2025/01/20
1月第三主日、この時期としては幾分温かさを感じる一日でした。礼拝メッセージはルカ5:36ー39、聖書に由来することわざの一つ『新しい酒は新しい皮袋に盛れ』の箇所からでした。イエスさまはどのような場面でこの言葉を言われたのか。相手は旧約律法を重んじるパリサイ人たちや律法学者たちでした。彼らは自分たちは真面目に断食し、よく祈っているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだり…一体何をしているんだとイエスさまに訴えました。そこでイエスさまが彼らに語ったのが、三つの譬えでした。新しい衣の布切れで古い衣に継ぎ当てするのは間違いだということ、新しいぶどう酒は新しい皮袋が必要だということ、古い物は良いと決め込んでいないで、新しいものを体験してみなさいということ。まさにイエスさまが来られたことによって、新しい恵みの時代が到来したことを教えていました。今日の私たちも気がつけばパリサイ人たちと同じような過った人生観に陥っていることがあるかもしれません。自分は正しいと思い込んで、考えの違う他者の意見を排除する…。これもパリサイ人たちの特徴です。御霊によっていつも新しい心を頂いて歩みたいものです。
2025/01/17
阪神淡路大震災から30年が経ちました。被災地には全国から137万人のボランティアが訪れたそうです。神戸の街並みは復興しましたが、あの時の悲しみは今も癒えることはないでしょう。震災の教訓を次の世代に伝えていく使命を思います。私たちの教会が誕生したのも丁度30年前。こんな大変な時に開拓などしてていいのか…という声もあったそうですが、ここまで導いてくださった主と、信仰をもって立ち上がってくださった兄姉に心から感謝いたします。
2025/01/16
1月第三水曜日、デボーションはルカ4:14ー30。ガリラヤのカぺナウムでは、イエスのことばには権威があると評判になり、人々は称賛しました。しかし、ナザレでは「この人はヨセフの子ではないか」と人々はイエスを称えず、何か奇跡をおこしてくれと求めました。神に祈り求めることは悪いことではありませんが、主はその心をご覧になるのです。神を信じること、これが何よりも優先されることです。
2025/01/14
遅咲きの花は大輪に成ると言いますが、壁が大きいほど、目指す山が高いほど、そこに至る道は長く険しいものです。もう無理だ、これ以上は進めない、とあきらめたくなる時が一度ならずある。その時、希望を捨てずに待つことです。答えが来るのが遅すぎて、あなたはしびれを切らし、待ちきれず、あきらめかけているかもしれません。でも、ギリギリの、ギリギリのところで、それは遅れることなくやって来ると聖書は告げるのです(ハバクク書2:3)。
2025/01/13
1月第二主日、寒の入りを迎え寒さも本格的となってきました。礼拝メッセージはルカ5:1ー11から「そして、そのとおりにすると」のテーマで御言葉を心に留めました。人生は出会いで決まるとよく言いますが、シモンとイエスさまの感動的な出会いの場面。その時シモンは漁師として最悪の朝を迎えていました。イエスさまはそんな彼に「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と命じられたのです。夜通し働いて、何の収穫もなく、疲れ切ったシモンが、「先生、それは無茶な話しです」と言っても何の不思議もないところ…彼は「おことばですので、網を下ろしてみましょう。」と答えていました。まさに人間の限界こそ、神との機会。驚くべき神の栄光にふれたシモンは、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と人生の方向転換に導かれたのです。聖書の神に出会うのは、決して偶然ではなく、神のご計画です。なぜ自分が…と多くの人は思います。でも、いくら考えても人間の側に理由はありません。あなたの周りで福音を待っている人がいる、あなたでなければ伝えられない人がいる、それが主があなたを選んで、遣わされる理由なのです。
2025/01/10
小雪が舞う空でした。デボーションは律法に従ってヨセフとマリアが幼子イエスを抱いてエルサレムに来た時、その日をずっと待ち望んでいたシメオンとアンナに出会う箇所からでした。年末感謝礼拝でもここからメッセージをしましたが、本当に印象的なところです。嬉しかったでしょう。救い主にお会いした時の感想はどんなでしたか…と天国でシメオンとアンナに会ったときに聞いてみたいと思います。
2025/01/09
1月第二水曜祈祷会、ルカ1:67ー80。幼子の誕生と主が御民を顧みてくださったことを知ったザカリヤは万感の思いを込めて預言しました。「ほむべきかな、イスラエルの神、主。」聖霊に満たされたザカリヤの賛美はベネディクトスと言われ、マリアのマグニフィカートとともに有名な賛美となりました。主はご自身の約束を必ず成就してくださる方です。私たちもご真実な主の御名をほめたたえましょう。
2025/01/07
教会のデボーションはルカ1:57~66。老夫婦のザカリヤとエリサベツに男の子が誕生すると、近所の人たちや親族が集まってきて一緒に喜んだとあります。それまでの祭司としての夫婦の歩みが周囲の人々によき証しをしていたのでしょう。「主が…大きなあわれみかけてくださった」と、みな自分のことのように喜んだのです。男の子が生まれるまで、御使いガブリエルが言ったように、父ザカリヤは口がきけないままでした。祭司という立場にありながら、神のことばを信じなかったからだというのです(1:20)。その間、彼は何を考えていたでしょう。逃れようのない大きな力を感じながら、沈黙の中で、主よ、なぜですか…と神に祈っていたのではないでしょうか。神はそんなザカリヤの言葉にならない思いを受け止めながら、彼を悔い改めへと導かれました。そして、ついにその子に「ヨハネ」と名づける時がくると、直ちにザカリヤの口は開かれ、聖霊に満たされて、神をほめたたえたのです。ザカリヤの喜びに溢れる素晴らしい預言は明日の水曜祈祷会で読みましょう。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」というイエスさまの言葉が聴こえてくるようです。
2025/01/07
1月第一主日、穏やかなお天気のもと今年最初の日曜礼拝を献げました。メッセージはルカ4章から。イエスさまはバプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、いよいよ宣教を開始されるか…と思いきや、御霊によって荒野へと導かれ、四十日間悪魔の試みを受けられました。なぜメシアである方が悪魔の試みなど受けられたのか。イエスさまが天の御座におられる時は、悪魔も畏れ多くて近づくこともできなかったでしょうが、人となって空腹の極みとなれば、悪魔も今ならもしかして…と思ったのでしょう。そのずる賢さや巧妙さは、創世記3章の蛇の誘惑と同じです。悪魔はまるで良き理解者のように、助言者や協力者のように、イエスさまに近づいて取引きを試みました。イエスさまはそんな悪魔の囁きに、御言葉をもって立ち向かいました。それは弟子たちをはじめ、読者である今日の私たちに、悪魔に対して毅然とした態度でいなさい、妥協してはならない、心の隙を与えてはならないと教えているようです。「私たちの大司祭は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。」
2025/01/04
年の初めは祈りの時です。普段祈らないという人も三が日には神社や仏閣に初詣に行って祈願する方も多いでしょう。ただし、人生はなかなか願い通りにはいきません。なぜ…と思うような出来事に襲われます。でも、だからこそ人は心の底から神を求めるのでしょう。人が生きるために最も大切なのは『信じる』ことです。人である限り、疑いを抱くことは仕方ありません。ただそれをくぐり抜けて、神の言葉ゆえに信じる…そこに本物の信仰があるのです。