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今日の水曜祈祷会はレビ記11章の「食物規定」から。レビ記の中でも、ひと際理解に苦しむ箇所でした。神はご自分の民にその存在と生活において聖であるように命じられました。その理由は…「わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」中でも豚は特に汚れた動物とされ、異邦人との区別を明らかにするためにも食べてはならないと告げられました。旧約の神の教えは、異教文化を生きるイスラエルの民にとって、言わば信号機のような役割だったのではないでしょうか。新約の時代に生きる私たちも、今は何をするにも自由で許されていると安易に考えてはならないように思いました。「『すべてのことが許されている』と言いますが、すべてのことが益となるわけではありません。」