預言者ミカは嘆かずにはいられませんでした。ずっと手入れをしてきた果樹園が荒らされて、実を見ることができない時のよう…神の前に敬虔な人がいない、心の直ぐな人がいないとは、そうした状態だというのです。その当然の結果として刑罰の日がくる。神は侮られる方ではない。人は種を蒔けばその刈り取りもしなければならない。そんな絶望的状況の中でミカは祈ります。「しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。」目の前の現実だけを見ていたら、希望の光は見えてこないでしょう。でも、主を仰ぎ見るとき、そこで私たちの祈りを待っておられる方がいることに気づかされていきます。裁きの言葉は神がまだこの世を見放していない証しです。「あなたがエジプトの地から出た日のように、わたしは奇しいわざを彼らに見せる。」試練も神の計画の一部。私たちが悔い改める(人生の方向転換をする)とき、神は嫌々赦すのではなく、喜んで赦してくださいます。そこで神と出会い、神に祈り求め、神の赦しと贖いにあずかる道があるのです。飼葉桶の幼子は、クリスマスがその最もよい機会であることを示しているのです。