふれて気づかされたのは、自らの罪深さでした。もう自分は滅びるしかないと思ったその時、その罪を取り除いてくださる神に出会ったのです。私も聖書を破り捨ててしまうような人生のどん底で神の招きの声を聞きました。こんな者でも主がお入り用であれば、お従いしていきたいと思います。
残暑厳しい折、昨日は旧約聖書を学ぶ会で出エジプト記11章を、今日は水曜祈祷会でイザヤ書4章を読みました。「主はファラオの心を頑なにされ」神はファラオに強制的に神を否定するようにされるだろうか。いや、むしろ彼には自分の考えを変える機会が幾度もあった…。聖書を部分的に解釈するのではなく、文脈に即した解釈、あるいは聖書全体の一貫性から読み解く大切さを覚えました。「その日、七人の女が一人の男にすがりついて言う」神のさばきの言葉を告げる預言者の使命を思いました。ユダの繁栄の時代、人々はイザヤの言葉をどう聞いたのか。自分たちには関係がないと高ぶり続けたのか、中には悔い改める人もいたのか…。詳しい解説は動画を見て頂ければと思います。余談ですが、昨日も今日もエホバの〇〇の女性が二人組で教会の前を通られました。昨日は時間があったので、声をかけて立ち話をして頂きました。死海写本、テトラグラマトン、七十人訳聖書…専門用語がポンポン出て来て、よく学んでおられるなあと思いつつ、最後に『ところで、聖書は読んだことがありますか』と聞かれてガクッと。最初に『牧師をしています』と言ったのですが…。
9月第三主日、青く澄み渡る空の下、今日も主の御名をあがめる礼拝をささげました。礼拝メッセージはネヘミヤ記6章から。祖国エルサレムの城壁が崩れたままになっていると聞いて、ネヘミヤは断食して祈り、再建のために帰還していきました。そんなネヘミヤとともに民も再建に立ち上がりますが、外からも内からも激しい妨害に遭い、工事は困難を極めました。それでもネヘミヤは「ああ、今、どうか私を力づけてください。」と祈りつつ、こうしてついに五十二日間という驚くべき速さで完成を見たのです。ネヘミヤはすべての栄光を神に帰し、御名をあがめたことでしょう。私自身もこの教会に遣わされて18年、幾つもの神の不思議を見せていただきました。人が救われ、人生が変えられ、病が癒され、問題が解決していきました。難しいと言われていた会堂建設も教会墓地も与えられ、青年たちが結婚し、家族が与えられ、敬愛する先輩方を天に見送ってきました。これらの御業は「すべて私たちの神によってなされたこと」です。私たちの教会もまだまだ道半ば。ここまで導かれた同じ神が、これから先もさらに不思議な御業を成し遂げてくださることを信じています。
コロナ禍を通して、私たちの教会はオンラインでの礼拝を始めました(今は限定配信で行っている教会も多いようです)。それぞれの教会の事情が違うので一概にその是非を問うは難しいでしょう。確かにハイブリッド型(対面とオンライン)の礼拝は、礼拝に参加する意識を低下させ、交わりを希薄にさせてしまうことが心配されますが、私たちの教会では遠方やお年寄りの方、長く病院や施設にいて礼拝を諦めてしまっていた方々には喜んでもらえているようです。もとより礼拝に来る来ないは本人の自由意思ですから、強制されるものではありませんし、私のように25歳まで一度も教会に行ったことがなかった者からすると教会の中でどんな話しがされているのか、事前に視聴できるのは安心です。今日も教会の草花に水をあげていると、通りがかりのご婦人から『いつも礼拝を視ています』と声をかけて頂きました。また、この教会なら…と読まなくなったカルト関係に関する本を送ってくださった方もいました。オンライン礼拝を自宅で視ていて、信仰決心に導かれた方もいます。…ということで、私たちの教会は今後もオンライン礼拝を継続して行きたいと思っています。
天高く馬肥ゆる秋、教会に来てくださっていた方の納骨式がありました。年齢を重ねると新しいことを始めるのが億劫になると言ったりしますが、その方は80歳を過ぎて信仰を持ち、洗礼を受け、聖書を学ばれました。会社経営もされた人望の厚い方ですが、非常に謙遜で、私の拙い話しをいつもニコニコしながら聞いてくださったのが印象的でした。最後にお見舞いに行った際、私たち信仰者にある希望について話しができたのは幸いでした。食事をして帰る頃に、突然の夕立がありましたが、すぐに止んでその後は綺麗な虹がかかりました。義理堅い方でしたので、ありがとうと仰ってくださっているのかなと感じました。さて、水曜日は久しぶりにいつもの祈祷会がありました。エペソ5章から「光の子どもらしく歩む」をテーマにみことばを学びました。私たちはまず、神に愛されている子どもらしく、神に倣う者になりなさいと勧められ、今は主にあって光となったので、光の子どもとして歩みなさいと勧められています。「神に愛されている」「光となりました」いずれも完了形です。つまり、いつかそうなるではなく、今そうであることが、…らしく歩む一歩を生むのです。
