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人はみな、生まれてから一度も罪を犯したことがないという人はいません。それでも、それが死刑に値する罪だと言われると、それほど悪い事をしていないという思いが働くもの。神の子イエスが十字架につかなければならないほど、自分は罪人なのか…。どちらかと言えば、真面目に生きてきた方だと自己弁護もしたくなる。でも、聖書の言葉は言い逃れができないほど明確に語っています。罪から来る報酬は死。そんな厳しい宣告のもとにある私たちに、神はこう告げられるのです。「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。―神である主の御告げ―彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」「悔い改める」とは、単に反省するとか後悔するというものではありません。自分が間違っていたのを認め、心からそれを悲しむことです。聖書にはその答えがあります。