Church Brog
教会にどんなイメージをお持ちですか?厳かに礼拝をささげるところ、敬虔なクリスチャンが集まるところ、お年寄りが多い、小難しい説教を聞かされる、信仰を勧められる…などのイメージがあるもしれませんが、実際に行ってみると、堅苦しい決まりもなく、老若男女、だれもがリラックスして集えるところです。このブログは教会の日々の様子やメッセージ・デボーションの要約などを、牧師の備忘録日記でご紹介しています。
(写真などの転載はご遠慮ください)
11月第三水曜祈祷会、イザヤ書48章を読みました。「あなたが頑なであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので。」いくら呼びかけても聞く耳を持たない南ユダの民ですが、神は忍耐をもって救いの道を指し示します。どんなに背を向けても「わたしはあなたの神、主である」と宣言されるのです。ご自分の民を憐れむ万軍の主の熱心を覚えました。午後からは友人のヒトリコテンに行ってきました。今回も優しい絵に心が和みました。お勧めします。
11月の旧約聖書を学ぶ会がありました。出席者は少なめですが、その分ゆっくりな分かち合いもできて感謝です。出エジプト記12章、エジプトに第十の災禍が下されようとしていました。ここまで頑なな姿勢を貫いてきたファラオも、さすがに「…出て行ってくれ」と言わざるを得ない状況が迫っていました。イスラエルの民も神がどんな御業を起こされるのか、皆目見当がつかなかったでしょう。430年間もエジプトで奴隷状態に置かれていた民に自由が与えられる…信じ難いことだったはずです。そうした中で主は、過越の祭りの制度を定められました。「異国人はだれもこれにあずかってはならない。しかし…割礼を施せば、これにあずかることができる。」過越の祭りは、傷のない子羊を屠り、その血を門柱と鴨居に塗って、種なしパンを食べる儀式です。主は、この日は神の民にとって忘れられない記念となり、永遠の掟としてこれを祝わなければならないと言われたのです。今日のクリスチャンはイエスさまが言われた通り『聖餐式』として十字架を心に覚えます。聖書を知らない人から見れば単なるパンとぶどう酒ですが、クリスチャンにとっては極めて厳粛な儀式です。
11月第三主日、秋も深まり紅葉の美しい時期を迎えました。礼拝メッセージはエステル記6ー7章から。ダニエルのような立派な信仰者ではない、等身大のエステルに共感を覚える人も多いのではないでしょうか。エステル記には「神」「主」という言葉は出てきません。また、「祈り」「信仰」という言葉もあえて使っていません。でも、この書には神がこの世を支配し、歴史を導き、人々を動かしていること、また、エステルやモルデカイが祈りと勇気と信仰をもってユダヤ人を救いに至らせることが見事に描かれています。また、ハマンの性質はだれもが持っている罪の性質。モルデカイを陥れるための木に、最後はハマン自身がかけられていくさまには、読者である私たちにも罪の性質を十字架のもとに脱ぎ捨てることを教えているのです。そして、神は私たちと個人的に交わりを持ってくださると同時に、私たちをご自身の計画の中で用いてくださいます。私たちが苦しんだり、悩んだり、傷ついたりするのは、私たち個人の問題なのではありません。私たちがその戦いの中で慰められたり、励まされたり、立ち直ったりするのは、ほかの兄弟たちの救いにも繋がっていくのです。
「あなたを造り、あなたを母の胎内にいるときから形造り、あなたを助ける主はこう言う。」聖書は、自然淘汰説に基づく進化論ではなく、三位一体の神の御手による創造論を告げています。すべてが偶然の中で進化していったものなら、人はなぜ生きているのか、なぜ生まれてきたのかを考える必要はないでしょう。でも、どうしても考えてしまう、それが人間が目的をもって造られた証拠です。神は今も、私たちを助けたいと思って呼びかけているのです。
11月第二水曜祈祷会、イザヤ書43章を読みました。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」多くの方に愛されるこの聖句ですが、あらためてだれがだれに向かって言っているのかを考えると、その言葉の深淵さに圧倒される思いです。神が呼びかけておられるのは、聞く耳をもたない神に敵対してきた者たちでした。イエスさまも放蕩息子の帰りを待つ父の譬えをされましたが、まさにこの神の愛の深さを教えられたのです。
「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともなく」教会に祈りのリクエストを送ってくださる方を覚えてお祈りしています。特にインフルエンザが流行っているようで、重症化されている方もいます。主の癒しと慰めがありますように。イエスさまは傷ついている方や心が折れかかっている方に憐み深い方です。元気な時はそれほど必要と思わなくても、弱さを覚えている方のために、イエスさまのとりなしの祈りの御声が聞こえてきますように。
11月第二主日、抜けるような青空のもと今日も日曜礼拝が献げられました。小学校の教員になられて28年、現在は校長先生をされている方がお証しをしてくださいました。不遇な幼少期を過ごされる中で、ある先生の言葉に励まされ、ご自身も教師を目指し、大変な努力をして見事教員試験に合格。その後もまさに天職とも言える充実した教師人生。ところが、突然の病…。フルマラソンを18回も完走している体力の持ち主にも拘らず、入院、休職…と先の見えない苦難を余儀なくされました。でも、愛するご家族に支えられ、友人に支えられ、教会の多くの方の祈りに支えられ、兄弟の笑顔が戻ってきました。今回の証しは、どうしてもご本人の口から復活報告を聞きたくてお願いしました。今日はその方の54歳の誕生日。素晴らしいお証しに主の御名をあがめました。礼拝メッセージはエステル記5章から。エステルもまた、自らの使命に堅く立ち、大事な場面で神の栄光を仰ぐ秘訣を心得ていました。今日は児童祝福式もあり、子どもたちもそのまま大人と一緒に礼拝に参加。最後まで静かにノートを取る姿勢に感動しました。午後は囲碁将棋クラス、夕礼拝も祝され感謝します。
教会のデボーションはイザヤ38章から。ヒゼキヤは病気になって死にかかっていましたが、主は彼の祈りに答えて「あなたの寿命にもう十五年を加える」と告げられました。人生のアディショナルタイムをどう生きるかを思いました。今週は月曜日は知人が出演するミュージカル『ナルニア王国物語』を鑑賞に、火曜日は牧師会がありました。昨日の祈祷会でもよい交わりが与えられたことを感謝いたします。
教会のデボーションは詩篇65篇から。主の御前には静寂と賛美がある。一日の始まりにまず静まって、今日も生かされていることを感謝し、御名をほめたたえましょう。ダビデは、神を悲しませる数々の罪が祈りの手を下げさせようとしても、「しかし 私たちの背きを あなたは赦してくださいます。」と告白しました。ご都合主義だ、日和見主義だと言われても、神から引き離そうとするサタンの声に耳を貸してはなりません。罪を悲しみ、そこから離れることが悔い改めの一歩です。「私たちの救いの神よ。あなたは恐れるべきみわざで 義のうちに答えられます。」たとい、目の前の問題が重くのしかかってきても、騒ぎ立つ心を静めて、御霊の声に聴き従いましょう。主はどこか遠くにおられるのではなく、私たちの心と日常の中にともにおられます。「あなたは地を訪れ 水を注ぎ これを大いに豊かにされます。」秋は収穫の季節。私たちの生活に必要な水と穀物の恵みを与えてくださる収穫の主に感謝をささげましょう。世にあっては様々な艱難辛苦があります。でも、主にあって勇敢に歩みましょう。私たちの弱さ愚かさのうちにも、主は働いてくださることを信じて。
