東京都で一日の感染者数が過去最高となり、週末の外出自粛要請が出ました。教会に行くこと自体が難しい状況になりつつあります。こうした状況の中で、牧師たちが一番心配しているのは、礼拝への意欲や礼拝に行かなくていいという肌感覚の蔓延とのこと…。礼拝や祈祷会を忠実に献げていた人でも、何かのきっかけで長く休むとそれが普通になってしまい、足が遠のいてしまうことがあります。時短の礼拝や祈祷会が、もはや教会に行く時間よりも短いなら、家で録音を聞けばいいかも…という囁きも聞こえてくるのかもしれません。「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」こんな時こそ原点回帰で、礼拝とは何か、神は何を喜ばれるのかを考えたいものです。神はその心をご覧になる方です。
新型コロナウィルスの感染拡大によって、世界の感染者は30万人を超え、IOCもオリンピック延期を決めました。こうした中で、多くの教会が礼拝時間を短縮し、交わりを自粛するなどの対応をとっています。今後、教会はどうなっていくのか…をある先生に尋ねてみると、『私たちの教会はほとんどいつもと変わりません。むしろ、ともに集まる恵みを再確認しているのではないでしょうか』と話してくださいました。確かに私たちの教会も、水曜祈祷会を再開してともに祈り合える幸いを実感するとともに、苦難の真っただ中にいる兄姉のためにとりなしの祈りが必要であることを再確認しています。でも、神は苦しみの中にある人を決して見捨てることはありません。どんな状況の中にも、神のご性質は愛であることに変わりはないからです。苦難の真っただ中でも教会は祈っています。
ユダ書1:1~。書き出しにこうあります。「父なる神に愛され、イエス・キリストによって守られている、召された方々へ。」ここを読むだけでもクリスチャンとはなんと素晴らしい身分なのかと思います。しかもそれは私たちの行いや功績によって得たものではなく、神からの一方的な恵みによるものです。確かにそういう私たちにも困難はあります。誤った教えに惑わされ、時には神はどこに行ってしまったのだ…と叫びたくなることもあります。でも、ユダは最後にこう記します。「あなたがたを、つまずかせないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方」どんな霊的な戦いの中にも、主は私たちを信仰から離れることのないように常に守ってくださり、主の御前に出る時ついに完全な者として立たせてくださるのです。
今日は関キ災の第一回懇談会がありました。新型コロナウィルスの影響もあって予定より人数は少なくなりましたが、素晴らしい先生方が出席してくださり、活発な意見交換ができました。東日本大震災以降、災害のサイクルは間隔が狭まってきて、もはやいつどこで何が起きても不思議ではありません。特に南海トラフの巨大地震の発生率は30年以内に80%と言われています。そうした大規模災害に備えて、今から教会間のネットワークを網の目のように作れないかというのが一つの願いです。全国各地の災害支援団体や過去に被災された地域教会の情報なども参考にさせていただいて協力体制を整えていきたいと思っています。ある方が、ヨセフがエジプト王のファラオに七年間の飢饉に備えて、七年間の豊作で備えをするように進言した話しをされていたのが、非常に心に留まりました。
3月第四主日も礼拝時間を短縮してささげられました。今は力いっぱい賛美を捧げられないのは寂しい限りですが、一人一人がみことばに集中して聞こうとする姿勢があります。メッセージはⅠヨハネ4:7~「この愛に生きる」。私たちが互いに愛し合う理由は、愛は神から出ているからであり、愛は御子によって示されたからであり、愛は私たちの内で完成されるからです。「愛する者たち。私たちが互いに愛し合いましょう。」この愛はアガペーの愛、自分の身を犠牲して他の人を尊重する愛、受けるよりも与えるが幸いの愛です。私たちもこの愛に生きたい…あらためてそう思わされました。礼拝後は子どもたちに大根の収穫を手伝ってもらい、想像していた以上に小さな大根でしたが、子どもたちの楽しそうな笑顔に励まされました。新しい一週間の祝福をお祈りいたします。
16世紀宗教改革者のジャン・カルヴァンはこう言いました。『私たちは最大の難局に陥るとき、私たちの惨めさのために常に備えられている救済策があることを教えられる。すなわち、神を呼び求めるという策である。』苦難と苦痛に対する唯一の解決策は祈りである、今日はこの言葉が心に響きました。あのアイザック・ニュートンも「私は望遠鏡で何千万キロの遠方をも見ることができる。しかし、静かに跪いて祈ることにより、望遠鏡に勝ってはっきりと天国を見、神に近づくことができる」と日記に綴ったそうです。今日は彼の召天日でした。確かに、祈りの第一の動機は神の恵みと憐れみを個人的に経験すること。このような状況の中でこそ、祈りを通して神の力を経験したいものです。病いもさることながら…特に経済、霊的な面で苦難の中にある方々を覚えてお祈りしています。
マラキ書1:2~「わたしはあなたがたを愛している。―主は言われる―しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。」神の愛の宣言に対し、イスラエルの民は『どのように』という反問の言葉を繰り返します。当時、凶作と貧困が厳しくなる中で、民の宗教的冷淡と道徳的退廃はそのまま礼拝姿勢にも如実に現れました。「自分の群れのうちに雄がいて、これを献げると誓いながら、損傷のあるものを主に献げるような、ずるい者は呪われる。わたしは大いなる王であり、―万軍の主は言われる―わたしの名は諸国の民の間で恐れられているからだ。」状況は違いますが、昨今のコロナの影響の中で、インターネットでも礼拝を献げられることに多くの利点があるのは確かですが、神を恐れ敬う思いも忘れないように気をつけたいものです。
穏やかな朝、春の告げるアーモンドの花が咲きました。今日から新型コロナウィルスの感染予防に十分に配慮しながら水曜祈祷会を再開します。時間短縮の中ですから、ディボーションの分かち合いは短くなりましたが…何よりも互いの祈り課題を覚えて心を合わせて祈れる幸いを感謝しました。午後からある宣教師と話している時にスマホが鳴ったので『どうぞ出てください』と言ったところ、『2時間おきに神に感謝を覚えるようにタイマーをセットしているんです』とのことでした。彼女の純真な、信仰者としての姿勢に敬服しました。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」コロナの影響もあって、できないことばかりに心がとらわれて鬱々してしまいがちですが、できることを一つ一つ感謝していくことの大切さを思い出しました。
教会のディボーションはゼパニヤ書になりました。「わたしは必ず、すべてのものを大地の面から取り除く。」厳しい神の裁きの宣言ですが、それは同時に「主を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。そうすれば、主の怒りの日に、かくまってもらえるかもしれない。」という救いの招きでもあります。今からでも遅くはない、救いの可能性は十分にある…という主の声が聞こえてきそうです。神は苦難のただ中にいる者と『ともに』苦しんでおられる神なのであり、なおかつ不可避的な苦難の中に『幸い』を宣言しておられる神なのであって、決して天の高みから人間を見下ろしておられる神などではありません…。ある本に書いてあった言葉が心に残りました。確かに私たちの主は、私たちがどんな苦しみの中にもインマヌエルの神としてともに苦しんでおられるのです。
Ⅱペテロ3章~。ペテロはこの手紙の最後に「あなたがたの記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたい」と記しました。主の日は盗人のようにやってくる…いつも心しておきたい言葉です。そうは言っても多くの人は忘れがちでしょう。これだけ様々な災害が起き、国と国とが争い、痛ましい事件が続いても、『それらは神などいない証拠。いてもこの世界に介入しない。』という声も聞こえてきます。そんな人の思いに対してペテロは言います。「平安のうち神に見出していただけるように努力しなさい。…私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。」主が再臨の日を忍耐しているのはすべての人が悔い改めに進み、主に立ち返るのを待っているからです。花は寒い冬の間も自分の咲く時期を知っています。人間にも神に向かって顔をあげる日が来ることを教えているようです。
3月第三主日、世界中が不安と痛みを覚える中での礼拝。WHOは「新型コロナウィルスはパンデミックに相当する」と宣言し、世界の感染者数も累計で15万人を突破しました。こうした社会情勢を鑑み、私たちの教会も礼拝の時短、アルコール消毒とマスク着用、席を間隔をあけて座ること、換気をよく行うことなどの対策を継続することにしました。そんな中あらためて思うのは、神の家族がともに集い、主なる神に礼拝をささげることができるのは憐れみにほかならないことです。ヨハネは私たちが「真理に属している」(神の子どもである)恵みについて「神の御前で平安でいられること」「どんな祈りも聞いていただけること」「御霊が内住してくださること」の三つを教えていました。時宜にかなったメッセージを聴き、礼拝が終わると心の内に新たな平安と力づけを感じました。
人間はみな泣きながら生まれてくる…シェイクスピアの戯曲『リア王』の台詞です。そのような誕生は、既に数々の人生の悲惨を予告しているのかもしれません。形は違え、苦難は万人共通の宿命です。それでも意味のない苦難ほど耐え難いものはありませんが、もし意味があると思うなら…そこに希望の光が差し込み、苦難を乗り越える力になるのではないでしょうか。今日は救世軍・山室軍平師の召天日でした。彼はこう言いました。『信仰とは四方八方塞がっても上を開くことだ。』今も言い知れない苦難の中で闘っている兄姉に、主のご臨在とみんなの祈りが三つ撚りの糸となって力強い支えとなりますように。「二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。…一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」
今日から教会のディボーションはⅡペテロ1:1~。「神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。」「知る」とは単に名前や顔を知ることではなく、イエス・キリストを人格的に親しく知ることを意味します。それは一朝一夕にという訳にはいきませんが、時に…瞬間的に知るということもあるのかもしれません。たとえ臨終の間際であっても、キリストをはっきり知る恵みにあずかることができたらなんと幸いでしょう。キリスト教式の葬儀がひと段落しましたが、あらためて家族の絆の大切さを教えられました。まさに語るのに時があり、信じるのに時がある。教会福音賛美歌334『愛する者は主のもとに』を、春から小学生になるお孫さんが大好きなお爺ちゃんのために大きな声で歌っていたのが印象的でした。