日本のクリスチャンの概数は約105万人で、人口比率の約0.82%と言われています。その内、教会に所属しているのは約37万人とのこと。つまり、クリスチャンになっても半数以上の方は教会を離れてしまっているようです。子どもの頃に洗礼を受けたけれど、大人になって行かなくなった…教会に通っていた時もあったけど、何かの事情で行かなくなった…。その理由は様々でしょう。昨日そんな話をしたところ、メッセージの後で何人かの方が「私も同じようなところを通りました」と話してくださいました。一度信仰から離れると、教会が遠い場所に感じた、自分がクリスチャンであることを誰にも言わなかった、家に聖書はあるけど読まなかった、仏式の葬儀に出ても何の違和感もなかった…。人生のいろいろな場面で、また教会に行ってみようかなと思う時もあったけど、扉を開ける勇気がなかった…など。同じような思いをお持ちの方も多いのではないでしょうか。「個」が尊重される時代、帰属意識、所属意識というのも薄れているのかもしれませんが、どこかホッとできる教会、重荷をおろせる教会、そうした居場所がある教会が私たちには必要ではないでしょうか。
9月第二主日、今日も残暑の厳しい一日でしたが、ともに集まって、主の御名をあがめる礼拝を献げました。ネヘミヤ記4章から『外からの試練に対して』というテーマで御言葉を心に留めました。ユダヤ人たちの城壁の再建工事はサンバラテたちの妨害によって試みを受けていきました。それでもネヘミヤは慌てることなく、自分が何をすべきかを知っていました。「お聞きください。私たちの神よ。」それは根拠のない嘲りや中傷に対して反論することではなく、神に祈りつつ、目標に向かって行動することだったのです。聖書は苦しみの時こそ試練の時こそ、神を呼び求めよと教えています。私たちの神はどこか遠くから見ておられる方ではなく、苦しみの中にともにおられるからです。ネヘミヤは周りから何を言われようと、どんな妨害を受けようと、神の御旨に集中していきました。そして、片手で仕事をし、片手で投げ槍を握って働く同志に向かって、「私たちの神が私たちのために戦ってくださる。」と言ったのです。人生には避けられない様々な試練があります。でも、私たちは決して孤独な戦いをすることはありません。脱出の道はイエスさまとともに歩むことです。
ハートフル英会話秋期コースが始まりました。夏休みがありましたので、皆さましばらくぶりでした。大人のクラスは、ご旅行に行かれた方や暑い夏をとにかくじっと耐えていた方など様々な過ごし方だったそうです。キッズクラスは、真っ黒に日焼けした子やぐっと背が伸びた子などこちらも元気一杯でした。英会話に関心のある方は、どうぞ無料体験レッスンをお申込みください。大人クラスもキッズクラスも、受付中です。大人になると時間が早く過ぎるように感じると言いますが、誠に早いもので今年も残り4カ月を切りました。まだ残暑が厳しいものの、過ごしやすい秋はいつも足早に過ぎていき、あっという間にクリスマスの足音…。まさに光陰矢の如しです。昨日、静岡から帰阪する際、見知らぬ先輩のご夫婦と一緒になり、おしゃべりしていると『昔、教会の日曜学校に行ったことがあります』とのこと。『こう見えて牧師です』と言うと、珍しいからか、いろいろお話しくださいました。その方は1、2回教会に行っただけとのことですが、そういう方は大勢いらっしゃるんでしょう。今からでも遅くはありません。また久しぶりに教会にお出かけになりませんか。
教会のデボーションはエペソ2章から。ここにはパウロの救いの証しが極めて明確に記されています。自分はどこから救われたのか、何によって救われたのか、救われてどうするのか。人はみな、自分が罪人であることを自分で悟る人はいません。また、それがわかっていても、自分からキリストに救いを求める人はいません。パウロは言いました。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」恵みとは、受ける価値のない者に、神が一方的にお与えになるものです。自分自身を振り返っても、神を知らず、神に背を向けて生きてきた者が、今こうして神を信じ、罪赦され、永遠のいのちにあずかっているのは、ただただ神の憐れみに他なりません。のみならず、救われた後も、あなたは神の作品だと言っていただき、良い行いに歩むように献身の道まで備えていただき、なんと驚くばかりの恵みかと思います。今週は月曜から教団の補教師研修会が浜名湖で行われ、少し役不足ではありますが、個人伝道の講義を担当しました。若い先生方の情熱と献身にふれながら、教団の明るい未来を感じました。
9月第一主日、台風10号の影響もなく、穏やかな一日でした。礼拝メッセージはネヘミヤ記2章から。ネヘミヤは祖国エルサレムの荒廃を聞いて断食して祈りました。そして4カ月が過ぎた頃、突然その機会は訪れます。アルタクセルクセス王は献酌官ネヘミヤの異変に気づき『何を願うのか』と聞くと、彼は天の神に祈ってから『私を先祖の墓のある町に送って、それを再建させてください』と嘆願したのです。王はその願いを快諾し、旅の安全と資材確保の手紙まで書いて送り出しました。ネヘミヤが祈りの内に神の御旨を示され、確信を得ていたことがわかります。ネヘミヤがエルサレムに着くと、すぐにサンバラテとトビヤが妨害してきますが、ネヘミヤは神の計画を誰にも言わずに城壁の調査を進めました。そして、時至って、エルサレムの城壁の現状をおもだった人々に伝えると、彼らはみな「再建に取りかかろう」と応答していったのです。パウロは「あなたがたは神の神殿であり」と言いましたが、私たちの心の神殿はどうでしょうか。もしどこかが壊されてしまっているなら、再建に取りかかりたいものです。天の神ご自身が私たちを成功させてくださるのですから。