教会の前を通られた方に『教会ではハロウィンをお祝いしないのですか』と声をかけて頂きましたが、ハロウィンはキリスト教の行事ではありません。今や世界中で盛り上がるハロウィン、その起源は大昔の古代ケルト人が行っていた祭礼で、秋の収穫を祝うとともに、悪霊を追い払う宗教的な行事だったとのこと。死者の魂が家族のもとに戻って来るとは、言わば日本のお盆のようなものです。この土着信仰がやがてキリスト教と結びつき、カトリックの諸聖人の日の前夜祭として祝われるようになったようですが、いずれにしても異教的な伝統や迷信に基づいたものなのでキリスト教の祭礼とは言いかねます。プロテスタントの教会で10月31日と言えば宗教改革記念日です。カトリックの修道士だったマルティン・ルターがヴィッテンベルク城の教会の門に95箇条の提題を掲示したことに始まります。一番問題としたのは、免罪符を買うことによって煉獄における刑罰を軽減されるという誤った教えでした。これも言わば仏式の戒名と似ているかもしれません。昔からあることだから…みんながしているから…という付和雷同は要注意です。我ここに立つというものを持ちたいですね。
教会のデボーションは詩篇61篇から。ダビデは心が地の果てと思えるような状況で神の名を呼び求めました。それは何の希望もなく、神を遠くに感じるところということでしょう。それでもダビデは「神よ 私の叫びを聞き 私の祈りに耳を傾けてください。」と告白します。人間の限界こそ、神との機会です。深く掘った井戸の底から空を見上げると、昼間でも星が見えると言います。その真昼の星のように普通では見えないものが、人生には幾つもあります。それは暗い井戸の底から見上げた時、見えるものです。神はご自身の民の祈りを、必ず聞いてくださっています。自分が願った時にすぐに結果が得られなくても、神はご自身の計画の中で最善を用意しておられるのです。「こうして 私はあなたの御名を とこしえまでもほめ歌い 日ごとに 私の誓いを果たします。」八方塞がりの中から引き上げられたダビデの賛美が聞こえてきます。主に信頼する者は、恥を見ることも、失望することもない。まことの光である方は必ずご自身の栄光を見せてくださいます。主をほめたたえることは私たちの力です。今日も聖霊がお一人ひとりの歩みを支え、導いてくださいますように。
10月第四主日、穏やかな曇り空のもと、今日も神を愛する方々とともに礼拝を献げました。メッセージはエステル記3章から。ペルシア帝国の宰相になったハマンは、モルデカイが自分に膝をかがめずひれ伏さないのを見て憤り、彼一人を手にかけるのでは満足せず、王国中のユダヤ人全員を抹殺する法令を出しました。なんと恐ろしい計画でしょう。昔からの民族間の確執も影響していたようです。過越の祭りを前にして、喜び祝う日は一転して最悪の知らせを聞く日となりました。モルデカイは自分のとった振る舞いがこれほど大きな問題になるとは夢想だに思わなかったでしょう。ただひとり孤独を感じながら、主の名を叫び求めていたのではないでしょうか。モルデカイ一人に責任を負わせ、人の弱さにつけこみ、神の救いの計画を阻もうとするサタンのせせら笑いが聞こえてきます。でも、神はそんなご自分の民の苦難を知らないはずがありません。その苦難さえご自身の栄光を現すために用いてくださるのです。今日は礼拝後に献児式が行われ、ご家族が主の前に献身の証しをされました。神さまは私たち一人一人に特別な計画を持っておられます。祝福をお祈りいたします。
風に吹かれて金木犀の甘い香りがしてきました。昨日は旧約聖書を学ぶ会があり、出エジプト記12章から主が過越の祭りと種なしパンの祭りを定められたところを学びました。それは単なる祭りではなく、イエスさまの十字架の贖いを指し示すものでした。また、今日の水曜祈祷会ではイザヤ書30章を読みました。神の御心を求めず、罪に罪を増し加えるばかりの南ユダの指導者に対して、預言者イザヤはその先にあるのは滅亡しかないと語ります。さらに、真の神にではなく、最も近い大国エジプトに助けを求める彼らに向かって、イザヤは「彼らは助けとならず、役にも立たない」と訴えました。彼らはそんなイザヤに対して、「われわれに心地よいことを語り、だましごとを預言せよ」と言い出す始末。もはや問答無用で神の裁きが下っても仕方がないと思う場面で、イザヤは不思議なことを語りました。「もうあなたは泣くことはない。あなたの叫ぶ声に応え、主は必ず恵みを与え、それを聞くとき、あなたに答えてくださる。」目と耳を疑うような記述。神の裁きは滅ぼすことが目的ではありません。神はどこまでも恵みとあわれみを与えようとして待っておられるのです。
教会のデボーションはイザヤ書28章から。ソロモンの治世の後、イスラエル王国は南北に分断し、エルサレムは南ユダ王国に収まりましたが、北イスラエル王国は偶像礼拝に導かれて行きました。イザヤはそんな北王国に神の裁きが下ること、そして南王国も不信仰な生活を悔い改めなければ同じ結末に至ることを告げました。でも、そんなイザヤの言葉に民は耳を貸さず、自分たちは大丈夫と高を括っていたのです。昨日の洗礼式から一夜明けて、花の手入れをしながら古い記憶を思い返していました。私は26歳の時、恥ずかしながら洗礼式の3日前に、『やっぱり辞退します』と言ってキャンセルしました。教会に通い始めて一年、まだ聖書のことも神様のこともよくわかっていないし、何よりこんな半信半疑の信仰で洗礼を受けてはいけないと思ったのです(誰かにそう言われたわけでもないのに…)。それから何だか教会の方にあわせる顔がなくて、礼拝にもしばらく行かなくなりました。でも、その苦い経験も洗礼について真剣に考える機会となったので、今となってはいい想い出です。翌年、右も左もわからない、ありのままで洗礼を受けた自分をほめてあげたいと思います。
10月第三主日、朝には雨も上がり、柔らかな日射しが差し込む中、主の御名をあがめる礼拝を献げました。メッセージはエステル記2章から。クセルクセス王が王妃ワシュティを失脚し、新たな王妃選びのコンテストが開催されました。モルデカイはユダヤ人の孤児だったエステルを引き取り、自分の娘のように養い育ててきました。当時王の命令は絶対ですから、二人は不本意ながらもコンテストの招集に従います。するとエステルは王の目にとまり、他の多くの娘たちを尻目に見事王妃に選ばれたのです。その後、モルデカイが王の暗殺計画を知り、エステルを通して王に告げることなど、どれも偶然とは言えない神の計画の序章を見て2章は終わります。いわゆる伏線回収もエステル記の醍醐味です。今日は何よりお二人の姉妹の洗礼式がありました。それぞれに違った人生を歩む中で、イエスさまと出会い、同じ日に洗礼へと導かれました。教会で最初にお二人とお会いした日から、主がお二人を一つ一つ導いてこられた様子を間近で見せていただけて、牧師としてこんな感慨深い日はありません。新しい信仰の一歩を踏み出されたお二人のために心から祝福をお祈りしています。
デボーションはピレモンへの手紙に入りました。25節の小さな手紙ですが、パウロの愛がギュッと詰まった内容です。ピレモンのもとから逃げ出したオネシモが、獄中のパウロと出会って救いにあずかり、忠実な信徒となって、ピレモンの所に帰って行く。どうか回心した彼を赦してあげてほしいというパウロの親心は、まさに「父よ、彼らをお赦しください…」というイエスさまの愛を投影するものです。
10月第三水曜祈祷会、ピリピ3章を読みました。短い手紙には『喜び』という言葉が16回も出てきます。パウロは獄中からこの手紙を書きました。「ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし」信仰生活は競争ではありません。栄光のゴールは既に用意されていてそこに向かってひたすら前進することです。聖霊も助けてくださいます。人生辛酸多し、されど神は愛なり。