あの日から今日で丸9年。大阪でも地震の揺れを感じてテレビをつけると、そこには信じられない光景が報道されていました。巨大津波と原発事故…まさに未曾有の災害。少し落ち着いた頃に教会でもチームを組んで災害ボランティアとして行きましたが、実際の目で見る光景は想像をはるかに超えていたのを覚えています。現在もなお4万7000人もの方々が避難所生活を送り、すでに多くの方が震災関連でお亡くなりになっています。それからも日本は地震、大雨、洪水、台風…次々と災害が続き、もはや「未曾有」「想定外」という言葉も使われなくなりました。昨今では中部・関西・四国にかけて、南海トラフ大地震が高い確率で発生すると言われています。過去の災害から何を学び、どう備えるのか…。コロナの中ですが、関西キリスト災害ネットワークの発足式も近づいてきました。
Ⅰペテロ4章~。ペテロは繰り返し「地上の残された時」について言及します。私たちの人生にも、この世界にも必ず終わりがあり、その終わりを見つめながら、日々を生きなさいというのです。また、そのために「祈りのために心を整える」「互いに愛し合うこと」を勧め、「さばきが神の家から始まる」とも言っています。試練の中でこそ、信仰の真価が問われるわけですが、一方で、信仰がない方はその時何を頼りにすればいいのでしょう。「生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがない。」自分の死ももちろんですが、人生で最も辛いのは配偶者の死と言われます。こんなに辛いと分かっていたら結婚しなかった…と思われる方もいます。でも、神を信じる者には、死は終わりではありません。真実な創造者にゆだねるなら、天国での再会という希望があります。
新型コロナウィルスはインフルエンザと違って暖かくなると消えるウィルスとは違うらしく、長期化する可能性も出てきました。感染防止のため、リモートワークを導入する会社も増えて、今後学校などでも導入していくようになれば、教会のあり方についても影響が出てくるのかもしれません。すでに多くの教会でインターネットを通じての礼拝がアップされ、毎週教会に行くことが習慣となっている方には物足りなさを…一方で、人と会わずストレスがなくていい…という意見もあるようです。そもそも礼拝とは何か…「行く」ことなのか、本質を見つめ直すのにはいい機会なのかもしれません。私も一人暮らしをしている母親がいますが、近所の子どもたちや青年、ご高齢の方も気軽に立ち寄れるような、つながりの場としての教会が今後はもっと大切になってくるように思っています。
3月第二主日、今日は多くの教会員が積極的に家庭での礼拝をささげられました。コロナウィルス感染拡大防止のため、賛美は自粛、ピアノの奏楽のみ、空席が目立ち、出席者は全員がマスク着用という…なんとも痛々しい礼拝の様子でしたが、その心と思いはより一層神を礼拝する霊的な雰囲気が漂っていました。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。」このような中ですが、御言葉にから測り知れない神の愛を教えられました。そして、このような中でも、神はある教会員のご家族を救いへと導かれ、罪の赦し、永遠のいのち、天国への希望を確信して、イエスさまのみもとにお送りすることができました。間に合ってよかった…という安堵とともに、すべてが神の最善の備えであったことを思わされました。
コロナウィルスの感染拡大および、箕面市でも感染者が確認されたことを鑑みて、当教会もさらなる対策を実施します。教会員の方々(特にご高齢の方や健康面に不安のある方)には積極的にご自宅での礼拝をお勧めします。今後の大規模災害なども見越して、この機会に家庭礼拝や個人での礼拝について考えておくことも大切です。教会のお知らせ・メッセージの要約などを記した週報は通常通りメールボックスに配布します。インターネットが使える方のためには礼拝の様子をYouTubeでもアップする予定です。教会として最大限の注意を払いつつ、このような患難の中でも心からの礼拝を献げたいと願っております。感染症専門家の意見もご参考にしてください。
Ⅰペテロ2:1~、キリスト者として成長することは、まず古い自我を捨てることから始まり、その上で「純粋な、霊の乳である」御言葉によって養われることが大切です。こうして私たちは互いに霊的な成長を遂げ、キリストの体なる教会という共同体を築き上げていくのです。それでも地上の教会は時に、嵐のような中を通らされることがあります。今朝は主日礼拝の自粛について祈る中で、この御言葉に目が留まりました。「この方に信頼する者は、決して失望させられることがない。」苦難の中でこそ、御言葉は力です。今日はドイツ告白教会闘争の中心的な役割を果たしたマルティン・ニーメラー牧師の召天日でした。『風を見て、波が大きくて沈没するような教会はない。教会はイエスさまから目を離した時に沈没する。』今まさに私たちが見上げるべきはキリストの御旗です。
国内の新型コロナウィルスの感染者数が1000人を超える中で、大阪府箕面市でも感染者が確認されました。すでに多くの教会で日曜日の礼拝やミサの中止が相次いでいますが、こうした状況を鑑み、私たちの教会も主日礼拝の自粛、今後の対策について現在審議中です。くれぐれも風邪症状のある方は自宅で礼拝を捧げ、何より聖書を開き、心静めて祈ること、また、インターネットなどもご活用いただいて、礼拝メッセージをお聴きいただければと思います。今後の礼拝や集会に関することは、明日の夜以降、このホームページでもお知らせいたします。まずは私たち一人一人がよく祈り…落ち着いて、主を信頼して、力を得たいと願っております。
Ⅰペテロ1:13~、苦難の中でもひたすら主の時を待ち望む大切さを覚えました。前にも書きましたが、“The Rose”という曲について。中でも I say love, it is a flower. And you, its only seed.の歌詞が私は好きです。この曲を作ったAmanda McBroomは、ラジオから流れる“Magdalena”(マグダラのマリヤ)という曲からヒントを得たそうです。マグダラのマリヤと言えば、イエスさまと出会って七つの悪霊を追い出してもらった女性。それまでの彼女がどんな人生を歩んでいたのかはわかりませんが…その後の彼女はどこまでもイエスさまに従う女性になりました。Just remember in the winter. Far beneath the bitter snows. Lies the seed that with the sun's love. In the spring becomes the rose. 病の中にある方々を覚えて祈っています。いつも通りの教会、温かい春が待ち遠しいです。
3月最初の水曜祈祷会は休会となりました。今日からディボーションブックはⅠペテロになります。使徒ペテロは異教社会の中で様々な試練に遭っているキリスト者を励ますために、この手紙を書きました。1:1~「選ばれた人たちへ」私たちが神の子どもとされ、その救いにあずかったのは、私たちの努力や功績によるものではなく、三位一体の神のご意志と御業よるものです。但し、救いや喜びがあることは、試練や困難がないことを意味するものではありません。「今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが…」いつの時代も、思わぬ時に、思わぬ苦難に私たちは襲われるものです。でも、それも「今しばらくの間」。どんな苦難も神の御旨の中に許された、必要あってのこと。その先には必ず「称賛と栄光と誉れ」があることをペテロは教えているのです。
もし完成図も知らず、ジグソーパズルのピースだけを渡されて、それを完成させるには大変な労力がかかります。同じように、聖書も全体図を知らず、途中の言葉だけを見て、神がどんなお方なのかを知るのは難しいでしょう。レビ記26章を見ると、主に救われ、神の民となったイスラエルに、祝福の約束とのろいの刑罰が告げられます。「あなたがたはわたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。」強調されているのは「わたしの安息日」「わたしの聖所」。クリスチャンにとっても安息日を守り、聖所を恐れることは信仰生活の基本ですが、兎角、私たちは自分本位な信仰生活に陥りやすいものです。良いことは当たり前で、悪いことは主のせいに…。主がなぜこれほどまでに従順を求められるのか。厳しい言葉の裏側に、神の愛があるからです。
月曜日はいつも昨日の主日を振り返りながら、礼拝に来られた方、来られなかった方のことを考えますが、いつもとやや違う日曜日だったので、なんとなく物悲しい気持ちでいました。今日から小中高が休校、各地のイベントも中止、TDL・USJも臨時休園、卒業式も最小限とのこと…。町中が静まり返っているような気がして、心痛めている方々を覚えて、ただただ祈るばかりです。そんな中、今日は18世紀の英国国教会の司祭ジョン・ウェスレーの召天日でした。あらためて彼の本をパラパラと読み返して、キリスト者としての大切な使信を再確認するとともに、87歳で召された際の彼の臨終の言葉が心に残りました。『全てのことのうち最も善きことは、神われらと共にあることなり』偉大な説教者の最後の言葉は、今日も明日も…変わらない主の約束を私たちに語っているようです。
3月第一主日、新型コロナウィルスの感染予防のため、礼拝の時間短縮、子ども礼拝、夕礼拝などの自粛が始まります。出席者には入口でアルコール消毒とマスク着用をお願いし、礼拝では賛美も主の祈りも最小限にしました。教会としてどのような対応がベストなのか、今後どうしていくのか…まだまだ手探りの状態ですが、昨夜の祈りの中で一つの御言葉が示されました。「主が、あなたのために御使いたちに命じて、あなたのすべての道で、あなたを守られるからだ。」礼拝前に一つ一つの席に手を置いて、今日ここに座られる方の平安を祈りました。礼拝が始まると、いつものように神の家族が集まり、ともに主を崇め、ともにメッセージを聴き、いつもより短い交わりでしたが、笑顔でそれぞれの場所へと遣わされていきました。今週も主の約束が一人一人の上に成就しますように。