8月第四水曜祈祷会、台風10号が史上最強クラスの勢力で九州から列島縦断の恐れが出てきました。今日の大阪は相変わらず日射しの強い蒸し暑い一日でした。夏休みがありましたので、久しぶりの水曜祈祷会となりました。Ⅱサムエル記23章、ダビデの最後のことばから。名もなき羊飼いの少年が、神に選ばれ、主に油注がれ、イスラエルの二代目王になりました。但し、その道は険しく、サウル王に何度も命を狙われ、荒野を彷徨うこともありました。でも、ダビデはその都度、苦しみの中から救い出されることを通して神との信頼関係を強めていったのです。その時のことは22章に詳しくあります。王となってからも諸外国との戦いは続き、気が緩んだのか…バテシェバとの不貞、取り返しのつかない罪、さらには息子アブシャロムの謀反で王を失脚することもありました。そんな波乱万丈な人生を振り返っても「まことに私の家は、このように神とともにある。神が永遠の契約を私と立てられたからだ。」と告げました。およそ人生には神に従うか否かの二つに一つの道しかありません。前者を選ぶなら神の祝福が、後者を選ぶなら罪の呪いが後から追いかけてくるのです。
8月第四主日、今日は献堂七周年記念礼拝でした。毎年八月の最終主日に行っています。主が私たちの祈りに答えてくださって、素晴らしい教会堂を与えてくださったことを覚える日です。コロナ禍においては、会堂に私と妻しかいない時もありましたので、こうして皆さんで集まれることは当たり前ではないことを思います。もう以前のような会堂いっぱいに長机を出して愛餐会をもつようなことは難しいのかもしれませんが、新しい形を模索しながら進んでいきたいです。礼拝メッセージはネヘミヤ記1章から。ネヘミヤ記のテーマの一つは城壁の再建です。エルサレムの悲惨な現状を耳にしたネヘミヤは嘆き悲しみ、断食して主の前に祈りました。彼は王の献酌官という要職にありましたから、それほど影響があったわけではないでしょう。ただ…エルサレムは神とイスラエル民族の関係を表す象徴的なものでした。人々の悲しみはもちろん、主の悲しみを思う時、彼は他人事にはできなかったのです。ネヘミヤの祈りには、悔い改め、みことばの約束、神との信頼が要約されていました。本気でだれかの救いを思う時、私たちもネヘミヤの祈りから学ぶところは大きいでしょう。
月曜日から教団主催の小学生キャンプに招いて頂き、幸いな四日間を過ごしてきました。前回は低学年の子どもたちに、今回は高学年の子どもたちに向けて、詩篇23篇を中心に5回のメッセージをしました。できるだけシンプルを心がけてパワーポイントとメッセージを準備していったのですが、子どもたちと奉仕者の方の真剣な眼差しをみていたら段々と熱を帯びてしまい、予定より随分長く話してしまいました。メッセージの招きにも、イエスさまを信じます、洗礼を受けたいです、友だちや家族に福音を伝えたいですと多くの子どもたちが手を上げて応答してくれてました。また、模造紙に書いた等身大のゴリヤテにもまずまずの関心を示してくれたのも感謝でした💦キャンプの醍醐味、賛美とダンスも大盛り上がりで、ゲームや自由時間で汗をかき、夜更かしする子もいたようです。また途中で、ブラジルやタイの宣教師とzoomで繋いで宣教報告を聞く時間もあって、将来この子どもたちの中から牧師や宣教師になる子がいてくれたらなあと思いました。年甲斐もなく、サッカーや卓球にも混ぜてもらったので、今は体中痛いですが、なんとも心地よい疲れとともに帰阪しました。
8月第三主日、今日は蛍池聖書教会の野々山芳和師と沙織さんを招いての歓迎礼拝でした。最初にお証しを、牧師夫人の沙織さんにしていただきました。沙織さんは私たちの教会で洗礼を受け、2年前まで一緒に礼拝を献げていたので『お帰りなさい』という感じでした。また、礼拝メッセージはヨハネ8:30-32から『みことばにとどまるなら』をテーマで語られました。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」を中心に、短い箇所からでしたが、非常に深い聖書の説き明かしとなりました。聞き逃してしまった方はぜひアーカイブでご視聴ください。また、蛍池駅から徒歩1分のところにある蛍池聖書教会にも足を運んでいただきますと野々山先生ご夫妻に直接お会いできます。午後も英語の聖書を使ってバイブルクラスを行いました。夏休みの時期なので、幾分いつもより少ない出席者でしたが、その分ゆったりと互いの感想を分かち合う時がもてました。山下牧師は愛知県の豊橋ホサナキリスト教会でメッセージ&CS研修会の奉仕でした。初めて行く教会でしたが、温かく迎えて頂き、懐かしい再会もあり、みことばを通して神の家族の幸いを覚えました。
教会のデボーションはⅡサムエル記15章から。息子アブサロムは父ダビデに対してついに謀反を起こすことを決心しました。父に知られることなく、戦闘力を備えつつ、次々と仲間を引き入れて体制を整えていきます。その企みを知ったダビデはすぐさま逃げる準備をして、家来たちを従えてエルサレムを出ました。今は十分に戦えません…。まずは態勢を立て直すことが先決でした。そんなダビデのもとに、異国からの亡命者イタイが「王様がおられるところに…このしもべも必ずそこにいます。」と申し出ました。また、ダビデが神の箱を見送った後、堰を切ったように泣いているところに、近臣であったアヒトフェルの裏切りの知らせが入り、ダビデの悲しみに追い打ちをかけました。しかし、そんなダビデのもとに友フシャイが最も落胆したタイミングで現れたことで、ダビデは大いに励まされ、力づけられたのです。人生はまさに、捨てる神あれば拾う神あり。ダビデに友フシャイが現れたように、あなたにも信頼できる存在が必ずいます。神は苦難とともに脱出の道をも備えられるお方です。「友はどんなときにも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。」
