神なき時代の心得

礼拝後に新教会のリフォーム状況を見に行ってきました。工事の方の了解を得て、みんなでコンリートの柱に好きな言葉を書いてきました。なかなか貴重な体験だったのではないでしょうか。神さまを第一とする思いを忘れずに、御心にかなった教会堂が建つことをお祈りしてきました。

 

「神なき時代の心得」創世記11:1-9(メッセージ要約)

それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の前面に散らしたからである。

 今日は住宅デーで、アントニオ・ガウディの誕生日でした。彼はもともと無神論者で、サグラダ・ファミリアの建設中に、神を信じる信仰に導かれたそうです。私たちもあらためて建物を建てることについて考えたいものです。

 ノアたち家族が大洪水から救われた後、三人の息子たちから全世界の民が分かれ出ました。それゆえ人類は一つの言葉を使っていたのですが、シヌアルの地(現在のイラン・イラク国境地帯)に移り住んだ頃、町を築き高い塔を建てたことで、神の裁きを受け言葉が通じ合わなくなってしまったのです。時代は違えど、互いの意思の疏通ができてこそ、円滑なコミュニケーションがとれるものです。もし、同じ民族で、同じ言葉でありながら、思いが通じ合えなくなるとしたら…それは一大事です。このバベルの塔の出来事から、神なき時代の心得を心に留めておきたいと思います。

 一つは神なしの自負心が人を不幸にすることです。「頂が天に届くまでの塔」は、神の領域まで達するという人間の傲りでした。また、「散らされるといけない」も、神の命令に対する反逆です。つまり「バベルの塔」の建設は、被造物であることを忘れた人間の高慢さの象徴だったのです。二つ目は神なしの働きは必ず失敗に終わることです。人間の目には町や塔の建設は順調に進んでいるように見えました。でも、神の目にはこのまま放っておけばますます状況が悪くことが見えていたのです。どんなに神をないがしろにしようと思っても、神は見過ごさずにわざわざ降りてこられて行動を起こされるのです。三つ目は神なしの時代に神の裁きが下ることです。神は、罪に向かって団結する人々の言葉を混乱させ、彼らを全地に散らされました。それは神の裁きでありましたが、同時に神の救いへの備えでもあったのです。時が過ぎ、ペンテコステの出来事は私たちが御霊にあって一つにされることを教えています。今日も神なき時代にありますが、どうか神の愛の中に留まり、御心にかなった歩みをしてまいりましょう(ヤコブ4:6)。