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教会のデボーションは申命記26章から。イスラエルの民が神の恵みによって約束の地に導き入れられた際の、主の御前に献げるべき礼拝について記されています。「あなたの神、主が与えようとしておられる地から収穫する、大地のすべての実りの初物の一部を取って、かごに入れ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ばれる場所へ行かなければならない。」荒野の40年間、彼らは神から賜るマナによって養われてきましたが、約束の地では周囲の人々と同じように農作物を育てて生活をしていきます。荒野では主なる神に支えられ生かされていることがだれの目にも明らかだったのに、約束の地では自分たちの労働と大地の実りによって生きているという錯覚に陥る誘惑がありました。そんな彼らにとって、礼拝で初物の一部を献げることは自分たちの生活が神の恵みの中で守られ、支えられている事実を告白することだったのです。今日の教会も同じだなと思わされました。