8月13日(火)教会員のご家族の葬儀式が行われました。故人は教会員ではありませんでしたが、ご親族をはじめ多くの方が参列してくださり、みことばと賛美、そして、温かな祈りをもって旅立ちを御手にゆだねました。救世軍の信仰を持つご両親のもとに生まれ、戦前、戦中、戦後と大きな変化のあった時代を力強く歩まれました。私も貴重なお話しをいくつも聞かせていただき、続きの話しを聞かせていただくのを楽しみにしていたところでした。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。…神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」突然の召天の知らせでしたので、ご家族は寂しさがつのっておられると思いますが…天来の主の慰めとみことばによる平安が与えられるように心よりお祈りしています。また、葬儀式の中で、ご家族の方に故人との想い出をお話していただきましたが、心の深いところにある家族の強い絆を感じ、それが本当に心に残りました。キリスト教式の葬儀は、キリストのご臨在の内に執り行われる式です。今日もご遺族の方と参列者の方々とともに天の御国を仰ぎ見させていただけたことを主に感謝いたします。
8月第二主日、4年に一度行われるスポーツの祭典、夏のオリンピックが今日閉会式を迎えます。およそ二週間世界の多くの人々が興奮と感動に包まれました。一方で、今大会もオリンピック休戦の呼びかけは届かず、世界の各地で戦争や紛争の火が止むことはありませんでした。79回目の終戦の日も近づく中、あらためて戦争の悲惨さ、平和の大切さを覚えて祈りを捧げました。礼拝メッセージは詩篇139篇から。「主よ あなたは私を探り 私を知っておられます。」私たちの信じる主は、万物の創造主であり、全世界を統治し、全知全能なるお方です。私たちは今、その神を一部分しか知りません。それは小さなコップでいくら海水を調べても、海の大きさ、深さ、美しさを知り尽くせないのと同じです。でも、その時には私たちは完全に知られているのと同じように、私たちも完全に神を知ることになります。神の顔をまっすぐに見る日がくるからです。そのときを楽しみにできるのがクリスチャンの特権です。たとえ小さなコップでも…もしあなたが神を真剣に求めるなら、神はあなたのすぐ近くにおられます。あなたにも受け取りってほしい愛をもって待っておられるのです。
8月第一主日、全国的に猛暑の中ですが、今日も主の御名を高らかに賛美する礼拝を献げました。メッセージは詩篇73篇から。詩人は、悪しき者が栄え、神に忠実な者が苦難を通らされることに疑問を覚えていました。そんな彼は神の聖所で、二つのことを悟らされます。それは、悪しき者の繁栄は一時的であること、自分自身が神との関係を見失っていたことです。まさに問題解決の鍵は他人ではなく、自分自身の内にあったのです。彼の心が苦味に満ち、愚かで獣のようだった時も、神は彼の腕をしっかりと掴んでいてくださり、その関係を繋ぎとめていてくださいました。やがて詩人は神への信頼を回復、大切な結論に導かれるのです。「しかし 私にとって 神のみそばにいることが幸せです。」お金や物に満たされること、地位や名誉を勝ち取ること、それらも大事なことかもしれませんが、人間にとっての最大の幸せは、神がともにおられることです。地上で何を失おうとも神を心に迎え入れることができたら、これ以上の財産はありません。逆に、全世界を手に入れても神との関係を失ってしまうならすべてを失ったのと同じです。そして、それは永遠を棒に振ることです。
同盟教団の小学生バイブルキャンプがありました。今回は低学年の子どもたちにどうやってお話ししようかと思いましたが…二泊三日、みんな座ってよく聞いてくれました。信仰の招きにもほとんどの子どもたちが手を上げて、イエスさまを信じますと決心してくれました。私も少々張り切り過ぎて疲れ気味ですが、子どもたちの純粋な信仰と透き通るような元気いっぱいの賛美に励まされて帰ってきました。
7月第四主日、日中は36度。今日も厳しい暑さの一日でした。礼拝メッセージは詩篇42篇から。バビロン軍によって征服さたイスラエルの民が、バビロンでの長期捕虜生活を余儀なくされたときの詩と言われています。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」弱々しい女鹿が、獰猛な獣を恐れつつも、喉の渇きを潤すために谷川の水を慕い求める…詩人はそんな思いで遠く異教の地から望郷の念にかられ、神を渇望しています。苦しみと悲しみの毎日の中で、敵にはおまえの神はどこにいるのかと嘲られながら、失意のどん底にいました。こうした苦境の中で、詩人は「わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。…神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。」と自らを鼓舞していくのです。この世にあっては苦難があります。それはクリスチャンであっても同じです。信仰があっても、問題にぶつかり、病にかかり、貧しさや孤独を経験します。それでは信仰とは何でしょう。それは目に見えない神を信じることです。望み得ない時に望みを抱いて信じることです。苦難の中でしか知り得ない神の恵みがあるからです。