「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである。」新型コロナウィルスに関する情報で世界中が揺れ動いています。昨夜は安部首相から全国の小・中・高・支援学校の休校要請があり、今日はWHOでも「パンデミックの可能性あり」の声明が出て、ドラッグストアなどではマスクやトイレットペーパーを購入する人たちで戦々恐々とした様子でした。政府の場当たり的な判断、連日の加熱報道、SERSやMERSに比べて致死率はかなり低いこと、日本ではインフルエンザで毎年3000人超の死者が出ていることなどを考え合わせると、慌て過ぎず、冷静な行動が賢明です。でも、こうした社会情勢を鑑みて、私たちの教会も3/15まで、礼拝の時間短縮、子ども礼拝、夕礼拝、水曜祈祷会の自粛を判断しました。
新型コロナウィルスに関する情報で、韓国の感染者433人の内の231人が『新天地』教会関係と判明されたそうです。新天地は韓国の主要キリスト教団から異端(カルト)規定を受けている宗教団体ですが、感染者の方を思うと…なんとも心痛むニュースです。また、それとは別ですが、教会に『私の家に宗教勧誘に来るのをやめてください。私は寝ているんです…」と非通知での電話がありました。一方的に切られてしまったので、誤解のないように当教会は訪問伝道等を一切していません。おそらくご近所であれば『エホバの証人』の方かなと思いますが、なんともやるせない気持ちになりました。仮にエホバの方に、私から「そういう町の声がありますよ」と声をかけても取り合ってももらえません。立場は違いますが、今はともかく心合わせて一緒に祈れたらと思うのですが…残念です。
エルサレムに向かう道中、弟子たちはイエスさまに終末について尋ねました。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れて…。それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」確かにイエスさまはほかにも戦争や暴動、大きな地震、方々で飢饉や疫病が起こる…とも言われましたが、恐れてはいけませんとも言われました。新型コロナウィルスに関する情報がこれだけTVや新聞、SNSで取り上げられていますから、当面は心配な状態が続くでしょう。各地でキリスト教の集会や催しが中止になっている状況も、サタンは大喜びで見ているはずです。それに乗じて、悪徳商法や終末を強調するカルト宗教のようなものも活発になることがあります。悔しいことですが、ここはじっくり落ち着いて、惑わされないようにしたいものです。
2月第四主日、礼拝ではⅠヨハネ3:1からメッセージを聴きました。当時、教会の中には人々を惑わす反キリストと呼ばれる者たちがいました。そうした中で、使徒ヨハネは「愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。」と記したのです。「今」とはキリストを信じ、その名を受け入れている「今」のこと。それは父なる神が御子を通して素晴らしい愛をお与えになられたから。そして、私たちはやがてかの日には、キリストに似た者となり、キリストのあるがままを見るのです。だから今、この地上でキリストが清い方であられたように自分を清くします。もちろん一足飛びに清くはなりませんが、栄光から栄光へ…それは御霊なる主の働きによるのです。今日は午後から大事な『教会総会』もあって、終始和気藹々と昨年度の恵みを振り返り、新たなビジョンを共有しました。
昨日の聖書を学ぶ会では創世記6章から『ノアの洪水』の始まりについて学びました。地上の面に人の悪が増大していくさまをご覧になって「主は、人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」とあります。ここからいろいろな意見が出て、実に有意義な学びができました。また次の学ぶ会も楽しみになりましたが、その恵みはおいおいこのブログでもお分かちするとして…。それとは別に、新型コロナウィルスの日本国内の感染者が100人を超えたことを考慮して、私たちの教会でもおもに3つの対策を講じることを決めました。聖餐式の当面の延期、アルコール消毒とマスク着用のお願い、体調の悪い方や風邪症状のある方に自宅での礼拝を薦める(詳しくはガイドラインで)。気温の上昇とともに終息に向かうことを期待しますが…何よりも今は主の守りの御手をお祈りしています。
『神はその人が耐えることのできないような苦しみを課すはずがないという、いかにも敬虔そうな物言いは残念ながら現実とは矛盾している…』確かに、生まれながらに苦しみを背負う子どもや、人間として成熟するチャンスもないまま命を落とす方々がいることを思えば、苦しみには何らかの教育的意味があるというのは受け入れ難い。ならば、なぜ神は最初から人間をその最終目標の状態に創造しなかったのか…という疑問も浮かんできます。これらの問いは『神義論』というキリスト教の課題でもありますが、明日の『旧約聖書を学ぶ会』でどうしても避けて通ることはできないだろうと思って考えをまとめています。有限なる人間がいくら考えたところで無限なる神の摂理をすべて理解することなど到底無理な話しですが、それでも心と思いと知を尽くして御心に迫りたいと思います。
水曜祈祷会はレビ記19章から。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」イエスさまはこれが律法の中で一番重要だと教えられました。クリスチャンなら必ず知っている有名な教えですが、単なる隣人愛の薦めではなく「自分自身のように愛するとは?」について互いに考えました。自己優先、他者優先、自己否定、自己受容、個人主義…など。さまざまな意見が出て、あらためて奥深い言葉であることがわかりました。午後はKFSMミーティングがあり、二組のゲストからPRとお証しを聞かせていただきました。どちらの先生も次世代宣教に対して重荷を持ち、大切に取り組んでおられる様子が伝わってきました。思えば、ある聖書は「愛する」という言葉を「大切にする」と訳したそうですが、先生方の働きを伺いながら今日の御言葉の一つの答えのようにも思わされました。
ヨハネ5章に「38年間も病気にかかっている人がいた」という記事があります。彼は苦しみの中で冷酷な運命を感じていたでしょう。イエスさまはそんな彼に目を留められて「よくなりたいか」と声をかけられました。自分でも忘れかけていた思いでした。でも、彼はこの方のこの言葉、この出会いによって、運命から解放されて自由への道を見出すのです。V.フランクルもこう言いました。『人間の自由とは諸条件からの自由ではなく、…自分のあり方を決める自由である。』(夜と霧)人間は境遇や運命などさまざまな条件に束縛されています。悪条件の中でみな不自由なのです。でも、いかなる条件の中でも、希望か絶望かという自分のあり方を決定する自由があります。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」イエスさまはそのような人間の自由の世界を開いてくださるのです。
二年ほど音沙汰のなかったクリスマスローズが三年目で見事に花を咲させました。花によってすぐに咲くものもあれば、少し時間がかかるものもあるのですね。このところ気温も低く雨や曇りが続いていたのに…あきらめず立派でした。さすがはレンテンローズ。夕礼拝は朝の礼拝とは違った恵みがあるのですが、このところ出席者は少なめです。昨日はアルベルト・シュバイツァーの言葉を引用しました。『私は現実においては悲観的でも、希望においては楽観的である。』現実を見るとき、悲観的にならざるを得ない、もうダメだと思うようなこともある。しかし、希望においては楽観的である。神が関わってくださっているなら、途中で投げ出されるようなことはないのだ。試練の中にある方々のために祈っています。来週からレントに入りますが、十字架の後の復活を信じます。
二月第三主日、礼拝メッセージはⅠヨハネ2:18から。使徒ヨハネは「今は終わりの時です」と告げました。いつの時代も、終末の兆候は随所に見られ、いつ主の再臨があってもおかしくない状況です。そうした中でヨハネが切に願うのは、キリストにうちにとどまること。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしのその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」それは、単に教会生活を守り、奉仕をし、伝道するという形式的なことではないでしょう。大切なのは、私たちの心がキリストにつながっていること。私たちのそんな思いは、聖霊によって支えられているのです。午後からのキッズ&ファミリーバレンタインではゲームとパンケーキ、心温まる聖書のメッセージを聴きました。心も体も満たされ、感謝な一日でした。
I got nothing that I asked for ‐ but everything I had hoped for almost despite myself, my unspoken prayers were answered...『求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聴き届けられた。神の意に添わぬ者であるにも拘わらず、心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。』今日は、ハートフル英会話のチャペルタイムでニューヨークのリハビリテーション研究所の壁に書かれた「祈り」の一文を紹介しました。キリスト教の祈りは、ただ自分の願いごとを懇願するだけではありません。イエスさまも言われました。「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたの必要なものを知っておられるからです。」私たちのすべてを知っていてくださり、最善を備えてくださっている方の御心を求めるところに、私たちの真の希望があるのです。
今日の水曜祈祷会はレビ記14章~、『ツァラアト』に対する規定が記されています。ツァラアトは重い皮膚病やカビなどの症状に似ていますが、単に病というよりは宗教的汚れとみなされ、家族からも社会からも隔絶された生活をしなければなりませんでした。治らなければ、そのまま朽ち果て…死に至る病。それは生まれながらの罪とその罪過のゆえに、死にゆくばかりの人間の姿と重なります。聖書は宣言します。「罪の報酬は死です」でも、一方で、そんなツァラアトに冒された人にも、イエスさまのもとに救いの道があることが示されています。「わたしの心だ。きよくなれ」医者を必要とするのは病人です。同じように、自分がどうしようもない罪人であることを認めなければ、救い主が必要だとは思いません。人間には無理だと思っても、神にはどんなことでもできるのです。
