慣れ親しんだ場所を離れるのはやっぱり淋しいものです。でも、「立つ鳥跡を濁さず」で気持ちも切り替え、思い切って次の一歩を踏み出す準備を始めました。主からの祈りの答えを信じて…まずは断捨離です。
『あきらめずに祈り続けるなら』使徒の働き12:1-17(メッセージ要約)
「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。(しかし)教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」
私たちの生活には簡単で身近なものほど、実は奥が深いというものがあります。クリスチャンにとってはまさに「祈り」がそれです。「祈り」とは、単なる気休めではなく、偶然を期待するようなものでもありません。祈りとは何か…。人はなぜ祈るのか…。「求めよ。さらば与えられん。」激しい迫害の中にも、ねばり強い祈りで目覚ましい宣教を行った初代教会の姿から、あきらめずに祈り続ける秘訣を心に留めましょう。
一つは、試練の中にも主にあって希望があるからです。ヘロデ王は、教会を苦しめるために手始めにヨハネの兄弟ヤコブを捕らえて殺し、さらに教会の中心人物であるペテロまで捕らえて投獄しました。こうした状況に教会は手も足も出せずにいたのです。それでも彼らにはまだ一つの道がありました。それは万物の支配者である神に祈り求めることでした。「祈りは万事を変える」いつの時代も教会の最大の武器は祈りなのです。
二つ目は、私たちの思いを超えて主が働かれるからです。牢獄に繋がれていたペテロは絶対絶命の状況にありました。そんな彼の前に御使いが現れ、彼を外に救い出されました。それは夢でも幻でもなく、まさに主の御業の表れだったのです。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」主は八方塞がりの時こそ、人の常識を超えてその御手を動かされるのです。
三つ目は、私たちは最善なる主の計画を知るからです。教会は、ペテロが殺される前夜も必死に祈り続けました。もちろんヤコブが捕らえられた時も熱心に祈ったでしょうが、そのヤコブは殺されてしまいました。…だから今度も祈ってもダメだと言って祈らなかったのではありません。彼らは、さらにあきらめずに主に祈り求めたというのです。いつの時代も、あなたがたの確信を投げ捨ててはならない、忍耐をなくしてはならない、聖書はそう教えています(ヘブル10:35-36)。私たちもまた、どんなに望み得ない時にも、拙い祈りでも、主に期待してあきらめずに祈り続ける者にならせていただきましょう。