教会のデボーションは詩篇56篇から。「心に恐れを覚える日 私はあなたに信頼します」『恐れを覚える日』とは、自分の力が及ばない問題を前にした時のことを指します。ダビデはサウル王に謂れのない迫害を受け、いのちの危険を感じる中で、敵国ペリシテ人の地に身を委ねなければならないほど追い詰められていました。そんな非常な恐れと危険の中でも、ダビデは繰り返し神への信頼を告白し、みことばをほめたたえたのです。順風満帆の日に神をほめたたえるのは容易なことです。でも、苦難の日にこそ、その人の信仰が本物かどうかが問われるのです。「どうか私の涙を あなたの皮袋に蓄えてください。」旅人が一滴の水であっても皮袋に大事に取っておくように、神がダビデの涙を蒸発しないように保存してくださいますように…との願いです。『蓄えてください』という願いは将来の希望が神にあることを示しています。神は涙を喜びの水、祝いの酒に変えてくださる。神は信仰者の涙を決して見過されないし、信仰者はその涙を神の皮袋に託してしまうので、苦難の中でも賛美が出てくるというのです。そして、神に賛美をささげる時、敵は退き、災いは去るのです。
教会でご家族での葬儀式がありました。86歳の時に洗礼を受けられ、私たちの教会には3年ほど通ってくださいました。聖書基礎を学ぶ会にも参加してくださり、難しいですね…と言いつつも、十数回の学びを最後までお付き合いいただきました。私も84歳の未信者の母親がいますが、先輩の方々がお感じになることなど率直にアドバイスしていただき助かりました。礼拝では開始時間前から姿勢を正し、聖書のメッセージに真摯に向き合ってくださり、その姿は周りの方々にもよき模範になられていたと思います。20代で起業し、ずっと一線でご活躍なされてきた方ですが、決して偉ぶらず、誰に対しても謙遜に受け答えされていたのが印象的でした。以前、愛唱聖句はマタイ11:28と教えていただきました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」数日前に病室にお見舞いに行かせていただいた時もクリスチャンであることの幸いを分かち合わせていただききました。今日のご葬儀も愛するご家族へのよきお証しになられたことでしょう。ご遺族の上に、主の慰めと平安がありますようにお祈りいたします。
7月第三主日、夏本番を迎え、今日も暑い一日となりました。礼拝メッセージは詩篇23篇から。イスラエルの王だったダビデは晩年、自らの人生を振り返って「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」と歌いました。幼いころから羊飼いの仕事を手伝っていたダビデは、羊が羊飼いがいなければ生きていけないこと、羊飼いがいればすべての必要が満たされることをよく知っていました。「たとえ死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。」2001年9月11日アメリカ同時多発テロが発生し、世界貿易センタービル、ペンタゴンに次々と旅客機が激突し、悪夢のように建物が壊され大勢の方が亡くなってく中、もう一機がホワイトハウスを標的に飛行していました。でも、そんな犯人たちの計画は、勇敢な乗客たちによって阻まれ、旅客機はピッツバーグ郊外の野原に墜落しました。操縦席に突入する際、勇敢な乗客たちが口にしたのが詩篇23篇だったそうです。人生には時に、思わぬ試練に襲われることがあります。最悪と思われる状況の中にも、たった一つの消えない希望がある。それが神がともにおられるということです。
教会のデボーションはⅠサムエル26章から。サウルがダビデの誠実さを知って赦そうと思ったのもつかの間…再び三千人の精鋭部隊とともにダビデ暗殺に動き出します。今回はダビデの方からサウルのもとに偵察に行き、これまた千歳一隅の機会が巡ってきますが、ダビデはサウルに手をかけませんでした。サウルの「私が間違っていた…」という言葉など、もはや誰も信じません。そんなダビデを支えたのは「主は私の羊飼い」という信仰だったのでしょう。
ハートフル英会話春期コースが終了しました。今期も無事守られて感謝でした。レイチェル先生は少し早い夏休みで、スコットランドに旅行中。代わりにアルメニア人のリアンナ先生が来てくれました。聡明で美しい妻で、まさにアビガイルのような女性でした。Ⅰサムエル25章の彼女の言葉で、ダビデは復讐心から解放され、彼女と会わせてくださった神をほめたたえました。人生は出会いで決まる。一つ一つの出会いを感謝して、主をほめたたえましょう。
7月第三水曜祈祷会、Ⅰサムエル記25章から。カルメルで事業をしていて、非常に裕福になったナバルとその妻アビガイルの人物紹介から始まります。妻アビガイルは賢明で美しい女性、夫ナバルはその名の通り頑迷で行状が悪かったとのこと。そんなナバルのもとにダビデは十人の若者を遣わし、礼の限りを尽くして、警護のお礼としての幾ばくかの贈り物を求めました。主人サウルから逃げながら、600人の兵を養うのは大変だったでしょう。ナバルの裕福さからすれば、当然いい返事をもらえるだろうと思っていたところ、「ダビデとは何者だ」と全く相手にされませんでした。それにプライドを傷つけられたのか、ダビデは怒り心頭でナバルの全家を滅ぼすと宣言し、400人の兵とともに出兵。ナバルも誰の声にも耳を貸さず、もはや流血は避けられないという事態に。そこでこの危機を救ったのが賢明な妻アビガイルでした。彼女は勇敢にもダビデの前にひれ伏して「ご主人様、あの責めは私にあります」と当事者意識を持ち、さらにダビデの信仰心に強く訴えました。そして見事にダビデの怒りを諫め、事態を収拾したのです。「賢明な妻は主からのもの。」(箴言19:14)