今日は私たちの教会を会場に『信教の自由セミナー』が開催されました。講師に美濃ミッション代表の石黒イサク先生をお招きしてご講演いただきました。戦時下において厳しい思想統制がなされる中で最後まで神社参拝を拒否し、弾圧を受けた美濃ミッション。その歴史的なことから、信仰弾圧・迫害の特徴、キリスト教界・日本社会の動向を検証、今後のクリスチャンとしての行動、将来のあり方まで…質疑応答を入れると100分以上の講演になりましたが、参加した50名の方々が真剣に耳を傾けていました。石黒先生は想像以上の迫力と歯に衣着せぬ語り口で、『どこまで見抜けるか、迫害の文脈化』という言葉が印象的でした。自分の不勉強さを痛感しながら、講演後も昼食とその後の歓談を通じて、じっくりお話を聞けて勉強になりました。講演はCGNTVでも観ることができます。
2月第二主日、今年一番の寒さでしたが、日差しが眩しい朝でした。礼拝では詩篇116篇から「私は主を愛します」というテーマでメッセージを聴きました。人生に艱難辛苦はつきものです。時には死を覚悟するような試練に遭うこともあります。でも、主を呼び求め、そこから助け出される経験が詩人をより信仰の高嶺へと導いたのです。主は私の祈りを常に聞いてくださる、主はあらゆる苦しみから救い出される、主は私の万事を良くしてくださる。こうした確信に私たちも至りたいものです。今日も子ども礼拝はみんなきちんと先生のお話をし聞いていたようです。幼い頃から御言葉にふれ、養われる子どもたちは本当に幸いです。青年たちもさまざまなテーマで語り合っていました。最後の方は「思考ゲーム」へと発展していきましたが、親しい交わりの中でお互いを知れて感謝です。
ある方から「クリスチャンの方は仏式の葬儀には出るのですか」とご質問をいただきました。教会によって考え方に違いがあると思いますが、私個人は自分の経験をお話ししています。父、友人…ある教会員の方が仏葬でした。父と友人はともかく…教会員の方はご主人が仏教徒だったため仏式で行われました。大阪から電車を乗り継いで約4時間、静かな町の葬儀場でしたが、部屋の一角には聖書が飾られてあり、僧侶の方も「故人は闘病中、キリスト教に帰依されました」と仰っていました。昔から知っているご近所の方は少し驚かれたかもしれませんが…私は(お焼香などはしませんでしたが)ご遺族の方にもご挨拶させて頂き、天に召されてなお、証しがなされているのを見れてよかったと思いました。キリスト者として仏葬をどう考えるか…聖書から考えておくことが大切です。
水曜祈祷会はピリピ人への手紙3:1~、この手紙は『いつも喜んでいなさい』という言葉が繰り返し出てきます。私たちは日常生活でいろいろなことに喜びます。試験に合格した、会社で給与がアップした、欲しかった洋服を手に入れた…でも、それらは継続的な喜びとはなり得ません。いつまでも変わらない喜びなどあるのでしょうか。その秘訣は「私の主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさのゆえに」という言葉にあります。この手紙を書いているパウロは、キリストを宣べ伝えたがゆえに獄中にいました。ですから、普通に考えればとても喜べる状況ではなかったはずでした。それでも彼の心には、そうした周りの状況や外的な要因に左右されない真の喜びがあったのです。『神を知る』とは、単なる知識としてではなく、どんな時も神とともに歩むことなのです。
ある方に『教会でも節分するのですか?』と聞かれましたので、『はい。豆まきはしませんが…』と答えました。今日では『節分』と言えば、もっぱら立春前日のことを言いますが、本来は読んで字のごとく、『季節の分け目(変わり目)』のことです。昔は、悪鬼病魔は季節の変わり目に横行すると考えられていたので、立春、立夏、立秋、立冬、一年で4回の『節分』ごとに厄払いの儀式が行われたそうです。それで言うと、今世界中で心配されているのは『新型コロナウィルス』の猛威。中国の武漢ではすでに感染者が1万3千人(日本でも23名)を超え、亡くなられた方も414人になりました。『鬼は外~福は内~』と鬼ごっこのお芝居ではなんとも心もとない気がしますので…とにかく明日の祈祷会では、感染者の方々の癒しと速やかな終息を主イエスの御名で祈りたいと思います。
月曜日は基本的にお休みの日で、会議などもなかったので…看板の説教題を付替え、教会前を少しきれいにして、後はゆっくりさせて頂きました。昨日のブログを見て「続きを教えてください」と仰ってくださる方がいたので感謝です。彼とは、僕の方が8つも年上でしたが、嫌がらずによく相手をしてくれました。彼と過ごした時間はそれほど長くはありませんでしたが、いろいろなことを教えてもらいました。病気がちだった彼は、中学の頃から家にいることが多く、僕には想像もつかない重い悩みを抱えていました。そんな彼が教会に来るようになって少しずつ変わっていく姿は、神さまのお働きであることを感じました。でも、別れは突然訪れました。人生は本当に何か起こるかわからないものです。今は、イエスさまの約束にあずかる者として、天国での再会を楽しみにしています。
2月第一主日、暖かな日差しが差し込む朝の始まり。礼拝メッセージはⅠヨハネ2:12~「子どもたち…父たち…若者たち…私があなたがたに手紙を書いているのは、イエスの名によってあなたがたに罪が赦されたからです。」ヨハネは教会の中のさまざまな年齢層を思い浮かべて一人一人に温かい言葉を書き送りました。クリスチャンと言えども、いつもイエスさまのように歩みなさいと言われて、その通りに歩めるという人はいません。そうありたいと願っても失敗の連続です。牧会者ヨハネもそれを知ってるからこそ、信仰者たちに救いの原点に立つことを思い出せてくれる言葉でした。夜も中高生たちと一緒に、バレンタインも近いのでしばらく『恋バナ』を…。私は自分が牧師になろうと思うきっかけになった一人の青年との出会いと別れについても聞いてもらえたのでよかったです。
「教会ってどんな場所ですか?」「誰でも行っていいんですか?」お世話になっているディサービスの方が聞いてくれました。「ホッとできる場所ですかね。もちろん、誰が行っても大丈夫です。」自分も26歳で初めて教会に行くまではどんな場所なのか…全く知りませんでした。きっと敬虔なクリスチャンの方々が集まって厳かに礼拝をささげている、自分のような者は場違いなんだろうな…と。それでも何故か教会に足を踏み入れ、礼拝に出席しましたが、ホッとするどころか緊張して何がなにやらわからないまま帰ってきたのを覚えています。そんな者が今では牧師ですから、神さまは不思議をなさるお方です。初めて教会に来られる方は、すぐにホッとはされないかもしれませんが、じわじわと感じるものがきっとあると思います。どうぞ気軽な気持ちで礼拝に出席してみてください。
今日はハートフル英会話・大人クラスの後で、チャペルタイムがありました。How is your heart ?をテーマに幾つかの聖書の御言葉を紹介しました。「力の限り、見張って、あなたの心を守れ。いのちの泉はこれからわく。」「心に満ちているものを口が話すのです。」「これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」人はとかく、自分の外側や他人からどう見られているかにはよく気を配りますが、自分の心がどういう状態にあるかにはあまり思いが向かないのではないでしょうか。考えたって仕方がない…と言わずに、少し静まって思いを向けてみると気づかされるがことがあるかもしれません。「求めよ、さらば与えられん。」神がご覧になるのも、人のうわべではなく、心です。今日は特に、体調を崩している兄姉を覚えて祈りました。祈祷課題、ちゃんと届いています。
今日の水曜祈祷会はレビ記11章の「食物規定」から。レビ記の中でも、ひと際理解に苦しむ箇所でした。神はご自分の民にその存在と生活において聖であるように命じられました。その理由は…「わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」中でも豚は特に汚れた動物とされ、異邦人との区別を明らかにするためにも食べてはならないと告げられました。旧約の神の教えは、異教文化を生きるイスラエルの民にとって、言わば信号機のような役割だったのではないでしょうか。新約の時代に生きる私たちも、今は何をするにも自由で許されていると安易に考えてはならないように思いました。「『すべてのことが許されている』と言いますが、すべてのことが益となるわけではありません。」
月に一度の旧約聖書を学ぶ会。昨年から有志で創世記をゆっくりじっくり学んでいます。今日は創世記5章から。神は人を『神の似姿』として創造しましたが、アダムの子どもであるセツは『彼の似姿』として生まれました。受け継がれたのは神の似姿が棄損した『アダムのかたち』でした。「こうして…死がすべての人に広がったのです。」その後の人類の歴史は「生まれて…生きて…生んで…死んだ。」の記述が続きますが、エノクだけは違いました。彼は65歳の時、メトシェラが与えられ、そこから神とともに歩む人生が始まりました。その生涯は365年。当時にしては短命でしたが、人生の価値はその長さによるのではないことを教えられます。極めつけは、彼は死を見ることなく「神が彼を取られたのでいなくなった」こと。永遠のいのちの思想はここから始まっていたのです。
1月第四主日、朝は小雨交じりの曇り空でしたが、午後からは徐々に青空が広がりました。礼拝メッセージはⅠヨハネ2:3~「神を知っているなら」がテーマ。神を知っているという内側の事実は、神の命令を守るという外側の歩みに現わされるもの、イエスさまが歩まれたように、兄弟愛をもって互いに愛し合うことについて学びました。言うは易し、行うは難しですが…何より神を知り、神に知られている幸いを喜びたいものです。「しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。」午後からはグレイスさんのカウンセリング講座がありました。Who am I ? 私は何者なのか…。自分の内面、その存在価値について考える貴重な時間でした。夕拝には誰も来られませんでしたが、夜は久しぶりに中高生たちが顔を出してくれて、愛を示すことについて語り合いました
昨日は新島襄の召天日でした。その時代、しかも京都にキリスト教主義の大学を設立するのはどんなに大変なことだったでしょう。走るべき道のりを駆け抜けた46年の生涯、彼もまた太くて短い人生を歩んだ方です。若い時に比べると、自分もいつの間にか細くて長い人生でもいいのかな…と思い始めています。ある方から「この時代に教会は必要なのでしょうか…」という質問をうけました。なるほど、日本のプロテスタント最大教派の某教団も、2025年には教会員の2/3が75歳以上になるそうです。少子高齢化は今や世界の問題ですから、今後教会も閉鎖や移転が増えるのはやむを得ないことかもしれません。焦る気持ちも湧いてきますが、ふと…「野のユリがどうして育つのか、よくわきまえない。」と言われた主の言葉を思い出して、ちょっとだけ心も軽くなったような気がしました。
