ディボーションはルカ7:18~、牢獄に捕らえられていたバプテスマのヨハネが主イエスに「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」と質問したところからでした。以前、あるカルト宗教の相談を受けた時にも『バプテスマのヨハネは…最後につまずいた』という話しを聞きました。主イエスが公に現われる前、荒野に立って悔い改めを叫び続けたヨハネ、領主ヘロデの罪を指摘して怒りを買い、牢に投げ入れられたヨハネ、でも最後は結局、主イエスにつまずいてしまったというのです。確かに聖書解釈としても意見の分かれるところですが、私自身は、やはり真剣さゆえに…信じたいがゆえに溢れてきたヨハネの問いに共感します。どう考えても受け入れられない現実の中で、綺麗ごとじゃなく「なぜですか」と訴える人は神の国に近い方だと、神に不平不満を訴え続ける人は、それでも全能なる神に期待し続ける人だと、私は思うのです。