カテゴリ:2022年上半期



2022/07/28
昨日の水曜祈祷会で、ある方から『ユダヤの指導者たちは中途半端な信仰だったのでしょうか』と質問がありました。それはとてもいい質問です。使徒パウロも以前そうだったとありますが、祭司長、パリサイ人と呼ばれる人たちは知識も生活も熱心な信仰者だったと思います。それを言えば、私がこれまでお会いしてきたキリスト教の異端と呼ばれる信者の方々も、真面目で熱心な方ばかりでした。神が救いの95%をしてくださるのですから残りの5%を自分が満たさないといけない…。そう言って考えられないくらいの努力をされている方もいました。残念ながら、それは聖書の教えではありません。イエスさまは言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりその人の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」飲めば飲むほど渇きを覚えていくようなものは偽物です。救いは100%神の御業です。
2022/07/27
7月第四火曜日『旧約聖書を学ぶ会』がありました。今日からヨセフ物語を見ていきます。ヤコブの11番目の息子ヨセフは、12人の兄弟の中でも特に父の寵愛を受けて育ちました。そんなヨセフを妬んでいた兄たちは、ついにヨセフを捕らえミディアン人の商人に売ってしまったのです。なんとも痛ましい事件が起きてしまいましたが、これが序論。ここから彼がエジプトの宰相まで上り詰める壮大な物語が始まるのです。…学びの後、統一教会のことが話題になりました。今回のことで、宗教は良くないという悪い印象が広がっていくのではないかということです。確かに統一教会も聖書を使いますから、キリスト教とどう違うんだ…と思うかもしれませんが、全く別のものです。それは本物の紙幣とコピー機で印刷した偽札?くらい違います。本物にいつも触れている人なら一目瞭然ですが、中途半端の知識だと…似て非なるものが同じに見えてしまうのは仕方ないのかもしれません。
2022/07/24
7月第四主日、今日も朝から30度を超す真夏日の中、主の御名を礼拝を献げました。礼拝メッセージでは創世記2:4‐17から人間の創造について学びました。「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」それは実に奥義深いメッセージです。人間の脾弱性と尊厳性が見事に描かれています。そこから人間の命は全く神に依存していること、神は人間のために最高の場所を用意されたこと、そこで神は人間に自由と責任を与えられたことを心に留めました。神が願ったのは、ロボットのような罪を犯さない人間ではなく、自らの意思で神を愛し、神に従う人間でした。アダムは「いのちの木」と「善悪の知識の木」を見るたびに、そのことを思い出したことでしょう。今日の私たちに置き換えれば、まさに聖書がそれでしょう。神である主の「愛」と「まこと」に感謝して、聖霊により頼みつつ歩んでいきましょう。
2022/07/22
教会のデボーションはヨハネ6:34から。「わたしが天から下って来たのは、自分の思いをを行うためではなく、私を遣わされた方のみこころを行うためです。」イエスさまはこの世の幸せを求めてきた人々にあらためてご自身の使命を告げられました。それはご自身を信じる者たちを一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることだというのです。信仰は努力や善行によって獲得するものではなく、神が与えてくださるものです。まして自己破産するほどの献金を強いるなど…ひどい話しです。テレビでは旧統一教会の話題が続き、与野党ともにその関係が取り沙汰されています。教会にも専門機関からの問い合わせがありましたので、ブログではあまりお見せできませんが、古い資料を引っ張り出してきました。イエスさまは終末のしるしとして「『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わします」と言われました。問題は教祖や団体であって、信者の方ではありません。
2022/07/20
7月第三水曜祈祷会、真夏の暑さが戻ってくるとともに、新型コロナウィルスの新規陽性者が全国各地で過去最多となりました。ただでさえ暗いニュースが続く中で…この第七波は堪えます。そんな中ですが、今日のデボーションから大いに励ましを頂きました。ヨハネ6:1‐15、有名な五つのパンと二匹の魚の記事から。ご自分の後をついてくる群衆をご覧になったイエスさまは、弟子たちに「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか」と言いました。弟子たちはこんなに大勢の人のパンを調達するなんて不可能ですと最初からあきらめていたのです。でも、ひとりの少年はイエスさまの言葉を信頼して自分が持っていたお昼ご飯を差し出しました。すると、イエスさまはそれを用いて群衆のお腹を十分に満たされたのです。何度も読んでいるところですが、あらためてこの少年のような素直な信仰を忘れないでいたいと思わされました。信じるなら神の栄光を見る、です。