今朝は冷たい雨とともに始まりました。ハートフル英会話の講師・グレイス先生は、カウンセリング、チャプレン、コーチングなども専門的に学んでこられた方なので、いつも興味深い話しをしてくださいます。Thoughts → Emotion → Physical sensations → Behaviours → Thoughts …頭で考えていることが、いかに行動や振る舞いにも影響を与えるかについて。確かに、心が疲れると体にも影響を与え、体が不調になってくると心にも影響を与えることがあります。繋がっていますね。今、なかなか元気が出ない…意欲も湧いてこない…という方、どうか心と体に十分な休息をとってあげてください。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」教会で静かに祈ることも、少し気持ちを楽にしてくれるかもしれません。
日差しが差し込んだかと思えば、時より小雨が降る不安定なお天気…全国的な雪不足が続く中、週末にかけて雨の日が続くとのこと。今日の水曜祈祷会はレビ記5:14~、神あるいは隣人の所有する財に対する代償のささげ物についての規定でした。旧約聖書のレビ記と言えば難解なイメージですが、そこには神の義と赦しの道がはっきりと示された書物です。人間的な価値観や道徳観にたって聖書を読み込もうとする現代の私たちにとって、ただ主の仰せられたことに従うことの大切さを教えられます。「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒された。」私たちの罪のために、黙して十字架にかかり、宥めのささげ物となってくださった主イエスの愛を心に覚えました。
北摂の牧師会で関西キリスト災害ネットワークの活動について説明をさせていただきました。ある先生が最初のお奨めで、使徒の働き16:11~からお話しをしてくださいました。神のわざは、いつも突然起こったかのように私たちの目には見えますが、実はその前に賛美と祈りが積まれているということでした。なるほど著者ルカは、ペンテコステの時も、パウロに天からの語りかけがある時も、ペテロたちが牢から助け出される時も、「すると突然…」という言葉を印象的に使っています。何かが起こる前にはだれかの切なる祈りが神に捧げられていること、大事な視点だと思いました。関キ災の活動も、準備会の先生方の祈りと奉仕によってより具体的な形になってきて、いよいよ3月23日に発足会を行う運びにあります。ぜひ皆さまのお祈りにも加えていただけれたら幸いです。
1月第三主日、いつものように子どもから大人まで大勢の方が教会に来られました。礼拝メッセージはⅠヨハネ1:5~。使徒ヨハネは教会内に入り込んだ誤った教えに対して正しい真理を教えました。神と交わりを持っていると言いながら罪の生活に耽っているとしたら、それは光の中を歩んでいるとは言えません。「神は光であり、神には闇が全くない…」確かに光の前に出ると自分の影ははっきりうつって、闇の中にいれば影は気にならなくなります。でも、『光の中を歩む』とは罪を全く犯さなくなることではなく、自分の罪を告白するなら、神はその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださることを信じて歩むことです。サタンは「お前はそれでもクリスチャンなのか」と責め立ててきますが、それでも神の義と愛はかわらないことを…あの十字架は教えてくださっているのです。
聖書の大きな特徴の一つは、私は何者なのか…という問いに答えていることです。For we are God's masterpiece. He has created us anew in Christ Jesus, so we can do the good things he planned for us long ago. masterpieceという単語には『傑作、名作、逸品』というような意味があります。ある人が『神は最高の芸術家』という表現をしましたが、だとすると、その最高の芸術家による世界でたった一つの傑作品が『私』ということです。しかも、creationという単語には目的をもって神が造られたこと、in Christ Jesusという言葉には私たちの存在の根拠がキリストにあるという真理が表されています。クラーク博士のあの有名な言葉も思い出しました。ハートフル英会話のチャペルタイムではいつもさまざまな英語の聖書を使いながら、日本語の聖書とは違った感動を味っています。
昨日は関西キリスト災害ネットワーク世話人会がありました。おもに全体趣旨の確認、今後のスケジュールについて話し合いました。災害も何も起こらないに越したことはありませんが、もしものために…今からできる限りの協力体制を築くことは大切だと思います。さて、今年の水曜祈祷会も今日から再開です。エペソ6:10~、「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」月曜に続いて、今日も悪魔の策略についての分かち合い。悪魔の策略か?神の試練か…?その見極めは本当に難しいことです。ただ言えることは、悪魔の策略は間違いなくあること、私たちは自分の弱さを認めること、その上で神のすべての武具を求めることが必要です。悪魔に対して過信も軽視もどちらもいけません。皆さんもご自分の周りの環境をあらためて点検してみてください。
日差し暖かな冬晴れの日、今日は成人の日。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」という声が天から聞こえてきそうな朝、小さい頃から教会学校に通っていた女の子が成人式を迎え、教会に挨拶に来てくれました。聖書にも12歳のイエスさま(ちなみにユダヤ人は13歳で成人を迎えます)がヨセフとマリヤのもとを離れて神殿で立派にふるまう姿が描かれていますが、やはりあれは重要な場面だったのだなとあらためて思わされました。今日は関西宣教区恒例の新年聖会もあり、東御キリスト教会の辻浦牧師をお迎えしてメッセージを取り次いでいただき、普段あまり耳にしない話しに(悪魔祓いの証しなど…)ちょっとびっくりしましたが、💦午後の宣教区会議も無事に終わり感謝でした。明日も会議、明後日も会議、一日空いてまた会議…と、日常が戻ってきました。
1月第二主日、礼拝ではⅠヨハネ1:1~4から「祝福が満ち溢れるために」というテーマでメッセージを聴きました。老年の使徒ヨハネはその手紙の冒頭で、自分が実際に目で見て、耳で聞いて、手でさわった方について、そのリアリティを熱く語り出しました。この方は永遠のいのちそのものであって、私たちの前に現れてくださったのだと繰り返し記すのは、当時すでにキリストに対する謝った考え方が教会に入りこもうとしていたことを意味しています。いつの時代も、私たちが正しい教理に立ち、喜びに溢れる、正しい信仰生活を送るには、常に聖書の教えに耳を傾けていかなくてはなりません。「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ち溢れるためです。」今日は聖餐式、役員就任式もありました。今年もみことばに根差した教会形成を覚えて歩んで参りたいと思います。
今朝のディボーションの箇所はエペソ4:1~。「召し」(Calling)とはキリスト者になるようにこの世の中から呼び出されることで、「教会」とはそうした人たちの集まりです。キリスト者と言えども完璧な人はいません。正直、互いに意見の合わないこともありますし、さまざまな摩擦が起きることもあります。でも、そうした者同士がキリストにあって一つとされ、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、互いに成長していく…それが教会です。召しにふさわしく歩む…それは自分の力では難しく、聖霊の助けが必要です。それゆえ教会のかしらはキリストであり、私たちはその体なのです。日曜日に皆さんの笑顔が少しでも増えたらと思い、プランターの花を新しくしてみました。今、体調を崩している方、病と戦っている方、悲しみの中にある方…の上に主の慰めと癒しをお祈りします。
今日からハートフル英会話の冬期コースが始まりました。大人クラスは、デプテーションで帰国中のレイチェル先生に代わって、ハワイ在住のグレイス先生が担当してくださいます。彼女の英語は聴き取りやすく、カウンセリングやコーチングの資格も持っておられるので非常に教え方も上手。そしてご自身の様々な経験から、あまり耳にしないような専門的なお話まで聞けて、楽して為になるクラスになりそうです。キッズクラスは、4人のお子さんのパパでもあるホゼア先生が担当してくださいます。こちらも子どもたちの気持ちをがっちり掴んで、笑い声の絶えないクラス。やっぱり英語は楽しく身につけるのが一番でしょう。なんと言ってもハートフル英会話の魅力は、新しい出会いの場です。体験レッスンも受付中。今日も一日、大勢の方が教会に足を運んでくださって感謝でした。
2020年最初の主日礼拝は恒例の講壇交換から始まりました。原市場聖書教会の若村牧師がマタイ14:22~「恐れたペテロ」をテーマにメッセージを取り次いでくださいました。風を見て、波を見て、ペテロが覚えた恐れ…それは私たちもしばしば覚えてしまう恐れです。そんな私たちに「なぜ疑うのですか」と声をかけてくださる主の臨在をいつも忘れないようにしたいものです。若村先生、お薦めです。私も原市場聖書教会でメッセージを取り次がせていただきました。空が広く、美しい山に囲まれ、空気のおいしい教会、そして、同じ主を礼拝する神の家族に会えるのは幸いです。今年は私の母も一緒に礼拝を献げることができました。さぁ、皆さまのお正月休みはいかがだったでしょうか。ハートフル英会話は今週木曜日から授業開始です。少しずつ日常生活を始めていきましょう。
明けましておめでとうございます。今年もどうぞ宜しくお願い致します。2020年の始まり、まずは元旦礼拝から。メッセージでは年間聖句のⅠヨハネ5:14からみことばを心に留めました。「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」クリスチャンにとって「祈り」は、「霊の呼吸」「神との会話」です。呼吸がなければ生きられませんし、会話は互いの信頼関係を深めるもの。私たちの祈りの答えは常に神の側にあります。その方は私たちの祈りを待っていてくださる方で、何事でもみこころに従って祈るなら必ず答えてくださる、そのことを確信して祈り求める一年にしたいものです。祈りは必ず聞き届けられます。今年もこの小さな教会から多くの奇跡をともに見させていただきましょう。