7月第二主日、少し湿度は高めでしたが、穏やかな週の始まりを感謝します。今日の礼拝では昨年受洗された兄弟(教会ではお互いを兄弟姉妹と呼びます)が特別賛美をしてくださいました。お話しは苦手なので…ということでしたが、賛美を通して十分に主の恵みを証ししてくださいました。礼拝メッセージは詩篇32篇から。イスラエル二代目王のダビデには大きな過ちを犯した過去がありました。自分の部下であるウリヤの妻バテ・シェバと関係を持ち、さらに彼女の妊娠がわかるとウリヤを戦死に見せかけて殺してしまったのです。普通の倫理観からすれば到底許されない言語道断のことですが、今から3000年前のイスラエル王のことですから想像の域を出ません。ただ…信仰者であるダビデは当然律法が姦淫と殺人についてどう教えているかを知っていたはずですから弁解の余地なしだったでしょう。預言者ナタンに糾弾されて、赦されるはずがない罪を抱えてもがき苦しだ様子が描写されています。そして、ついに罪を告白した時、神の赦しを体験していったのです。「幸いなことよ。その背きを赦され 罪をおおわれた人は。」詳しくは礼拝メッセージをご視聴ください。
夏の代表的な花と言えば、ひまわりですが、明日は『ひまわりの日』です。1977年7月14日に日本初の静止気象衛星『ひまわり1号』が打ち上げられたことに由来します。ちなみに『ひまわり』という名前は、植物のひまわりが常に太陽の方向を向いているように、気象衛星も常に地球を見続けていることから名づけられたそうです。ひまわりの花言葉の一つに『あなただけを見つめる』というのがありますが、私たちの信仰もかくありたいと思いました。
7月第二水曜祈祷会、曇りのち雨の湿度の高い一日でした。デボーションはⅠサムエル記19章から。連戦連勝で一躍人々の脚光を浴びるダビデを、サウルはついに殺害すると公に宣言しました。最初は小さな嫉妬心から「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」という人々の声を聞いて憎しみが湧き、やがて殺意へと変わっていったのです。理解に苦しむのはダビデでした。どうしてサウルが自分の命を狙うのか…わからない。そこへヨナタンが間に立ち、ダビデを弁護し、サウルを説得します。サウルもそれを聞いて一時は殺意を鎮めますが、すぐに心の中で抑えきれなくなり、ダビデ暗殺計画を実行したのです。でも、そこでも妻ミカルが機転を働かせて、ダビデの命を救いました。ダビデはサムエルのもとに逃げ込んで、これまでのことを全部打ち明けました。サムエルは自分が油を注いだダビデのために祈ったでしょう。すると、神の霊がサウルたちの追手を恍惚状態にして、ダビデは難を逃れ、暗殺計画は失敗に終わったのです。まるでスパイ映画を見ているような間一髪の大脱出劇でした。私たちも自分では気づかいところで神が守ってくださっていることを覚えました。
7月第一主日、まだ梅雨も明けていないのですが、日中は35度を超える酷暑となりました。メッセージは詩篇19篇から。近代科学の父ガリレオ・ガリレイは「神は人間に向けて二つの書物を書かれた。一つは聖書、もう一つは自然である。」と言ったそうです。自然界において神は自己を啓示しておられるというのです。「天は神に栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」神の作品の展示会のようなこの世界にいながら、多くの人は神の存在を否定する。あるいは、都合のいい時だけ呼び出して願い事をする。…なんとも、人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは…の詩篇も聞こえてきます。「主のおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主の証しは確かで、浅はかな者を賢くする。」詩人は律法を重荷や束縛としてではなく、神との正しい関係を教えるもの、自らを悔い改めに至らせるものとして受けとめています。それらは金や蜜よりも慕わしい、それを守れば大きな報いがあるというのです。神の前に悔いた心、神を信頼する素直な心をもって、はばからずに、神を主と呼び、わが岩、わが贖い主と告白できるのはなんと幸いなことでしょう。
Ⅰサムエル記17章から。有名なダビデとゴリヤテの話しです。ゴリヤテは背丈が3m、完全武装の巨人。対するダビデは羊飼いの少年。戦う前から勝敗は決まっているようなものでした。しかし、主への信頼だけを武器に戦いを挑んだダビデは物の見事にゴリヤテを打ち倒したのです。まさに大番狂わせ、小よく大を制す。いつ読んでもダビデとゴリヤテの物語は私たちにチャレンジする勇気を与えてくれます。
ハートフル英会話では隔週でチャペルタイムがあります。something like scales from Saul's eyes クリスチャンの方には自明の理ですが、目から鱗の由来が聖書だったのをご存知でしょうか(Acts9:18)。熱心なユダヤ教徒だったサウルは、イエスさまと出会ってキリスト者に変えられていきました。前例主義から解放され、新しい事に目が開かれるのは素晴らしいことです。The words of the Bible will change you.