秋晴れのもと、関西宣教区ソフトボール大会がありました。コロナ禍や雨天中止が続きましたので、今年は5年ぶりの開催。参加者90名、遠くは静岡県からも来てくださり、熱戦が繰り広げられました。午前は2コートに分かれての総当たり、午後は負けたら終わりのトーナメント。決勝戦は最終回までもつれる好ゲーム。優勝は茨木、箕面はミックスチームで惜しくも準優勝。なかなかの健闘ぶりでした。
10月第二主日、今日も柔らかな日射しが差し込む会堂で三回の礼拝がありました。メッセージは今日からエステル記を読んでいきます。「エステル記」はユダヤ人の間で最も親しまれている聖書の一つ。エステルという聡明な女性と、彼女を育てたモルデカイという一人のユダヤ人が知恵と勇気と信仰をもってユダヤ民族存亡の危機から救うというのが大筋です。この話しはクセルクセス王の治世の第三年、187日にも及ぶ大宴会が催されたことから始まります。豪華絢爛の飾りつけ、大理石の柱や床、煌びやかな王宮がその舞台。まさに酒池肉林、神なきこの世の縮図とも言えるこのところである事件が起きました。ぶどう酒で陽気になった王が七人の宦官に「王妃ワシュティに王冠をかぶらせて、王の前に連れてくるように」と命じたことでした。宴会の最後の余興に、自分の美しい妻を見せびらかせようとしたのでしょうが、王妃はこの命令を拒んで出てこなかったのです。これには王も相当に怒ったでしょうが、そんな揺れ動く人間たちの背後で、見えざる神の計画も既に始まっていました。私たちも、目には見えずとも神の確かな導きに信頼して歩んでいこうではありませんか。
教会のデボーションはピリピ1章に入りました。ピリピ人への手紙は、パウロが牢獄の中で裁判を待っている時に書いた手紙です。ピリピの教会は、パウロが第二次宣教旅行の際にこの町で幾人かの人が救われ、ヨーロッパで最初に誕生した教会です。まだ人数も少なく、豊かな教会だったわけではありませんでしたが、開拓当初からパウロの宣教を支援し続けてきました。パウロは手紙と献金を届けてくれたエパフロデトを通してピリピの教会の様子を聞き、一方ならぬ励ましと慰めを受けたことでしょう。この手紙は冒頭からそんな牧会者パウロの喜びと感謝に溢れた内容となっています。私たちの教会も、能登半島豪雨災害の知らせを受けてすぐに祈りと支援を呼びかけました。できることはわずかですが、現地で生活している方を覚えて、ボランティアに従事されている方を覚えて、今日支援物資と献金を送りました。教会の宣教は、人数を増やすことや建物を維持することが目的ではありません。キリストにあってともに救いの喜びを分かち合うことが源泉です。牢獄の中にいても失われない喜び、それがこの手紙をもってパウロが最も分かち合いたかったことなのでしょう。
聖書の神は、やがて終わりの日に再臨の主が来られて、罪と悲しみと争いに満ちたこの世を正しくさばかれると告げられます。その日、あらゆる階級の人々は、手にしていた繁栄をすべて失い、目に映るのは荒廃した光景だけとあります。大変厳粛な預言です。イザヤが活躍した時代、ユダの人々は豊かさの中で神をあなどり、形式的な信仰生活を送っていました。そうした世の価値観の中で、イザヤの預言はなんとも空しく響いていたと思います。愛と慈しみに満ちたメッセージであれば、少しは聴く耳を持つ人たちもいたでしょうが、罪を知らずして愛だけを求めているなら、そこに本当の悔い改め、救いへの渇望は湧き上がってはこないでしょう。「主よ、あなたは私の神。私はあなたをあがめ、御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、真実に成し遂げられました。」やがてこの御言葉は成就します。神の御旨は裁きにあらず、救いにあり。罪人に注がれる神の憐れみ。ひとり子のいのちをもってしても贖いの御業を成し遂げられた万軍の主の熱心。この神のまなざしが今も、私たち一人ひとりに注がれていることを心に留めたいと思います。
10月第一主日、今日は宣教区講壇交換で学園前聖書教会の吉田篤師が来てくれました。礼拝メッセージはマタイ20:1ー16、有名なイエスさまの天の御国のたとえから。「天の御国は自分のぶどう園で働く人を雇うために朝早く出かけてた主人のようなものです。」主人は、9時、12時、15時、17時と出かけて行き、みな同じように一日一デナリの約束をしました。そして、夕方になって賃金を貰う時がくると、朝から働いている人たちは多くもらえると思ったら、約束通り一デナリでした。しかも最後にきてたった一時間しか働かなった人たちも同じ賃金だったのです。これには朝から働いた人たちは主人に不満をもらしたというのです。『主人』はイエスさまを指しています。また、約束した一デナリを『救い』として考えるなら、早くから働こうが、遅くから働こうが、ともにその恵みにあずかることを一緒に喜びたいものです。イエスさまがくださる救いは成果主義や行為義認とは無関係の恵みによる賜物です。私たちはともすると自分は朝や昼から働いている者だと思いがちですが、実は夕方頃に雇われた者なのかもしれません。今日、自分にできる精一杯の奉仕を献げましょう。
教会のデボ―ションはイザヤ23章から。ツロはイスラエルの北、地中海沿岸に広がる古代フェニキヤの主要な都市の一つでした。17章から22章までの国や都市が政治・軍事的な面から取り上げられて来たのと違って、フェニキヤは経済・通商におい世界的に知られていました。エジプトはツロの陥落によって重要な貿易パートナーを失うことに…。栄枯盛衰は世の常です。すべては神に掌握されているのです。
同盟教団 秋の研修会がありました。今回は『牧会者のセフルケアと宣教の情熱』というテーマで松本雅弘師を講師としてお迎えしました。イエスさまの瞳に映る自分を見つめ直し、そこから力を頂いて遣わされていく者になりたいと思わされました。夜の聖会ではベテランの増山毅師が力強い証しをしてくださいました。慰めと励ましに満ちた研修会でした。私は質疑応答の時間の進行役をさせて頂きました。
キリスト全国災害ネットの第10回全体会合がヤマザキパン総合クリエイションセンターでありました。ヤマザキ製パンの飯島社長はクリスチャンであり、今回の会場も提供してくださいました。今回も全国のキリスト教・災害支援団体が集まり、能登半島・豪雨災害の最新情報や今後の災害支援に関する講演、具体的なアイディアなど有意義な会合となりました。今後も協力の輪が広がることを祈ります。
9月28日(土)教会墓地のリフォームが完成し、初めての墓前礼拝を行いました。雨が心配されましたが、お天気も守られて感謝でした。「主は私たちのために死なれましたが、それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。」クリスチャンにとってのお墓はご先祖様の魂が眠る場所ではなく、兄姉が信仰に生きた証し・記念碑です。私たちの国籍は天にありますので、やがてはそこで再会する希望があります。その日までそれぞれの信仰の生涯を全うしていきましょう。
9月第五主日、曇り空の日でしたが、気持ちのいい風が吹く一日でした。礼拝メッセージはネヘミヤ8章から。城壁再建のために祖国に帰還したネヘミヤは、内からも外からも様々な困難に直面しながら、52日という驚くべき速さで工事を完成させました。そして、門衛、歌い手、レビ人が任命され、いよいよ準備は整い、第七の月が来ると民は一斉に水の門の広場に集まり、学者エズラが律法を朗読しました。すると、民はみなひれ伏して礼拝し、涙を流しました。過去のイスラエルの歴史を知り、また、自分たちが神の御心から遠く離れた生活をしていたからです。それでもエズラは言いました。「今日はあなたがたの神、主にとって聖なる日である。泣いてはならない。悲しんではならない。…主を喜ぶことはあなたがたの力なのだから。」神のことばに耳を傾け、自分の罪を示されるのは良いことではないでしょうか。でも、もっと大事なのはそこから向きを変えて新しく歩み始めることです。聖なる日は、ほかの日と区別する特別な日です。ぜひあなたも、日曜日を教会で礼拝を献げる特別な日にしませんか。今日の礼拝にも新しい方も久しぶりの方も来てくださって感謝でした。