感謝と恵みに満ちた2019年が過ぎようとしています。今年は4名の方が洗礼を受けられ、初めて教会に来てくださった方や新しく教会に通い始めてくださった方々もたくさん与えられました。また、病の中にある方々に励まされ、信仰を回復された方々に勇気をいただきました。神さまの絶妙なキャスティングと筋書きのない数々のドラマに…日々驚かされた一年でした。この小さな教会でもこれだけ大小様々な奇跡が起きているのですから、きっと世界中の教会でさまざまな『証し』が語られていることでしょう「世にあっては患難があり。されど、勇敢であれ。我すでに世に勝てり。」問題を抱えながらの年越し…という方々もおられると思います。でも、人生は最後の最後まで未知数です。主とともに歩む人生には思いがけないことが起きます。新しい年を主に期待して迎えましょう。
2019年最後の主日礼拝、メッセージはルカ2:39から。史上最も世界に影響を与えた人物、ナザレのイエス・キリスト。その方の生涯について、聖書はあまり多くは語りません。特にその誕生と十字架の死に至る最後の3年半については書かれてありますが、その中間のことが殆どわからないため…貴重な記述です。12歳のイエスがエルサレム神殿からの帰り道にヨセフとマリヤとはぐれてしまう場面。詳しくはメッセージを。あらためてこの方はまことの人であり、まことの神であること、私たちに模範を示してくださったことを学びました。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。…すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」礼拝後は片付けと大掃除、そして…よく遊び、よく語り合いました。どうか良い年末年始をお過ごしください。
今日のディボーションの箇所は詩篇69篇から。ダビデが望みのない深い孤独の中から、神に祈り求める詩篇です。「深い泥沼」「大水の底」「奔流」とは突然にダビデを襲った大きな不幸を譬えています。「神よ、私を救ってください。」人はみな、ダビデのような叫びをすることがあるのではないでしょうか。それは信仰者であっても同じです。しかし、ダビデはこう続けました。「しかし主よ。この私は、あなたに祈ります。」神は私たちをご自身に近づけるために試練をお与えになりますが、悪魔は私たちを神から引き離すために誘惑をしかけてきます。この見極めがなんとも難しいところです。皆さんにとって今年一年は、神に近づいた年だったでしょうか、それとも遠ざかった年だったでしょうか。明日は今年最後の主日礼拝。お忙しい年末ですが、心静めて主の御前に出ましょう。
今日は今年最後の水曜祈祷会でした。マタイ2:13~、救い主にはるばる礼拝をささげにきた東方の博士たちの記事の後、信じられないような残忍な事件が起きました。動揺したヘロデ王がベツレヘムとその周辺一帯の男の子をみな殺しにしてしまう場面。いつ読んでもため息がでてしまい、中にはなぜ神はこんな惨いことを許されるのかと嫌悪感さえ覚える方もいます。でも、マタイはこの短い場面に「預言者たちを通して語られたことが成就するためであった」と繰り返し記しました。いつの時代も、この世界は不条理な出来事で満ちているように思います。神はそんな世をご存知だからこそ、救い主を遣わしてくださったのではないでしょうか。日曜日のクリスマス礼拝から昨日のキャンドルサービスの恵みを振り返りつつ、駆け抜けたクリスマスの余韻を心に刻んでいました。
今日はいよいよ待ちに待ったキャンドルサービスでした。平日の夜だったので、どうかな…と思っていましたが、ほぼ席は満席で、少し後ろに椅子を出したくらいでした。そもそもそれほど大きな教会ではありませんし、プログラムも御言葉と賛美でイエスさまのご降誕をたどるという至ってシンプルな内容です。それでも小さな教会の中で御言葉と賛美が響き渡ると、まるでイエスさまと一緒に飼葉桶の中にいるような温かい気持ちになります。今夜のメッセージでは、だれもが抱える3つの灰色の影と救い主誕生の意味についてお話ししました。久しぶりの方も、初めて来てくださった親子もおられて感謝でした。集会が終わった後、年長さんの女の子が近づいてきて「最後のお祈り、とてもよかった」と声をかけてくれました(^^)。クリスマスの平安がお一人一人の上にありますように。
今日はアドベント第4週・クリスマス礼拝でした。メッセージはルカ2:1~、クリスマスはAD4年頃にローマで最初に祝い出されました。キリストの誕生がいつであったか…と言えば、その正確な日はわかっていません。そもそも12月25日はローマ人たちが冬至を境に「太陽の誕生日」として祝っていましたが、クリスチャンたちはこの異教的な祝祭を世の光である方を覚えてキリスト教的に祝ったのです。聖書は、この方は歴史のただ中にお生まれになられたこと、預言の成就としてお生まれになられたこと、全人類のためにお生まれになられたことを教えています。それが私たちが「クリスマスの賛歌」をささげる根拠です。礼拝後はクリスマス祝会として、ポットラックの豪華な食事と参加者全員が出演するファミリーコンサートがありました。クリスマスの喜びに満たされる一日でした。
今日はハートフル英会話のクリスマス会で、豪華な食事、楽しい交わり、聖書のメッセージと至福の時間でした。こうした華やかなクリスマスがある一方で、淋しいクリスマスを迎えている方がいらっしゃることも思います。ある方の質問ですが…確かに今日の文明は科学の進歩に支えられています。でも、その一方で、科学的な分析や実存を証明できるもの、体験できるもの以外は信じるに値しないという考え方も強くなっているように思います。では、科学は人間のすべての問題に解決を与えるのか…と言えば、答えはNoでしょう。人間は何のために生れてきたのか、死後はどうなるのか、人生の意義は何か…。そうした人生の本質的な問いこそ「宗教」の領域です。
今日は朝の祈祷会の後、二回目のデイサービスへのキャロリングに行きました。毎年クリスマスの時期に訪問させていただけるのは本当に感謝なことです。クリスマスの本当の意味、イエス・キリストは貧しい厩の飼葉桶にお生まれになったこと、神は「これが、あなたがたのためのしるしです」と告げられたこと…など、教会外でこれほどはっきりお話しできる機会は他にありません。数年前は少し訝しい表情をされている方もいましたが、今ではほとんどの方が笑顔で温かく迎えてくださいます。ある利用者の方は何日も前から『教会の歌のコンサートはいつなの?」と楽しみにしていてくださったとのこと。「受けるよりも、与えるが幸いなり」まさに迎えていただく喜びを感じました。きょう、讃美歌とお話しを聞いてくださった方々にクリスマスの喜びが永遠に続きますように。
名君ウジヤ王の死後、南ユダ国に深刻な危機が押し迫っていました。預言者ミカは、同胞の民に神からの悔い改めのメッセージを語りますが、その気配は全くありません。「ああ、悲しいことだ…」とミカの嘆きは深まります。でも、目の前の現実がどんなに絶望的でも、ミカは目を天に上げて主への期待を失くしませんでした。「しかし、わたしは主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の言うことを聞いてくださる。」『クリスマスが何の日か?そんなのどうでもいい』今日もますますそうした風潮になっているように思います。問題を一度見たら、神を二度見上げなさい。以前お世話になった牧師も仰っていました。問題があることが問題ではなく、要はそれをどう信仰をもって耐え忍ぶか…。その時はわからなくても、その先で主は必ず答え合わせをしてくださるのです。
クリスマスイブが近づいてきました。教会では24日7:30pm~キャンドルサービスがあります。バイオリンの調べを聴きながら、キリストのご降誕をたどります。そこでまず塊より始めよ…と思い、あらためて看板の設置と礼拝堂のワックスがけをしました。そもそも日本では『クリスマスイブ』というものを『クリスマスの前日』のように考えている方が多くいますが、実はそうではなく…『クリスマスイブニング』が語源のようです。「神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。」に基づき、教会の暦では一日の考え方を日没から次の日の日没までと考えます。つまり『クリスマス』は、24日の日没から始まって25日の日没に終わるということです。暗闇を照らす真の光として来られた救い主のご降誕を覚えて…聖なる夜を、ご一緒に過ごしませんか。
アドベント第三礼拝は玉井邦美師をお迎えして「暗闇を照らす光」というテーマでメッセージが語られました。救い主の誕生は、暗闇の中にいる人々を照らすため、私たちに本当の平和をもたらすためのものです。私たちの置かれている『現実』と、そこからの『救い』について考えさせられました。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます。」午後の特別講演会にも、大勢の方が出席され、良い学びの時となりました。私は久しぶりの子ども礼拝のメッセージ。『真っ赤なお鼻のトナカイさん』の歌から、弱さを用いてくださる神さまについてお話ししました。救い主は薄汚い飼葉桶に誕生され、その知らせを最初に告げられたのは、当時、社会的に身分の低い羊飼いたちでした。この曲もクリスマスの大切なメッセージを教えています。
この時期、町のあちこちで見かけるポインセチア。クリスマスを代表する花ですが、よく見ると赤いのは葉っぱで、真ん中の小さいのが花。赤い葉っぱが虫を呼び寄せ、受粉しやすくしているとか…。「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」イザヤはこの預言が700年以上も後に成就されること、さらにその方の誕生がひっそりとした寂しい夜だったことを想像したでしょうか。イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり死んでくださいましたが、三日目に死からよみがえり、天国への道を造ってくださいました。クリスマスカラーの赤はキリストの血を意味し、緑は永遠のいのちを表わしています。救い主のご降誕は私たちを救いに導くしるしです。
季節外れのコスモスですが、まだまだ元気に咲いています。気づけば今年も20日を切ってしまい、何かと慌ただしい時期になりました。木曜日のハートフル英会話はクラスの終わりにティータイムがあって、私はチャペルタイムがなくても大体お邪魔させていただきます。皆さん、いろいろな引き出しがあって話題は豊富。聞いているだけでも何か得した気分になる時間です。いよいよ来週はハートフルのクリスマス会。久しぶりの方も来られるので楽しみです。今日はクラスの合間にも、いろいろな方が訪ねて来てくださって、まるで『くつ屋のマルチン』のような一日でした。もちろん、夜のクラスの子どもたちもみんながんばっていました!奇麗な月だな…と思っていたら、今日は12月の満月(コールドムーン)とのこと。今年最後の満月、風邪ぎみを顧みずしばらく眺めていました。
