午後から台風接近のため暴風雨となりましたが、オープンチャーチを予定通り行いました。悪天候にも関わらず多くの来会者があり、おいしいコーヒーに素晴らしい演奏の数々…心も身体も温まるアットホームな良い時間でした。
「為すべき正しいことを」(ヤコブ4:7-17)メッセージ要約
『こういうわけですから、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。』
今日は宗教改革記念礼拝でした。マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に九十五箇条の提題を掲示してから500年という年月が過ぎました。当時の人々にとって、カトリック教会を批判するルターの行動は、あまりにも無謀なことでした。でも、ルターにしてみれば「聖書と明白な理性に基づいて説得されないかぎり、自説を取り消すことはできない」とまさに為すべき正しいことをしたに過ぎなかったのです。それはいつの時代も変わらない聖書の原則でもあります。この罪と争いと悲しみに満ちた今日の私たちが為すべき正しいこととは何か…。ヤコブの勧めから三つのことを心に留めましょう。
一つは神に従い神に近づくことです。「従う」とは自分の思った通りのことでなくても、神のご意志なら喜んで服従することです。また、「神に近づく」とは、自分の罪深さを認めつつ、神の赦しときよめを求めて神を呼び求めることです。私たちは罪の自覚が深まれば深まるほど、それを赦してくださる神の恵みの偉大さを知るのです。二つ目は主の御前にへりくだることです。私たちはみな、罪を悔いて神に近づく時、自ずと自分の罪深さと悲惨さに向き合わなければなりません。その上で、そんな自分を受け入れてくださった主を覚えつつ、主の恵みに信頼して生きることです。三つ目は命のかぎり御心に歩むことです。ヤコブは、「明日のことは誰にもわからない」と警告を与えます。でも、神は、そんな滅びに向かうしかなかった私たちのために、ご自分のひとり子であるイエス・キリストを十字架にかけ、救いの道を開いてくださいました。私たちの人生は、神の大きな御手の中にあるのです。ルターは、「たとえ明日、世界の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植える。」と言いました。悪いことを知って、それを行なわないだけでは不十分です。正しいことを知りながら、それを行なわないことが「罪」となるのです。最後の審判の日、神の前に立つ者に問われるのは、「どんな良いことをしたか」ではなく、「どんな良いことをしなかったか」です。時代がどうあっても、私たち一人一人も、神の御心にかなった為すべき正しいことをしようではありませんか。