9月第四水曜祈祷会、秋風が気持ちのいいさわやかな一日でした。デボーションはイザヤ書11章から御言葉を学びました。北イスラエルを滅ぼすアッシリヤ帝国の滅亡を告げた後、イザヤはメシヤの来臨について預言しました。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」切り倒されてわずかに残った切り株…でも、そこから芽が出て枝になり成長して、ついには豊かな実を結ぶ。およそ絶望的だと思っていた状況に、まだ希望が残っているというのです。時代がどうあれ、世の価値観がどうであれ、神を信頼し、神の言葉に生きる者は、終わりの日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りの者を買い取られるのです。イエス・キリストは、私たちの贖い主です。「贖う」とは、「代価(犠牲)を払って買い戻す」という意味があります。私たちの救いには、キリストの命という大きな代価が支払われました。あとはその救いを感謝して受け取るだけです。神は私たちの口を強制的にこじ開けて、救いを突っ込むようななさいません。あくまで自分から心開いて救いを受け入れることをひたすら待っておられるのです。主の忍耐深さこそ、私たちの救いです。
9月第四主日、昨夜はどしゃ降りの大雨でしたが、今日はなんとか天気も守られての召天者記念礼拝でした。すでに天に召された兄姉のお写真が並べられ、御国の完全なる礼拝を覚えつつ、私たちも心からの礼拝を献げました。今日は豊橋ホサナキリスト教会の青年たちが特別賛美をしてくれて、新鎌ヶ谷聖書教会牧師の玉井邦美師がメッセージをとりついでくださいました。ヨハネ2章のカナの婚礼の奇跡から、イエスさまが『時』を定めておられること、人々を用いること、最良のものを備えておられることを学びました。玉井師は私に洗礼を授けてくださった牧師であり、義父でもあります。もう20年以上前から知っている先生ですが、相変わらずお元気で力強いメッセージでした。自分も先生の年齢までこんなに情熱的に語れるだろうか…と思いました。私自身は子ども礼拝でのメッセージを担当しました。出エジプト記32章からの難しい箇所でしたが、モーセのとりなしの祈りのところで子どもたちのお喋りが止み、真剣な顔でお話しを聞いてくれたのが印象的でした。午後からは玉井師の講演会。コロナ禍でしばらくお休みしていましたが、学びの大切さを思わされました。
今日は今にも雨が降ってきそうな曇り空でしたが、石川県では大雨特別警報が出て被害が起きています。主の守りを心よりお祈りいたします。秋までに間に合うかな…と思っていた最後の向日葵が大輪を開きました。教会横の畑には肥料を入れて冬野菜の準備です。豊橋ホサナキリスト教会の青年たちがキャンプへ向かう途中で立ち寄ってくれました。明日の歓迎礼拝で特別賛美をしてくれます。感謝です。
教会のデボーションはイザヤ書6章から。ここはイザヤが預言者として召命を受けたところです。彼が主の現臨にふれて気づかされたのは、自らの罪深さでした。もう自分は滅びるしかないと思ったその時、その罪を取り除いてくださる神に出会ったのです。私も聖書を破り捨ててしまうような人生のどん底で神の招きの声を聞きました。こんな者でも主がお入り用であれば、お従いしていきたいと思います。
残暑厳しい折、昨日は旧約聖書を学ぶ会で出エジプト記11章を、今日は水曜祈祷会でイザヤ書4章を読みました。「主はファラオの心を頑なにされ」神はファラオに強制的に神を否定するようにされるだろうか。いや、むしろ彼には自分の考えを変える機会が幾度もあった…。聖書を部分的に解釈するのではなく、文脈に即した解釈、あるいは聖書全体の一貫性から読み解く大切さを覚えました。「その日、七人の女が一人の男にすがりついて言う」神のさばきの言葉を告げる預言者の使命を思いました。ユダの繁栄の時代、人々はイザヤの言葉をどう聞いたのか。自分たちには関係がないと高ぶり続けたのか、中には悔い改める人もいたのか…。詳しい解説は動画を見て頂ければと思います。余談ですが、昨日も今日もエホバの〇〇の女性が二人組で教会の前を通られました。昨日は時間があったので、声をかけて立ち話をして頂きました。死海写本、テトラグラマトン、七十人訳聖書…専門用語がポンポン出て来て、よく学んでおられるなあと思いつつ、最後に『ところで、聖書は読んだことがありますか』と聞かれてガクッと。最初に『牧師をしています』と言ったのですが…。
9月第三主日、青く澄み渡る空の下、今日も主の御名をあがめる礼拝をささげました。礼拝メッセージはネヘミヤ記6章から。祖国エルサレムの城壁が崩れたままになっていると聞いて、ネヘミヤは断食して祈り、再建のために帰還していきました。そんなネヘミヤとともに民も再建に立ち上がりますが、外からも内からも激しい妨害に遭い、工事は困難を極めました。それでもネヘミヤは「ああ、今、どうか私を力づけてください。」と祈りつつ、こうしてついに五十二日間という驚くべき速さで完成を見たのです。ネヘミヤはすべての栄光を神に帰し、御名をあがめたことでしょう。私自身もこの教会に遣わされて18年、幾つもの神の不思議を見せていただきました。人が救われ、人生が変えられ、病が癒され、問題が解決していきました。難しいと言われていた会堂建設も教会墓地も与えられ、青年たちが結婚し、家族が与えられ、敬愛する先輩方を天に見送ってきました。これらの御業は「すべて私たちの神によってなされたこと」です。私たちの教会もまだまだ道半ば。ここまで導かれた同じ神が、これから先もさらに不思議な御業を成し遂げてくださることを信じています。
コロナ禍を通して、私たちの教会はオンラインでの礼拝を始めました(今は限定配信で行っている教会も多いようです)。それぞれの教会の事情が違うので一概にその是非を問うは難しいでしょう。確かにハイブリッド型(対面とオンライン)の礼拝は、礼拝に参加する意識を低下させ、交わりを希薄にさせてしまうことが心配されますが、私たちの教会では遠方やお年寄りの方、長く病院や施設にいて礼拝を諦めてしまっていた方々には喜んでもらえているようです。もとより礼拝に来る来ないは本人の自由意思ですから、強制されるものではありませんし、私のように25歳まで一度も教会に行ったことがなかった者からすると教会の中でどんな話しがされているのか、事前に視聴できるのは安心です。今日も教会の草花に水をあげていると、通りがかりのご婦人から『いつも礼拝を視ています』と声をかけて頂きました。また、この教会なら…と読まなくなったカルト関係に関する本を送ってくださった方もいました。オンライン礼拝を自宅で視ていて、信仰決心に導かれた方もいます。…ということで、私たちの教会は今後もオンライン礼拝を継続して行きたいと思っています。
天高く馬肥ゆる秋、教会に来てくださっていた方の納骨式がありました。年齢を重ねると新しいことを始めるのが億劫になると言ったりしますが、その方は80歳を過ぎて信仰を持ち、洗礼を受け、聖書を学ばれました。会社経営もされた人望の厚い方ですが、非常に謙遜で、私の拙い話しをいつもニコニコしながら聞いてくださったのが印象的でした。最後にお見舞いに行った際、私たち信仰者にある希望について話しができたのは幸いでした。食事をして帰る頃に、突然の夕立がありましたが、すぐに止んでその後は綺麗な虹がかかりました。義理堅い方でしたので、ありがとうと仰ってくださっているのかなと感じました。さて、水曜日は久しぶりにいつもの祈祷会がありました。エペソ5章から「光の子どもらしく歩む」をテーマにみことばを学びました。私たちはまず、神に愛されている子どもらしく、神に倣う者になりなさいと勧められ、今は主にあって光となったので、光の子どもとして歩みなさいと勧められています。「神に愛されている」「光となりました」いずれも完了形です。つまり、いつかそうなるではなく、今そうであることが、…らしく歩む一歩を生むのです。