7月第一水曜祈祷会、今日も梅雨曇りの一日でした。今日のデボーションは聖書の中でも理解に苦しむ箇所の一つ、Ⅰサムエル記15章から。サムエルはイスラエルの初代王サウルに言いました。「今、行ってアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい。容赦してはならない。」サウルにしてみれば、なぜ…と言い返したくなるところですが、彼はしくしくと戦いの準備をし、谷で待ち伏せして見事アマレク人を打ち破りました。そして、敵国の王を生け捕りにし、肥えた羊や牛の最も良いものを惜しみ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶したのです。サウルはアマレク人との戦いに勝利すればいいのであって、最良の羊や牛まで聖絶することはないと思ったようです。つまり、自分の考えを優先して神の命令をほどほどに割り引いて従ったのです。主のことばがサムエルに臨みます。「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。」神の失望と落胆がいかに大きいかを表す表現です。サムエルに悔い改めを迫られても、全く悪びれる様子もないサウルの姿は、どこか人間の本質を表しているようにも思います。神、、熱くも冷たくもない、生ぬるい信仰を嫌われるのです。
6月第五主日、朝から梅雨らしい小雨の降る湿度の高い一日となりました。礼拝メッセージは伝道者の書12章から。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」それは若者だけに向けた言葉ではなく、老いも若きも今日が一番若い日であるゆえに、今日あなたの創造者を覚えよという勧めです。だれもが年を取り、体も弱り、やがて死の日が訪れる…そうなる前に人生の大切な決断を先延ばしにしてならないというのです。ソロモンはこの伝道者の書を記すのに、思索し、探求し、まとめたとありますから、彼が心血を注いだことがわかります。それでも「空の空。伝道者は言う。」から始まる本書は当時の人でも理解するのは大変だったかもしれません。でも、読めば読むほどに神の奥深いメッセージが表されていくような不思議な書物でした。礼拝後、ソロモンについて、モーセやダビデとは違って信仰者として決して立派な人物ではなかったのでは…という声もありましたが、そういう完ぺキではない人をも用いられる神さまのご計画を思いました。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ、神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」
今日はカトリック教会暦では聖ペテロと聖パウロの祝日とのことです。ペテロとパウロが殉教した正確な日はわかっていませんが、キリスト教史において重要な役割を果した二人であることに間違いはありません。私自身は、もともとは漁師で、無学な普通の人と言われたペテロに共感を覚えますが、厳格な教育を受け、熱心なユダヤ教徒だったパウロの回心の証しにも感銘を受けます。タイプの違う二人ですが、天国から今の時代をどう見ているのでしょう。
デボーションはⅠサムエル記12章から。私の証人は主である…これほど力強い言葉はありません。私は人生で最初に出会ったクリスチャンの方を泥棒だと思っていました。その人が毎日バイト先のレジから500円を盗んでいると聞いたからです。私はある時『よくないことだよ』と伝えましたが、彼女は何も弁解しませんでした。しばらくして彼女が何も盗んでいなかったことがわかりました。私は彼女に謝りながら、クリスチャンってすごいと思ったのです。
6月第四水曜祈祷会、強い日差しもなく、曇り空で過ごしやすい一日でした。デボーションはⅠサムエル記10章から。民の願いに応える形で、主はイスラエルに王を立てることを承認されました。そこでスポットが当てられるのがキシュのひとり息子サウルです。「イスラエルの中で彼より美しい者はいなかった」とあるので、立派な風貌だったと思われます。サウルは雌ろばを捜している中でサムエルと出会い、促されるままにイスラエルの君主として油を注がれました。予期せぬ出来事にさぞかし驚いたでしょう。まだ、この頃のサウルは「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか」と言ったり、叔父さんに王位のことを話さなかったり、荷物の間に隠れていたり…とどこか頼りない、自信なさげな姿が見られます。まさにサウルは彼自身の能力ではなく、神に見出され、新しい心を与えられて王となったのでした。ですから、彼に必要だったのは、自分を選び、自分に油を注ぎ、新しい心を与えて王として立ててくださった神さまから目を離さないことだったのです。サウルの選びから、私たちの選びについても、大切なことを教えられました。
6月第四主日、今日は梅雨らしい湿度の高い一日でした。礼拝メッセージは伝道者の書11章から。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」有名な御言葉ですが、その意味を理解している人は少ないかもしれません。その一つの解釈はソロモンの海上貿易が背景にあると考えます。行く手に何があろうと、船に荷を積んで、大胆に漕ぎ出していかなくては、利益を得られません。また、風を警戒している人は種を蒔かない、雨雲を見ている人は刈り入れをしない。時を逸し、まさに蒔かない種は生えません。いずれも、心配ごとばかり見ていないで、結果は主に委ねて事を行う大切さを教えています。「朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。…若い日にあなたの心を喜ばせよ。」もちろん、何事も思慮深く、祈り心をもって事を行え。急ぎ足の者はつまずくともありますので、アクセルとブレーキを間違えないようにしたいものです。でも、大事なことは、この何が起こるかわからない不確かな時代にあって、何を人生の羅針盤とするかということでしょう。聖書は、私たちを幸いな人生へと導く唯一の神のことばです。
箕面川の蛍が見頃を迎えました。昨夜の雨で水量の増した川の上を、蛍の群れが幻想的にゆらゆらと飛んでいました。やっと梅雨らしい季節になってきたと思えば、今度は各地の災害が心配です。「人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることを…」何もかも不確かな時代だからこそ、人には人生の確かな羅針盤が必要ではないでしょうか。明日の日曜日、お近くの教会にお出かけください。