今日の水曜祈祷会はミカ1章から。預言者ミカに神の啓示がありました。ヤコブの背きのゆえ、イスラエルの家の罪のゆえに、神の裁きが下る。罪とは神がいないかのように自分勝手な生き方をすることですが、もう一つ大事なのは「なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。」ということ。神の民がなすべき良いこととは何だったのか…。彼らはどこで道を外れてしまったのか…。ミカは同胞の行く末を知らされ、ジャッカルのように嘆き、だちょうのように悲しみ泣きました。私たちもともすると、誰かが殺人罪や窃盗罪で捕まっても、自分はそんなことしていないと安心します。誰かが罪人であっても、自分はそうでないと思う。でも、選ばれた者、愛された者には、それだけの神の期待がかけられていることも、いつも忘れないでいたいものです。
ふと月を見ながら…最初にあそこに行こうと思った人はすごいなぁと。空を飛びたいという希望は飛行機という乗り物を造り、宇宙に行きたいという希望はスペースシャトルを実現しました。遠くの人にメッセージを伝えたいという希望はテレビや電話を生み、今やパソコンやスマホを介してインターネットで通信できるように。物質的なものだけでなく、科学や医学の発見、教育や福祉、芸術や音楽など…あらゆる現場のものが、誰かが希望をもち、誰かが実現を信じたことから生み出されている。初めに心の中に生まれたものが存在するようになる。それは少なくとも一人が、その希望の実現を信じたから。信じることが希望を実現する力になる。もしもの時に備えて…今、関西のキリスト教会の新しいネットワークを造る。主にあって、私も同労の先生たちと希望をもちたいと思います。
アドベント第二主日、礼拝メッセージは「マリヤの賛歌」から。少女マリヤに突然の御使いの知らせ。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」まだ結婚もしていないのに身重なんて…戸惑うのは当然でした。それでも彼女は不安や恐れを主にゆだね、信仰をもってすべてを受け入れました。そして親類のエリサベツと喜びを分かち合いながら、マリヤの口から思わず主をたたえる賛歌が溢れてきたのです。「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。」このマリヤの純真な信仰に倣う者になりたいものです。午後からはKids&Family Christmas。先生方が準備してくださった人形劇は圧巻の出来栄えで、子どもも大人も引き込まれるように見入っていました。今年は小さな教会がいっぱいになるほど大勢の方がきてくださって感謝でした。
今日はサンタクロウスのモデルとなった聖ニコラウスの祝日。ロシアではニコラウスは聖母マリヤに並んで最も崇拝される聖人とのこと。彼の伝説は諸説ありますが…苦しんでいる人に自分から手を差し伸べて憐れみ、人目につかないように助ける父親のような人物として伝えられています。子どもの頃、プレゼントをくれるサンタクロウスを一目見たくて夜更かししましたが…いつもその姿は見れませんでした。長年アフガニスタンで用水路建設に尽力された中村哲医師も著書の中で「道で倒れている人がいたら手を差し伸べる…それは普通のことです。」と答えていました。「その剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。」…キリストの平和を実践する者になりたいものです。
今日はハートフル英会話があり、オブザーバーの方も含め、大人・キッズクラスあわせて20名の方が来てくださいました。中には「ホームページ観ました」「チラシ入ってました」と言ってくださる方もいて感謝でした。この小さなブログも誰かが観てくれていると思うと励まされます(ほとんど独り言なので)。『あるクリスマスの劇で、マリヤ、ヨセフ、三人の博士…みんな一つずつ配役が決まる中、一人の少女は星を動かす役に。「お母さん、私は今夜の劇で星を動かすから見ていてね。」その夜、劇を観にきた会衆はベツレヘムの星を動かしたのが誰であるか気づかなかったけれど、彼女の母だけは知っていた。そこに少女の喜びがあった。…』松田明三郎先生の詩集を思い出しました。中村哲医師の訃報…本当に悲しいことですが、一粒の種となって豊かな実を結びますように。
12月最初の水曜祈祷会、イザヤ63章~。神の厳粛なる裁きとイザヤのとりなしの祈り。「彼らが苦しむ時には、いつも主も苦しみ…昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。」神は私たちの苦しみをご存知の方です。それだけでなく、父として私たちを背負い、重荷を担ってくださいます。この御言葉から『あしあと』という感動的な詩も生まれました。私たちも慰めと力をいただいて午後からは地域の福祉施設へキャロリングに行ってきました。バイオリンとフルートの演奏、讃美歌のコーラス、最後は「きよしこのよる」を全員で。ある方は目を閉じて、ある方は涙を浮かべて…耳を傾けてくださいました。こうしてクリスマスの喜びを知らせる御使いのごとく、私たちを遣わしてくださる主に心から感謝です。夜の祈祷会は少し寂しかったですが…神の家族を覚えて祈りました。
12月に入って寒さも一段と増してきました。秋らしい紅葉のきれいな時期は本当に短いですね…。インフルエンザも流行っているとのこと、皆さまのご家庭も守られますようにお祈りしています。さて、クリスマスの諸集会とハートフル英会話冬期クラスのトラクトがやっと届きました。いろいろ段取りが遅くなってしまって今日から配布を開始します(あちこちで配ってくださっている方々、感謝します💦)。すでに子ども会の案内を手にしておられる方もいるかもしれませんが、今度の日曜日の午後2時からKids&Family Christmasがあります。楽しいゲームや人形劇、大人の方には焙煎珈琲とケーキを用意しておりますので、ご家族そろってお越しください。"Christmas"は「キリストの誕生を記念する日」です。教会は本当のクリスマスを準備して、皆さまのお越しをお待ちしています。
アドベント第一礼拝のメッセ―ジはルカ1:67~『ザカリヤの賛歌』。神はザカリヤとエリサベツの老夫婦に男の子を与えられました。その子の名は『ヨハネ』。父ザカリヤは彼の誕生を喜び、心から神をほめたたえました。その賛美は預言となって今日の私たちにも向けられます。神はご自身の約束を必ず成就され、私たちの救いを完成させてくださり、私たちに福音をゆだねられるのです。「主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。」午後からは人形劇の練習やバイブルクラスがあり、さらに夕方からは箕面市地域教会合同のキャロリングに参加。クリスマスの喜びの知らせを思いっきり賛美してきました。教会に戻ってから夕拝までしばらく卓球で汗を流し、夕拝後は一人の青年が受洗の決心をしました…。今日も恵みあふれる一日に感謝です。
あまり教会とは関係ありませんが、OCCでドルトレヒト信仰基準400周年記念集会がありました。せっかく東京にきたので昨日は実家に泊り、午後からの牧田吉和先生の講演会だけ出てきました。10年程前に、どうしても先生の『終末論』の授業を聴講したいと思って神戸まで通いましたが、今回もとても心燃やされる講演で、カルヴィニズムの五特質の『心』を再確認しました。夜は『アルミニウスとウェスレー』をテーマに藤本満先生のご講演があり、その後は、牧田先生とのシンポジウムもあるということで120名を超える方が出席されたそうです。…後ろ髪をひかれる思いで、レジュメだけもらって新幹線でひとりワクワク読んでいると、あっという間の大阪でした。先週から少し忙しい日が続いていて頭が切り替わりませんが…さあ、教会もいよいよアドベントが始まります。
お茶の水クリスチャンセンターでキリスト全国災害ネットの会合がありました。各災害支援団体の代表者42名が出席し、大規模災害に備えての活発な意見が交わされました。東日本大震災、広島土砂災害、熊本地震、広島・岡山の豪雨災害などの経験から災害時における具体的な示唆もありました。関西キリスト災害ネットワークも発足したことを報告しましたが、「関西でそうした教会のネットワークができるのを待っていました」と数人の方から言われ励まされました。南海トラフが発生した場合、想定される死者数は23万人、全壊または焼失する建物は200万棟を超えるとのこと。地球温暖化による台風の巨大化、集中豪雨の頻発化も懸念されています。もしもの時に備えてキリスト教会は何ができるのか…またどんな備えが必要なのか…。まずは協力の輪が広がることを祈っています。
水曜祈祷会はヘブル人への手紙12:1~。信仰によって称賛された多くの証人たちの名をあげた後、著者は「こういうわけですから…私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか」と勧めました。人生は短距離走ではなく、マラソンのようなものと言います。しかも途中、さまざまな障害が行く手を遮ることもある。そんな時、大事なのは、信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないことです。イエスはご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをもろともせず、十字架を忍ばれました。主の喜び…それは私たちの贖い、救いの完成、永遠のいのちの希望です。先立つ主はその信仰のレースを途中で投げださずに最後まで走り通しました。この方をいつも見上げながら、今度は私たちの番です。
月に一度の(平日の)聖書を学ぶ会に10名の方が出席してくださいました。創世記4章~。神である主にエデンを追放されたアダムとエバでしたが、主の憐みによって男の子が与えられました。さらに次男も与えられ、最初の兄弟が誕生。しばらくして二人は主へのささげものをしましたが、神が目を留めたのは弟アベルとそのささげものでした。これに腹を立てた兄カインはついに弟を殺してしまったのです。カインに同情する声もありましたが、「なぜ…憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。」と何度も悔い改めに導こうとされる主の呼びかけに、カインはどう応えるべきだったのでしょう。結果、すぐに裁きを下されても文句の言えないカインに、神は猶予期間を作りました。悪者の死より、彼がその態度を悔い改めて、生きることを願われる神の声が聴こえてくるようです。