日本のクリスチャンの概数は約105万人で、人口比率の約0.82%と言われています。その内、教会に所属しているのは約37万人とのこと。つまり、クリスチャンになっても半数以上の方は教会を離れてしまっているようです。子どもの頃に洗礼を受けたけれど、大人になって行かなくなった…教会に通っていた時もあったけど、何かの事情で行かなくなった…。その理由は様々でしょう。昨日そんな話をしたところ、メッセージの後で何人かの方が「私も同じようなところを通りました」と話してくださいました。一度信仰から離れると、教会が遠い場所に感じた、自分がクリスチャンであることを誰にも言わなかった、家に聖書はあるけど読まなかった、仏式の葬儀に出ても何の違和感もなかった…。人生のいろいろな場面で、また教会に行ってみようかなと思う時もあったけど、扉を開ける勇気がなかった…など。同じような思いをお持ちの方も多いのではないでしょうか。「個」が尊重される時代、帰属意識、所属意識というのも薄れているのかもしれませんが、どこかホッとできる教会、重荷をおろせる教会、そうした居場所がある教会が私たちには必要ではないでしょうか。
9月第二主日、今日も残暑の厳しい一日でしたが、ともに集まって、主の御名をあがめる礼拝を献げました。ネヘミヤ記4章から『外からの試練に対して』というテーマで御言葉を心に留めました。ユダヤ人たちの城壁の再建工事はサンバラテたちの妨害によって試みを受けていきました。それでもネヘミヤは慌てることなく、自分が何をすべきかを知っていました。「お聞きください。私たちの神よ。」それは根拠のない嘲りや中傷に対して反論することではなく、神に祈りつつ、目標に向かって行動することだったのです。聖書は苦しみの時こそ試練の時こそ、神を呼び求めよと教えています。私たちの神はどこか遠くから見ておられる方ではなく、苦しみの中にともにおられるからです。ネヘミヤは周りから何を言われようと、どんな妨害を受けようと、神の御旨に集中していきました。そして、片手で仕事をし、片手で投げ槍を握って働く同志に向かって、「私たちの神が私たちのために戦ってくださる。」と言ったのです。人生には避けられない様々な試練があります。でも、私たちは決して孤独な戦いをすることはありません。脱出の道はイエスさまとともに歩むことです。
ハートフル英会話秋期コースが始まりました。夏休みがありましたので、皆さましばらくぶりでした。大人のクラスは、ご旅行に行かれた方や暑い夏をとにかくじっと耐えていた方など様々な過ごし方だったそうです。キッズクラスは、真っ黒に日焼けした子やぐっと背が伸びた子などこちらも元気一杯でした。英会話に関心のある方は、どうぞ無料体験レッスンをお申込みください。大人クラスもキッズクラスも、受付中です。大人になると時間が早く過ぎるように感じると言いますが、誠に早いもので今年も残り4カ月を切りました。まだ残暑が厳しいものの、過ごしやすい秋はいつも足早に過ぎていき、あっという間にクリスマスの足音…。まさに光陰矢の如しです。昨日、静岡から帰阪する際、見知らぬ先輩のご夫婦と一緒になり、おしゃべりしていると『昔、教会の日曜学校に行ったことがあります』とのこと。『こう見えて牧師です』と言うと、珍しいからか、いろいろお話しくださいました。その方は1、2回教会に行っただけとのことですが、そういう方は大勢いらっしゃるんでしょう。今からでも遅くはありません。また久しぶりに教会にお出かけになりませんか。
教会のデボーションはエペソ2章から。ここにはパウロの救いの証しが極めて明確に記されています。自分はどこから救われたのか、何によって救われたのか、救われてどうするのか。人はみな、自分が罪人であることを自分で悟る人はいません。また、それがわかっていても、自分からキリストに救いを求める人はいません。パウロは言いました。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」恵みとは、受ける価値のない者に、神が一方的にお与えになるものです。自分自身を振り返っても、神を知らず、神に背を向けて生きてきた者が、今こうして神を信じ、罪赦され、永遠のいのちにあずかっているのは、ただただ神の憐れみに他なりません。のみならず、救われた後も、あなたは神の作品だと言っていただき、良い行いに歩むように献身の道まで備えていただき、なんと驚くばかりの恵みかと思います。今週は月曜から教団の補教師研修会が浜名湖で行われ、少し役不足ではありますが、個人伝道の講義を担当しました。若い先生方の情熱と献身にふれながら、教団の明るい未来を感じました。
9月第一主日、台風10号の影響もなく、穏やかな一日でした。礼拝メッセージはネヘミヤ記2章から。ネヘミヤは祖国エルサレムの荒廃を聞いて断食して祈りました。そして4カ月が過ぎた頃、突然その機会は訪れます。アルタクセルクセス王は献酌官ネヘミヤの異変に気づき『何を願うのか』と聞くと、彼は天の神に祈ってから『私を先祖の墓のある町に送って、それを再建させてください』と嘆願したのです。王はその願いを快諾し、旅の安全と資材確保の手紙まで書いて送り出しました。ネヘミヤが祈りの内に神の御旨を示され、確信を得ていたことがわかります。ネヘミヤがエルサレムに着くと、すぐにサンバラテとトビヤが妨害してきますが、ネヘミヤは神の計画を誰にも言わずに城壁の調査を進めました。そして、時至って、エルサレムの城壁の現状をおもだった人々に伝えると、彼らはみな「再建に取りかかろう」と応答していったのです。パウロは「あなたがたは神の神殿であり」と言いましたが、私たちの心の神殿はどうでしょうか。もしどこかが壊されてしまっているなら、再建に取りかかりたいものです。天の神ご自身が私たちを成功させてくださるのですから。
8月第四水曜祈祷会、台風10号が史上最強クラスの勢力で九州から列島縦断の恐れが出てきました。今日の大阪は相変わらず日射しの強い蒸し暑い一日でした。夏休みがありましたので、久しぶりの水曜祈祷会となりました。Ⅱサムエル記23章、ダビデの最後のことばから。名もなき羊飼いの少年が、神に選ばれ、主に油注がれ、イスラエルの二代目王になりました。但し、その道は険しく、サウル王に何度も命を狙われ、荒野を彷徨うこともありました。でも、ダビデはその都度、苦しみの中から救い出されることを通して神との信頼関係を強めていったのです。その時のことは22章に詳しくあります。王となってからも諸外国との戦いは続き、気が緩んだのか…バテシェバとの不貞、取り返しのつかない罪、さらには息子アブシャロムの謀反で王を失脚することもありました。そんな波乱万丈な人生を振り返っても「まことに私の家は、このように神とともにある。神が永遠の契約を私と立てられたからだ。」と告げました。およそ人生には神に従うか否かの二つに一つの道しかありません。前者を選ぶなら神の祝福が、後者を選ぶなら罪の呪いが後から追いかけてくるのです。