梅雨を前に、もうプランターの向日葵が咲き始めました。今日のチャペルタイムでは、レイチェル先生が聖書から「いなくなった一匹の羊」の話しをしてくださいました。教会のディボーションはⅠサムエル記5章から。ペリシテ人はイスラエルを破って、神の箱を奪っていきましたが、この後が大変でした。この先について詳しく学びたい方は、こちらでも話していますので、宜しければお聞きください。
Ⅰサムエル記3章から。祭司エリのもとで主に仕えていた少年サムエルに、主の語りかけがありました。サムエルは最初それが誰の声かわかりませんでしたが、エリの助言でわかりました。しかもその最初の預言は、エリの家の裁きについてでした。預言者の使命は、神の言葉をそのまま人々に語ることです。エリの「その方は主だ」という言葉が心に残りました。主の前に心砕かれた者でありたいものです。
教会のデボーションはⅠサムエル記に入りました。1章はハンナの祈りから始まります。「このはしためを忘れず、男の子を下さるなら…」主は彼女を心に留められ、翌年男の子を与えられました。ハンナはその子をサムエルと呼び、「この子を主におゆだねいたします」と主に献げたのです。2章はそんな彼女の賛美が記されています。神は私たちの祈りを聞いていてくださる方であるとともに、ご自身の計画を確実に進めていかれる方であることを思いました。
6月第三主日、今日も30度を超える蒸し暑い中でしたが、父の日を覚える賛美礼拝を献げました。礼拝メッセージは伝道者の書9章から。善人も悪人もすべての人に同じ結末としての死が臨むこと、でも、生きている者には希望があること、それゆえ神はすでにあなたのわざを喜んでおられることを心に留めました。「空の空」で始まる伝道者の書は、全般的に虚無的・懐疑的な内容で記されています。信仰もって読まなければ、全く意味を読み違えてしまう書物です。ノーベル賞作家のヘミングウェイをはじめ、文豪ゲーテ、名文筆家ルナン、作曲家のブラームスなど多くの文化人が本書から影響を受け、中でも宗教改革者マルティン・ルターは本書を『慰めの書』と呼んだとのこと。ルターが見出した『慰め』とは何だったのでしょう。そう思ってあらためてじっくり読むと、実に励ましと慰めに満ちた言葉が散りばめられているのがわかります。「しかし、人には拠り所がある。…神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。」神を抜きにして考えるなら、この世はいかに「空」であるか、神を信じて歩むことこそ「空」からの脱却があるということを本書は教えているのです。
最高気温33度まで上がり真夏日となりました。洗濯物はどんどん乾いて助かりますが、少し雨が恋しそうなアジサイです。今週は教会員の夫婦に第一子が与えられました。待ちに待った誕生に、教会全体が喜びに包まれました。思えば彼女が信仰告白に導かれ、洗礼を受け、クリスチャンの男性と知り合って結婚し、出産に導かれるという御霊の導きを見せて頂きました。今後もご家族の祝福を祈っています。
6月第二水曜祈祷会、ガラテヤ人への手紙4章から。パウロはガラテヤの諸教会にユダヤ主義者たちが現われ、救われるためには割礼を受けなければならないと言って人々を惑わしていることを聞きました。そうした問題に対して、今日の所でも旧約聖書の創世記を紐解いて、女奴隷の子と自由の女の子の比喩から、あなたがたはイサクのように約束の子どもですと記したのです。パウロの手紙は読んでいて難解に思う箇所もありますが…そもそも二千年の時を経て、文化も生活習慣も全く異なる時代の手紙を読んでいるのですから、何が言いたいのか容易にわからなくても仕方のないことで、むしろ理解できることの方が驚きでしょう。自分に置き換えてみれば、イエスさまを信じたばかりの頃、不甲斐ない信仰生活を顧みて、こんなんでクリスチャンと言えるだろうかと悩んだ時期がありました。でも、「兄弟たち、あなたがたは…約束の子どもです。」というパウロの言葉は力強く、勇気が湧いてくる言葉です。私たちは何をもって自分が救われていると確信するのかと言えば、御言葉の約束です。救いの道は、平均台のような細い道ではなく、大通りのような恵みの道なのです。
6月第二主日、九州地方が梅雨入りし、関西も曇りのち小雨の一日でした。礼拝では一人の姉妹が自分の半生を振り返る「証し」をしてくださいました。幼小中高と引っ越しをし、小さい頃からいろいろな経験をする中でイエスさまと出会い、信仰に導かれたこと、いつも聖書の言葉によって支えられてきたことを素直な表現でお話しくださいました。礼拝メッセージも伝道者の書8章から。「恐れる」とは単に恐怖心のことではなく、何より畏敬の念をもつことです。その最初の一歩が御言葉に従うことです。神のことばに従わずして、お願いだけ聞いてもらおうというなら、そこまでの関係でしょう。神とはどういうお方なのか、何を私たちに告げておられるのか、聖書やメッセージを聴くことがなければわかりません。何はともあれ「主を恐れることは知恵の初め」です。そこから神と私との極めて親密な関係が始まっていきます。混沌さを増す世の中にあって、「しかし私は、神を恐れる者が、神の御前で恐れ、幸せであることを知っている。」の御言葉がいかに大切であるかを心に留めました。夕礼拝の後には信仰のリスタートを決心する青年がいて…実に感謝な一日でした。
6月に結婚する花嫁は幸せになれる…と言いますが、聖書的根拠はありません。むしろ、神に導かれた結婚ならば何月に結婚しても幸せになれるでしょう。今日は茨木聖書教会で結婚式があり、10分の奨励を頼まれて行ってきました。幸せそうなお二人を見ていたら、、気がつけば20分ほどになっていました。「いつまでも残るのは信仰と希望と愛…。」新しい出発をされるお二人の祝福をお祈りしています。
6月第一水曜祈祷会、今日からガラテヤ人への手紙を読んでいきます。まだ始まったばかりのガラテヤの諸教会の中に、異邦人はキリストを信じるだけでは救われず、割礼を受けてモーセの律法を守らなければならないと主張する者たちが現れました。それを知ったパウロは、すぐにペンを取り、自分の使徒職を弁明し、あらためて福音の真理を論証しました。今日も似て非なるキリスト教に注意が必要です。
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