教会のデボーションはイザヤ書28章から。ソロモンの治世の後、イスラエル王国は南北に分断し、エルサレムは南ユダ王国に収まりましたが、北イスラエル王国は偶像礼拝に導かれて行きました。イザヤはそんな北王国に神の裁きが下ること、そして南王国も不信仰な生活を悔い改めなければ同じ結末に至ることを告げました。でも、そんなイザヤの言葉に民は耳を貸さず、自分たちは大丈夫と高を括っていたのです。昨日の洗礼式から一夜明けて、花の手入れをしながら古い記憶を思い返していました。私は26歳の時、恥ずかしながら洗礼式の3日前に、『やっぱり辞退します』と言ってキャンセルしました。教会に通い始めて一年、まだ聖書のことも神様のこともよくわかっていないし、何よりこんな半信半疑の信仰で洗礼を受けてはいけないと思ったのです(誰かにそう言われたわけでもないのに…)。それから何だか教会の方にあわせる顔がなくて、礼拝にもしばらく行かなくなりました。でも、その苦い経験も洗礼について真剣に考える機会となったので、今となってはいい想い出です。翌年、右も左もわからない、ありのままで洗礼を受けた自分をほめてあげたいと思います。