8月第四主日、今日は献堂七周年記念礼拝でした。毎年八月の最終主日に行っています。主が私たちの祈りに答えてくださって、素晴らしい教会堂を与えてくださったことを覚える日です。コロナ禍においては、会堂に私と妻しかいない時もありましたので、こうして皆さんで集まれることは当たり前ではないことを思います。もう以前のような会堂いっぱいに長机を出して愛餐会をもつようなことは難しいのかもしれませんが、新しい形を模索しながら進んでいきたいです。礼拝メッセージはネヘミヤ記1章から。ネヘミヤ記のテーマの一つは城壁の再建です。エルサレムの悲惨な現状を耳にしたネヘミヤは嘆き悲しみ、断食して主の前に祈りました。彼は王の献酌官という要職にありましたから、それほど影響があったわけではないでしょう。ただ…エルサレムは神とイスラエル民族の関係を表す象徴的なものでした。人々の悲しみはもちろん、主の悲しみを思う時、彼は他人事にはできなかったのです。ネヘミヤの祈りには、悔い改め、みことばの約束、神との信頼が要約されていました。本気でだれかの救いを思う時、私たちもネヘミヤの祈りから学ぶところは大きいでしょう。
月曜日から教団主催の小学生キャンプに招いて頂き、幸いな四日間を過ごしてきました。前回は低学年の子どもたちに、今回は高学年の子どもたちに向けて、詩篇23篇を中心に5回のメッセージをしました。できるだけシンプルを心がけてパワーポイントとメッセージを準備していったのですが、子どもたちと奉仕者の方の真剣な眼差しをみていたら段々と熱を帯びてしまい、予定より随分長く話してしまいました。メッセージの招きにも、イエスさまを信じます、洗礼を受けたいです、友だちや家族に福音を伝えたいですと多くの子どもたちが手を上げて応答してくれてました。また、模造紙に書いた等身大のゴリヤテにもまずまずの関心を示してくれたのも感謝でした💦キャンプの醍醐味、賛美とダンスも大盛り上がりで、ゲームや自由時間で汗をかき、夜更かしする子もいたようです。また途中で、ブラジルやタイの宣教師とzoomで繋いで宣教報告を聞く時間もあって、将来この子どもたちの中から牧師や宣教師になる子がいてくれたらなあと思いました。年甲斐もなく、サッカーや卓球にも混ぜてもらったので、今は体中痛いですが、なんとも心地よい疲れとともに帰阪しました。
8月第三主日、今日は蛍池聖書教会の野々山芳和師と沙織さんを招いての歓迎礼拝でした。最初にお証しを、牧師夫人の沙織さんにしていただきました。沙織さんは私たちの教会で洗礼を受け、2年前まで一緒に礼拝を献げていたので『お帰りなさい』という感じでした。また、礼拝メッセージはヨハネ8:30-32から『みことばにとどまるなら』をテーマで語られました。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」を中心に、短い箇所からでしたが、非常に深い聖書の説き明かしとなりました。聞き逃してしまった方はぜひアーカイブでご視聴ください。また、蛍池駅から徒歩1分のところにある蛍池聖書教会にも足を運んでいただきますと野々山先生ご夫妻に直接お会いできます。午後も英語の聖書を使ってバイブルクラスを行いました。夏休みの時期なので、幾分いつもより少ない出席者でしたが、その分ゆったりと互いの感想を分かち合う時がもてました。山下牧師は愛知県の豊橋ホサナキリスト教会でメッセージ&CS研修会の奉仕でした。初めて行く教会でしたが、温かく迎えて頂き、懐かしい再会もあり、みことばを通して神の家族の幸いを覚えました。
教会のデボーションはⅡサムエル記15章から。息子アブサロムは父ダビデに対してついに謀反を起こすことを決心しました。父に知られることなく、戦闘力を備えつつ、次々と仲間を引き入れて体制を整えていきます。その企みを知ったダビデはすぐさま逃げる準備をして、家来たちを従えてエルサレムを出ました。今は十分に戦えません…。まずは態勢を立て直すことが先決でした。そんなダビデのもとに、異国からの亡命者イタイが「王様がおられるところに…このしもべも必ずそこにいます。」と申し出ました。また、ダビデが神の箱を見送った後、堰を切ったように泣いているところに、近臣であったアヒトフェルの裏切りの知らせが入り、ダビデの悲しみに追い打ちをかけました。しかし、そんなダビデのもとに友フシャイが最も落胆したタイミングで現れたことで、ダビデは大いに励まされ、力づけられたのです。人生はまさに、捨てる神あれば拾う神あり。ダビデに友フシャイが現れたように、あなたにも信頼できる存在が必ずいます。神は苦難とともに脱出の道をも備えられるお方です。「友はどんなときにも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。」
8月13日(火)教会員のご家族の葬儀式が行われました。故人は教会員ではありませんでしたが、ご親族をはじめ多くの方が参列してくださり、みことばと賛美、そして、温かな祈りをもって旅立ちを御手にゆだねました。救世軍の信仰を持つご両親のもとに生まれ、戦前、戦中、戦後と大きな変化のあった時代を力強く歩まれました。私も貴重なお話しをいくつも聞かせていただき、続きの話しを聞かせていただくのを楽しみにしていたところでした。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。…神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」突然の召天の知らせでしたので、ご家族は寂しさがつのっておられると思いますが…天来の主の慰めとみことばによる平安が与えられるように心よりお祈りしています。また、葬儀式の中で、ご家族の方に故人との想い出をお話していただきましたが、心の深いところにある家族の強い絆を感じ、それが本当に心に残りました。キリスト教式の葬儀は、キリストのご臨在の内に執り行われる式です。今日もご遺族の方と参列者の方々とともに天の御国を仰ぎ見させていただけたことを主に感謝いたします。
8月第二主日、4年に一度行われるスポーツの祭典、夏のオリンピックが今日閉会式を迎えます。およそ二週間世界の多くの人々が興奮と感動に包まれました。一方で、今大会もオリンピック休戦の呼びかけは届かず、世界の各地で戦争や紛争の火が止むことはありませんでした。79回目の終戦の日も近づく中、あらためて戦争の悲惨さ、平和の大切さを覚えて祈りを捧げました。礼拝メッセージは詩篇139篇から。「主よ あなたは私を探り 私を知っておられます。」私たちの信じる主は、万物の創造主であり、全世界を統治し、全知全能なるお方です。私たちは今、その神を一部分しか知りません。それは小さなコップでいくら海水を調べても、海の大きさ、深さ、美しさを知り尽くせないのと同じです。でも、その時には私たちは完全に知られているのと同じように、私たちも完全に神を知ることになります。神の顔をまっすぐに見る日がくるからです。そのときを楽しみにできるのがクリスチャンの特権です。たとえ小さなコップでも…もしあなたが神を真剣に求めるなら、神はあなたのすぐ近くにおられます。あなたにも受け取りってほしい愛をもって待っておられるのです。
8月第一主日、全国的に猛暑の中ですが、今日も主の御名を高らかに賛美する礼拝を献げました。メッセージは詩篇73篇から。詩人は、悪しき者が栄え、神に忠実な者が苦難を通らされることに疑問を覚えていました。そんな彼は神の聖所で、二つのことを悟らされます。それは、悪しき者の繁栄は一時的であること、自分自身が神との関係を見失っていたことです。まさに問題解決の鍵は他人ではなく、自分自身の内にあったのです。彼の心が苦味に満ち、愚かで獣のようだった時も、神は彼の腕をしっかりと掴んでいてくださり、その関係を繋ぎとめていてくださいました。やがて詩人は神への信頼を回復、大切な結論に導かれるのです。「しかし 私にとって 神のみそばにいることが幸せです。」お金や物に満たされること、地位や名誉を勝ち取ること、それらも大事なことかもしれませんが、人間にとっての最大の幸せは、神がともにおられることです。地上で何を失おうとも神を心に迎え入れることができたら、これ以上の財産はありません。逆に、全世界を手に入れても神との関係を失ってしまうならすべてを失ったのと同じです。そして、それは永遠を棒に振ることです。
