聖書の神は、やがて終わりの日に再臨の主が来られて、罪と悲しみと争いに満ちたこの世を正しくさばかれると告げられます。その日、あらゆる階級の人々は、手にしていた繁栄をすべて失い、目に映るのは荒廃した光景だけとあります。大変厳粛な預言です。イザヤが活躍した時代、ユダの人々は豊かさの中で神をあなどり、形式的な信仰生活を送っていました。そうした世の価値観の中で、イザヤの預言はなんとも空しく響いていたと思います。愛と慈しみに満ちたメッセージであれば、少しは聴く耳を持つ人たちもいたでしょうが、罪を知らずして愛だけを求めているなら、そこに本当の悔い改め、救いへの渇望は湧き上がってはこないでしょう。「主よ、あなたは私の神。私はあなたをあがめ、御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、真実に成し遂げられました。」やがてこの御言葉は成就します。神の御旨は裁きにあらず、救いにあり。罪人に注がれる神の憐れみ。ひとり子のいのちをもってしても贖いの御業を成し遂げられた万軍の主の熱心。この神のまなざしが今も、私たち一人ひとりに注がれていることを心に留めたいと思います。