教会の横に花壇を作ろうと思いたったのですが、これが意外と大変な作業…気長にやります。今年も収穫感謝礼拝で、児童祝福式を行い、互いに収穫の恵みや生かされていることの意義を考えました。子どもたちの成長の早さに目を見張るとともに、「神の国は、このような者たちのものです。」という御言葉があらためて響いてきました。
「主の定めの祭り」(レビ記23:33-44)メッセージ要約
『これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。』
レビ記の「仮庵の祭り」は、収穫感謝の起源とも言える記事です。主は、イスラエルの民をエジプトから救い出した後、シナイ山にモーセを呼び寄せ、神の民として生きる指針を示されました。律法、供え物、祭司、聖所、八つの祭り…とありますが、その中の「仮庵の祭り」に注目して、この祭りの意義から2つのことを心に留めたいと思います。
一つは、荒野での苦しい生活を忘れないことです。人々は「仮庵の祭り」を、安息日に始めて、次の安息日まで八日間、仮の小屋を作って暮らしました。その理由は、荒野での四十年間の苦しい生活を忘れないためです。彼らは、主の定めの安息日に、聖なる会合を開き、火によるささげ物をはじめ様々なささげ物をしなければなりませんでした。私たちも、荒野のような厳しい苦難を通らされることや、なぜこんなことが起こるのか…と思うことがあります。でも、主はすぐにその答えをくださいません。大事なのは、「なぜ」と神につぶやくことではなく、そこで神への信仰をもって「いかに」生きるかだからです。
二つ目は、変わることのない神に信頼することです。人々は「仮庵の祭り」で、不自由な生活を体験した後、そこから救い出される主の恵みを覚えました。イスラエルの民は、荒野で何度も「エジプトに帰りたい」と神につぶやきましたが、神はそんな彼らに「天罰」ではなく、天からの「マナ」を与えてその信仰を試されたのです。私たちも、私たちを愛して止まない神の愛をどのくらい信頼しているでしょうか。信仰とは、信念でも願望でもありません。神に全き信頼をおいて、その御言葉にどこまでも従うことです。自分ではどうすることもできない状況の中でこそ、信仰が試されます。大事なのは、日ごとに神の言葉によって養われ、主にあって成長していくことなのです。申命記8:3。