今日は神さまが新たな道を示してくださったことを感じた一日でした。関西で大規模災害が発生した時のために、今から教会間の協力体制を準備したい…。夏ごろに全国キリスト災害支援協力会の準備委員会に入れて頂いてからそんなことを祈ってきました。そこにある先生から電話があり、まずは会いましょうということに。すると、先生も同じ思いをもってくださっていたことがわかり、神さまの摂理のようなものを感じました。今日はまず名称と代表と事務局が決まり、今後の方向性なども話し合うことができました。名称は『関西キリスト災害ネットワーク』。もちろん、災害が起きないことが一番ですが、これを機に教会間の新しいネット―ワークができたら励まされる教会も起きてくると思います。まだどうなっていくかわかりませんが、お祈りに覚えて頂ければ幸いです。
11月第四主日、今日は講壇交換で学園前聖書教会の吉田師がメッセージをとりついでくださいました。会堂司ヤイロはイエスさまに一縷の望みをかけていましたが、彼の娘は死んでしまいました。ところが、主はこう言われたのです。「恐れないで、ただ信じていなさい。」人間の常識と神の常識…どちらを選ぶか。信仰の世界を歩もうとするのか、自分が歩んできた人間の世界に舞い戻っていくのか。私たちはどちらか一方の道を選ばなければなりません。ならば、人間の常識を超えて働かれる主イエスの招きに従っていきたいものです。いよいよ来週からアドベントが始まります。礼拝後は、小さな子どもたちも大人の方々もみんなで恒例の大掃除とクリスマスの飾りつけをしました。救い主イエスのご降誕を喜び、感謝し、待ち望む…待降節。この時期、お近くの教会をお訪ねください。
今日は8年ぶりに、いのちのことば社のゴスペルボックスが来てくれました。遠くの店まで行かなくても、教会でキリスト教図書が買える夢のような車。北海道から沖縄まで一年で300日以上も教会を巡っておられるとのこと。すでに走行距離も27万kmと聞いてびっくり。ネットで本を買うのが苦手なお年寄りや足の不自由な方には本当に助かると思います。平日の夕方だったのでお客さんは私たち夫婦しかいないのでは…と心配しましたが、神さまはちゃんと必要とされる方々を送ってくださいました。これが昼間だったらきっと通行人の方も興味をもって立ち寄ってくれたのにと思うと少し残念…。皆さんにコーヒーを振る舞った後、私もじっくり見させてもらい、欲しかった本(古書)やクリスマスグッズを手に入れました。活字離れの時代ですが、皆さん、本を購入しましょう。
災害支援ボランティアは確かにハードな働きですが、一緒のチームになった方々と深く交われることは感謝です。今回は19歳~70歳という年齢的にもバランスの良いチーム編成となり、皆さんスポーツ万能で、さらに素晴らしい救いの証しをお持ちでした。いつも出発するまではいろいろな心配もするのですが、いざメンバーが集められると、クリスチャンの交わり・団結力には本当に驚かされることばかりです。同時に、こうした災害に備えた交わり・ネットワークを関西でも持ちたいと強く思わされました。まずは祈りから…と思っていると、だんだん体のあちこちから悲鳴が。「霊は燃えていても肉は弱いのです」次の日に疲れが出るのはまだ若い証拠…と自分を励ましながら、今日はおとなしくしていました。何とか体調を戻して、日曜のメッセージに備えたいと思います。
長野県の赤沼に災害支援ボランティアに行ってきました。台風19号の被害から約1カ月が経ちます。実際に、壊れてしまったお宅や変わり果ててしまったリンゴ畑を見て…あらためて被害の大きさを痛感しました。今回は8人でチームを組み、3つのお宅で清掃作業をさせていただきました。日中作業している時は汗ばむほどでしたが、朝・晩の気温は1~3℃に。このお宅では、一階の天上まで10cmというところまで浸水したそうです。まだまだ手をつけなければならないところがありましたが…後ろ髪をひかれる思いで、次のチームにバトンを託して帰宅しました。リンゴは一度水に浸かってしまうとジャムにもジュースにも使い道がないとのこと…。地面に落ちてしまった無数のリンゴを見ながら、農家の方々の心痛を思いました。続けて、主の慰めと復興のためにお祈りしています。
11月第三主日、メッセージはエレミヤ書31:31~。イスラエル(南ユダ)は、首都エルサレムが陥落し、多くの民が捕囚としてバビロンに連れ去られるという悲劇的な時代を迎えていました。しかし、神はそんな彼らに預言者エレミヤを通じて、新しい契約を結ぶと宣言されたのです。古い契約(シナイ契約)は「律法」を十戒の石の板に記して民の前に与えられましたが、新しい契約は「あなたがたのただ中に置き、彼らの心に書き記す」と言われたのです。それは新約の時代、聖霊を心にお迎えすることによって可能となりました。スイスの宗教改革者ジャン・カルヴァンは「聖霊はキリストと我々を有効にご自身と結びつけたもうための絆」と言いました。死において私たちの命は終わっても、聖霊の絆によって死を超えて永遠なる神と結び合わされる。なんと幸いなことでしょう。
気温も下がり、日照時間も短くなってきましたが、冬の野菜たちはたくましく成長してきました。街路樹の葉も色づき始め、秋の深まりを感じます。「落花枝に返らず」と似た言葉で「覆水盆に返らず」があります。もともとは、一度離婚した夫婦は二度と元に戻ることはできないですが、そこから一度起きてしまったものは元どおりにならないという意味で使われます。聖書は神と私たちの関係を「結婚」で譬えることがありますが、それで考えると、いつ離婚を言い出されても…愛想をつかされても…仕方がないのかもしれません。もし神との関係が保たれているのだとしら、それは偏に神の愛と忍耐のゆえと言えるでしょう。エルサレムが陥落し、バビロン捕囚を経験したイスラエルの民は、自分たちで選んだ道とは言え、あらためてその後悔の念に駆られていたことでしょう…。
街路樹の葉も日ごとに赤や黄色に彩られて、少しずつ秋が深まっていくのを感じます。秋はなぜか物悲しい気分になりがちです。気温の変化や日照時間が短くなることも原因のようですが、体調を崩しやすいのも大きな要因。なにはともあれ心と体は繋がっているということでしょう。私たちが信じるのは、父なる神、御子なる神、聖霊なる神の三位一体なる神さまです。御父は私たちのために救いの計画を立て、御子は私たちのために十字架にかかり、聖霊は私たちのためにいつもともにいてくださいます。神は目には見えませんが、常に私たちに寄り添い、苦難の時も悲しみの時も気落ちしている時も…ともにいて慰めをくださるのです。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」目を閉じて、心のうちにおられる聖霊の声に耳を傾けましょう。
昨日は関西宣教区の牧師会。早いもので「今年最後の…」という言葉を聞くようになりました。さて、今日の水曜祈祷会はイザヤ50章から。イスラエルの民は、エルサレムの壊滅とバビロン捕囚は自分たちが神との関係を壊し、他の神々に心をゆるしてしまったからだと思っていました。もう絶望的だ…。そんな自暴自棄に陥る彼らに、神は「このわたしは、あなたを忘れない」と言われます。私たちも思わぬ困難や苦しみにあうと、どうしてこうなった…もう絶望的だ…と思ってしまう。でも、まだ終わりではありません。人間的に不可能だと思う状況も、神にとって不可能なことはないからです。苦難の中でこの事を思い出し、この信仰に生きるとき、私たちの心に確信がわいてきます。「神である主は私を助けてくださる」この希望は失望に終わらない、それが聖書の約束なのです。
11月第二主日、礼拝メッセージはエレミヤ書29:10~。神に背を向け続けるイスラエルの民に、神の審判としてのバビロン捕囚が下されました。エレミヤは壊滅したエルサレムから、絶望の淵に立つ捕囚の民に手紙を送ります。そこには、遠い異国の地バビロンへ引いて行かせたのは主であること、苦難はやがて終わりがくること、苦難の先に主の計画があること、苦難の中でも信仰を持って生きることが書かれていました。私たちも時に、もうすべてが終わった…と思うような苦難を生きなければならない時があります。そんな時、どうか思い出したい御言葉です。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている。」神は我らに心に留めておられる、忘れずに覚えてくださっている。だからこそ、たとえ明日世界が滅びようと…今日私も希望の種を植えたいと思います。
キッズ&ファミリーフェスティバルvol.9が川西キセラホールで開催されました。テーマは「キャッチ」です。この働きも10年目ですが、去年は台風の影響で中止となったので、9回目のフェスタでした。秋晴れの爽やかな天気のもと、400名を超すご家族が参加してくださいました。Part1は屋外で、さまざまな飲食とゲームの模擬店が並び、Part2は大ホールで、キッズクワイヤー、キッズダンサー、感動のミュージカルと盛りだくさんの内容でした。もちろんバイブルメッセージも語られ、大勢の方々の心に福音の種蒔きができました。準備もなかなか大変で、会場の方にお叱りを受けたりもするのですが、参加した子どもたちとスタッフの先生方の笑顔に励まされて、今年も何とか無事に終了。明日は主の日です。それぞれの教会が祝され、恵みの分かち合いがありますように。
ハートフル英会話のチャペルタイムで聖書のお話しをさせていただきました。そもそも聖書の原典はヘブル語・アラム語・ギリシャ語で書かれていて、日本語版は翻訳です(私たちの教会で使っているのは新改訳聖書2017版)。あとがきには「原語にあくまでも忠実であり、読みやすく、しかも聖書としての品位を失わない訳文」とあります。ただ…少し物足りないのは資料が乏しいこと。一方で、新世界訳(エホバの証人の方が使われる)も第三版が出たようですが、こちらは資料が豊富でなかなか読み手に優しい配慮が見られます。しかも中身を見ると「地は荒れていて何もなかった」「神が送り出す力」「光よ、輝け」など、思い切った改訂がしてありました。読みやすければいい…ということではないでしょうが、最初に手にするのがどの聖書であるか…ここが大きな分かれ目です。
大阪も朝晩がだいぶ寒くなってきました。今朝は台風の被害に遭われた方々を覚えて祈りました。復旧には時間がかかり、ボランティアも不足しているとのこと。私も何とか時間を作って行きたいと思います。今日の水曜祈祷会はイザヤ書43章から御言葉を分かち合いました。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」…よく耳にする聖句が幾つも出てくる章ですが、あらためてみんなで読みますといろいろな感想があって深く考えさせられました。主の道に歩もうとせず、その教えに聴き従わなかったイスラエルの民…。にも拘わらず今、「このわたしが主であり、他に救い主はいない。」と主は悔い改めを迫られる。愛される資格のない者を、無条件に愛される神の愛。人間にとっては矛盾でも、神にとっては矛盾ではない。ここに私たちの希望があります。
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