2022/07/19
「あなたがたは聖書の中に永遠のいのちがあると思って聖書を調べています。その聖書はわたしについて証ししているものです。」ユダヤ人たちは旧約聖書を通して永遠のいのちについてよく調べながら、その聖書が示すイエスさまのもとには行きませんでした。安倍元首相の襲撃事件から旧統一教会の話題がTV等で連日報道されています。これもまた一過性の報道と思いますが、この時に統一教会の間違いに気づき、立ち止まる方が起こされるように祈るばかりです。私が統一教会について調べ始めたのは、今から16年前にある脱会者の夫婦と知り合ったことがきっかけです。その夫婦はクリスチャンになられましたが、統一教会が口語訳聖書を使っていることや原理講論を熱心に学んでいることを聞いて愕然としたのを覚えています。以来、キリスト教系のカルト相談を何十件と聞いてきました。何か心配なことがあれば、勇気をもって家族や専門家に相談してみることが大事です。
2022/07/18
7月第三主日、少し曇り空のおかげで暑さも一休みの一日でした。新型コロナウィルスの感染が再び増え始めています。それぞれのご家庭が守られますようにお祈りしています。礼拝は創世記1:26‐2:3から神の言葉に聴きました。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」さあ、という言葉に神のご意思が表されています。神はあらゆる準備を整えて、満を持して人を創造されました。人は何かの進化の過程や偶然の産物ではありません。神が望みに望まれて、ご自身と交わりを持つ者として、ご自身に似せて人をお造りになれたのです。神は人がいる世界をご覧になってそれは非常に良かったと言われました。神はそんな人間のために安息日を定められ、今も開いておられます。神の創造のわざにこそ、人間の尊厳の原点、安息日の原点があるのです。
2022/07/14
4月から始まったハートフル英会話・春期コースが終了しました。コロナ禍にあって、途中オンラインやハイブリッドで行ったりといろいろ試行錯誤が続きました。講師の先生方や受講生の方々にもご理解とご協力をいただいて、本当に楽しいクラスを行うことができて感謝でした。現在、大人と子どもあわせて20名ほどの方がエントリーしてくださっています。ハートフル英会話は英語だけでなく、新しい友だちができたり、趣味や旅行の話題で盛り上がったり、異文化体験ができたりなども魅力です。講師の先生方もクリスチャン、しかも日本語も上手なので初めての方でも安心してクラスに溶け込めるのが特徴です。これから夏休みに入り、また秋期コースは9月1日からスタートします。大人クラスも子どもクラスも、若干名の受講生受付中です。まずは体験クラスをご予約ください。詳しいことは教会の山下までお問合せ頂ければ幸いです。皆さまとの出会いを楽しみにしています。
2022/07/12
久しぶりにまとまった雨が降ったおかげで、今朝はいくぶん暑さも和らいで感謝でした。教会のデボーションはヨハネ3:22~。バプテスマのヨハネは自分自身を花婿が語ることに耳を傾けている友人に譬えて、弟子たちの考え違いを正しました。ヨハネの弟子たちはイエスのもとに行く人々が日毎に増えていくことに嫉妬心を抱いたようです。でも、ヨハネは「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません」と告げました。昔から知っているからこそ…ヨハネはイエスさまの使命を思うと祈らずにはいられなかったでしょう。私の友人の牧師もこの夏の参議院選挙で見事当選しました。あえて牧師という肩書を外さずに、今後は二足の草鞋で神と人に仕えられます。大変な働きだと思います。ぜひ多くの方に祈って支えて頂けましたら幸いです。今日は私の数少ない親友と呼べる牧師の誕生日でもありました。昨年、若くして天に召されましたが、ご家族の上に慰めを祈っています。
2022/07/10
7月第二主日、雨上がりの蒸し暑い一日となりました。礼拝メッセージは創世記1:1から。ロシアによるウクライナ侵攻が長期化する中、国内でも選挙期間中に元首相が襲撃されるという暗いニュースが続きます。神の目にこの社会がどう映っているのか…今日の天地創造からも考えさせられました。「はじめに神が天と地を創造された。」はじめとは、単に物語の始まりではなく、世界の創造のはじめを意味します。宇宙の歴史の始まりの場面に立ち会った人間はなく、万物の創造主である神以外に語り得ることはできません。神はことばをもって万物を創造されました。茫漠とした地に秩序を与え、熟慮の末に一つ一つのものを造り、すべての準備を整えて、私たち人間が創造されたのです。神が「それを良しと見られた」世界はどんなに平和で美しかったでしょう。人間が罪を犯してしまった後も変わらない神の愛を思う時…今も、放蕩息子の帰りを待つ父の姿を思い浮かべました。

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