同盟教団の小学生バイブルキャンプがありました。今回は低学年の子どもたちにどうやってお話ししようかと思いましたが…二泊三日、みんな座ってよく聞いてくれました。信仰の招きにもほとんどの子どもたちが手を上げて、イエスさまを信じますと決心してくれました。私も少々張り切り過ぎて疲れ気味ですが、子どもたちの純粋な信仰と透き通るような元気いっぱいの賛美に励まされて帰ってきました。
7月第四主日、日中は36度。今日も厳しい暑さの一日でした。礼拝メッセージは詩篇42篇から。バビロン軍によって征服さたイスラエルの民が、バビロンでの長期捕虜生活を余儀なくされたときの詩と言われています。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように 神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」弱々しい女鹿が、獰猛な獣を恐れつつも、喉の渇きを潤すために谷川の水を慕い求める…詩人はそんな思いで遠く異教の地から望郷の念にかられ、神を渇望しています。苦しみと悲しみの毎日の中で、敵にはおまえの神はどこにいるのかと嘲られながら、失意のどん底にいました。こうした苦境の中で、詩人は「わがたましいよ なぜ おまえはうなだれているのか。…神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。」と自らを鼓舞していくのです。この世にあっては苦難があります。それはクリスチャンであっても同じです。信仰があっても、問題にぶつかり、病にかかり、貧しさや孤独を経験します。それでは信仰とは何でしょう。それは目に見えない神を信じることです。望み得ない時に望みを抱いて信じることです。苦難の中でしか知り得ない神の恵みがあるからです。
教会のデボーションは詩篇56篇から。「心に恐れを覚える日 私はあなたに信頼します」『恐れを覚える日』とは、自分の力が及ばない問題を前にした時のことを指します。ダビデはサウル王に謂れのない迫害を受け、いのちの危険を感じる中で、敵国ペリシテ人の地に身を委ねなければならないほど追い詰められていました。そんな非常な恐れと危険の中でも、ダビデは繰り返し神への信頼を告白し、みことばをほめたたえたのです。順風満帆の日に神をほめたたえるのは容易なことです。でも、苦難の日にこそ、その人の信仰が本物かどうかが問われるのです。「どうか私の涙を あなたの皮袋に蓄えてください。」旅人が一滴の水であっても皮袋に大事に取っておくように、神がダビデの涙を蒸発しないように保存してくださいますように…との願いです。『蓄えてください』という願いは将来の希望が神にあることを示しています。神は涙を喜びの水、祝いの酒に変えてくださる。神は信仰者の涙を決して見過されないし、信仰者はその涙を神の皮袋に託してしまうので、苦難の中でも賛美が出てくるというのです。そして、神に賛美をささげる時、敵は退き、災いは去るのです。
教会でご家族での葬儀式がありました。86歳の時に洗礼を受けられ、私たちの教会には3年ほど通ってくださいました。聖書基礎を学ぶ会にも参加してくださり、難しいですね…と言いつつも、十数回の学びを最後までお付き合いいただきました。私も84歳の未信者の母親がいますが、先輩の方々がお感じになることなど率直にアドバイスしていただき助かりました。礼拝では開始時間前から姿勢を正し、聖書のメッセージに真摯に向き合ってくださり、その姿は周りの方々にもよき模範になられていたと思います。20代で起業し、ずっと一線でご活躍なされてきた方ですが、決して偉ぶらず、誰に対しても謙遜に受け答えされていたのが印象的でした。以前、愛唱聖句はマタイ11:28と教えていただきました。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」数日前に病室にお見舞いに行かせていただいた時もクリスチャンであることの幸いを分かち合わせていただききました。今日のご葬儀も愛するご家族へのよきお証しになられたことでしょう。ご遺族の上に、主の慰めと平安がありますようにお祈りいたします。
7月第三主日、夏本番を迎え、今日も暑い一日となりました。礼拝メッセージは詩篇23篇から。イスラエルの王だったダビデは晩年、自らの人生を振り返って「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」と歌いました。幼いころから羊飼いの仕事を手伝っていたダビデは、羊が羊飼いがいなければ生きていけないこと、羊飼いがいればすべての必要が満たされることをよく知っていました。「たとえ死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。」2001年9月11日アメリカ同時多発テロが発生し、世界貿易センタービル、ペンタゴンに次々と旅客機が激突し、悪夢のように建物が壊され大勢の方が亡くなってく中、もう一機がホワイトハウスを標的に飛行していました。でも、そんな犯人たちの計画は、勇敢な乗客たちによって阻まれ、旅客機はピッツバーグ郊外の野原に墜落しました。操縦席に突入する際、勇敢な乗客たちが口にしたのが詩篇23篇だったそうです。人生には時に、思わぬ試練に襲われることがあります。最悪と思われる状況の中にも、たった一つの消えない希望がある。それが神がともにおられるということです。
教会のデボーションはⅠサムエル26章から。サウルがダビデの誠実さを知って赦そうと思ったのもつかの間…再び三千人の精鋭部隊とともにダビデ暗殺に動き出します。今回はダビデの方からサウルのもとに偵察に行き、これまた千歳一隅の機会が巡ってきますが、ダビデはサウルに手をかけませんでした。サウルの「私が間違っていた…」という言葉など、もはや誰も信じません。そんなダビデを支えたのは「主は私の羊飼い」という信仰だったのでしょう。
ハートフル英会話春期コースが終了しました。今期も無事守られて感謝でした。レイチェル先生は少し早い夏休みで、スコットランドに旅行中。代わりにアルメニア人のリアンナ先生が来てくれました。聡明で美しい妻で、まさにアビガイルのような女性でした。Ⅰサムエル25章の彼女の言葉で、ダビデは復讐心から解放され、彼女と会わせてくださった神をほめたたえました。人生は出会いで決まる。一つ一つの出会いを感謝して、主をほめたたえましょう。
7月第三水曜祈祷会、Ⅰサムエル記25章から。カルメルで事業をしていて、非常に裕福になったナバルとその妻アビガイルの人物紹介から始まります。妻アビガイルは賢明で美しい女性、夫ナバルはその名の通り頑迷で行状が悪かったとのこと。そんなナバルのもとにダビデは十人の若者を遣わし、礼の限りを尽くして、警護のお礼としての幾ばくかの贈り物を求めました。主人サウルから逃げながら、600人の兵を養うのは大変だったでしょう。ナバルの裕福さからすれば、当然いい返事をもらえるだろうと思っていたところ、「ダビデとは何者だ」と全く相手にされませんでした。それにプライドを傷つけられたのか、ダビデは怒り心頭でナバルの全家を滅ぼすと宣言し、400人の兵とともに出兵。ナバルも誰の声にも耳を貸さず、もはや流血は避けられないという事態に。そこでこの危機を救ったのが賢明な妻アビガイルでした。彼女は勇敢にもダビデの前にひれ伏して「ご主人様、あの責めは私にあります」と当事者意識を持ち、さらにダビデの信仰心に強く訴えました。そして見事にダビデの怒りを諫め、事態を収拾したのです。「賢明な妻は主からのもの。」(箴言19:14)
