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教会のディボーションはゼパニヤ書になりました。「わたしは必ず、すべてのものを大地の面から取り除く。」厳しい神の裁きの宣言ですが、それは同時に「主を尋ね求めよ。義を尋ね求めよ。柔和さを尋ね求めよ。そうすれば、主の怒りの日に、かくまってもらえるかもしれない。」という救いの招きでもあります。今からでも遅くはない、救いの可能性は十分にある…という主の声が聞こえてきそうです。神は苦難のただ中にいる者と『ともに』苦しんでおられる神なのであり、なおかつ不可避的な苦難の中に『幸い』を宣言しておられる神なのであって、決して天の高みから人間を見下ろしておられる神などではありません…。ある本に書いてあった言葉が心に残りました。確かに私たちの主は、私たちがどんな苦しみの中にもインマヌエルの神としてともに苦しんでおられるのです。