教会のデボーションはヨハネ12章から。イエスさまに高価なナルド油を惜しみなく注いだマリアとその行動を非難したユダの姿を見ました。イエスさまはユダが盗人であることを知りながら、「そのままにしておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために…」と言い、特に彼の偽善を責めることもありませんでした。人間の言動をすべてご存知である主の悲しみを思いました。次の日曜日は創世記3章から学びますが、サタンの誘惑に陥り、罪を犯したアダムとエバは、神の呼びかけに身を隠し、ついに自己弁護と責任転嫁の言い訳をしました。まるで赤信号なのに道に出て、車にはねられた人が、自分は悪くない、こんなところに信号があるのがいけないというようなもの。時々『新約の神は優しいけど、旧約の神は怖い』ということを聞きますが、創世記から読めばそうした思いはなくなるのでは…。旧約においても新約においても、神の愛と寛容と忍耐は変わっていないのです。