7月第二主日、少し湿度は高めでしたが、穏やかな週の始まりを感謝します。今日の礼拝では昨年受洗された兄弟(教会ではお互いを兄弟姉妹と呼びます)が特別賛美をしてくださいました。お話しは苦手なので…ということでしたが、賛美を通して十分に主の恵みを証ししてくださいました。礼拝メッセージは詩篇32篇から。イスラエル二代目王のダビデには大きな過ちを犯した過去がありました。自分の部下であるウリヤの妻バテ・シェバと関係を持ち、さらに彼女の妊娠がわかるとウリヤを戦死に見せかけて殺してしまったのです。普通の倫理観からすれば到底許されない言語道断のことですが、今から3000年前のイスラエル王のことですから想像の域を出ません。ただ…信仰者であるダビデは当然律法が姦淫と殺人についてどう教えているかを知っていたはずですから弁解の余地なしだったでしょう。預言者ナタンに糾弾されて、赦されるはずがない罪を抱えてもがき苦しだ様子が描写されています。そして、ついに罪を告白した時、神の赦しを体験していったのです。「幸いなことよ。その背きを赦され 罪をおおわれた人は。」詳しくは礼拝メッセージをご視聴ください。
夏の代表的な花と言えば、ひまわりですが、明日は『ひまわりの日』です。1977年7月14日に日本初の静止気象衛星『ひまわり1号』が打ち上げられたことに由来します。ちなみに『ひまわり』という名前は、植物のひまわりが常に太陽の方向を向いているように、気象衛星も常に地球を見続けていることから名づけられたそうです。ひまわりの花言葉の一つに『あなただけを見つめる』というのがありますが、私たちの信仰もかくありたいと思いました。
7月第二水曜祈祷会、曇りのち雨の湿度の高い一日でした。デボーションはⅠサムエル記19章から。連戦連勝で一躍人々の脚光を浴びるダビデを、サウルはついに殺害すると公に宣言しました。最初は小さな嫉妬心から「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」という人々の声を聞いて憎しみが湧き、やがて殺意へと変わっていったのです。理解に苦しむのはダビデでした。どうしてサウルが自分の命を狙うのか…わからない。そこへヨナタンが間に立ち、ダビデを弁護し、サウルを説得します。サウルもそれを聞いて一時は殺意を鎮めますが、すぐに心の中で抑えきれなくなり、ダビデ暗殺計画を実行したのです。でも、そこでも妻ミカルが機転を働かせて、ダビデの命を救いました。ダビデはサムエルのもとに逃げ込んで、これまでのことを全部打ち明けました。サムエルは自分が油を注いだダビデのために祈ったでしょう。すると、神の霊がサウルたちの追手を恍惚状態にして、ダビデは難を逃れ、暗殺計画は失敗に終わったのです。まるでスパイ映画を見ているような間一髪の大脱出劇でした。私たちも自分では気づかいところで神が守ってくださっていることを覚えました。
7月第一主日、まだ梅雨も明けていないのですが、日中は35度を超える酷暑となりました。メッセージは詩篇19篇から。近代科学の父ガリレオ・ガリレイは「神は人間に向けて二つの書物を書かれた。一つは聖書、もう一つは自然である。」と言ったそうです。自然界において神は自己を啓示しておられるというのです。「天は神に栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」神の作品の展示会のようなこの世界にいながら、多くの人は神の存在を否定する。あるいは、都合のいい時だけ呼び出して願い事をする。…なんとも、人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは…の詩篇も聞こえてきます。「主のおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主の証しは確かで、浅はかな者を賢くする。」詩人は律法を重荷や束縛としてではなく、神との正しい関係を教えるもの、自らを悔い改めに至らせるものとして受けとめています。それらは金や蜜よりも慕わしい、それを守れば大きな報いがあるというのです。神の前に悔いた心、神を信頼する素直な心をもって、はばからずに、神を主と呼び、わが岩、わが贖い主と告白できるのはなんと幸いなことでしょう。
Ⅰサムエル記17章から。有名なダビデとゴリヤテの話しです。ゴリヤテは背丈が3m、完全武装の巨人。対するダビデは羊飼いの少年。戦う前から勝敗は決まっているようなものでした。しかし、主への信頼だけを武器に戦いを挑んだダビデは物の見事にゴリヤテを打ち倒したのです。まさに大番狂わせ、小よく大を制す。いつ読んでもダビデとゴリヤテの物語は私たちにチャレンジする勇気を与えてくれます。
ハートフル英会話では隔週でチャペルタイムがあります。something like scales from Saul's eyes クリスチャンの方には自明の理ですが、目から鱗の由来が聖書だったのをご存知でしょうか(Acts9:18)。熱心なユダヤ教徒だったサウルは、イエスさまと出会ってキリスト者に変えられていきました。前例主義から解放され、新しい事に目が開かれるのは素晴らしいことです。The words of the Bible will change you.
7月第一水曜祈祷会、今日も梅雨曇りの一日でした。今日のデボーションは聖書の中でも理解に苦しむ箇所の一つ、Ⅰサムエル記15章から。サムエルはイスラエルの初代王サウルに言いました。「今、行ってアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい。容赦してはならない。」サウルにしてみれば、なぜ…と言い返したくなるところですが、彼はしくしくと戦いの準備をし、谷で待ち伏せして見事アマレク人を打ち破りました。そして、敵国の王を生け捕りにし、肥えた羊や牛の最も良いものを惜しみ、つまらない値打ちのないものだけを聖絶したのです。サウルはアマレク人との戦いに勝利すればいいのであって、最良の羊や牛まで聖絶することはないと思ったようです。つまり、自分の考えを優先して神の命令をほどほどに割り引いて従ったのです。主のことばがサムエルに臨みます。「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。」神の失望と落胆がいかに大きいかを表す表現です。サムエルに悔い改めを迫られても、全く悪びれる様子もないサウルの姿は、どこか人間の本質を表しているようにも思います。神、、熱くも冷たくもない、生ぬるい信仰を嫌われるのです。
6月第五主日、朝から梅雨らしい小雨の降る湿度の高い一日となりました。礼拝メッセージは伝道者の書12章から。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」それは若者だけに向けた言葉ではなく、老いも若きも今日が一番若い日であるゆえに、今日あなたの創造者を覚えよという勧めです。だれもが年を取り、体も弱り、やがて死の日が訪れる…そうなる前に人生の大切な決断を先延ばしにしてならないというのです。ソロモンはこの伝道者の書を記すのに、思索し、探求し、まとめたとありますから、彼が心血を注いだことがわかります。それでも「空の空。伝道者は言う。」から始まる本書は当時の人でも理解するのは大変だったかもしれません。でも、読めば読むほどに神の奥深いメッセージが表されていくような不思議な書物でした。礼拝後、ソロモンについて、モーセやダビデとは違って信仰者として決して立派な人物ではなかったのでは…という声もありましたが、そういう完ぺキではない人をも用いられる神さまのご計画を思いました。「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ、神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」
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